境界線の虹鱒

セクシュアリティ徒然草(情報の正確さは保証いたしませんので自己責任でご活用ください)

安全、正気、そして合意――英米でのS/M実践者についての研究

Darren Langdridge (2016) "The time of the sadomasochist"

Introducing the New Sexuality Studies 3rd Edition の第38章(p.337-345)である。今回第3版を参照したが、第2版であれば上記リンクから全文を読むことができる。なおページ番号や一部のデータや年号以外は基本的に第3版と同じである。

今回は上記の文献をもとに、イギリスやアメリカのサドマゾヒズムについて解説する。サドマゾヒズムは精神医学的な言説を通じて病理化されてきたが、他方で性行為のさいに明確な同意を取り交わす文化を発展させてもいる。そのためサドマゾヒズムについて考察することは、いわゆる「性的嗜好」をめぐる差別を考える場合や、性交の同意について議論するときなどに有益な示唆をもたらすと考えられる。

ただし社会的な文脈などが日本と異なるため、英米での議論がそのまま日本のサドマゾヒズムにも妥当するとはかぎらない。本記事後半で日本の文脈についてごく簡単な注釈を入れるが、ここでは日本におけるサドマゾヒズムについて踏み込んだ議論はしない。国や社会による違いがあることに留意しながら読んでいただきたい。

精神医学による病理化と、それに対する抵抗

サディズムマゾヒズムとは、19世紀の精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングによって命名されたものである。サディズムマゾヒズムについての理論は、まず精神医学のなかで形成されていった。

しかし当たり前のことだが、精神的な苦悩や不安を抱えていない人は精神科医の診療には行かない。そのため当初の精神科医たちは、主に同意のない性暴力行為をする人や、そうした欲望に苦悩する人への診療を行っていた。逆に言えば、同意のうえで幸せにS/Mを実践する人々を診る機会はほとんどなかった。こうした理由から、精神医学は「同意のあるS/M行為」と「同意のない性暴力行為」とを混同したまま、サドマゾヒズムを理論化していったのである。こうした歴史から、現在でもアメリカ精神医学会のDSM-5やWHOのICDといった精神障害に関するマニュアルのなかで、サディズムマゾヒズム精神障害の一種として分類されている*1。このような病理化に対して、今後のDSMやICDの改訂時にサドマゾヒズム精神障害カテゴリーから外すよう運動している人々もいる。

このように、精神医学のなかではサドマゾヒズム当事者の声が無視されてきた。それに対して、当事者の語りや実践に重きを置いた研究が、社会学や心理学などで1990年代以降に行われるようになる*2

法的な闘争

サドマゾヒズムに対する攻撃は、精神医学ばかりでなく法的なものもあった。その最たる例として挙げられるのが、イギリスで起きた「オペレーション・スパナ―」(Operation Spanner)である。

1990年12月、同意のうえでのサドマゾヒズム行為を実践していた16名のゲイ男性が、傷害や暴行などの理由で有罪判決を受け、罰金や懲役刑を科された。参加者のなかで治療が必要なほどのケガをした人はいなかったにもかかわらず、起訴に値するほど深刻な傷害だとみなされたのである*3

このときイギリス高等法院の裁判長Mr James Rant QCは「裁判所は文明社会で許容できるものとそうでないものとの間に線を引かなければならない。 この場合、その行為は明らかにその線の間違った側にある。」と述べた。ピアッシングや入れ墨、あるいはコンタクトスポーツが合法であるにもかかわらず、サドマゾヒズムは暴行に含まれるとされたのである。

メディアでの扱い

これに加えてLangdridge and Butt (2004) では、メディアにおけるサドマゾヒズムの扱いについての事例を挙げている。アメリカで1990年代頃に、インターネット上のSMチャットルームを通じて出会った人を次々殺害するという連続殺人事件が起きた*4。このときメディアでは、合意のSMと合意のない暴力とを混同しつつSMへの恐怖を煽るような報道がなされたのである。 

サドマゾヒズムの語りの出現

以上のように、サドマゾヒズムは病的で猟奇的なものと見なされてきた。しかしこうした出来事がありつつも、サドマゾヒズムに関する当事者の語りが1980年代頃から徐々に広がり始めてきた。この背景としては、まず家族計画や避妊技術の発展などによって、近代以降に性が生殖から段々と分離してきたことが挙げられる*5。これに加えて、20世紀後半以降に生じた様々な社会的変化がある*6。またフェミニズム運動も、特に1980年代頃のSex Wars論争を通じてサドマゾヒズムのストーリーを促した*7。こうした歴史を経て、現在ではサドマゾヒズムを扱った映画やテレビや文学なども作られるようになっている。

しかし一口にサドマゾヒズムと言っても、そこで実践される行為にはさまざまな種類があり、またサドマゾヒズトのコミュニティも多様である。そのため以下に述べるサドマゾヒズム実践の特徴はすべての実践者に当てはまるわけではない。それでも調査を通じて、ほとんどのサドマゾヒズム愛好者から語られた特徴がある。それが「安全、正気、そして合意」である。

安全、正気、そして合意のS/M実践

安全、正気、そして合意」(safe, sane, and consensual)というフレーズはS/M実践者たちの間でとても有名なものであり、ほとんどのS/Mコミュニティにおける中心的なルールとなっている。

まず「安全」について。S/Mにおける安全性についてはいくつかのレベルがある。1つめは、「シーン」*8に没頭する人々の身体的な安全性である。これについては、シーンの前やシーンの最中にも注意深い交渉が行われる。たとえば「セーフワード*9を確認しておいたり、安全なプレイを補助するための用具(コンドーム、グローブなど)を用意しておくといったことが挙げられる。また安全なプレイでは、パニックに陥ったり、良いように使われただけのような気分になったり、虐待されたりといったことを避けるために、精神的な安全性をめぐっても慎重な交渉が行われている。その例として「アフターケア*10が挙げられる。

正気」なプレイは以上の安全性とも関連するものである。過去の精神医学のなかでは、S/Mは正気でない人がやることだと見なされており、それゆえ合意を結ぶことは不可能だと見なされてきた。これに対する当事者たちの反論という側面が「正気」という語に含まれている。S/M実践者はシーンの前や最中にも可能なかぎりパートナーの精神衛生に気を遣う。S/Mクラブのようなパブリックスペースでは、そこに居合わせた人たちが正気なプレイの仲裁人となり、シーンの度が過ぎている場合には介入することもある。

最後に「合意」について。S/M実践者は完全な合意があるときにのみプレイを行う。これは、成人とだけプレイし、またシーンのすべての段階で積極的に合意を交渉するということである。

Langdridge and Butt (2004)による膨大なネット言説の調査から、S/M実践者たちの語る主要なテーマとして 1)サドマゾヒズムが病理的であるという見方を拒否するものと、2)同意をめぐって明示的な交渉があることを示すものが抽出された。1つめのテーマについては、さらに i) サドマゾヒズムは幼少期のトラウマの産物であるという考え方を拒否するものと、ii) サドマゾヒストは満足のいく関係性を構築できないという考え方を拒否するものがあった。

2つめのテーマについて、S/M実践者には(他のほとんどの性行為とは異なり)口頭もしくは書面での契約によって合意を明確化する文化が見られる。こうした契約は、たとえば伝統的な結婚式や、雇用契約、ビジネスサービス契約を真似るといった、パロディを通して行われる。

このような明確な契約を取り結ぶことは、長期的なS/M関係では一般的なものである。しかしすべてのS/M実践がこのような契約による合意を行っているわけではなく、特に商業的なS/Mの場では、過去に一度もあったことがない人やほとんど会話をしたことのない人とS/M行為をする場合もある。しかしこうした状況でも合意は重視されており、しばしば非言語的ではあるが、合意の交渉が継続的に行われる。

結論

S/Mは精神病理とみなされ、合意のない性暴力と混同され、ときに法的処罰を受けることもあった。しかし他方で、当事者の間では安全や合意をめぐる交渉が文化として発展している。さらに今回は詳しく取り上げなかったが、S/M実践には男女のジェンダーロールをパロディ的に演じることによって、ジェンダー規範へと抵抗する側面も見出せる。こうした意味でも、S/Mプレイをしない人々にとっても学べる要素があると言える。

おまけ:日本の状況に関する文献メモ

始めの方に書いたように、サドマゾヒズムはもともとは精神病理とみなされており、異常でおぞましいものとして扱われていた。しかし近年の日本では、「ドS」「ドM」という言葉が普及していることから分かるように、サドマゾヒズムを異常なものとみなすイメージは薄らいでいる。こうしたイメージ転換の言説史的背景については河原梓水(2015)が参考になる*11。また近年の日本の状況や、日本のSMイメージがどのように海外で受容されているかということについては、坂井はまな(2010)が参考になる。日本の性風俗産業におけるSMプレイについては熊田陽子(2017)による詳細なエスノグラフィがある。

サドマゾヒズムについてはサルトルドゥルーズなどの流れを汲んだ哲学・文学研究が多いが、当事者の実践などに関する社会科学的な研究はそれほど多くない。上に挙げた文献以外で、日本における重要な研究・文献があればコメント等でご指摘いただけると幸いである。

参考文献

・Beckmann, Andrea. 2001. “Deconstructing Myths: The Social Construction of ‘Sadomasochism’ versus ‘Subjugated Knowledges’ of Practitioners of Consensual ‘SM.’” Journal of Criminal Justice and Popular Culture 8(2):66–95.
・Giddens, Anthony, 1992, The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Cambridge: Polity. (=1995,松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房.)
・Langdridge, Darren and Butt, Trevor, 2004, “A Hermeneutic Phenomenological Investigation of the Construction of Sadomasochistic Identities,” Sexualities 7(1):31–53.
・Plummer, Ken, 1995, Telling Sexual Stories: Power, Change and Social Worlds, London: Routledge.(=1998,桜井厚・好井裕明・小林多寿子訳『セクシュアル・ストーリーの時代――語りのポリティクス』新曜社.)
・Taylor, Gary W. and Jane M. Ussher. 2001. “Making Sense of S&M: A Discourse Analytic Account.” Sexualities 4(3):293–314.
・Taylor, Gary Wilson. 1997. “The Discursive Construction and Regulation of Dissident Sexualities The Case of SM.” in Body Talk: The Material and Discursive Regulation of Sexuality, Madness and Reproduction, edited by J. M. Ussher. London: Routledge.
・河原梓水,2015,「病から遊戯へ―吾妻新の新しいサディズム論―」井上章一三橋順子編『性欲の研究―東京のエロ地理編―』平凡社,262-9.
・熊田陽子,2017,『性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの』新曜社
・坂井はまな,2010,「海外BDSM界における<日本>イメージ――快楽の活用とジェンダー川村邦光編『セクシュアリティの表象と身体』臨川書店,215-52.

関連記事

*1:余談だが、同性愛は1968年刊行のDSM-IIでは「人格障害」とみなされていた。1973年刊行のDSM-IIIで精神障害ではないとして項目から外されたが、「性指向障害」という項目のなかで「自我違和性同性愛」が置かれた。これは1987年刊行のDSM-III-Rで削除された。

*2:サドマゾヒズム本質主義的・病理的に捉える立場から離脱し、当事者へのインタビュー調査を実施した初期の研究としてTaylor と UssherやBeckmanなどの論文が挙げられる。

Taylor (1997)やTaylor and Ussher (2001)によって、サドマゾヒズムの言説的構築についての研究が行われた。Taylor (1997)はS/Mに関する伝統的な精神医学を批判的に概観し、その後24人のS/M愛好者へインタビューを行った。これをもとにして、Taylor and Ussher (2001)はさらに徹底的なインタビューを実施した。その結果、S/Mに関する4つの「定義的な言説」として「(i) 同意、(ii) 権力の不平等な均衡、(iii) 性的興奮、(iv) 定義の互換性」を挙げた。

またBeckman(2001)は、S/M愛好家たちがS/M実践を「『ノーマルな性器のセクシュアリティ』に代わるものとして、『より安全なセックス』として、『生きられた身体』の次元の探求として、ゲイ・レズビアンセクシュアリティステレオタイプを越え出る可能性として、そして『生きられた身体』の変化の潜在性を経験する可能性として」(Beckman 2001: 301)捉えていると論じた。

*3:この事件の背景には同性愛差別の影響があるとも言われている

*4:事件の犯人であるJohn Edward Robinsonは「インターネット初のシリアルキラー」とも呼ばれている。

*5:「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」のことをギデンズは「自由に塑型できるセクシュアリティ」(plastic sexuality)と呼んでいる(Giddens 1992=1995: 13)。これはセクシュアリティが「生殖や親族関係、世代関係との古くからの一体的結びつきから切り離された」ということである(Giddens 1992=1995: 47)。この自由に塑型できるセクシュアリティの発達と対応して、「純粋な関係性」(pure relationship)が生じてきた(Giddens 1992=1995: 90)。純粋な関係性とは、「社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしていると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況」を指す言葉であり、「性的純潔さとは無関係であり、また、たんなる記述概念でなく、むしろ限定概念である」(Giddens 1992=1995: 90)。ギデンズは純粋な関係性の例としてゲイ・レズビアンの実践に言及しているが、ラングドリッジらは「サドマゾヒズムもまた純粋な関係性のありうる原型を提供するかもしれない」と論じている(Langdridge and Butt 2004: 33)。

*6:「すくなくとも一九六〇年代の後半から、セクシュアリティの新しいストーリーが形成されてきた。」「家族、メディア、経済、政治形態、都市構造のあらゆるところで根底的な変化が生じ、新しいセクシュアル・ストーリーが語られ、新しいセクシュアル・アイデンティティが確かなものとなり、新しいセクシュアルな制度化をすすめることができた時代だった。一九八〇年代になると、西欧のセクシュアルな世界は一〇〇年前の世界とはまったく異なるものとなった。」(Plummer 1995=1998: 337 )

*7:(Plummer 1995=1998: 339)(Langdridge and Butt 2004: 35)

*8:S/Mプレイにおけるシチュエーションのこと

*9:シーンを止めてほしいときやペースを落としてほしいときに用いる、事前に取り決めておいた隠語。S/Mでは「イヤ」「やめて」といった言葉をプレイの一環として使うことがあるため、別の言葉を事前に話し合って決めておく

*10:プレイ中にできたケガを和らげたり、望まれない精神的後遺症がないことを保証するための時間

*11:河原は日本の通俗的SMイメージのルーツの一つとして、1950年代前半に雑誌『奇譚クラブ』で活躍した作家・吾妻新のサディズム論を取り上げている。「一九五〇年代は、サド(マルキ・ド・サド:引用者注)のサディズムを最も重度なサディズム。「正常な」人々のなかにも存在するささやかな加虐嗜好を軽度なサディズムとして、両者を連続的に捉える見方が強かった」(河原 2015: 263)。また当時はエログロ雑誌が大量に出回り、ポルノに加えて猟奇殺人・犯罪を扱った記事が巷に溢れていた時代でもあった。そうした状況下で吾妻は、猟奇的残虐行為とサディズムとの結びつきを解くような主張を展開した。

 吾妻の主張する新しいサディズムとは、肉体的苦痛よりも精神的苦痛をより重視し、合意の上で快楽を持続的に営むものである。さらに彼は、犯罪的な単なる残虐行為をサディズムの領域から切り離そうとする。(河原 2015: 264)

こうした主張は『奇譚クラブ』読者の間で賛同者を獲得していき、現在のSMイメージにつながっていったとされている。

【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」後編

前回の記事の続きです。

前編では、「そもそもなぜポルノが問題なのか」「ポルノは具体的にどのような害をもたらしうるのか」を議論した。後編では、そうした有害仮説について、実証面での議論を進めていく。なお論文中で言及される先行研究については、原文にてご確認ください。*1

3. 原因モデルを評価する

「ポルノグラフィが性差別や性暴力の「原因である(cause)」と主張するとき、「原因である」とはどのような意味だろうか? Eatonは以下のような定義を採用する。

(i) xがyより早く起こり、(ii) xが起きた場合にyが起こる蓋然性が、xが起きなかった場合にyが起きる蓋然性よりも高い場合にのみ、xがyの原因である。(p.696)

この定義を踏まえて、以下ではポルノ批判に対する反論として挙げられる実証研究について検討する。ポルノを擁護する立場から提起される研究は、1) ポルノ規制の緩さと性犯罪率やジェンダー平等の関係を国別比較したものか、2) ある国のポルノ規制法が変化する前後で性犯罪率やジェンダー平等がどう変わったかを比較したものである。こうした研究に対する疑問点は、

・国ごとに性犯罪の構成要件が違うので、単純には比較できない
・規制がむしろ欲望を煽るため、ポルノ規制が強まったからといってポルノ流通が減るとはかぎらない*2
・実際のレイプ件数ではなく統計データを用いているため、暗数がわからない
生態学的誤謬*3

といったことが挙げられる。それゆえポルノ批判への反論が証明されたと言うことはできない

それでも、以上の4つの疑問点が解消されたと仮定したうえで、ポルノ批判へ反論する論理を検討してみよう。上記の実証研究が正しいとしたうえで、反論側は次のように主張する。

ジェンダー不平等と性暴力犯罪は、ポルノ以外の要因によって生じる
・ポルノを100パーセント確実な害の原因とみなすのは不合理である
・ポルノユーザーへの影響は文脈依存的だ

これに対してEatonは次のような反論をする。

まず、上記の実証研究では性暴力という害しか考察しておらず、それ以外のさまざまな害に対する反論として不十分である*4

次に、反ポルノフェミニズムは、ポルノがレイプを必ず引き起こすとは主張していない。ポルノがレイプを引き起こす場合もあれば、レイプが流行していてもポルノは流通していないという場合もありうる。上記の研究はこの点を無視している。

また、ポルノの影響は他の要因によって打ち消されるかもしれないが、それはポルノが悪影響を及ぼすものであることを否定するものではない。このことを説明するためにEatonは喫煙と健康被害のアナロジーを用いる。たとえば喫煙は肺がんのリスクを高めるものだが、それ以外の要因で肺がんになることも多々ある。それでも喫煙が肺がんリスクであることに変わりはない。

賢明な反ポルノフェミニズム、ポルノが単独でレイプやジェンダー不平等の責任を負うとは主張しない。そうではなく、ポルノに曝されることはジェンダー不平等の顕著なリスク要因であるという仮説を採用するのである。このように、複数あるジェンダー不平等の原因のうち、1つの顕著な要因であるとする考え方は、現代の科学的な思考に沿っているだけでなく、不法行為法の慣習にも適合する。

4. 原因の探求

前節ではポルノ有害説に反論する研究を批判してきた。本節ではポルノが原因であると主張するためにどうすればよいかを考察する。ここでも喫煙と健康リスクの関係が参照される。たとえばタバコを一本吸っただけで必ず肺がんになるわけではないが、繰り返し喫煙を続けると肺がんになる確率が高まる。また肺がんのリスク要因は喫煙以外にもあるが、それでも現代の科学は喫煙が肺がんリスクの1つであることを証明できている。それゆえEatonは、フェミニストも疫学と同様の方針をとれないだろうかと考える。それを踏まえて、従来の反ポルノグラフィ的な研究はどのように評価できるだろうか。

ポルノグラフィ批判の妥当性を立証しようとして、これまでにもいくつかの研究がなされていた。そのうちの1つに、ポルノグラフィと性暴力との関係についての研究がある。そうした研究の例として、ポルノグラフィの流通量と性暴力の報告件数との間に相関関係があると結論づけた調査が挙げられる。こうした研究は示唆的ではあるものの、やはりポルノ批判へ反論する立場の研究と同様の批判が向けられる。まず制度上のポルノ規制と統計上のレイプ件数は、実際のポルノ流通量と実際のレイプ件数を表しているとはかぎらない。また、疫学研究のようにはポルノグラフィと性犯罪との関係を証明できていない。さらに言えば、性暴力以外の、より些細な害については調査されていない。こうした点で、ポルノと性暴力との相関関係を調査した研究は不十分であると言える。「有害仮説を仮説以上のものにするためには、より注意深い疫学的研究が必要だ」とEatonは述べている(p.706)

なお疫学的な実証を目指した研究も、不十分ながら実施されている。そうした研究は、(a) どれだけポルノグラフィを視聴したかによって、性的な文脈と性的でない文脈の両方において、性差別的な心理の次元が形成されたり強化されたりする可能性があることを示すもの、(b) ポルノグラフィ視聴とさまざまな性差別的行動とのつながりを記述するもの、という2つに分けられる。

ただしこうした研究にも問題は多い。まず、多くの研究が第1段階の影響について考察しているが、第2段階の影響には触れていない。次に、研究倫理の問題から被験者に悪影響を及ぼす可能性のある実験を行うことができず、悪影響があるかもしれないポルノグラフィを実際に見せることは難しい。また、多くの研究がかぎられた少数のグループ(主に男子大学生)に対する実験であるため、単純には一般化できない。そして、ほぼすべての研究が性的暴力に焦点を当てており、それ以外の害については研究しようとしていない。さらに、実験で確認できるのは一時的な影響だけで、ポルノグラフィの長期的な影響をとらえることはできない。最後に、こうした研究はポルノグラフィの種類を区別せずに議論している。賢明な反ポルノフェミニストは「不平等なポルノグラフィ」のみを批判するのだが、こうした研究ではポルノグラフィ全般をひとくくりにして調査してしまっているのである。

既存の研究にはこのような問題点がある。それ踏まえたうえで、次の問題を考えたい。もし仮に上記のような問題点が解消され、不平等なポルノと様々な害との間に正の相関が確認されたとすれば、そこからどうすれば因果関係を立証できるのだろうか。相関関係が因果関係であるかどうかを決定するとき、疫学者は一般に以下の基準を用いる。

1. 時間性(Temporality):疑わしい原因因子への晒されは、病気の発症に先行しなければならず、晒されと病気との間のインターバルを考慮しなければならない。

2. 強度(Strength):強い関連性は、弱い関連性よりも確かな因果関係の証拠を提供する。 関連性の強さは、相対リスクまたはオッズ比によって測定される。

3. 用量関係(Quantal-dose relationship):病原へ晒される程度、激しさ、持続時間またはその全体が増加することで、病気のリスクが漸進的に増加する。

4. 一貫性(Consistency):知見の再現は特に重要である。

5. 尤度(Plausibility):既存の知見の範囲内で、関連性はもっともらしくなければならない。

6. 別の説明の考察(Consideration of alternate explanations):観察された関連性が因果関係を示しているのかを判断するなかで、調査者がどれだけ代替的な説明を考慮したのかが重要である。

7. 中断データ(Cessation data):もしもある因子が病気の原因ならば、病気のリスクは、その因子への晒されが減少したり排除されたりすることで低下するはずである。

5 さらなる省察のための反論と問題

反ポルノフェミニズムには、以上のほかにもさらに検討すべき論点がある。一つめの懸念は、集団についての調査が個別事例について何を語れるのか、というものである。

たとえば人口10万人あたりの研究で、もし仮にポルノ消費者がそうでない人々と比べて性暴力加害者になる相対リスク(relative risk)が5倍だという結果が出たとしよう。そのことは、ジョンが性暴力加害者になるリスクについて何を説明できるのだろうか。ジョンは定期的に不平等なポルノを観ているが、フェミニストを自認しており、女性のための社会運動に勤しんでいるとする。このときジョンはフェミニズムにコミットすることで性暴力加害者になる可能性が低下しているため、母集団の傾向を表す研究の知見は、ジョンという個別の事例には適用できないことになるだろう。このような例から、以下のような疑問が考えられる。

ある集団zにyを引き起こすxの蓋然性は、zの個々のメンバーにyを引き起こすxの蓋然性と必ずしも同じではないのだから、この考え方はどのようにして個別事例を分析するのに役立つか?(p.711)

この疑問に対しても、イートンは疫学的な考え方に言及する。疫学では生物統計学によって、ある病気のリスク要因を特定する。いったんリスク要因が特定できれば、実際にどのリスク要因があるかによって、ある個人がその病気にかかる見込みを評価できる

もしも定期的にポルノにさらされることによって、ある個人が女性を傷つける――繰り返すが、幅広い害がありうることを考慮しなければならない――見込みが増すということが経験的に測定されたならば、そうした振る舞いを引き起こす他のリスク要因を知りさえすれば、集団についての研究と特定の個人のリスクとの関係を気にする必要はなくなるだろう。(p.711-712)

最初の懸念については以上のように回答できる。しかし懸念はそれだけではない。もし仮にポルノグラフィと害との間に強く明白な関連があるとしても、それは因果関係を意味するとはかぎらない。このことから、以下の三つの困難が生じてくる。

まず、因果関係の向きが逆かもしれない、という懸念である。特に第2段階の原因については、この可能性が強く考えられる。「ポルノグラフィは性差別的な態度や欲望を満たすかもしれないが、ポルノの生産と消費を説明するのは先行する態度や欲望であって、逆ではない」かもしれない(p.712)。

次に、ポルノとジェンダーに基づく害は疑似相関かもしれない。たとえばジョエル・ファインバーグが論じるように、ポルノは性暴力の原因というよりも、むしろ「男らしさの崇拝」(cult of macho)がポルノと性暴力の両方を独立に引き起こすとも考えられる。

3つめの懸念は、ポルノがある種の害をもたらすことを認めたとしても、そのときポルノが果たす役割は単に補助的なのではないか、というものである。

こうした懸念は賢明な反ポルノフェミニズムにとって重要な異論である。
イートンはこれまで疫学における議論を援用してきたが、ポルノの害を論じるうえで疫学的な因果関係を採用することには限界があるとする。というのも、病気ならば病因と症状との因果関係が明らかだが、ポルノと害については因果関係が一方向的とはかぎらないからである。そこでイートンは以下のような立場をとる。

喫煙と肺がんとの因果関係は一方向的であるのに対して、賢明な有害仮説は、ポルノグラフィとその害が正のフィードバックループという仕方でお互いを助長し合い、強化し合うと考える。(p.713)

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この考え方を表したものが、上の図である。「有害仮説は、複雑な因果メカニズムのなかでポルノグラフィが重要な要素であると考える」。このように、ポルノ有害仮説を考える際には、複雑な因果関係を想定する必要がある。

さらにポルノ有害仮説は、ポルノと性差別が疑似相関であるという可能性に開かれているべきである。

6 結論

1 賢明な反ポルノフェミニズムは、「不平等なポルノグラフィ」のみを批判する。

2 深刻さや性質の異なるさまざまな害が想定できるため、それを細かく分類して考察する必要がある。

3 二点目と関連して、ポルノグラフィによって引き起こされうる害は多様であるため、対処法も多様となる。それゆえ賢明な反ポルノフェミニズムは必ずしも国家的なポルノ規制に賛成するわけではない。

4 現時点では、ポルノ有害仮説は証明も反証もされていない。この論文では、疫学的な方法によって有害仮説を検証することを提案した。

5 ジェンダー不平等には複数の要因があり、あくまでもポルノグラフィはそのうちの1つである。

6 ポルノへの晒されは、想定される害の必要条件でも十分条件でもなく、状況に応じて害の可能性を高めるものである。

7 性差別におけるポルノグラフィの役割を、フィードバックループ・モデルのうえで考える必要がある。

関連記事

*1:誤訳や誤解などがありましたら、ぜひコメント等でご指摘ください(特に統計用語や疫学用語)。

*2:なおここで言う「ポルノ規制」は全面的な禁止だけに限らない。たとえば性器にモザイクをかけるという規制や、一定の年齢以下の人物を出演させないという規制なども含まれる。つまりイートンは、ある部分的なポルノ規制が、必ずしもポルノ全体の流通を減らすとは限らないと指摘しているのである

*3:集団レベルで当てはまることが、個人レベルでは当てはまらないこと

*4:前編で様々な害を細かく分類したことが、ここで重要になっている。

【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」前編

Eaton, A. W. 2007. “A Sensible Antiporn Feminism.” Ethics 117(4):674–715.

ポルノグラフィをめぐっては、日本でもネットなどでしばしば論争になる。しかしそうした “論争” は、対立する双方が論点を共有していないことも多く、往々にして不毛な議論になりがちである。実り多き議論のために、まずは「フェミニズム的なポルノ批判がどのような論理に立脚しているのか」を確認する必要があるだろう。今回取り上げる論文は、反ポルノフェミニズムの論理を基礎から徹底的に論じるものであり、賛同するにせよ批判するにせよ、議論の出発点になりうる研究である。早速本文の内容に入っていこう*1

イントロダクション

アメリカではポルノをめぐって今も論争が続いているが、近年では反ポルノフェミニズムは公的な存在感を弱めている。Laura Kipnisのようなセックスポジティブなフェミニストや、Annie Sprinkleのようなフェミニストを自認するポルノ作家が支持されている学会でも、反ポルノフェミニズムは縮小している。 今日の人文科学では、ポルノの作品に反発するよりも、作品を批判的に分析する傾向がある。

背景としてポルノ産業の発達やインターネットの影響などを指摘する論者もいるが、それ以上に、反ポルノフェミニストの主張が過度に単純化されてきたと思われる。この論文では、議論のなかで用いられる概念を明確化し、反ポルノフェミニズムの枠組みを精緻化することで、賢明な(sensible)反ポルノ論を構築することを目指す。

1. 有害仮説――そもそもなぜポルノが問題なのか

まずは「ポルノグラフィ」という言葉の意味を明確化するところから始める。つまり「反ポルノ」というときに何が批判対象とされているのか、ということを明確にするのである。

賢明なポルノ批判では、批判の範囲を「不平等なポルノグラフィ」(inegalitarian pornography)に限定する。「不平等なポルノグラフィ」とは、ジェンダー不平等によって特徴づけられた関係(行為、シナリオ、または姿勢)を全体としてエロス化するような、性的にあからさまな表現」のことである(Eaton 2008: 676)。ただし、「不平等なポルノグラフィ」は必ずしも暴力的なポルノグラフィとは限らない。たとえばある種のBDSMのように、外見上は暴力的だが必ずしも不平等とは言えない性行為がある。さらに暴力的ではないが不平等である場合もある。以下「ポルノグラフィ」という語で「不平等なポルノグラフィ」を指すものとする。

では、こうした「不平等なポルノグラフィ」は何故、どのようにして女性に害となるのだろうか。ポルノグラフィが女性に害を及ぼすとする主張を総称して「有害仮説」(harm hypothesis)と呼ぶ。この仮説は以下のような論理に則って主張される。

i) 私たちの社会はジェンダー不平等を特徴としている。

ii) これは重大な不正義である。

iii) 女性の従属は決して自然なものではなく、社会的要因の束によって維持・再生産されている。そうした要因には露骨なものもあれば些細なものもある。

iv) ある意味で、ジェンダー不平等は多くの人々にとって性的な魅力あるものとなっている。

v) こうした不平等な関係への性的欲望もまた自然なものではなく、さまざまな種類の表現を通じて形成される。

vi) ジェンダー不平等を性的な魅力あるものへと変換することは、ジェンダー不平等を許容しやすくするだけでなく、むしろそれを楽しめるものにしてしまう。さらにジェンダー不平等に結びついた喜びは、多くの人々に浸透してゆき、それによってジェンダー不平等を広げる。こうしたジェンダー不平等のエロス化は、男性にも女性にも作用する。そしてジェンダー不平等のエロス化は、性差別に有利な肉体的欲求や性的欲望を高める。

vii) ポルノグラフィは、a) 受動的な征服の対象から屈辱、堕落、性的虐待のシナリオに至るまで、様々な不平等な関係や状況から性的快感を得る女性を描写することや、あるいは b) 性的興奮を目的とした方法で従属の表象を提示することによって、ジェンダー不平等のメカニズムや規範などをエロス化する。

 ゆえにポルノグラフィは特に、視聴者にジェンダー不平等な見方を内面化させるものである。このように、フェミニズムはポルノグラフィが猥褻だから批判しているのではなく「ポルノグラフィは女性の利益を追求する能力を損なうか、または妨げるという意味で、女性を傷つける原因となる」から批判しているのである。

 ただし議論を進める前に、この仮説についていくつか補足すべきことがある。

1. 不平等なポルノグラフィが批判されるのは、単に女性が従属させられている様子を描いているからではない。あくまでも問題なのは、不平等なポルノグラフィが女性の服従や堕落を是認したり推奨したりすることである。たとえば、女性の性虐待被害を告発するドキュメンタリーなどは、女性の従属を描いているからといってフェミニズムの批判対象となるわけではない*2

では、どのような場合に「女性の服従や堕落を是認したり推奨したりする」ことになるのだろうか。Eatonによれば以下の3つの要素によって、ポルノグラフィがジェンダー不平等を是認する。(a) 従属、堕落、またはモノ化する行為が加害者とその行為の対象となる女性の両方にとって楽しいと強く示唆する表現であり、(b) そのような扱いが容認され、また相応しい扱いであると示唆するような表現である。さらに(c) 不平等なポルノグラフィは、女性が堕落してモノ化した描写をエロス化する。

2. 一口に「ポルノグラフィがジェンダー不平等をエロス化する」と言っても、そこでエロス化されるジェンダー不平等の程度はさまざまである。たとえば、暴力的でなくとも、支配的な男性によって女性が性的に刺激されるという描写はジェンダー不平等的であると言える。

3. ポルノグラフィだけがジェンダー不平等を促進し維持するわけではない。しかしポルノグラフィは、激しくエロチックな形式によって、特に強く不平等なメッセージを発する。

4. 有害仮説は社会構築主義の枠組みに現れる必要はない。ジェンダー不平等は自然なものなのか、そうした不平等に性的魅力を抱くことは自然なものなのか、という議論は究極的には解決しないかもしれない。しかし、ジェンダー不平等は正当ではなく、そのエロス化を通じて強化されたり仕込まれたり悪化されたりすることがありうる。必要なのはこの点を受け入れることであり、一切のジェンダー不平等がすべて社会的に構築されているという主張を受け入れる必要はない。

5. ジェンダーヒエラルキーをエロス化することは、すでに存在する不平等の条件を強化したり悪化させたり、差別的な振る舞いへの非難を弱めたりして、それによって聴衆をジェンダー不平等の心理を内面化させやすくするものである。ここからわかるように、ポルノグラフィの害は必ずしもレイプを増加させるという形をとるとは限らない。ポルノグラフィの有害/無害を考えるうえで、レイプ件数は決して唯一の指標ではないのだ。

以上を踏まえたうえで、今度はポルノグラフィによる害を丁寧に腑分けしていく作業に移ろう。

2. 害の分類――ポルノにはどのような問題がありうるか

Eatonはポルノグラフィによる害を詳細に分類する。まず、ポルノグラフィへの晒されを「第1段階の原因」(stage 1 cause)、ポルノグラフィ消費者への影響を「第1段階の影響」(stage 1 effect)、消費者に促す行動を「第2段階の原因」(stage 2 cause)、他の当事者への加害を「第2段階の影響」(stage 2 effect)として、大きく4つに区分する。以下で各段階を細かく見ていく(章末に議論を整理した図が掲載されているので、参考にしてほしい)。

第1段階の原因(stage 1 cause)では、ポルノグラフィを視聴する段階が扱われる。ポルノグラフィの視聴は、さらに「単一的な原因」(Singular causes)と「拡散的な原因」(Diffuse causes)に分けられる。前者は特定のポルノグラフィを単発的に視聴することであり、後者は継続的に様々なポルノグラフィを視聴することである。単一的な原因と拡散的な原因のそれぞれについて、(1) 視聴するポルノグラフィがどの程度不平等的か、(2) 視聴頻度や期間によって分類できる。さらにポルノグラフィ使用が限定された集団のなかにとどまっているか、社会に広く浸透しているか、という点に注目することも重要である。

第1段階の影響(stage 1 effect)は、ポルノグラフィ消費者への影響である。先に述べた「単一的な原因」は、他の影響から独立しており、また即座に定着するような影響を与える。これを「独立した影響」(Isolated effects)と呼ぶ。ポルノグラフィに対するほとんどの心理的反応は前者の独立した影響である。これに対して「拡散的な原因」は「累積的な影響」(Cumulative effects)を与える。独立した影響と累積的な影響のそれぞれについて、「生理的な影響」(physiological effects)と「態度的な影響」(attitudinal effects)がある。前者は不平等な表現に対する性的反応を調教するという影響であり、後者は女性の劣位に関する意識や信念への影響である。態度的な影響はさらに意識的/無意識的、積極的/消極的に分けられる。この第1段階の影響は、控えめな性差別的態度から、実際の暴力行為まで、重大さについて連続性がある。

第2段階の原因(stage 2 cause)は、第1段階の影響が社会に現れたものである。言い換えれば、ポルノグラフィの影響を受けた人々の行為である。第1段階の原因と同じく単一的/拡散的に分けられる。さらに言語的/非言語的、暴力的/非暴力的、ささい/ひどい、というように多様な行為が含まれる。また、害の現れ方も多様であり、家庭での行為から職場で行為、あるいはプライベートな性関係から法廷での争いにいたるまで、公/私でさまざまに区分できる。具体例としては、専門的な状況で女性の身体を公然と見ている習慣のようなものから、裁判で強姦者に寛容になるという無意識なもの、同意のセックスと強要されたセックスを区別できない、というものなどが挙げられる。

第2段階の影響(stage 2 effect)は、第2段階の原因によって(主に女性が)受ける被害のことである。これも独立的/累積的の2つに分類できる。さらに下位分類として、身体的な被害か心理的被害か(あるいは両方か)という分類が挙げられる。この被害についても、軽度な被害から重大な被害に至るまで様々である。

最後に、上記の4つすべてを横断する区分として、「個々人としての女性」への被害と「集団としての女性」への被害、という分類ができる。前者は特定の個人が受ける被害である。後者は、特定の個人が被害を受けたとは言えないが、総体としての女性の地位を引き下げるようなものである。

以上を整理したものが、次の図である*3

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このように、ポルノグラフィからは複合的で連続的な害を想定できるが、そのうちどれが妥当な有害仮説で、どれが非合理的な主張なのかを選り分けることが必要である。また、害の種類によって求められる対応・対策も変わってくる*4。上記の分類によって、そうした議論を洗練させることができるようになる。

長くなったので、ここで一区切りとする。後編では以下のような論点が検討される:

・「ポルノグラフィが性差別や性暴力の「原因である(cause)」と言われるとき、「原因である」とは具体的にどのような意味なのか?

・実証的な先行研究ではポルノの悪影響について賛否両論あるが、これらの先行研究をどのように評価するべきか?

・結局「有害仮説」は立証されたのか?

 

*1:以下、誤解や誤読などがありましたら是非コメント等でご指摘ください。

*2:この点について正しく理解できていない論者が、ポルノ批判側にもしばしば散見されるとEatonは指摘している。

*3:画質が悪いので、読みにくい方は元の論文データを確認してください

*4:ポルノが有害であると主張するからといって、必ずしもポルノの法的規制を要求するわけではない。どのような意味で「有害」なのかによって、法的規制という手段で対応すべきか否かも議論が分かれるのである。こうした点を検討するためにも、害の分類は欠かせない。

「(性的)モノ化」論のアップデート――心理学的研究を踏まえて【文献紹介】

E Orehek and CG Weaverling (2017) “On the Nature of Objectification: Implications of Considering People as Means to Goals,” Perspectives on Psychological Science, 12(5): 719-30

全文PDFは上記リンク先でダウンロードできる。

梗概和訳

人がある目標への手段として扱われるとき、モノ化される。 よく知られた例としては、女性が性的にモノ化され、身体的な外見、性、または個々の身体部位へ縮小されることが挙げられる。 このようなとき、人はモノと同じ方法で使用され、他者の目標に合わせて評価される。 この論文の目的は、モノ化のより良い理解を得ることである。私たちは(a)目標達成のための手段 - 目標(means-goal)関係の基本原理を概説し、(b)人がある目標の手段であるような場面に関する先行研究をレビューし、(c)人が目標の手段として奉仕する場面における手段 - 目標の心理に照らしてモノ化を説明し、(d)モノ化の帰結に関する私たちの解説の含意を説明する。具体的には、モノ化は不可避であり、その道徳性を含めたモノ化の帰結は、モノ化された人が奉仕する目標と、モノ化された人がその目標に奉仕したいかどうかとに依存すると主張する。

内容整理

「モノ化」(Objectification)は哲学的にはカントやマルクスサルトルなどの議論があるほか、20世紀後半以降はフェミニズムの観点から「性的モノ化」(Sexual objectification)も議論されており、近年ではヌスバウムの議論も重要視されている。今回取り上げる論文は、こうした議論に心理学的な研究を踏まえながら応答していくものである。なお記事終盤に要約を箇条書きしているので、必要に応じて活用していただきたい。それでは、さっそく内容に入っていこう。

「モノ化」を定義する

道具性

「モノ化」論において最も重要な論者の一人としてマーサ・ヌスバウムが挙げられる。ヌスバウムは「モノ化」に複数の意味があることを指摘しつつ、そのなかで「モノ化」の特徴を真に定義づけるのは「道具性」(instrumentality)であるとする。道具性とは、ある対象をある目的のための手段や道具として使うことである。

道具性を介したモノ化には、自分の目標にとって有用かどうかという基準によって他者を知覚したり、定義したり、評価したりすることが含まれる。つまり、モノ化はある人が他人の目標達成のための手段と見なされたときに生じる。

「モノ化」がよく言及されるのは、「性的モノ化」というフェミニズムの文脈である。しかし「モノ化」自体は性的な場面だけに生じることではない。たとえば「企業が従業員を交換可能な機械として扱う」といった場面でも「モノ化」が起きていると言える。

他人を評価する

ところで、道具としての有用さによって他人を評価する、ということは仕事のみならず恋愛などでも、日常的に行われている(これについて論文中ではいくつかの文献が挙げられているので、興味があれば原文を参照してほしい)。このように、「ある人が目標を追求しているときに、目標を達成する上での道具性にしたがって他人を評価する」(p.722)。つまり私たちは日常的に、自分の目標を達成するうえでの有用度によって他人を評価しているのである。この事実が、「モノ化」の道徳性を考えるうえで重要になってくる。 

「モノ化」自体は不可欠

従来から指摘されてきたように、人が「モノ化」されることによって、多くのネガティブな影響が生じることがある。たとえば「性的モノ化」の議論では、「自尊心の低下、羞恥心、罪悪感、性的快感の低下、抑うつ、無価値感」などが挙げられている。

(「性的モノ化」にかぎらず)「モノ化」については、カント以降さまざまな哲学者によって議論されてきた。代表的な人物はカント、マルクスサルトル、そしてヌスバウムである。このなかでカント、マルクスヌスバウムらは「モノ化」全般を原則として不道徳的なものと考えていた。それに対してサルトルは、どちらかといえば「モノ化」を必要不可欠なものだと考えていた。

これについて心理学的な研究からは、後者の「『モノ化』は必要不可欠だ」という立場が支持される。心理学の諸理論によれば、「人とモノは同じやり方で、同じ原理にしたがって精神的に表象される」のである(p.723)*1

そこで著者らは「モノ化をもたらす心理的プロセスは道徳的でも不道徳的でもない」、「代わりに、道徳性の決定は、評価が行われるプロセスではなく、評価される目標の内容に依存する」と主張する。「モノ化そのものは、評価において不可欠な心理学的プロセスを記述するものであるため、不道徳たりえない」のである。

つまり「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。そして「モノ化」それ自体は良くも悪くもない。

しかし「モノ化」によってネガティブな影響が出る場合があるのも事実である。それでは、どのような「モノ化」はネガティブな影響につながるのだろうか。言い換えれば、どのような「モノ化」が道徳的に非難されるべきなのだろうか。

どのような「モノ化」が道徳的非難の対象とされるのか

従来はどちらかといえば、「モノ化」を原則として悪いものだと考える議論が主流だった。しかし現実には、むしろ自ら「モノ化」されることを望むことさえある*2。さらに言えば、「道具」としての役割を上手く果たせなかったことによって意気消沈する、ということも日常茶飯事である。

このように考えると、ヌスバウムらが考えていた「モノ化」の問題は、モノ化する側とモノ化される側の双方の願望が食い違うことで生じるものだと言うことができる。つまり、望まない目標への「道具」としてのみ評価され、他の側面から評価されることがなかったり、またその目標への「道具」以外の行為ができないものとみなされたりしたとき、私たちは見下されたような感覚や自己を否定されたような感覚を抱くのである。

具体例で考えてみよう。一般的に、医者は自らの医学的知識や技術によって評価されることを望んでいる。もしこの医者が仕事の場面で、医学的能力ではなく性的魅力によって評価されたり、性的誘惑に応じることを期待されたりすると、自己を否定されたように感じるだろう。他方で、この医者が自分の配偶者の性的目標のために役立ちたいと望んだときには、性的魅力によって評価されることでむしろ自己肯定感が高まるだろう。

「所有」の是非

このほか、「道具」として評価されるとき、しばしば代替可能なものとして認識されることがある。こうした点から、「モノ化」は「所有」と結びついている指摘されることがある。つまり、「道具」は売買や交換ができるということである。最も極端な例は奴隷であるが、それほど極端でなくとも、たとえばプロ・スポーツなどでチーム同士が選手を交換することなどもこれに該当する。

そもそも「私の目標」「あなたの目標」などと言うように、「目標」という概念自体が関与と所有(commitment and ownership)を暗に含んでいる。また「彼は私のもの」「私の子供」などと言うように、親密な関係性にも関与と所有が含まれていると言える。

このように考えると、「所有」されること全般が一様に悪いというわけではない。合意があるかどうかや互恵的かどうかによって、「所有」の善悪も分かれるのである。

それでは、「モノ化」によるネガティブな影響に対しては、どのような処方箋が求められるだろうか?

有害な「モノ化」に対して、どのような対策が必要か

ここまで見てきたことから分かるように、「モノ化」される当人がその目標に関して道具として奉仕することを望むか否か、ということが「モノ化」の善悪評価にとって重要になる。

具体例で考えてみよう*3。職場における女性の「モノ化」をなくすためには、彼女らを性的魅力によって評価するのではなく、職務能力によって評価することに焦点を移す必要がある。言い換えれば、職場の従業員を「道具性」(「モノ」としての有用さ)によって評価することを止めろと主張するのではなく、適切な次元での「道具性」によって評価すべきだということである。そして女性の「性的モノ化」について付け加えれば、女性が性的目標のための有用さという観点から評価されることをすべて排除する必要はなく、文脈と「モノ化」される当人の希望にもとづいて判断されるべきということになる。

結論

まとめよう。

★「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。
★「モノ化」は他者を評価するときに日常的に行なわれており、それ自体は良くも悪くもない。

★「モノ化」は以下の場合に有害であり、道徳的非難に値する:
・「モノ化」する側の人間が、自分が不道徳だと思っているような目標を達成するために、他人を道具として使う場合
・「モノ化」される側の人間が、道具として奉仕することを望まないような目標に関して、道具としての有用度にもとづいて評価される場合

*1:その例として認知的不協和理論や意思決定の理論などが挙げられているので、興味がある方は原文を確認してほしい

*2:論文中では、パートナーをケアする例が挙げられているほか、集団内で「道具」として上手く役に立つことが自尊心やポジティブな感情につながるという研究が取り上げられている

*3:以下の具体例はp.726

Aセクシュアル研究への招待――英語圏での研究動向(文献メモ)

Ela Przybylo (2016) "Introducing Asexuality, Unthinking Sex."

Introducing the New Sexuality Studies 3rd Edition の第21章 (pp.181-191) である。当該箇所の全文pdfはこちらのリンク先でダウンロードできる。  https://www.researchgate.net/publication/312664690_Introducing_Asexuality_Unthinking_Sex

今回のブログはあくまでも上の文章のまとめメモである。ブログ内で取り上げていない箇所にも重要な解説があり、また文献リストも充実している。ぜひ原文を活用していただきたい。なおブログ筆者は英語素人なので、例によって誤訳誤解などがあればご指摘ください。

Aセクシュアルとは

Aセクシュアルとは「セックス、性的実践、そして人間関係におけるセックスの役割などについて無関心であったり反感をいだく人」全般を指す、包括的な用語 (umbrella term) である。それゆえAセクシュアルという概念は、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、パンセクシュアル、そしてストレートなどのような性的指向を横断するものである。言い換えれば、「セクシュアル/Aセクシュアル」という単純な二元論では整理できないということである*1

Aセク自認者がセックスに対して取る態度

Aセク研究者Mark Carrigan (2011)によれば、Aセク自認者がセックスに対して取る態度は大きく3つに整理できる。1つめは「セックス肯定 (sex-positivity)」という態度であり、性行動を必ずしも欲してはいないかもしれないが、それでもセックスを肯定的で有効なものと見なす態度である。2つめ「セックス中立(sex-neutrality)」という態度で、セックスに無関心な態度である。3つめは「セックス嫌悪(sex-averse or anti-sex disposition)」という態度であり、理屈抜きにセックスを嫌なもの、不快なものと感じる態度である。

心理学的研究

心理学系のAセクシュアル研究からは、性器など身体的な興奮を経験しているからといって、主観的にも*2興奮を経験しているとは限らないという考えが出ている。

心理系の研究においてAセクシュアルは、性的に惹かれる感覚が低いこと、性行動を実践しないこと、あるいは単純にAセクシュアルを自認していること、といった観点で定義されてきた。近年の心理学的な研究では、Aセクシュアルをグラデーションと捉え、12問の質問によってAセクシュアルである度合を測る "Asexuality identification Scale"が考案されている。

Aセクシュアルの人口について、世界人口の1%ぐらいだという研究もある。ただしこうした研究はあくまで西洋諸国のデータに限られるということを留意しておく必要がある。

 Aセクシュアルを「定義する」ことへの困難

ここまで述べてきたのように、Aセクシュアルにも色々な人がいる。しかしAセクシュアルに関する言説は、往々にしてAセクシュアルを単純化しがちである。よくある言説は、「Aセクシュアルは「選択」ではなく「生まれつき」のセクシュアリティであり、生涯変わらない」とか「Aセクシュアルは性的関心を一切欠いている」などと規定するものである。このように定義することは、Aセクシュアルが多様であるという理解を妨げかねない。さらに、こうした定義は別の問題にもつながってくる。

Aセクシュアルというアイデンティティの基準として、自身のセクシュアリティが生涯不変であることを当事者らに強要するのは不当である。なぜならセクシュアリティそのものが、私たちの生に関する状況や文脈が変化するにつれて、生涯を通じて変化しうるからだ。同様に、Aセクシュアルは決して選択ではなく「生まれつきの」ものであると仮定してしまうと、私たちのセクシュアリティが社会的に位置づけられた文脈において理解されるということを見落としてしまう。(p.184)

セクシュアリティに関する理解は、私たちの社会にある認識枠組みによって大きく左右される。たとえば、単に「同性愛行為をしている」人がいるというだけでは「同性愛者」という概念は成立しない。「誰とセックスをするのか」がアイデンティティに関わる問題として認識されるようになったとき、初めて「同性愛者」という概念が可能になるだろう。

同じことがAセクシュアルについても言える。単に「性欲がない」「セックスをしない」というだけでは「Aセクシュアル」という概念は成立しない。「性欲がない」「セックスをしない」等がアイデンティティに関わる問題として認識されるようになったとき、初めて「Aセクシュアル」という概念が可能になる。

なので「同性愛者」という概念が存在しなかった時代があるように、「Aセクシュアル」という概念が存在しなかった時代も当然ある。しかし、だからといって当時の「性欲がない」「セックスをしない」人々が “現代で言うAセクシュアル的な人々が経験するような困難” を経験していなかったとは限らない。もしAセクシュアルを「生涯Aセクシュアルを自認し続けた人」として定義してしまうと、そうした歴史上の「Aセクシュアル」差別や「Aセクシュアル」的経験が無視されてしまう*3

「強制的性愛 (compulsory sexuality)」とは

強制的性愛("sexual imperative” or "compulsory sexuality")とは、簡単に言うと「人間はみな性的であるべきであり、また性を欲望するべきである。そして性的でなかったり性を欲望しなかったりすることは本質的に間違っており、治療が必要である」という社会規範のことである。具体的には、「(1) 人間関係において性交を特権化し、(2) セクシュアリティを自己形成や自己認識のプロジェクトに集中させ、(3) セックスを健康へと付属させ、(4) セックスをカップル関係、愛、親密性などと結合させる」ことを通じて、セックスとセクシュアリティを特権化することである。

また、「セクシュアリティは私たちの人生と人間関係において普遍的な要素である、という信念を中心として編成される社会」を表す言葉として「性社会 (sexusociety)」という語も作られている。

 「強制的性愛」と人種、障害、ジェンダー

たとえば、障害者は性欲のない存在であってほしいという暗黙の願望が、社会には存在している。障害者は強制的に「脱性化」されていると言えるだろう。こうした期待は、「どのような人間の生が、生きやすいとみなされたり再生産に値すると考えられたりするのか」ということに関する認識と密接に結びついている。それゆえ極端な場合には、国家による強制的な断種政策にもつながる。
他方で人種化された集団は、過度に性的な存在としてイメージされる。それゆえ彼らがAセクシュアルを自認しても信じてもらえない、という事態が生じることがある。

このように、セクシュアリティは正常であることや規範的な身体にとって当然必要であると見なされている。それゆえAセクシュアルは歴史的に治療対象と見なされてきた。たとえば19世紀後半以降、性欲が低いということが「性的麻酔 (sexual anesthesia)」(Krafft-Ebing 1886/1922)、「阻害された性欲 (inhibited sexual desire)」 (Lief 1977)、「不感症 (hypoactive sexual desire disorder)」(DSM-III-R 1987) などとされてきた。さらに近年でも「冷感症 (female sexual interests arousal disorder)」や「 男性不感症(male hypoactive sexual desire disorder)」 (DSM-V203)といった扱いが為されている。このように、性欲が低いということは「不健康」であると見なされ、性科学や医学の対象となってきたのである*4

ジェンダーについて言えば、多くの女性が性的不感症と診断されるという現象がある。2002年のとある調査では、アメリカの女性のうち1/3が不感症かもしれないという結果が出たそうである。これに対しては「女性は、社会でよく奨励されるセックスが気に入らないために、性的欲求のレベルが低くなるのではないか」「ヘテロノーマティブな文脈の中では、男性のオルガスム、快楽、満足感、性交を中心としてセックスが編成されているのではないか」といった指摘がなされている。こうした論点は、女性は性的に受動的であるべきだという社会規範とも関連していると考えられる。

また、現代のAセクシュアルのコミュニティには男女二元論に収まらない人々*5が多いという調査も出てきている。トランスジェンダーAセクシュアル自認との関連についてはさらなる研究が待たれる。

Aセクシュアル差別

ゲイル・ルービンなどのフェミニストは性に関する様々な偏見を打破しようと試みてきた*6。しかしルービンの代表的論文 "Thinking Sex" (1984) においてAセクシュアルやそれに類するセクシュアリティは見落とされていた。こうした傾向はルービンに限らず、その後のセクシュアリティ研究にも見られた。

また、心理学者Cara Maclnnis と Gordon Hodson (2012) がカナダの大学生を対象に行った調査から、「反Aセクシュアルな偏見 ("antiasexual bias" or "antiasexual prejudice")」が存在することが分かった。これはAセクシュアルを「不完全な人」「人間性を欠いた、嫌な人」と捉えるような偏見である。強制的性愛のもとで、Aセクシュアルは周縁化され、差別されている。このことをきちんと認識しておく必要がある。

ヘテロノーマティブでも、クィアでも、困難

まずヘテロノーマティブな集団において、異性に対して性的関心をいだくことが「普通」であるとされており、そこから外れる場合に不利益を被る。たとえば猥談や好みの異性の話などは、集団の結束を強める会話として位置づけられている。こうした文化に馴染めず居場所がなかったという語りが、Aセクシュアル男性への調査から出てきている (Przybylo 2014)。

他方クィアカウンターカルチャーは、性に関する強制的な規範に挑戦するが、しばしばセックスをクィアな関係において不可欠なものとみなすことがある。そうした場合Aセクシュアルの人々は、クィアな集団内に居場所がないと感じることになる。

セックスとセクシュアリティが人間関係の結束において普遍的で本質的だとする固定観念によって、Aセクシュアルクィアな文脈からもヘテロノーマティブな文脈からも排除されることになる。

交際関係における困難

また、Aセクシュアルの人々は、特にAセクシュアルでない相手と交際しているときに、望まないセックスを強制されやすい。その結果、恋愛関係を希望しつつも、そうした望まないセックスのために関係を諦めることもある*7

Aセクシュアルの抹消と不可視化

最後に、「強制的性愛」 の規範がある社会では、Aセクシュアルは理解不能な存在と見なされる。そのときAセクシュアルは、「性的に未熟な人」「潔癖でお堅い人」「抑圧された人」「性的に解放されていない」「性的なことから目をそらしている」などと見なされ、不健康で治療の対象であると位置づけられるのだ。あるいは、Aセクシュアルの人は、Aセクシュアルでない人々から「本当に性に関心がないのか?」と疑問を向けられることがある。「お前はAセクシュアルなどと名乗っているが、本当は性に関心があるのではないか? 嘘をついているのではないか?」というように、Aセクシュアルであることを否定するような言葉を向けられることもある。

このような否定的な尋問や、Aセクシュアルへの偏見などによって、Aセクシュアルへとアイデンティファイすることが困難になる。つまりAセクシュアルという存在が抹消され、不可視化されるのである。

結論

セクシュアリティ研究をする人も含めて、私たちは「強制的性愛」のもとでAセクシュアルが差別され、不可視化されていることを認識しなければならない。こうしたAセクシュアルの不可視化を認識することによって、この社会においてセクシュアリティがどのように位置づけられているかを明らかにすることができるだろう。

関連記事

*1:一口に「Aセクシュアル」と言っても、「グレーAセクシュアル」や「デミセクシュアル」などのように、単純な定義ではとらえきれないアイデンティティを持つ人々もいる。また、性的指向に関するアイデンティティのほかに、恋愛的指向に関するアイデンティティも無視してはならない。なお「グレーAセクシュアル」「デミセクシュアル」や「恋愛的指向」などについてはググれば出てくるので、各自調べてほしい

*2:ここで言う「主観的に」とは、精神や感情のレベルで、ということ

*3:そもそも、もし「生涯Aセクシュアルであり続けること」がAセクシュアルを名乗る条件だとするなら、「Aセクシュアルであることが、死ぬまで証明できない」ということになってしまう。こうした論点については、こちらの記事 恋愛しなくちゃいけないの? アセクシュアルの私が感じる生きづらさ が読みやすくてオススメ

*4:病名の訳語が不正確かもしれませんが、ご容赦ください

*5:トランスジェンダージェンダークィアジェンダー中立、アンドロギュノスなどのアイデンティティが挙げられている

*6:たとえば乱交、自慰、S/Mなどの性実践や、レズビアンやゲイなどの性的アイデンティティ

*7:前述のように、性的指向と恋愛的指向は区別して考える必要がある

「ルギアで抜いた人」から考えるセクシュアリティ論【雑感】

 今まで文献紹介の記事しか書いていなかったので、息抜きも兼ねて軽めの記事を書いてみる。こういう記事は初めてなので、取りこぼしている論点は多々あるし、また不慣れな文章になっているかもしれないが、お許しいただきたい*1

 今回取り上げるのは、いわゆる「性的嗜好」に関するマイノリティが、自身の経験を語ったネット記事である。元記事の作者いなだみずき氏は、以下の記事でポケモンのルギアに性的興奮をいだいた経験を語っている。まずは一読していただきたい。

 この記事について私が感想をツイートしたところ、サイトの編集長から以下のような引用RTがあった。

 確かに「性的嗜好」に関するマイノリティについては、これまであまり掘り下げられてこなかった分野である。それゆえ上の記事をマイノリティの孤独に関するテクストとして読む意義はあるだろう*2

 しかし今回は、そのような「個人が経験する疎外感」とは別の観点から、「ルギアで抜いた」記事を考察してみたい。

なぜ「ルギアで抜く」と「違和感を覚える」のか?

 考察を始める前に、まず意識しておくべきことがある。それは、上記の「ルギアで抜いた」記事は一貫した「物語」として書かれている、ということである。……このように書いてみたが、特に難しい話ではない。要するに、いなだみずき氏の「語り」は次のような構成になっている、というだけのことだ。

1: 中学時代、水着グラビアよりもHな妄想をしたい

2: しかし身近にあった妄想のネタがラブラドールレトリバーの太ももしかなかった

3: その結果、「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」ものへの性的欲望が形成された

4: それによって、ルギアで抜くようになった

5: ルギアで抜く自分に対して違和感を抱くようになった

  元の記事にはもう少し続きがあるが、いったんここで話を進めよう。このように番号を振ってみれば一目瞭然だが、いなだみずき氏の語りは、一本の矢印で結ばれた、因果関係の整然とした「物語」になっているのだ。

 「……それがどうしたの?」と思う方もいるかもしれない。しかし落ち着いて、先入観を取り払って考えてみよう。上の「物語」から、「しかし」や「その結果」や「~が形成された」など因果関係を説明する言葉を取り払って、さらに「違和感をいだいた」などの価値判断をも取り払ってみてほしい。つまり「物語」ではなく、単なる文章の羅列に分解してみるのだ。すると、とりあえずこうなる。

・水着グラビアで抜いていた。

ラブラドールレトリバーの太ももにエロスを感じていた。

・「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」なものに性欲をいだいていた。

・ルギアで抜いていた。

 ここで考えていただきたい。もし「ルギアで抜いた」記事を読まずに、この四つの文章だけを見たとき、あなたはどのような「物語」を思い浮かべるだろうか? ……いきなり問われても困るかもしれない。つまりこういうことだ。

 小中学生ぐらいのときに、四枚の絵を見せられて「この絵はどんな『物語』ですか? 自由に解釈してください」と問いかけられた経験のある方も多いと思う。それと同じ発想で、上の文章を「自由に解釈して」みてほしいのだ。

  そうすると、たとえば次のような「物語」を思い浮かべることも不可能ではないはずだ。

1:水着グラビアで抜いていた。

2: しかしラブラドールレトリバーの太ももにエロスを感じ始めた。

3: そして「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」なものに性欲をいだくようになった。

4: そしてルギアで抜くようになった。

5: とうとう理想の性的対象を見つけた!と喜んだ。

 突然なにを言っているのか、と思われるかもしれない。ここで言いたいのは、次のようなことだ。時系列順に並んだ出来事が、特定の因果関係によって編成された「物語」として語られるのは、出来事が終わった後なのである。言い換えれば、今になって振り返れば・・・・・・・・・・、あのときの出来事は全部つながっていたんだなぁ」という形でしか「物語」は語られ得ないのだ。 件の記事に以下のような文章があるのは、その傍証と言えるだろう。

ふと冷静に自己を振りかえってみたときに思った・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のが、
「なんで俺はルギアで抜いているのか?」という至極真っ当な疑問だった。

 つまり「ルギアで抜いた」記事は、現在の価値観のもとで「冷静に自己を振りかえってみた」結果として書かれたものなのである*3。そう、「物語」には、それが語られた時点での意識や価値観がしみ込んでいるのである。特にセクシュアリティに関する「語り」を読むときには、必ずこのことを意識しておく必要がある。

 では、「ルギアで抜いた人」の「語り」には、どんな価値観が通底しているだろうか。それは、「人間(多くの場合異性)が『正しい』性的対象であって、ルギアは『間違った』性的対象である」という固定観念である。この価値観は、単に記事を書いた個人の価値観ではなく、社会全体に共有された価値観であるだろう。

 ここに至って私たちは、以下のように問う必要がある。 なぜ(異性の)人間が『正しい』性的対象であって、ルギアは『間違った』性的対象だと見なされるのか?

そういえば、性欲って何なの?

 どうしてこんなことを問う必要があるのだ、と疑問に思う方もいるかもしれない。それを説明するために、まず「性欲」とは何か、ということを考えてみたい。

 さて、「性欲は本能なのか文化なのか?」という議論をしばしば目にする。性欲は生物学的なものなのか、文化的なものなのか? これに対する回答は、問いそのものが間違っている、である。どういうことか。

 簡単な話だ。生物学的要因と文化的要因が、お互いに関連し合っているのだ。そのことを中村美亜は端的に説明している*4

性衝動は主にホルモンの働きによって引き起こされるが、そのホルモンがどう作用するかは人それぞれであるし、またその作用の仕方を決定する体内のメカニズムは、心理・社会的なことと大きく関わっている。つまり、個人の心理的特性や過去の体験、家族や社会からの影響によって性的衝動を司る身体の働きは異なるのである。

(中村美亜(2008)「"アイデンティティの身体化"研究へ向けて――『感じない男』を出発点に」『身体とアイデンティティ・トラブル――ジェンダー/セックスの二元論を超えて』p.261-262)

 このことは、「食欲」と比較すると分かりやすくなる。すこし長くなるが、こちらも引用しておこう。

人間は食事を長時間とらないでいるとお腹がすく、しかしそのすき方は、個々人の体の大きさによって随分違う。また、楽しく食事をする体験のある人とそうでない人では、食べることに対するモチベーションが異なるし、自分があまり空腹を感じていない時でも、まわりで何かをおいしそうに食べている人を見ると、自分も食べたくなったりする。あるいは食事を一日三回とる人と、二回が習慣になっている人では、お腹のすくタイミングは変わって来る。このように個人の身体的特性、過去の体験、周囲からの影響、習慣などによっても、何かを食べたいという生理的機能の働き方は変化するのである。(中村 同上: p.262)

 ただし食欲と違って、性欲はなくても生きていけるし、現に性欲がないという人も存在する。また、「どのような感覚を『性欲』と呼ぶのか」も人によって異なる*5。さらに、性欲は食欲よりも多様である。たとえば食欲の場合では、「経口摂取よりも点滴で栄養を摂る方が好きだ」という人はほとんどいないだろう。しかし性欲については、それと同レベルの「倒錯」が、現に存在している。こうした点に留意しつつ、中村美亜の説明を読んでほしい。

 さて、以上を踏まえると、先ほど「ルギアで抜いた」記事を「物語」として捉えた意義が分かるだろう。この社会には性経験に関する「語り」が無数にある*6。そうした「語り」は、すべて自分の経験に様々な意味づけをしながら語られる「物語」なのだ。そして、この「意味づけ」の部分には、まさに文化的・社会的な側面が強く関わっている。

 さらに、先に述べたとおり「物語」の中には社会的な価値観や固定観念が含みこまれている場合が多々ある。セクシュアリティについての「語り」を単なる面白コンテンツとしてのみ読むのではなく、そこから社会的な規範を読み取るために、「物語」として意識的に読むことも意義があると思う。

ルギアから二次ロリエロ漫画を考える

 というわけで、いなだみずき氏が「ルギアで抜いた」ことによって疎外感や孤独感・苦痛などを感じたのは、決して本能ではない「ルギアで抜くなんて異常だ」という社会的な価値観が生み出した感覚である。だからこそ、「ラティアスは抜ける」という友人との出会いによって、そうした感覚を取り払うことができたのである。

 そしてこのような感覚を作り出すのが、対人セックスこそが理想の性行動である、という固定観念なのだ*7。この固定観念は、私たちの社会にある「セクシュアリティに関する暗黙のルール」と考えてよいだろう。

 これによって「ルギアで抜いた」人が疎外感をいだくことになったわけだが、実はこの固定観念は他にもさまざまな問題と関係している。

 たとえば、Aセクシュアルの苦悩についても、性愛の特権化という観点から考えることができるだろう。あたかも恋愛感情や性的感情をいだくことが当然視され、それによって恋愛感情あるいは性的感情をいだかないことに対する違和感をいだくことになるということだ*8

 あるいは、いわゆる「非モテ」と呼ばれる人々が苦悩することについても同様ではなかろうか。つまり、愛あるセックスが理想視されるからこそ、それを獲得できないことによる疎外感をいだくと考えられるのである。

 そしてもう一つ挙げたい例が、「二次元ロリエロ表現」をめぐる議論である。この議論は、対人セックスの特権化という問題構造が特に分かりやすく表れているように思う。ということで突然だが、二次元ロリエロ表現に対する批判について、ごく簡単に考えてみたい*9。 

 ペドフィリア(いわゆる「小児性愛者」)は、児童という「セックスをしてはいけない相手」を性的対象としているということから非難を浴びてきた。ここで「セックスをしてはいけない」理由は、児童の自己決定能力が未熟であるという点にある。児童への性暴力を防ぐという観点からすれば、「児童と性交してはならない」という規範はとりあえず意義があると考えられる*10。しかし、ここでいったん立ち止まって考えなければならない。

 「ある特定の対象とは、セックスをしてはいけない」という規範が成り立つためには、「性欲によって引き起こされる行為とは、対人セックスである」という認識が社会一般に共有されていなければならない。……このように書くと小難しく見えるかもしれない。しかしあえて単純化するならば、そもそも誰もセックスしない社会なら、「ペドフィリアが差別される」ということはあり得ないのではないか? という話である。

 冷静に考えてほしい。そもそも「セックスしたい」と思う人がいなければ、わざわざ「ある対象とはセックスしてはいけない」なんてルールを作る必要はあるだろうか? そんな状況なら、わざわざルールを作る必要すらないはずだ。

 この点を考えれば、しばしば散見されるペドフィリアへの非難についても、吟味が必要だということがわかる。どのような非難かというと、「ペドフィリアの欲望は必然的に性暴力となる」などという主張である。しかし、その主張が成り立つのは、「性欲の対象とすること」が「性交をすること」とイコールで結ばれるからではないか。言い換えれば、性交を「必然的」なものと見なしているからではないか*11*12

 このように書くと、「児童が性的対象とされることによって、児童自身が性暴力を受ける可能性に恐怖感をいだくのではないか」という反論があるかもしれない。しかし、そもそも「性的対象とすること」が「性交をすること」に結びついていなければ――言い換えれば「性的対象」とされても「性交の対象」とされないのであれば――多くの場合そのような恐怖は成り立たないはずだ。また、解決すべき問題は「性的対象とされることが、性暴力を受ける可能性につながる」という状況自体である。「性的対象とする」ことを許容しつつ「性暴力自体を批判する」のは可能であるし、むしろそれが性暴力に対する常識的な発想ではないだろうか*13

 あるいは、「性的対象とされることによって児童が傷つくのではないか」という反論もあるかもしれない。確かに、女性差別の論点として――とりわけセックスワーカーへの差別など――「性的対象とされることによって、社会的に低い位置に置かれることになる」という状況があるのは事実だ。しかし、ここでも解決すべき問題は「性的対象とされる=社会的に劣位に置かれる」という結びつき自体である。それゆえ、批判をペドフィリアのみに向けることは論点を逸らすばかりで、本当の問題解決を遠ざける。これも有害無益と言わざるを得ないだろう。

 ここまでペドフィリア批判に対するいくつかの反論をしてきたが、「児童の自己決定能力が未熟である」という点を考えるならば、児童との性行為を暴力とみなすことはとりあえず妥当だろう。現に小児性暴力が被害者を強く傷つけているという状況は、重く受け止めなければならない

 しかし、そのことを理由に、実在の被害者のいない二次元ロリエロ表現を批判するのは、本当に妥当だろうか? 少なくとも言えるのは、「『愛ある平等な対人セックス』はまったく無罪であり、ゆえに我々はロリエロ漫画を一方的に批判できる」という認識は不当であるということである*14

 だって、よろしいか。もし仮に二次ロリエロ表現が児童に対する性欲を再生産するとして、では性欲を性交欲として再生産しているのは何だ? それは対人セックスを特権化する社会全体・・・・・・・・・・・・・・・・ではないか。そうである以上、「児童に対する性欲を作り出す」という理由で二次元ロリエロ表現の責任を問うならば、同じ理由で、「性欲を性交欲へとスライドさせる」対人セックス文化も批判されなければならないはずだ。もし後者を批判しないのであれば、それは単なる対人セックスの特権化であり、対人セックス以外のセクシュアリティを攻撃することと同義ではないか。

 たとえどれだけ情愛に溢れた平等な性関係だったとしても、それが特権化されてはならない。言い換えれば、対人セックスにとってのみ都合のよいルールを作るのは、端的に言って差別である。つまり、「性行動は、本来ならば(異性間の)愛情ある性器接触であるべきだ」という形であっても、対人セックスを特権化してはならないのだ*15。以上の議論の要約として、過去ツイを再掲しておく。

結論――対人セックス調子に乗るな*16

 ところで、いなだみずき氏は決してルギアでしか抜けないというわけではない。元記事を読むかぎりでは、いわゆる「一般的な」オカズでオナニーをするようになったとのことらしい。

 しかし、そのことは今回の記事で考えてきた内容を覆すものでは全くない。ここまで読んでくださった方にはお分かりだと思うが、「ルギアで抜くこと」と「AVで抜くこと」と「誰かとセックスすること」の違いは、根本的には「ラーメン」と「うどん」と「そば」程度の違いでしかない。ただ世間にやたら「そば好き」が多く、そのせいで「ラーメン好き」が不当に追い詰められているというだけのことなのだ。あるいは、「そば好き」がやたら多数派であるせいで、特にこだわりはないのになんとなく「そば」を食べている、というパターンもあるだろう。私たちは、「そば」以外のものを食べる人たちを追いつめてはならない。そしてそれは、「そば」を不当に特権化しないということである*17

 近年、セクシュアリティの多様性について盛んに議論されている。性関係について言えば、たとえば同性愛や両性愛といった関係について、「愛があれば性別は関係ない」という理屈で「尊重」しようとする人々が散見される。しかし、上の議論を経てきた今、私たちは次のように問わなければならない。

「なぜ対人セックスが自明視されるのか」

「そもそもなぜ私たちの『性的欲望』は、対人セックスへと水路づけられているのか」

「『性欲』が『性交欲』と同一視されることによって、どのような人々が特権化されるのか、またどのような人が不利益を被るのか」

 そしてそれらを考えたとき、「対人セックスを特権化してはならない」という結論に至るだろう。これが「ルギアで抜いた」記事から考えられる結論である。

簡単な補足

●セックスの価値相対化を主張すると、しばしば「それじゃ子供が生まれないじゃないか」などと難癖をつけられる。これに対してはいくつかの反論があるが、とりあえずいつものツイートを貼っておく。

●対人セックスの特権化を批判するからといって、対人セックスの禁止を要求するわけではない。 ただ単に、対人セックスを基準とした社会制度やイデオロギーの解体を要求するだけである。要するに、「対人セックス調子に乗るな」ということだ。

●「対人セックスは重要なコミュニケーション手段だから特別なのだ」という反論もあるかもしれない。別に対人セックスでコミュニケーションしたければ、勝手にしていればいい。しかし「対人セックスがコミュニケーションの手段である」ということは、対人セックスの特権化を正当化する根拠にはならない。言いかえれば、対人セックスが調子に乗ってよいという根拠にはならないということだ。また、コミュニケーションツールとしてのセックスを過信してはならないし、セックス以外のコミュニケーションを舐めてもいけない。

●「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」ということは、決して性暴力を肯定することではない。そもそも「人を傷つけてはならない」という規範は、性に関する領域のみならず社会全体で適用されるべきルールだろう。「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」とは、性の領域に固有の――そして不当な――原則を作るなということであり、性に関する領域も原則として社会一般のルールと同じように考えるべきだということである。

●対人セックスを志向しないセクシュアリティなんてあり得るの? と思われる方は、この辺の記事をどうぞ(関連記事)

*1:という書き出しで始めたところ、いつの間にか一万字を超えてしまっていた。やはり慣れないことはするものじゃない。

*2:そして当然、それに対する異論・反論もあるだろう。また、記事の内容自体への批判的な考察もあるだろう

*3:もちろん、出来事が起こった当時と価値観が変わらないという場合はあり得るだろうが

*4:中村美亜の論文は、「性欲」について考える上で役に立つ。20ページ程度の短い論文なので、ぜひ図書館などで読んでみてほしい。ついでに同氏の『クィア・セクソロジー――性の思いこみを解きほぐす』セクシュアリティ論の入門書としてオススメである。

*5:こうした点については、こちらの過去記事: Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編) - 境界線の虹鱒が参考になるかもしれない

*6:ここで言う「語り」には、会話だけでなく文章表現も含まれる

*7:なぜ「対人セックス」という語を使ったかというと、実は「セックス」という語が多義語だからである。日本語では基本的に「性交」という意味で用いられるが、文脈によっては「性行為全般」を指すこともある。たとえば「マスターベーション性行為セックスだ」という使い方が挙げられる。他にも様々な用法があるが、それらと区別するために、他者との性的接触という意味で「対人セックス」を用いた。

*8:この文脈に「Aセクシュアル」を置かれることに不快感をいだく方もいるかもしれない。たとえば「Aセクシュアル性的指向だが、ルギアや(後述する)ペドフィリアなどは性的嗜好ではないか」という主張があるかもしれない。しかし、セクシュアリティの分類方法は一つではない。「性的指向性的嗜好」という分け方以外にも、たとえば「身体接触をともなうセクシュアリティ/ともなわないセクシュアリティ」という分類も可能だろう。なお「Aセクシュアルが『性的指向』なのか『性的指向の欠如』なのか」という議論もあるが、結論はまだ出ていない。

*9:今回の記事では到底すべての論点を議論することはできない。こうした議論は別稿で深めてみたい

*10:ただし、より根源的な、より原理的なところまで議論するならば、異論を立てることも不可能ではないだろう。しかし個人的には、まだそうした議論を始められる段階ではないと思う。

*11:なおここで言う「性交」とは、性器接触だけでなく、他者の身体に直で接しようとする性的行為全般を含むものとする。

*12:また、当然ながらすべてのペドフィリアが小児性暴力におよぶわけではない。むしろ多くのペドフィリアが、実際には「非触法ペドフィリア」である。こうした点について日本語で読める文献として、湯川やよい「承認の臨界を考える――あるペドファイル小児性愛者)男性の語りから」(『承認―社会哲学と社会政策の対話』収録)がある

*13:ここで言う「『性的対象とする』ことを許容」するとは、性的対象とすること自体を原理的な悪とは見なさない、ということである。決して「性的対象とする」ことをすべて無条件に肯定するわけではない。その点については別途議論が必要である。

*14:なお実写の「児童ポルノ」については、被写体が直接の被害者であり、まさしく「児童性虐待記録物」であるため、ロリエロ漫画と同じ議論はできない

*15:「であるべきだ」という形が問題なのである。それ以外の性を許さないという意味だから。

*16:「対人セックス調子に乗るな」って、なんとなく語呂が良いよね。

*17:これに対して、「対人セックスとルギアの違いは、そばとラーメンの違いよりも大きい」と感じる方がいるかもしれない。しかし文化人類学者ゲイル・ルービンが指摘したように、セクシュアリティの領域では、価値観や好みに関する小さな差異が過剰に重視されている。つまり「性行為は過度な意味付けをされているということなのだ」。この「過度な意味付け」が、セクシュアリティに関する差別と表裏一体となっている。この点については、以前の記事:ゲイル・ルービン『性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』個人的要約メモ - 境界線の虹鱒で紹介した論文を参照していただきたい

【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声

2012年8月31日 マーク・グリフィス(Mark Griffiths)

 以前のブログで、ファーリー・ファンダム(Furry Fandom:動物に扮することで性的快感を得たり、あるいは動物の格好をした人とセックスすることで性的快感を得る人のこと)と対物性愛(objectum sexuality:無生物または構造に対して、感情的なあるいは恋愛的な深い愛着をはぐくむ人のこと)について調査してきた。今回はトゥーノフィリア*1について、様々なネット上の言説を蒐集した。

 トゥーノフィリアとは、性的あるいは感情的に漫画のキャラクター(日本のアニメキャラクターを含む)へ惹きつけられるという性的倒錯のことである。ネット上ではいくつかの若干異なる定義が見られるが、その中には、漫画のキャラクターにしか性的関心がないという人だけがトゥーノフィリアだ、と主張するものがある。また、fictophilia(虚構嗜好:本のなかの架空の人物へ、恋愛的あるいは性的に惹かれる人)やgameophilia(ゲーム嗜好:たとえば『トゥームレイダー』のララ・クロフトといった、架空のビデオゲームのキャラクターに対して、恋愛的あるいは性的に惹かれる人)などと同じような嗜好であるとする主張も見られる。あるウェブサイト*2では、トゥーノフィリアを一種のライフスタイルと捉え、そして「人間とマンガキャラクターとの間に物理的接触がないがゆえに」トゥーノフィリアの性行動は(当然のことだが)マスターベーションによって構成されると主張していた。


 私はトゥーノフィリアについて学術的に言及されているのを、一度だけ見かけたことがある。2009年に”Forensic and Medico-legal Aspects of Sexual Crimes and Unusual Sexual Practices” (『性犯罪と非定型的性実践の法医学』)の題で出版された、Anil Aggrawal 氏の博士論文内で、性嗜好の包括的なリストに挙げられていた。しかしそこでの言及は、1行の定義だけだった。またこの本では、トゥーノフィリアが「schediaphilia」という別の名前で知られていることにも言及していた。このほかに私はブレンダ・ラブ氏の(基本的にとても信頼性が高く包括的な)"Encyclopedia of Unusual Sex Practices"*3を確認したが、トゥーノフィリアについての言及はまったくなかった。
 最も有名なトゥーノフィリアの1人は、漫画家のロバート・クラム(Robert Crumb)である。彼は幼い頃、女装していたときにバッグス・バニーに性的に惹かれた、と公言している。具体的には、彼はこう言った:

「5歳か6歳ぐらいの頃だっただろうか。私はバッグス・バニーへ性的に惹かれました。そして私は、このバッグス・バニーを漫画の表紙から切り取って、自分と一緒に持ち歩いていました。ポケットに入れて持ち歩いて、定期的にそれを取り出して眺めていて、そして……そして、長らく持ち歩いていてくしゃくしゃになったので、アイロンをかけて伸ばしてもらうよう母に頼んだのです。そして母はそのとおりにして……私はひどくがっかりしました。母がアイロンをかけたことで、その表紙は茶色になり、ぼろぼろに崩れてしまったので」

 芸術投稿サイトDeviant Artのウェブサイトで行われた定期的な投票では、58人のユーザー*4のうち60%が「あなたはトゥーノフィリアですか?」という設問に対して「はい、そのとおり」と答え(n=35)、14%が 「いや、そうでもない」と答え(n=14)、そして16%が「多少は」と回答した。もちろん、そのアンケートが科学的でないことは承知しているし、回答者の数も非常に少ない。だがそのアンケートは、私が見つけることができる唯一の数値データだった。また2008年のハフィントン・ポストの記事*5は、漫画のキャラクターと公的な関係を持ちたいというトゥーノフィリアもいると報じた。その記事では、Toonophile Planetのウェブサイトが(そのキャラクターがまだ他のトゥーノフィリアと結婚していないと仮定して)婚姻証明書を提供していたと報告した。さらに、人間と漫画のキャラクターの関係や結婚を合法的にするよう本気で求める請願が、Go Petitionのウェブサイトにある。請願によると:

「トゥーノフィリアは広がりつつある考え方だ。漫画/ビデオゲームのキャラクターへの心からの愛のみならず、私たちは彼らの存在感を感じており、さらに私たちのキャラクターへの愛はあなたや私の存在と同じぐらいリアルである。トゥーノフィリアたちはインターネット上でヴァーチャルな恋人たちのと結婚を表明しており、ヴァーチャルな結婚証明の件数は増加している。トゥーノフィリア向けのウェブサイトの例として以下のものがある。www.sonic-passion.com、www.toonophilia.net*6。これらの結婚証明書は残念ながら単なる仮想にすぎない。私たちは、私たちの名前と愛する人の名前が書かれた「法的な」結婚証明書を要求する。私は実在の人間との関係に興味を持ったことは一度もなく、仮想のキャラクターにしか興味がない。この請願は十分な署名が集まり次第、BBCに送られる。私たち署名者は、イギリスにおいて人間と仮想のマンガ/ビデオゲームのキャラクターとの結婚を認めるよう要求する」

 またハフィントン・ポストの記事では、他のウェブサイト(ToonsPortalなど)は様々なキャラクター(たとえば『原始家族フリントストーン』など)の猥褻でポルノグラフィックな画像や動画を特集していると記述した。2012年3月に、Willow Monroeはトゥーノフィリアに関するオンラインエッセーを書いた。書いてある内容についての裏付けは何もなかったが、彼女は次のように主張していた:

「トゥーノフィリアにとっての性的魅力は、ジェシカ・ラビットやベティ・ブープのような露骨なエロチックなキャラクターである必要はなく、愛情や欲望の対象は――バッグス・バニーからミズ・パックマンにいたるまで――あらゆるアニメやスケッチであり得る。トゥーノフィリアは、彼らの憧れるキャラクターの画像を持ち歩いたり、ぬいぐるみやフィギュアを収集したりすると知られている。トゥーノフィリアに友好的なサイトの中には、自分の好きなキャラクターがまだ求婚されていなければ、サイトのメンバーがそのキャラクターと結婚することを許可するというところもある。ウェブ上には、このフェティシストの空想に応える豊富なサイトがある。さまざまなキャラクターについて、想像しうるあらゆる種類の性的行為を演じているのを見ることができる。インターネット上のポルノマンガのうち、ずば抜けて最もポピュラーな形式は、日本のアニメ市場によって提供されている。アニメ調で描かれたポルノマンガは俗にHentaiと呼ばれている。その単語の語源からは、このスタイルの起源となったアーティストたちが自分の作品を、「倒錯(perversion)」と訳されるような言葉で示されるものとして考えていた、ということを読み取ることができる」

 私は休暇の時間でトゥーノフィリアについてのフォーラムを漁り回り、漫画のキャラクターと恋愛をしたり長年にわたる性的関係を持っていると主張する何十人もの人々に出会った。例えば、これはいくつかの(真正の)告白であり、また氷山の一角である:

・「私はトゥーノフィリア*7だと思います。私の好きなアニメキャラクターの番組を観るといつも、私の心は狂ったように高鳴るから。それに加えて、そのキャラクターについて性的な夢想もします。私はそのアニメのキャラクターにすっかり首ったけです」


・「私はトゥーノフィリアに近い人間です。私は4年前から自分がトゥーノフィリアであると自覚しましたが、その萌芽は、私がトゥーノフィリアという概念を理解すらしていなかった幼少期にまでさかのぼります。私はいつも漫画のキャラクターに魅力を感じていて、その感覚は大人になるにつれて明確になっていきました。だけどほとんどの人は「マジで?」という反応で、本当のことだと信じさえしない人もいます。なのでほとんどの人に対して、私は自分のセクシュアリティを説明できません。ですが本当にそうなのです。私は本当に、実在する人に性的魅力を感じることができません。正直言って、私は実際の人とセックスすると考えると吐き気がします、趣味じゃないんです。だけど『美女と野獣』の野獣のような、ある一定のキャラクターに対しては、その気になります」


・「私が15歳になってからずっと、私はエミー・ローズ(『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のキャラクター)への恋に落ちています。今日にいたるまで私は彼女と恋をしており、私の人生を彼女と共有しています。皆さんの大部分は、「なんという敗者だ、架空の人格を愛しているなんて。本物のガールフレンドを作れよ」と思うでしょう。だけど、エミーは私を幸せにしてくれますから、そういうことにしておいてください」


・「私はトゥーノフィリアのようなものです。あるいは、私はマンガではない架空のキャラクターに惹かれているので、虚構性愛(fictosexual)と言うべきでしょうか。私は、私が実在の人間に惹かれていないことに気づきましたが、架空の人物についての性的な空想や恋愛関係の空想をしていました。私は架空のキャラクターと付き合ったり、セックスをしているところを想像します。キャラクターによって、より性的であったり、恋愛関係的であったりします。ある日はこのキャラクター、別の日には別のキャラクターで空想するのです。それはポリガミーのようですが、彼らには嫉妬もなく、また病気になったり妊娠してしまう危険性もありません」

・「幼少時から漫画のキャラクターに強い魅力を感じるという以外に、どうやってこの嗜好に気づいたかなんて思いつきません。もちろん、ポニー*8や野獣*9、漫画のドラゴン、ポケモンデジモンのようなものは、私にとっても肉体的なものです。彼らはもとの姿のままで、文字通り私にとって肉体的に魅力的です。そうしたキャラクターが私にとって魅力的である理由の一つには、こういうものがあるように思います。そのキャラクターが現実世界のルールに制約される必要のないキャラクターであるがゆえに、より「独創的な」あるいは「非現実的な」フェチにも有益である、という理由です」

 ビデオゲームに関する私の調査からは、たとえばララ・クロフト*10のようなビデオゲームのキャラクターについて考えると、若いプレイヤーのなかに確かにトゥーノフィリアがいることを見て取れる。以前の記事では、私はララ・クロフトが大人気である理由を考察した。1つは――これはかなり明白かもしれないが――彼女が巨乳のデジタルアイコンだということである。しかし『トゥームレイダー』プレイヤーのほとんどは、欲情している青少年ではない。私はプレイヤーのグループに対して、なぜ『トゥームレイダー』がそんなに良いゲームだったのかと質問した。一つの最も重要な要素は、トレジャーハンティングゲームとしてのクオリティであるようだ。彼女の身体的な属性は、10代の若者を除いてほとんどのプレイヤーにとって重要ではないようだ。もしかすると『トゥームレイダー』プレイヤーの中には、トゥーノフィリアの傾向が発達し始めている10代のビデオゲームプレイヤーもいるかもしれない。


参考文献
Aggrawal A. (2009). Forensic and Medico-legal Aspects of Sexual Crimes and Unusual Sexual Practices. Boca Raton: CRC Press.
Griffiths, M.D. (1998). Shrink Rap: The Croft Report. Arcade, 1 (November), p. 49.
Love, B. (2001). Encyclopedia of Unusual Sex Practices. London: Greenwich Editions.
McCombs, E. (2008). Toonophilia: Is it porn? Huffington Post, October 1st. Located at: http://www.asylum.com/2008/10/01/toonophilia-is-it-porn/
Monroe, W. (2012). Fetish of the Week: Schediaphilia (Toonophilia). ZZ Insider, March 12. Located at: http://www.zzinsider.com/blogs/view/fetish_of_the_week_schediaphilia_toonophilia

翻訳について

この文章は、2012年8月31日にマーク・グリフィスノッティンガムトレント大学教授。アディクションについて研究している心理学者)が自身のウェブサイトに掲載した記事Something to get animated about: A brief overview of toonophiliaの全訳である。なお原文著者のツイッターアカウントはこちら:Mark Griffiths (@DrMarkGriffiths) | Twitter

ちなみに翻訳した記事は、前回紹介した性的空想とAセクシュアルに関する論文("Sexual fantasy and masturbation among asexual individuals: An In-Depth Exploration")に、参考文献として挙げられていたサイトでもある。こちらの論文は2016年に発表されたもので、Aセクシュアルと虚構性愛(fictophilia)の関係や、虚構キャラクターを性的対象とする人々について研究する必要性なども議論されている。関心のある方は前回の記事をご覧ください。このように、二次コンやトゥーノフィリアについては、オタク論の文脈だけでなく、セクシュアリティの側面からも議論される必要があるだろう。

なお翻訳の正確さについては責任を負いませんので、必要に応じて原文を参照ください。

関連記事

*1:toonophilia:日本語で言うところの「二次元コンプレックス」とほぼ同じ。英語圏ではSchediaphiliaとも呼ばれている

*2:SCHEDIAPHILIA in the Serial Killer Calendarというサイト。ちょっとサイトのデザインがおどろおどろしいので、一応閲覧注意

*3:非定型的な性実践についての百科事典。原著初版は1992年刊行。日本では『トンデモ超変態系』という題で1996年に抄訳が出版されている。しかしなんでこんな邦題にしたのか……

*4:”deviants”と呼ばれている

*5:http://www.asylum.com/2008/10/01/toonophilia-is-it-porn/ただしリンク切れ

*6:両サイトともすでに閉鎖されている模様

*7:原文ではschediaphiliaとなっているが、意味は同じ。以下schediaphiliaも「トゥーノフィリア」と訳出する

*8:おそらく『マイリトルポニー』のキャラクター

*9:おそらく『美女と野獣』のキャラクター

*10:Lara Croft:『トゥームレイダー』の登場人物