境界線の虹鱒

セクシュアリティ徒然草(情報の正確さは保証いたしませんので自己責任でご活用ください)

槙くん論(1)――なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか

「恋愛」とは何か。

この問いには色々な答えがありうるし、上手く言えないという人もいるかもしれない。それでも多くの人にとって、「恋愛」という言葉が何を指し示しているのかは(たとえうまく言えないとしても)当たり前のように「わかる」ものなのだろう。だから「恋は理屈じゃない」とか「人を好きになるのに理由はいらない」とか言いながら、恋愛とは何かと問うより先に恋愛をしてしまう(あるいはできてしまう)のだろう。

しかし他方で、それなりに多くの人々が、「恋愛」とは何なのかというところで悩むことになる。どのような感情を抱けば「恋愛」をしていると言えるのか、どのような関係になれば「恋愛」をしていると言えるのか。そもそも「恋愛」は感情を指すのか、関係を指すのか、あるいはもっと別の何かが関わっているのか……。場合によっては、答えは人によって違ったものになるかもしれない。たとえば恋愛と性欲が同じだと感じている人もいる一方で、性的指向と恋愛的指向が異なる人もいる*1。そしてそもそも、恋愛を経験することがないという人だって存在する。

こういった諸々の疑問は、けれど多くの恋愛物語ではそれほど深く問われない。当たり前のように恋愛感情をいだいて、当たり前のように関係を築こうとする。けれど、ある人物のことが好きだからといって、その好意がなぜ「恋愛感情」と言えるのだろうか。そしてある人物に特別な好意をいだいたからといって、なぜ「恋愛関係」を築こうとするのだろうか。このようなことについて、多くの作品では説明されない。そんなことは語るまでもないだろう、と言わんばかりに。

これに対して『やがて君になる』は、「当たり前なもの」としての「恋愛」に問いを投げかける。恋愛物語でありながら「恋をする」ということの自明性を疑問に付す、稀有な作品なのである。

「恋愛の問い直し」というテーマ

やがて君になる』は、「人に恋する気持ち」が分からないという悩みを抱える少女(小糸侑)と、自分を肯定できないせいで相手からの好意を受け入れられない少女(七海燈子)の物語である。この作品は恋愛マンガであるが、にもかかわらず恋愛を自明のものとして扱ってはいない。「なぜ、どのようにして、この登場人物たちに恋愛が生じるのか」というプロセスを丁寧に描き出し、それによって「私たちの社会において、恋愛とはいかなるものなのか」という思索へと読者をいざなう作品なのである*2

実際に作中では、「恋愛は誰もが当たり前にするものだ」という固定観念を相対化する場面がいくつか描かれる。

燈子「好きにならなきゃいけないと思ってつらかったんだね」
燈子「みんな恋愛の話大好きだもんなぁ/自分がおかしいような気にもなるよね」
(原作1巻 35-36ページ)

とはいえ『やがて君になる』も恋愛マンガである以上、主要キャラクターたちが恋愛をすることは避けられない。その意味で、ともすれば「恋愛の分からなかった少女と、恋愛を受け入れられなかった少女が、成長することによって恋愛できるようになる」というストーリーに回収されかねない。言い換えれば、「恋愛ができるようになることを『望ましい』『成長』の結果として描くことで、恋愛しないことやできないことを望ましくない事態と位置づけてしまう」という帰結に陥りかねないのである。

多くの百合やBLは、同性同士の恋愛を描くという点で異性愛主義*3を相対化している。しかし、ともすれば「対象が同性か異性かという違いがあるだけで、それでも『普通の』人間なら誰もが恋愛できるはずだし、するのが望ましい」というような、素朴な性愛主義*4に回収される危険もある。こうした価値観は、恋愛しない人やできない人を「未熟な」「劣った人間」とみなすものであり、またアセクシュアル(無性愛)を不可視化するという問題にもつながる*5

もちろん、恋愛マンガが恋愛を描くこと自体は非難されるべきではない*6。しかし『やがて君になる』は「恋愛の問い直し」を一つの重要なテーマとしている。そうである以上、性愛主義をきちんと相対化できないかぎり、作品のテーマを完遂できないということになる。

恋愛マンガでありながら、性愛主義を批判しなければならない。

このきわどいバランスを保つうえで重要な役割を果たしているのが――意外かもしれないが――槙くんなのである。

アセクシュアル」かつ「読者」としての槙くん

槙くん(槙聖司)は、「他人の恋愛を見たり相談に乗ったりするのは好きだが、自分で恋愛をしたいという欲望はない」という少年である。つまり彼は「恋愛感情を経験しないことを肯定する」キャラクターとして描かれているのである。

槙「人の恋愛を見てると良いものだと思えるし/理解はできるつもりだけど/自分の中にその感情を持ったことはないね」
侑「…小説を読んでるか映画を見てるみたいな」
槙「うんわかる/自分の世界のことではないって感じ」
侑「槙くんはそれを寂しいと思ったことはない?」
槙「ないね/僕は楽しいよ こういう距離からみんなを眺めるの」
(原作3巻 135-136ページ)

彼は「百合マンガ読者」の表象であると同時に「アセクシュアル*7の表象としても描かれている*8。『やがて君になる』を読み解くうえで槙くんが重要であるということは、原作者・仲谷鳰自身の語りからも確認できる。

特に槙くんは、侑と似ているようで対照的な人物。『好き、特別』という気持ちを知りたくて焦っている侑と、恋愛感情なんてわからなくてもいいと思っている槙くん。その対比が見せられればと思っています(「誰かの特別になる」ってどういうこと? 一筋縄ではいかない少女同士の恋を描いた『やがて君になる』【著者・仲谷鳰さんインタビュー】 | ダ・ヴィンチニュース

槙くんを登場させることによって、『やがて君になる』には性愛主義へと回収されない余地を残している。しかし、それだけではない。槙くんの立ち位置は、恋愛物語のキャラクターというよりも、むしろ物語を楽しむ「読者」に近いものとして描かれている*9。つまり槙くんは「読者」かつ「アセクシュアル」な男子として描かれているのである。

実はこの2つの側面が組み合わされることによって、槙くんは特異な形で性愛主義に破れ目を開けている。この点について、以下で原作2巻第7話 54-56ページ(アニメ4話)に描かれる、槙くんのモノローグを考察していく。

「恋愛≠する」による性愛主義の破れ目

槙くんは「姉二人と妹に囲まれて育ったせいか(……)女の子の相談相手になることが多い」。しかし彼は、恋愛相談を「面倒だとは思わない」。むしろ彼は、他人の恋愛を「舞台の上の物語」とみなし、自分自身をその「観客」として位置づけている。一方で、彼は恋愛感情を自分に向けられることを望まない。つまり彼は恋愛をするのではなく、見ることを楽しんでいるのである。

役者が観客に恋するなんて/がっかりだ/そんなのはいらない/僕は客席にいてただ舞台の上の物語を見ていたい(原作2巻 55ページ)

ところで、槙くんのモノローグのなかには「女の子は恋の話が好きだから」という語りが挿入されている。これは一見すると女性に対するステレオタイプであるようにも見えるが、そうではない。この語りは、槙くんの周囲に「恋の話が好き」な女の子が多かったということを表している、と解釈するべきである。つまりある意味で槙くん自身が恋愛に「囲い込まれて」いた、ということである。それにもかかわらず、槙くん自身は恋愛をしていないし、する気もない

槙くんにとって、恋愛は「する」ものではなく「見る」ものである。そんな彼を描くことによって、やがて君になる』は「恋愛‐する」という結びつきに切れ目を入れるのである(「恋愛≠する」)。

実を言えば、この切れ目は日常的にありふれている。たとえば恋愛マンガを読んでいるまさにそのとき、多くの読者は実際に恋をしているわけではない。そこでやっていることはあくまでも読書であって、恋をしているのではないのだ*10。この当たり前すぎるがゆえに見過ごされがちな「切れ目」を、槙くんは露悪的なまでに前景化させてしまうのである。

このことは、性愛主義を相対化するうえで極めて大きな意味を持つ。たとえばドラマやマンガなどの恋愛フィクションは日々数えきれないほど生産されており、あたかも恋愛は誰もが「普通に」経験するものだというイメージをばらまいているかのように見える。しかし、恋愛は必ずしも「する」ものであるとはかぎらない。恋愛フィクションは、恋愛を「する」以外の動作へと結びつけてしまうものであり、その意味ではむしろ恋愛を価値相対化する可能性さえ含まれる*11。この可能性を「読者=アセクシュアル」な槙くんは暴き出すのである。

「読者」は恋をしていない。「舞台」には終わりがあり、「劇場」には外がある。世界は恋で満ちているかもしれないが、恋で満ちた世界は、同時に穴だらけでもある。

もしも槙くんが単に「人の恋愛を見るのが好き」なだけであれば、「本編で描かれないだけで、彼もきっと普通に恋愛するに違いない」という性愛主義的な解釈枠組みによって、いともたやすく読み流されてしまうだろう。あるいは、槙くんが単に「恋愛する気のない」だけであれば、依然として「恋愛‐する」という結びつきは維持されたままとなり、上記のような「恋愛」の破れ目は不可視なままとなるだろう。

しかし「『恋愛』を欲望すること」と「『恋愛すること』を欲望すること」は、同じではない。このように「欲望」のあり方を分節化し直すことによって、「『恋愛』を欲望するからといって、『恋愛すること』を欲望するわけではない」という、これまで見えにくくなっていた営みを記述しなおすことができる。そしてそれによって、「恋愛を欲望する人/しない人」という二項対立を成り立たせていた前提それ自体が突き崩されていく。「恋愛を欲望する人」という単一カテゴリーのもとに、実は多様なあり方が潜んでいたということを露わにしてしまうのである。

このように、『やがて君になる』は槙くんを描くことによって、性愛主義の破れ目を可視化させている。複数の破れ目が、いたるところに開いていることを暴き出しているのである。ゆえにやがて君になる』のテーマである「恋愛の問い直し」は、「『アセクシュアル』かつ『読者』としての槙くん」なしには完遂されないと言えるだろう。これが「なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」という問いへの回答である。

終わりに

誰もが恋愛を好んでいるというわけではない。

恋愛を好んでいるからといって、恋愛したいとはかぎらない。

ある人のことが好きだからといって、その好意が恋愛感情であるとはかぎらない。

特別な好意を抱いたからといって、その相手と独占的な交際をしたいとはかぎらない。

このリストはいくらでも書き連ねられるだろう。「恋愛」がどのような実践に結びつくかは、決して自明ではない。「恋愛‐する」という結びつきは、きわめて偶然的なものかもしれない。そもそも「恋愛」という言葉の指し示す内容は、私たちの間でどれだけ共有されているのだろうか……。

このような思索をも喚起するという意味で、『やがて君になる』はきわめて優れた「恋愛作品」だと言えるだろう。

もちろん『やがて君になる』は百合マンガであり、作品のメインとなるのは小糸侑と七海燈子の関係である。しかし彼女たちの「恋の物語」からこぼれ落ちるテーマを補完する存在として、槙くんのことも忘れないでおきたい。

*1:恋愛的指向については 恋愛的指向 - Wikipedia や 恋愛対象と性的指向が食い違うことの意味について - don't look back into the sun を参照。

*2:たとえば『やがて君になる』を「異性愛主義における『恋愛感情の自明性』を問い直し、しかもその問い直しをホモフォビアから分離させた作品」として評価する記事として『やがて君になる』あるいは異性愛主義/百合の可能性について - don't look back into the sunがある。

*3:異性愛が「普通」の「望ましい」ものであり、非‐異性愛を異常なものとみなす社会規範。

*4:近年のアセクシュアル研究では、ヘテロノーマティヴィティ(heteronormativity)をもじって「セクシュアルノーマティヴィティ」(sexualnormativity)という言葉が用いられることもある。

*5:本記事ではアセクシュアルについて深く立ち入らないが、関心のある方は無性愛(アセクシュアル)研究への招待――英語圏での研究動向(文献メモ) - 境界線の虹鱒などを参照。

*6:もしも恋愛モノというジャンル自体が性愛主義を再生産するものとして非難されうるとすれば、それは世の中のあらゆるところに恋愛モノが充満していて、どこにも逃げ場がないという場合だろう。今の社会で実際にどれほど恋愛モノが充満しているのか、という点は別途検討が必要である。しかし本記事では、恋愛を扱ったフィクションが性愛主義を再生産するとはかぎらず、むしろ性愛主義の破れ目にさえなりうる、という側面に注目する。

*7:なおこの記事では「アセクシュアル」を「セックス、性的実践、そして人間関係におけるセックスの役割などについて無関心であったり反感をいだく人」全般を指す、包括的な用語として用いる。アセクシュアルについては先の注釈に挙げた記事を参照。無性愛 - Wikipediaも内容が充実している。

*8:なお本来であれば「槙くんをアセクシュアルの表象として解釈してよいのか」という点についても踏み込んで議論する必要があるが、本記事では省略する。

*9:実際に作中でも、槙くんはモノローグのなかで自らを「観客」と位置づけている(原作2巻 55ページ)。

*10:もちろんキャラクターに感情移入したり同一化したりすることはあり、それを「追体験」と呼ぶこともできる。しかし「恋愛マンガのキャラクターに感情移入すること」や「他者の恋愛経験を追体験すること」は、「自分が恋愛を実践すること」とは異なる行為だろう。また、読書のさなかに直接キャラクターと恋愛をする人はそれほど多くはないと思われる。ただし虚構的キャラクターと恋愛をする人が一定数いるということも忘れてはならない。この点については【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声 - 境界線の虹鱒を参照。

*11:もちろん、こうした形での相対化が可能になるためには、いくつかの社会的条件が必要である。ここでは詳述しないが、たとえば一例としてアンソニー・ギデンズ(1992=1995)の指摘するような「性と生殖の分化」が挙げられるだろう(『親密性の変容』47ページ)。

【文献メモ】二次創作のアーカイブに関するフェミニズム・クィア的評価

Rogue Archives: Digital Cultural Memory and Media Fandom
By Abigail De Kosnik
Chapter 3 Queer and Feminist Archival Cultures: The Politics of Preserving Fan Works

アビゲイル・デ・コズニック『ならず者のアーカイブ――デジタル文化の記憶とメディア・ファンダム』第3章「クィアフェミニストアーカイブ文化――ファン作品保護のポリティクス」のまとめである。なお本書全体の概要については上記サイトを確認してほしい。

本文に入る前に、まずはよく出てくる用語について簡単に確認しておく。「ファン・フィクション」とはファンによる二次創作のことである。そのなかでもBL二次創作は「スラッシュ・フィクション」と呼ばれる。アメリカにおけるファン・フィクションの担い手は女性が主流である。ファン・フィクションを集積してアーカイブ化したものが「ファン・フィクション・アーカイブ」である。以下の議論では日本の二次創作文化に近い内容も含まれるが、主にアメリカのファン文化を扱った研究であるため、歴史的・文化的背景が日本と異なるという点に留意して読む必要がある。

本章のテーマ

・ファン・アーカイブがどのように女性ユーザーやクィアユーザーにとって役立っているか
・彼女らのコミュニティのためのアーカイブとしての働きから、どのようにして文化的リソースとしてのファン・アーカイブの価値が生じるか

男性支配的技術に対抗する女性ファンたち(Women Fans against Male-Dominated Tech)

 2000年代半ば以降、技術企業や起業家たちが、ユーザー生成コンテンツ*1と社会的ネットワークに関心を寄せ始めた。一方でソーシャルメディア企業は、どのような種類のコンテンツならばオンライン上で共有してもよいか、ということについて制限を課してくる。これによって、多くのユーザーが警告なしにコンテンツを削除されるという事件が生じてきた *2

 他方で、ソーシャルメディアの起業家はファン・フィクションを収益化しようとして、ファンや作家ではなくサイト所有者が金銭的利益を得るようなサイト構築を目指した 。2000年代半ばから後半にかけて、ファンにとって有益でないような形でファン・フィクションを企業化しようとする試みがさらに現れている*3

 StrikethroughとFanLibののち、著名なファンであるSperanzaたちはファン自ら管理するインターネットインフラが必要であると考え、営利企業に依存しない形でコミュニティの作品を保存する活動を始めた。これをきっかけに、ファン自身がファン・フィクションのアーカイブ活動をするNPO「変形的作品のためのNPO (The Organization for Transformative Works)」が2007年に結成された。OTWは「みんなのアーカイブ(AO3)」*4 を設立し、また親会社の倒産やアーキビストの死去などで危機に瀕したファン作品を保護する「オープンドア」 *5を設立した。

 ファン・フィクション・コミュニティの多数派は女性であり、OTWとそのすべてのプロジェクトは女性プログラマーによって展開された。それゆえAO3は女性プログラマーを育成する機会にもなった。

 すべてのファン製ファン・フィクション・アーカイブは女性のコミュニティ・アーカイブとして機能する、というのがDe Kosnikの主張である。またDe Kosnikによれば、こうしたアーカイブクィアなコミュニティでもある。こうしたアーカイブは、デジタルの短命なコンテンツを失いたくないという動機だけでなく、集団としての感覚を強化するという、ファンダム内の女性やLGBTQを自認する人々のニーズによっても動機づけられている。

発見の瞬間(The Moment of Discovery)

 インターネット上のファン・フィクション・アーカイブを初めて見つけたとき、ファンは強烈で積極的な情動的反応をする。このことがファンたちへのインタビュー調査から浮かび上がってきた。このテーマを「発見の瞬間」と呼ぶ。このとき、独りではなかったのだという感覚や、突如としてコミュニティのメンバーになるような感覚を経験する、と語られている。

 このような効果はアーカイブという形式に特有ではない、という指摘もあるかもしれない。しかしここで言及されたウェブサイトがアーカイブであり、多くの作品が集積しているからこそ、ファンたちの「帰属意識」に特別な貢献をしている。アーカイブによって、ユーザーは当該コミュニティが長い年月にわたって作り出してきた文化的テクストへの理解を深めることができる。言い換えれば、アーカイブはコミュニティの歴史と記憶の担い手なのである。

アーカイブの情動的力(The Emotional Power of Archives)

 社会的・政治的に権力のない人々のテクストやエフェメラ*6を集めて、保存して、そして利用可能にすることを目指すコミュニティ・アーキビストがいる。こうした人々の主要な動機の一つは、周縁化された集団のメンバーであると自認する人々にポジティヴな感覚をかき立てる、というものである。アーカイブの理論家たちは、自らの文書をアーカイブ化された人々や、そのアーカイブを通じて文書にアクセスする人々のなかに生じる感覚の重要性を強調する。

・同じような感情を抱いている人が他にもいる、という感覚
・その人の属するグループの歴史や記憶が保証される、という感覚
・公的な文書やアーカイブから無視されていた場合には、そのグループ自体が自らのドキュメントを尊重している、という感覚

 ファン・フィクションのアーカイブに初めてたどり着いたとき、ファンはファン・フィクションに没頭して多くの作品を一気に読む。これは何故か。一つは、原作に対する全面的コミットメントを楽しむということが考えられる。しかしこれに加えてDe Kosnikは、もう一つの動機を挙げる。そのグループのメンバーになるために、自身が参入する前に作られた二次創作を読むことによって、そのファンダム内で原作がどのように加工されてきたのかという記憶を習得する、という動機である。主流文化のなかにファン・フィクションがアーカイブされていないことから、ファン・フィクション・アーカイブを初めて見つけたファンは、ある意味で飢えを満たすように作品を貪り読むのである。

 またインターネット・アーカイブはAndrew Flinn (2007) の定義するコミュニティ・アーカイブ(コミュニティメンバーの草の根活動によって作られたアーカイブ)に合致する。 

ファンダムにおけるジェンダーセクシュアリティ(Gender and Sexuality in Fandom)

 上記のように、コミュニティ・アーカイブは、制度的なアーカイブから歴史的に排除されていると感じている下位集団によって、その集団のために設立されるものである。これに加えて、ファン・フィクション・アーカイブは、文化の公的アーカイブから放置された集団の文化的記憶を保護するコミュニティ・アーカイブでもある。スラッシュファンフィクションのメンバーは大半が女性であり、それゆえファンのアーカイブは男性支配的なメディア産業から無視されたり軽視されたりしてきた。このことが、女性や少女たちが独自のファン・フィクションを書くことを動機づけている。ファン・フィクションは女性の文化であり、かつ女性の欲望を反映してこなかった主流文化との相互作用でもある。これは以下のアドリエンヌ・リッチの議論に通じるものである。

 Re-vision――ふりかえる行為、新鮮な目で見る行為、新しい批判的な方角から古いテキストに入っていく行為。これは女にとって、文化史の一章というよりもずっと大きなことだ。生きのびるための行為なのだ。(Rich 1979=1989: 53)

 ファン・フィクション・アーカイブには、いくつかの点でクィアアーカイブと似たような機能がある。たとえば、ファン・フィクション・アーカイブは「秘密から暴露への変化」(change [from] secrecy to disclosure)を促す。また、ファン・フィクション・アーカイブはグループの新参者に対して文化的リソースへのアクセスを提供したり、グループのメンバーを安心させたりする。

 とはいえLGBTQと違い、ファンは法制度によって周縁化されたり抑圧されたり標的にされたりすることはなく、ヘイトクライムや構造的な社会的・文化的抑圧を受けることもない。しかし他方で、ファン・コミュニティでcloseted*7やcoming out*8 やbeing outed*9といったクィア・コミュニティの語彙が用いられてもいる。

 John Edward Campbellのように、クィアとファンとを並置することに批判的な論者もいる。しかし他方で、ファンとクィアとの類似性や共通性を指摘する論者もいる。ファン・アイデンティティクィアアイデンティティはしばしばパラレルなものとして語られる。性的コンテンツが含まれるファン・フィクションについて、私的な家庭圏、職場などの公共圏、そしてインターネットなどの半‐公共圏のそれぞれで衝突が生じている*10

 すべてのインターネット上のファン・フィクションが性的コンテンツを含んでいるわけではないが、一般の書店や図書館よりも性的コンテンツを見つける機会はインターネットの方が多い。そのためオンラインのファン・フィクション・アーカイブは、ある面で女性の公的な性文化を構成している。この点はCvetkovich (2003) の“lesbian public sex culture”と類比的である。

 Catherine Tosenbergerは確言的ファン空間(affirmational fannish spaces)と変形的ファン空間(transformational fannish spaces)を区別する。前者は原作についての細かな事実にこだわるもので、どちらかというとマジョリティ男性が多い。後者は原作を書き換える二次創作をするもので、どちらかというとマジョリティ女性が多く、クィアとの親和性も高い。後者の方がより病理的なものと見なされる傾向にある。

 ファン・アーカイブは、検閲に対するシェルターになると同時に、ファンでない人々にファンの存在を認識させるものでもある。「安全な空間」であると同時に標的となる空間でもあるという点で、クィアな空間と同じように機能している。また、スラッシュフィクション愛好家にクィアを自認する人が多いという調査もある。

 それゆえ、ファンとクィアが社会的に同じ扱いを受けているわけではないとしても、インターネットのファン・フィクション・アーカイブクィアな空間として機能している。

 Lothian, Busse and Reid (2007) によれば、オンラインのスラッシュ・ファンダムは、セクシュアル・アイデンティティ、地理的位置、家族構成などの異なる多様な女性同士が交流できる「クィアな女性の空間」である。これに加えてDe Kosnikは、同性愛表現が含まれるかどうかを問わず、インターネットのファン・フィクション・アーカイブはすべてクィアな女性の空間であると主張する。Jack Halberstamが書いているように、多くの男/女の性的シナリオはクィアとして読まれうる*11。またAlexander Doty(1993)によれば、「クィアな受容は、受容者の性的アイデンティティと文化的ポジションについての意識的な現実生活の定義を超えた場であり――いつもではないが、しばしば性的アイデンティティアイデンティティ・ポリティクスを超えた場である」。こうした議論を踏まえてDe Kosnikは、クィア自認のファンもストレート自認のファンも、しばしばマスメディアのテクストをクィアに解釈し、そのテクストのクィアなバージョンやクィア多様体を作り出す、と主張する。ファンサイトやアーカイブは、高度にクィアで政治的な場となっている。

 Dotyの言う「クィアなポジション、クィアな読解、そしてクィアな喜び」のほかにも、女性ファンが自分自身をクィアする・・・・・・・・・・(female fans queer themselves)ということがある。例として、女性ファンがヘテロセクシュアルな物語を受容するとき、男性キャラクターに同一化し、男性キャラクターが女性に対して抱く恋愛感情を読んだり書いたりすることがある。あるいは、他の女性ファンを想定しながら性愛フィクションを書くことによって、女性ファンがクィアな関係に参加する・・・・・・・・・・engage in queer relations)ことも挙げられている。

 以上から、ファン・フィクション・アーカイブアドリエンヌ・リッチの言う「強制的異性愛」への抵抗となっていると言える。

クィアアーカイブの機能(The Work of Queer Archives)

 Halberstam(2005) とCvetkovich (2003) によってクィアアーカイブの機能が論じられている。Halberstamによれば、クィアサブカルチャーアーカイブは、単なる資料収集や文書保管の場所ではなく、文化的有意性(cultural relevance)の理論や、集合的記憶の構築、クィアな活動の複合的な記録でもある。このことから、ファン・アーカイブは作品を蓄積するだけでなく、ファングループの「文化的有意性」や「クィアな活動」の変形をも記録するものであると言える。

 Cvetkovichによれば、クィアアーカイブは「親密的なことと個人的なこと」を保存するものであり、「感情や情動」に関する物によって構成される。そのようなアーカイブを作る動機としては、公的な記録から無視されたものが失われてしまうという恐れがある。これらの点はファン・アーカイブについても当てはまる。

 またクィア・コミュニティの間では、主流文化の表現をクィアに受容するということが行われてきた。セレブリティ・カルチャーやパルプフィクションの「うわべだけのヘテロノーマティヴィティ」は「受容とファンダムの策略によってクィアにされて」きたのであり、こうした表現もアーカイブ化する必要がある。それうえでCvetkovichは、ファンをクィアアーキビストのモデルと見なす。こうした点から、De Kosnikは「クィアアーカイブは少なくとも部分的に、しばしばファン・アーカイブである」と主張する。

必要なアーカイブ(Necessary Archives) (本章の要約)

 ファン・アーカイブは非ヘテロノーマティヴな実践のための「安全な空間」であり、ファンの情動的経験や変形的作品の歴史を保護する。それは他のどこにも記録されていないような可能性(性的なアイデンティティ、欲望、空想の可能性を含む)の探求や実験の歴史である。それゆえファン・アーカイブはコミュニティ・アーカイブ(特にクィアアーカイブ)と同じく、ファンとさらに大きな社会との両方にとって重要であり関連があるものと見なされなければならない。これらのアーカイブは社会的に周縁化された人々の文化を存続させるものであり、包摂という観点からも重要性を認められるべきである。

 同時に、クィアで周縁化されたグループの文化的生産物は、それがアーカイブされたとき、さまざまなタイプの搾取と抑圧のターゲットとなりうる。これはファン・アーカイブにも当てはまる。もちろん、構造的に排除された人々と同じようにファンも排除されている、というわけではない。しかしファンのほとんどは女性であり、なかにはクィアな人々も多く存在する。ファンは企業や法人による攻撃に晒されやすく、ファン・アーカイブは(特にあからさまに性的な領域について)女性やクィアな表現に反対する様々な検閲の力(censorial forces)によって蝕まれうる。このような脅威から自分たちの表現を守りたいという欲望によって、ファン・アーカイブ活動は動機づけられてきたのである。もし多様で開かれた社会に女性のアーカイブやLGBTQのアーカイブが必要であると認めるのであれば、ファン・フィクション・アーカイブもまた重要な文化的記憶機関であると考えるべきである。

*1:ユーザー自身が生み出すコンテンツ

*2:例としてStrikethrough 2007が挙げられている。Strikethrough 2007とは、ブログプラットフォームLiveJournalの運営母体であるSix Apartが、ファン・フィクションやファン作品を含む数百の記事を、攻撃的な性的コンテンツを含むという理由によって削除した事件である。このほか類似の事件として、FF.netで2000年代半ばから2010年代半ばまでの間に数千の「性的に露骨な」作品を削除したという事例が挙げられている。

*3:例としてFanLib が挙げられている。なおFanLibは2007に設立されたが2008年に潰れた。

*4:「Archive of Our Own – AO3(みんなのアーカイブ)はファン小説、ファンイラスト、ファン動画、SS朗読などのファン作品を投稿できる非商用かつ非営利なウェブサイトです。AO3はファンによって運営されてます。ここでの創造的なファン活動はOTW(変形的作品のためのNPO)の支持による活動の合法性と社会的価値を訴え続けることができます」(変形的作品のためのNPOArchive of Our Own(みんなのアーカイブ)」2018/11/27閲覧)。

*5:「Open Doors (オープンドアプロジェクト) は危険に晒されているファンによる作品に保護を提供するためのものです。私たちは、様々な種類のファン作品やファン文化における芸術品に対する保存と保護を目的とした、いくつかのサブプロジェクトや救済努力を行なっております」(変形的作品のためのNPOオープンドアプロジェクト」 2018/11/27閲覧)。

*6:長期保存を目的としない出版物のこと。チラシやパンフレットなどが挙げられる。

*7:ファン活動をしていることを周りに隠す

*8:ファンとしてのアイデンティティや実践を家族や友人などに明かす

*9:自分がファンであることを、他人から家族や職場の知人などへ勝手に言われてしまう

*10:こうした衝突の例として、FF.net が始めた2012年6月の大量削除事件が挙げられている。

*11:例としてバットマンキャットウーマンのファン・フィクションが挙げられている。

エロサイトにできる社会貢献を考えてみた

何気なく書いたツイートが思いのほか伸びた。

ツイッターだとすぐに流れていってしまうので、せっかくの機会ということでブログにも簡単なメモを残しておく。

R18コンテンツを扱うサイト*1にアクセスすると、以下のようなページが表示される*2

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確かに「年齢で線引きする」というのは、ルールとしては分かりやすい。しかしそれ以上に重要なのは、正しい知識である。

しばしば「AVのせいで誤った性知識を身に着けてしまう」と非難される。そのような事態を避けるためにも、年齢より知識を問う方が有意義ではないか。実際、成人であっても誤った性知識を持っている人は一定数いる。エロサイトへのアクセスをきっかけに性知識をアップデートしてもらうことができれば、それは大きな社会貢献となるだろう。

現実的な方策

とはいえ、「サイトにアクセスするたびに何問も何問もクイズに解答させられる」というのでは、ユーザーにとってストレスとなるだろう。場合によっては、そのせいでサイト利用者が減るということにもなりかねない。あまりにも負担が大きければ、現実問題としてどこのサイトも実施しないだろう。そうした点を考慮したうえで、実現可能と思われる形式(の一例)を以下に述べてみる*3参考程度に見ていただきたい。

・いくつかの設問からランダムに1問出題する

「正しい/間違い」の2択で答えられる設問を複数用意しておき、アクセスするたびに違う問題が出てくるようにする。2択問題を1つ解くだけならば、年齢確認に「はい/いいえ」で答えるのと手間は変わらないはずである。また、エロコンテンツを愛好している人であれば、エロサイトに複数回訪れると予想される。それゆえランダムに1問出題するという設計でも、性知識の伝達として役立つと考えられる。

・不正解の選択肢をクリックすると性教育関連のサイトに飛ばされる

成人向けだけでなく全年齢向けコンテンツも扱っているサイトであれば、全年齢用のページに飛ばすのが一般的である。それでも問題はないが、もし成人向けしか扱っていないのであれば、性知識について解説しているサイトに飛ばしてもよいだろう。

・年齢確認はチェックボックス

年齢確認が必要ということであれば、「わたしは18歳以上です」というチェックボックスをクリックさせる、という方式が効率的だろう。チェックを入れなければ設問に回答できない、という設計にするのがよいと思われる。

・会員登録時に数問解答させる

初めてアクセスするときに会員登録をして、アカウントを作成するというサイトもある。その場合はアカウント作成時に、メールアドレスやパスワード等の入力とあわせて、いくつかの設問に解答してもらうという方法が考えられる。

設問案

それでは、具体的にどのような設問がよいだろうか。設問の種類としては、さしあたり (1) 避妊方法について、(2) 性感染症について、(3) 身体や生理について、(4) 性交のやり方について、(5) その他、という大きく5つに分けられる。質問文の作り方としては、たとえば「青少年の性行動全国調査」で性知識を問う設問などが参考になる。この調査では(1) (2) (3) が扱われている。一例として以下に引用しておく。

●「膣外射精(外出し)は、確実な避妊の方法である」(答え:まちがい

●「排卵は、いつも月経中におこる」(答え:まちがい

●「精液がたまりすぎると、身体に悪い影響がある」(答え:まちがい

●「クラミジアや淋病などの性感染症を治療しないと、不妊症になる(赤ちゃんができなくなる)ことがある」(答え:正しい
●「日本ではこの10年間、新たに HIV に感染する人とエイズ患者は減少し続けている」(答え:まちがい 近年のデータはこちら

●「経口避妊薬(低用量ピル)の避妊成功率は、きわめて高い」(答え:正しい*4

また、(4) としてAV特有のファンタジーについての設問を用意してもよいだろう。この種類の設問を作るときには、たとえば以下の記事などが参考になる。

この記事から分かるように、 AV知識を真に受けた「間違った」セックス観は女性に苦痛をもたらす。それだけでなく、男性に対しても「男性がセックスを主導して、女性をオーガズムに導かねばならない」という抑圧的な思い込みを引き起こす*5。AVなど性的ファンタジーを扱うサイトだからこそ、こうした点についての啓発が求められるだろう。

これ以外にも、たとえば経口避妊薬の使い方について、性的マイノリティについて、ジェンダーに関連するトピックについて、など設問案は色々ある。一例を挙げておく。

●「セックスしないと子どもは作れない」(答え:まちがい*6
●「性欲は本能であり、生物学的メカニズムだけで決定される」(答え:まちがい*7
●「経口避妊薬は避妊以外の目的にも使われることがある」(答え:正しい*8
●「すべての人は「男」か「女」にキッパリと分類できる」(答え:まちがい*9

性教育についての書籍はいくつも出版されている。また、性知識の普及度を調べるアンケート調査もいくつか存在する。設問を作るさいには、そのような資料が参考になるだろう。

結論

言うまでもなく、性教育は学校など教育の場でしっかりと行われるべきである。とはいえ、インターネットもまた性情報の流通する大きな場となっている以上、エロサイトに正しい性知識を伝達する役割を担ってもらうことにも意義はあるだろう。

上記のような設問を用意することは、サイト側にとって手間かもしれない。しかし「正しい性知識をもっと知りたい」という需要自体が一定数存在すると思われる。設計次第では、むしろ新たな需要を掘り起こす可能性もあるかもしれない。いずれにせよ、社会貢献だと思って検討してみていただきたい。

補足(あるいはやや小難しい余談)

今回の提案は、エロサイトに性知識の伝達を協力していただこうという、いわばポジティヴ・アプローチである。エロサイトやポルノグラフィの危険性や有害さを強調するネガティヴ・アプローチとは異なる、という点に注意していただきたい。

ネガティヴ・アプローチとしては、たとえばタバコのパッケージの警告表示のように、危険性や有害さを前面に押し出すという方策が考えられる。しかしタバコと違い、ポルノの有害さは(少なくとも現時点では)実証されていない*10。この点で、タバコのようなネガティヴ・アプローチをエロサイトに適用するのは不当だと考えられる。

さらに「『対人セックスに適さない内容の性的空想』を愛好する人々」も一定数存在する。性的ファンタジーに対して過度にネガティヴなレッテルを貼ることは、そのような人々への偏見を助長することになりかねない。

そもそも、「現実の他者との性的身体接触」のみを正しい性行為として特権化すること自体にも問題がある*11*12。もちろん性的空想が無批判でよいというわけではないだろう。しかし対人セックスを自明視したまま、性的空想だけを一方的に問題視することは、「現実の他者との性的身体接触」それ自体は望ましい、という暗黙の前提に立つことになる。この点についてはもっと自覚的になるべきだろう。

言うまでもなく、ポルノグラフィが「フィクションである」ということを明記することは必要である。しかし過度にネガティヴな意味付けをすることは、むしろ「対人セックスの特権化」という別種の権力作用をもたらしかねない。こうした点を加味しても、性知識の伝達というポジティヴ・アプローチが適切であると言えるだろう。

注釈

*1:本記事では、主にAVなど性的ファンタジーを販売・掲載するサイトを想定している。

*2:画像は「とらのあな」のアダルトページを開こうとしたときのものである

*3:なお筆者はウェブサイト作成技術などについてまったく素人であるため、技術面については考慮していない。これについてはご了承いただきたい。

*4:※適切に服用しましょう

*5:赤川学(1999)はこのような発想を「性愛のノブレス・オブリージュ」と呼んで、男性にとっても「抑圧的」であると指摘している。個人的には赤川学屈指のパワーワードだと思う。ちなみに赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』浩瀚学術書だが、文章が明快であり、読み物としても楽しめる。

*6:生殖に必要なのは精子卵子の結合であって、性器接触ではない。たとえば「男性が自慰等の手段で出した精液をスポイトに入れて、女性が妊娠を望むならば自分の意志で腟に注入する」という方法でも子どもが出来ることはある。より医療的な体外受精技術も存在する。

*7:性的欲望には、生物学的要因と文化的要因がお互いに関連し合っている。以下の中村美亜による説明が端的で分かりやすい。

「性衝動は主にホルモンの働きによって引き起こされるが、そのホルモンがどう作用するかは人それぞれであるし、またその作用の仕方を決定する体内のメカニズムは、心理・社会的なことと大きく関わっている。つまり、個人の心理的特性や過去の体験、家族や社会からの影響によって性的衝動を司る身体の働きは異なるのである。」
(中村美亜(2008)「"アイデンティティの身体化"研究へ向けて――『感じない男』を出発点に」『身体とアイデンティティ・トラブル――ジェンダー/セックスの二元論を超えて』p.261-262)

なお中村美亜『クィア・セクソロジー』セクシュアリティについての優れた入門書であり、性について様々な側面から分かりやすく説明されている。

*8:生理のタイミングをずらすことができるため、たとえば入試や旅行など重要なイベントに備えて服用する場合がある

*9:詳しくは性別二元制 - Wikipediaなどを参照

*10:従来のポルノ調査を幅広く視野に入れた学術研究としては 【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」前編 - 境界線の虹鱒 などがある

*11:これについては 「ルギアで抜いた人」から考えるセクシュアリティ論【雑感】 - 境界線の虹鱒 や 【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声 - 境界線の虹鱒 などを参照。

なお「セックスしないと子どもは作れない」などという反論が散見されるが、先に述べたように、セックス以外にも子どもを作る方法は存在する。また「対人セックスは重要なコミュニケーション手段だから特別なのだ」という反論もあるかもしれないが、セックス以外にもコミュニケーション手段は多々ある。コミュニケーションツールとしてのセックスを過信してはならないし、セックス以外のコミュニケーションを舐めてもいけない。

*12:言うまでもないことだが、「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」ということは、決して性暴力を肯定することではない。そもそも「人を傷つけてはならない」という規範は、性に関する領域のみならず社会全体で適用されるべきルールだろう。「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」とは、性の領域に固有の――そして不当な――原則を作るなということであり、性に関する領域も原則として社会一般のルールと同じように考えるべきだということである。

安全、正気、そして合意――英米でのS/M実践者についての研究

Darren Langdridge (2016) "The time of the sadomasochist"

Introducing the New Sexuality Studies 3rd Edition の第38章(p.337-345)である。今回第3版を参照したが、第2版であれば上記リンクから全文を読むことができる。なおページ番号や一部のデータや年号以外は基本的に第3版と同じである。

今回は上記の文献をもとに、イギリスやアメリカのサドマゾヒズムについて解説する。サドマゾヒズムは精神医学的な言説を通じて病理化されてきたが、他方で性行為のさいに明確な同意を取り交わす文化を発展させてもいる。そのためサドマゾヒズムについて考察することは、いわゆる「性的嗜好」をめぐる差別を考える場合や、性交の同意について議論するときなどに有益な示唆をもたらすと考えられる。

ただし社会的な文脈などが日本と異なるため、英米での議論がそのまま日本のサドマゾヒズムにも妥当するとはかぎらない。本記事後半で日本の文脈についてごく簡単な注釈を入れるが、ここでは日本におけるサドマゾヒズムについて踏み込んだ議論はしない。国や社会による違いがあることに留意しながら読んでいただきたい。

精神医学による病理化と、それに対する抵抗

サディズムマゾヒズムとは、19世紀の精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングによって命名されたものである。サディズムマゾヒズムについての理論は、まず精神医学のなかで形成されていった。

しかし当たり前のことだが、精神的な苦悩や不安を抱えていない人は精神科医の診療には行かない。そのため当初の精神科医たちは、主に同意のない性暴力行為をする人や、そうした欲望に苦悩する人への診療を行っていた。逆に言えば、同意のうえで幸せにS/Mを実践する人々を診る機会はほとんどなかった。こうした理由から、精神医学は「同意のあるS/M行為」と「同意のない性暴力行為」とを混同したまま、サドマゾヒズムを理論化していったのである。こうした歴史から、現在でもアメリカ精神医学会のDSM-5やWHOのICDといった精神障害に関するマニュアルのなかで、サディズムマゾヒズム精神障害の一種として分類されている*1。このような病理化に対して、今後のDSMやICDの改訂時にサドマゾヒズム精神障害カテゴリーから外すよう運動している人々もいる。

このように、精神医学のなかではサドマゾヒズム当事者の声が無視されてきた。それに対して、当事者の語りや実践に重きを置いた研究が、社会学や心理学などで1990年代以降に行われるようになる*2

法的な闘争

サドマゾヒズムに対する攻撃は、精神医学ばかりでなく法的なものもあった。その最たる例として挙げられるのが、イギリスで起きた「オペレーション・スパナ―」(Operation Spanner)である。

1990年12月、同意のうえでのサドマゾヒズム行為を実践していた16名のゲイ男性が、傷害や暴行などの理由で有罪判決を受け、罰金や懲役刑を科された。参加者のなかで治療が必要なほどのケガをした人はいなかったにもかかわらず、起訴に値するほど深刻な傷害だとみなされたのである*3

このときイギリス高等法院の裁判長Mr James Rant QCは「裁判所は文明社会で許容できるものとそうでないものとの間に線を引かなければならない。 この場合、その行為は明らかにその線の間違った側にある。」と述べた。ピアッシングや入れ墨、あるいはコンタクトスポーツが合法であるにもかかわらず、サドマゾヒズムは暴行に含まれるとされたのである。

メディアでの扱い

これに加えてLangdridge and Butt (2004) では、メディアにおけるサドマゾヒズムの扱いについての事例を挙げている。アメリカで1990年代頃に、インターネット上のSMチャットルームを通じて出会った人を次々殺害するという連続殺人事件が起きた*4。このときメディアでは、合意のSMと合意のない暴力とを混同しつつSMへの恐怖を煽るような報道がなされたのである。 

サドマゾヒズムの語りの出現

以上のように、サドマゾヒズムは病的で猟奇的なものと見なされてきた。しかしこうした出来事がありつつも、サドマゾヒズムに関する当事者の語りが1980年代頃から徐々に広がり始めてきた。この背景としては、まず家族計画や避妊技術の発展などによって、近代以降に性が生殖から段々と分離してきたことが挙げられる*5。これに加えて、20世紀後半以降に生じた様々な社会的変化がある*6。またフェミニズム運動も、特に1980年代頃のSex Wars論争を通じてサドマゾヒズムのストーリーを促した*7。こうした歴史を経て、現在ではサドマゾヒズムを扱った映画やテレビや文学なども作られるようになっている。

しかし一口にサドマゾヒズムと言っても、そこで実践される行為にはさまざまな種類があり、またサドマゾヒズトのコミュニティも多様である。そのため以下に述べるサドマゾヒズム実践の特徴はすべての実践者に当てはまるわけではない。それでも調査を通じて、ほとんどのサドマゾヒズム愛好者から語られた特徴がある。それが「安全、正気、そして合意」である。

安全、正気、そして合意のS/M実践

安全、正気、そして合意」(safe, sane, and consensual)というフレーズはS/M実践者たちの間でとても有名なものであり、ほとんどのS/Mコミュニティにおける中心的なルールとなっている。

まず「安全」について。S/Mにおける安全性についてはいくつかのレベルがある。1つめは、「シーン」*8に没頭する人々の身体的な安全性である。これについては、シーンの前やシーンの最中にも注意深い交渉が行われる。たとえば「セーフワード*9を確認しておいたり、安全なプレイを補助するための用具(コンドーム、グローブなど)を用意しておくといったことが挙げられる。また安全なプレイでは、パニックに陥ったり、良いように使われただけのような気分になったり、虐待されたりといったことを避けるために、精神的な安全性をめぐっても慎重な交渉が行われている。その例として「アフターケア*10が挙げられる。

正気」なプレイは以上の安全性とも関連するものである。過去の精神医学のなかでは、S/Mは正気でない人がやることだと見なされており、それゆえ合意を結ぶことは不可能だと見なされてきた。これに対する当事者たちの反論という側面が「正気」という語に含まれている。S/M実践者はシーンの前や最中にも可能なかぎりパートナーの精神衛生に気を遣う。S/Mクラブのようなパブリックスペースでは、そこに居合わせた人たちが正気なプレイの仲裁人となり、シーンの度が過ぎている場合には介入することもある。

最後に「合意」について。S/M実践者は完全な合意があるときにのみプレイを行う。これは、成人とだけプレイし、またシーンのすべての段階で積極的に合意を交渉するということである。

Langdridge and Butt (2004)による膨大なネット言説の調査から、S/M実践者たちの語る主要なテーマとして 1)サドマゾヒズムが病理的であるという見方を拒否するものと、2)同意をめぐって明示的な交渉があることを示すものが抽出された。1つめのテーマについては、さらに i) サドマゾヒズムは幼少期のトラウマの産物であるという考え方を拒否するものと、ii) サドマゾヒストは満足のいく関係性を構築できないという考え方を拒否するものがあった。

2つめのテーマについて、S/M実践者には(他のほとんどの性行為とは異なり)口頭もしくは書面での契約によって合意を明確化する文化が見られる。こうした契約は、たとえば伝統的な結婚式や、雇用契約、ビジネスサービス契約を真似るといった、パロディを通して行われる。

このような明確な契約を取り結ぶことは、長期的なS/M関係では一般的なものである。しかしすべてのS/M実践がこのような契約による合意を行っているわけではなく、特に商業的なS/Mの場では、過去に一度もあったことがない人やほとんど会話をしたことのない人とS/M行為をする場合もある。しかしこうした状況でも合意は重視されており、しばしば非言語的ではあるが、合意の交渉が継続的に行われる。

結論

S/Mは精神病理とみなされ、合意のない性暴力と混同され、ときに法的処罰を受けることもあった。しかし他方で、当事者の間では安全や合意をめぐる交渉が文化として発展している。さらに今回は詳しく取り上げなかったが、S/M実践には男女のジェンダーロールをパロディ的に演じることによって、ジェンダー規範へと抵抗する側面も見出せる。こうした意味でも、S/Mプレイをしない人々にとっても学べる要素があると言える。

おまけ:日本の状況に関する文献メモ

始めの方に書いたように、サドマゾヒズムはもともとは精神病理とみなされており、異常でおぞましいものとして扱われていた。しかし近年の日本では、「ドS」「ドM」という言葉が普及していることから分かるように、サドマゾヒズムを異常なものとみなすイメージは薄らいでいる。こうしたイメージ転換の言説史的背景については河原梓水(2015)が参考になる*11。また近年の日本の状況や、日本のSMイメージがどのように海外で受容されているかということについては、坂井はまな(2010)が参考になる。日本の性風俗産業におけるSMプレイについては熊田陽子(2017)による詳細なエスノグラフィがある。

サドマゾヒズムについてはサルトルドゥルーズなどの流れを汲んだ哲学・文学研究が多いが、当事者の実践などに関する社会科学的な研究はそれほど多くない。上に挙げた文献以外で、日本における重要な研究・文献があればコメント等でご指摘いただけると幸いである。

参考文献

・Beckmann, Andrea. 2001. “Deconstructing Myths: The Social Construction of ‘Sadomasochism’ versus ‘Subjugated Knowledges’ of Practitioners of Consensual ‘SM.’” Journal of Criminal Justice and Popular Culture 8(2):66–95.
・Giddens, Anthony, 1992, The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Cambridge: Polity. (=1995,松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房.)
・Langdridge, Darren and Butt, Trevor, 2004, “A Hermeneutic Phenomenological Investigation of the Construction of Sadomasochistic Identities,” Sexualities 7(1):31–53.
・Plummer, Ken, 1995, Telling Sexual Stories: Power, Change and Social Worlds, London: Routledge.(=1998,桜井厚・好井裕明・小林多寿子訳『セクシュアル・ストーリーの時代――語りのポリティクス』新曜社.)
・Taylor, Gary W. and Jane M. Ussher. 2001. “Making Sense of S&M: A Discourse Analytic Account.” Sexualities 4(3):293–314.
・Taylor, Gary Wilson. 1997. “The Discursive Construction and Regulation of Dissident Sexualities The Case of SM.” in Body Talk: The Material and Discursive Regulation of Sexuality, Madness and Reproduction, edited by J. M. Ussher. London: Routledge.
・河原梓水,2015,「病から遊戯へ―吾妻新の新しいサディズム論―」井上章一三橋順子編『性欲の研究―東京のエロ地理編―』平凡社,262-9.
・熊田陽子,2017,『性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの』新曜社
・坂井はまな,2010,「海外BDSM界における<日本>イメージ――快楽の活用とジェンダー川村邦光編『セクシュアリティの表象と身体』臨川書店,215-52.

関連記事

*1:余談だが、同性愛は1968年刊行のDSM-IIでは「人格障害」とみなされていた。1973年刊行のDSM-IIIで精神障害ではないとして項目から外されたが、「性指向障害」という項目のなかで「自我違和性同性愛」が置かれた。これは1987年刊行のDSM-III-Rで削除された。

*2:サドマゾヒズム本質主義的・病理的に捉える立場から離脱し、当事者へのインタビュー調査を実施した初期の研究としてTaylor と UssherやBeckmanなどの論文が挙げられる。

Taylor (1997)やTaylor and Ussher (2001)によって、サドマゾヒズムの言説的構築についての研究が行われた。Taylor (1997)はS/Mに関する伝統的な精神医学を批判的に概観し、その後24人のS/M愛好者へインタビューを行った。これをもとにして、Taylor and Ussher (2001)はさらに徹底的なインタビューを実施した。その結果、S/Mに関する4つの「定義的な言説」として「(i) 同意、(ii) 権力の不平等な均衡、(iii) 性的興奮、(iv) 定義の互換性」を挙げた。

またBeckman(2001)は、S/M愛好家たちがS/M実践を「『ノーマルな性器のセクシュアリティ』に代わるものとして、『より安全なセックス』として、『生きられた身体』の次元の探求として、ゲイ・レズビアンセクシュアリティステレオタイプを越え出る可能性として、そして『生きられた身体』の変化の潜在性を経験する可能性として」(Beckman 2001: 301)捉えていると論じた。

*3:この事件の背景には同性愛差別の影響があるとも言われている

*4:事件の犯人であるJohn Edward Robinsonは「インターネット初のシリアルキラー」とも呼ばれている。

*5:「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」のことをギデンズは「自由に塑型できるセクシュアリティ」(plastic sexuality)と呼んでいる(Giddens 1992=1995: 13)。これはセクシュアリティが「生殖や親族関係、世代関係との古くからの一体的結びつきから切り離された」ということである(Giddens 1992=1995: 47)。この自由に塑型できるセクシュアリティの発達と対応して、「純粋な関係性」(pure relationship)が生じてきた(Giddens 1992=1995: 90)。純粋な関係性とは、「社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしていると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況」を指す言葉であり、「性的純潔さとは無関係であり、また、たんなる記述概念でなく、むしろ限定概念である」(Giddens 1992=1995: 90)。ギデンズは純粋な関係性の例としてゲイ・レズビアンの実践に言及しているが、ラングドリッジらは「サドマゾヒズムもまた純粋な関係性のありうる原型を提供するかもしれない」と論じている(Langdridge and Butt 2004: 33)。

*6:「すくなくとも一九六〇年代の後半から、セクシュアリティの新しいストーリーが形成されてきた。」「家族、メディア、経済、政治形態、都市構造のあらゆるところで根底的な変化が生じ、新しいセクシュアル・ストーリーが語られ、新しいセクシュアル・アイデンティティが確かなものとなり、新しいセクシュアルな制度化をすすめることができた時代だった。一九八〇年代になると、西欧のセクシュアルな世界は一〇〇年前の世界とはまったく異なるものとなった。」(Plummer 1995=1998: 337 )

*7:(Plummer 1995=1998: 339)(Langdridge and Butt 2004: 35)

*8:S/Mプレイにおけるシチュエーションのこと

*9:シーンを止めてほしいときやペースを落としてほしいときに用いる、事前に取り決めておいた隠語。S/Mでは「イヤ」「やめて」といった言葉をプレイの一環として使うことがあるため、別の言葉を事前に話し合って決めておく

*10:プレイ中にできたケガを和らげたり、望まれない精神的後遺症がないことを保証するための時間

*11:河原は日本の通俗的SMイメージのルーツの一つとして、1950年代前半に雑誌『奇譚クラブ』で活躍した作家・吾妻新のサディズム論を取り上げている。「一九五〇年代は、サド(マルキ・ド・サド:引用者注)のサディズムを最も重度なサディズム。「正常な」人々のなかにも存在するささやかな加虐嗜好を軽度なサディズムとして、両者を連続的に捉える見方が強かった」(河原 2015: 263)。また当時はエログロ雑誌が大量に出回り、ポルノに加えて猟奇殺人・犯罪を扱った記事が巷に溢れていた時代でもあった。そうした状況下で吾妻は、猟奇的残虐行為とサディズムとの結びつきを解くような主張を展開した。

 吾妻の主張する新しいサディズムとは、肉体的苦痛よりも精神的苦痛をより重視し、合意の上で快楽を持続的に営むものである。さらに彼は、犯罪的な単なる残虐行為をサディズムの領域から切り離そうとする。(河原 2015: 264)

こうした主張は『奇譚クラブ』読者の間で賛同者を獲得していき、現在のSMイメージにつながっていったとされている。

【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」後編

前回の記事の続きです。

前編では、「そもそもなぜポルノが問題なのか」「ポルノは具体的にどのような害をもたらしうるのか」を議論した。後編では、そうした有害仮説について、実証面での議論を進めていく。なお論文中で言及される先行研究については、原文にてご確認ください。*1

3. 原因モデルを評価する

「ポルノグラフィが性差別や性暴力の「原因である(cause)」と主張するとき、「原因である」とはどのような意味だろうか? Eatonは以下のような定義を採用する。

(i) xがyより早く起こり、(ii) xが起きた場合にyが起こる蓋然性が、xが起きなかった場合にyが起きる蓋然性よりも高い場合にのみ、xがyの原因である。(p.696)

この定義を踏まえて、以下ではポルノ批判に対する反論として挙げられる実証研究について検討する。ポルノを擁護する立場から提起される研究は、1) ポルノ規制の緩さと性犯罪率やジェンダー平等の関係を国別比較したものか、2) ある国のポルノ規制法が変化する前後で性犯罪率やジェンダー平等がどう変わったかを比較したものである。こうした研究に対する疑問点は、

・国ごとに性犯罪の構成要件が違うので、単純には比較できない
・規制がむしろ欲望を煽るため、ポルノ規制が強まったからといってポルノ流通が減るとはかぎらない*2
・実際のレイプ件数ではなく統計データを用いているため、暗数がわからない
生態学的誤謬*3

といったことが挙げられる。それゆえポルノ批判への反論が証明されたと言うことはできない

それでも、以上の4つの疑問点が解消されたと仮定したうえで、ポルノ批判へ反論する論理を検討してみよう。上記の実証研究が正しいとしたうえで、反論側は次のように主張する。

ジェンダー不平等と性暴力犯罪は、ポルノ以外の要因によって生じる
・ポルノを100パーセント確実な害の原因とみなすのは不合理である
・ポルノユーザーへの影響は文脈依存的だ

これに対してEatonは次のような反論をする。

まず、上記の実証研究では性暴力という害しか考察しておらず、それ以外のさまざまな害に対する反論として不十分である*4

次に、反ポルノフェミニズムは、ポルノがレイプを必ず引き起こすとは主張していない。ポルノがレイプを引き起こす場合もあれば、レイプが流行していてもポルノは流通していないという場合もありうる。上記の研究はこの点を無視している。

また、ポルノの影響は他の要因によって打ち消されるかもしれないが、それはポルノが悪影響を及ぼすものであることを否定するものではない。このことを説明するためにEatonは喫煙と健康被害のアナロジーを用いる。たとえば喫煙は肺がんのリスクを高めるものだが、それ以外の要因で肺がんになることも多々ある。それでも喫煙が肺がんリスクであることに変わりはない。

賢明な反ポルノフェミニズム、ポルノが単独でレイプやジェンダー不平等の責任を負うとは主張しない。そうではなく、ポルノに曝されることはジェンダー不平等の顕著なリスク要因であるという仮説を採用するのである。このように、複数あるジェンダー不平等の原因のうち、1つの顕著な要因であるとする考え方は、現代の科学的な思考に沿っているだけでなく、不法行為法の慣習にも適合する。

4. 原因の探求

前節ではポルノ有害説に反論する研究を批判してきた。本節ではポルノが原因であると主張するためにどうすればよいかを考察する。ここでも喫煙と健康リスクの関係が参照される。たとえばタバコを一本吸っただけで必ず肺がんになるわけではないが、繰り返し喫煙を続けると肺がんになる確率が高まる。また肺がんのリスク要因は喫煙以外にもあるが、それでも現代の科学は喫煙が肺がんリスクの1つであることを証明できている。それゆえEatonは、フェミニストも疫学と同様の方針をとれないだろうかと考える。それを踏まえて、従来の反ポルノグラフィ的な研究はどのように評価できるだろうか。

ポルノグラフィ批判の妥当性を立証しようとして、これまでにもいくつかの研究がなされていた。そのうちの1つに、ポルノグラフィと性暴力との関係についての研究がある。そうした研究の例として、ポルノグラフィの流通量と性暴力の報告件数との間に相関関係があると結論づけた調査が挙げられる。こうした研究は示唆的ではあるものの、やはりポルノ批判へ反論する立場の研究と同様の批判が向けられる。まず制度上のポルノ規制と統計上のレイプ件数は、実際のポルノ流通量と実際のレイプ件数を表しているとはかぎらない。また、疫学研究のようにはポルノグラフィと性犯罪との関係を証明できていない。さらに言えば、性暴力以外の、より些細な害については調査されていない。こうした点で、ポルノと性暴力との相関関係を調査した研究は不十分であると言える。「有害仮説を仮説以上のものにするためには、より注意深い疫学的研究が必要だ」とEatonは述べている(p.706)

なお疫学的な実証を目指した研究も、不十分ながら実施されている。そうした研究は、(a) どれだけポルノグラフィを視聴したかによって、性的な文脈と性的でない文脈の両方において、性差別的な心理の次元が形成されたり強化されたりする可能性があることを示すもの、(b) ポルノグラフィ視聴とさまざまな性差別的行動とのつながりを記述するもの、という2つに分けられる。

ただしこうした研究にも問題は多い。まず、多くの研究が第1段階の影響について考察しているが、第2段階の影響には触れていない。次に、研究倫理の問題から被験者に悪影響を及ぼす可能性のある実験を行うことができず、悪影響があるかもしれないポルノグラフィを実際に見せることは難しい。また、多くの研究がかぎられた少数のグループ(主に男子大学生)に対する実験であるため、単純には一般化できない。そして、ほぼすべての研究が性的暴力に焦点を当てており、それ以外の害については研究しようとしていない。さらに、実験で確認できるのは一時的な影響だけで、ポルノグラフィの長期的な影響をとらえることはできない。最後に、こうした研究はポルノグラフィの種類を区別せずに議論している。賢明な反ポルノフェミニストは「不平等なポルノグラフィ」のみを批判するのだが、こうした研究ではポルノグラフィ全般をひとくくりにして調査してしまっているのである。

既存の研究にはこのような問題点がある。それ踏まえたうえで、次の問題を考えたい。もし仮に上記のような問題点が解消され、不平等なポルノと様々な害との間に正の相関が確認されたとすれば、そこからどうすれば因果関係を立証できるのだろうか。相関関係が因果関係であるかどうかを決定するとき、疫学者は一般に以下の基準を用いる。

1. 時間性(Temporality):疑わしい原因因子への晒されは、病気の発症に先行しなければならず、晒されと病気との間のインターバルを考慮しなければならない。

2. 強度(Strength):強い関連性は、弱い関連性よりも確かな因果関係の証拠を提供する。 関連性の強さは、相対リスクまたはオッズ比によって測定される。

3. 用量関係(Quantal-dose relationship):病原へ晒される程度、激しさ、持続時間またはその全体が増加することで、病気のリスクが漸進的に増加する。

4. 一貫性(Consistency):知見の再現は特に重要である。

5. 尤度(Plausibility):既存の知見の範囲内で、関連性はもっともらしくなければならない。

6. 別の説明の考察(Consideration of alternate explanations):観察された関連性が因果関係を示しているのかを判断するなかで、調査者がどれだけ代替的な説明を考慮したのかが重要である。

7. 中断データ(Cessation data):もしもある因子が病気の原因ならば、病気のリスクは、その因子への晒されが減少したり排除されたりすることで低下するはずである。

5 さらなる省察のための反論と問題

反ポルノフェミニズムには、以上のほかにもさらに検討すべき論点がある。一つめの懸念は、集団についての調査が個別事例について何を語れるのか、というものである。

たとえば人口10万人あたりの研究で、もし仮にポルノ消費者がそうでない人々と比べて性暴力加害者になる相対リスク(relative risk)が5倍だという結果が出たとしよう。そのことは、ジョンが性暴力加害者になるリスクについて何を説明できるのだろうか。ジョンは定期的に不平等なポルノを観ているが、フェミニストを自認しており、女性のための社会運動に勤しんでいるとする。このときジョンはフェミニズムにコミットすることで性暴力加害者になる可能性が低下しているため、母集団の傾向を表す研究の知見は、ジョンという個別の事例には適用できないことになるだろう。このような例から、以下のような疑問が考えられる。

ある集団zにyを引き起こすxの蓋然性は、zの個々のメンバーにyを引き起こすxの蓋然性と必ずしも同じではないのだから、この考え方はどのようにして個別事例を分析するのに役立つか?(p.711)

この疑問に対しても、イートンは疫学的な考え方に言及する。疫学では生物統計学によって、ある病気のリスク要因を特定する。いったんリスク要因が特定できれば、実際にどのリスク要因があるかによって、ある個人がその病気にかかる見込みを評価できる

もしも定期的にポルノにさらされることによって、ある個人が女性を傷つける――繰り返すが、幅広い害がありうることを考慮しなければならない――見込みが増すということが経験的に測定されたならば、そうした振る舞いを引き起こす他のリスク要因を知りさえすれば、集団についての研究と特定の個人のリスクとの関係を気にする必要はなくなるだろう。(p.711-712)

最初の懸念については以上のように回答できる。しかし懸念はそれだけではない。もし仮にポルノグラフィと害との間に強く明白な関連があるとしても、それは因果関係を意味するとはかぎらない。このことから、以下の三つの困難が生じてくる。

まず、因果関係の向きが逆かもしれない、という懸念である。特に第2段階の原因については、この可能性が強く考えられる。「ポルノグラフィは性差別的な態度や欲望を満たすかもしれないが、ポルノの生産と消費を説明するのは先行する態度や欲望であって、逆ではない」かもしれない(p.712)。

次に、ポルノとジェンダーに基づく害は疑似相関かもしれない。たとえばジョエル・ファインバーグが論じるように、ポルノは性暴力の原因というよりも、むしろ「男らしさの崇拝」(cult of macho)がポルノと性暴力の両方を独立に引き起こすとも考えられる。

3つめの懸念は、ポルノがある種の害をもたらすことを認めたとしても、そのときポルノが果たす役割は単に補助的なのではないか、というものである。

こうした懸念は賢明な反ポルノフェミニズムにとって重要な異論である。
イートンはこれまで疫学における議論を援用してきたが、ポルノの害を論じるうえで疫学的な因果関係を採用することには限界があるとする。というのも、病気ならば病因と症状との因果関係が明らかだが、ポルノと害については因果関係が一方向的とはかぎらないからである。そこでイートンは以下のような立場をとる。

喫煙と肺がんとの因果関係は一方向的であるのに対して、賢明な有害仮説は、ポルノグラフィとその害が正のフィードバックループという仕方でお互いを助長し合い、強化し合うと考える。(p.713)

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この考え方を表したものが、上の図である。「有害仮説は、複雑な因果メカニズムのなかでポルノグラフィが重要な要素であると考える」。このように、ポルノ有害仮説を考える際には、複雑な因果関係を想定する必要がある。

さらにポルノ有害仮説は、ポルノと性差別が疑似相関であるという可能性に開かれているべきである。

6 結論

1 賢明な反ポルノフェミニズムは、「不平等なポルノグラフィ」のみを批判する。

2 深刻さや性質の異なるさまざまな害が想定できるため、それを細かく分類して考察する必要がある。

3 二点目と関連して、ポルノグラフィによって引き起こされうる害は多様であるため、対処法も多様となる。それゆえ賢明な反ポルノフェミニズムは必ずしも国家的なポルノ規制に賛成するわけではない。

4 現時点では、ポルノ有害仮説は証明も反証もされていない。この論文では、疫学的な方法によって有害仮説を検証することを提案した。

5 ジェンダー不平等には複数の要因があり、あくまでもポルノグラフィはそのうちの1つである。

6 ポルノへの晒されは、想定される害の必要条件でも十分条件でもなく、状況に応じて害の可能性を高めるものである。

7 性差別におけるポルノグラフィの役割を、フィードバックループ・モデルのうえで考える必要がある。

関連記事

*1:誤訳や誤解などがありましたら、ぜひコメント等でご指摘ください(特に統計用語や疫学用語)。

*2:なおここで言う「ポルノ規制」は全面的な禁止だけに限らない。たとえば性器にモザイクをかけるという規制や、一定の年齢以下の人物を出演させないという規制なども含まれる。つまりイートンは、ある部分的なポルノ規制が、必ずしもポルノ全体の流通を減らすとは限らないと指摘しているのである

*3:集団レベルで当てはまることが、個人レベルでは当てはまらないこと

*4:前編で様々な害を細かく分類したことが、ここで重要になっている。

【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」前編

Eaton, A. W. 2007. “A Sensible Antiporn Feminism.” Ethics 117(4):674–715.

ポルノグラフィをめぐっては、日本でもネットなどでしばしば論争になる。しかしそうした “論争” は、対立する双方が論点を共有していないことも多く、往々にして不毛な議論になりがちである。実り多き議論のために、まずは「フェミニズム的なポルノ批判がどのような論理に立脚しているのか」を確認する必要があるだろう。今回取り上げる論文は、反ポルノフェミニズムの論理を基礎から徹底的に論じるものであり、賛同するにせよ批判するにせよ、議論の出発点になりうる研究である。早速本文の内容に入っていこう*1

イントロダクション

アメリカではポルノをめぐって今も論争が続いているが、近年では反ポルノフェミニズムは公的な存在感を弱めている。Laura Kipnisのようなセックスポジティブなフェミニストや、Annie Sprinkleのようなフェミニストを自認するポルノ作家が支持されている学会でも、反ポルノフェミニズムは縮小している。 今日の人文科学では、ポルノの作品に反発するよりも、作品を批判的に分析する傾向がある。

背景としてポルノ産業の発達やインターネットの影響などを指摘する論者もいるが、それ以上に、反ポルノフェミニストの主張が過度に単純化されてきたと思われる。この論文では、議論のなかで用いられる概念を明確化し、反ポルノフェミニズムの枠組みを精緻化することで、賢明な(sensible)反ポルノ論を構築することを目指す。

1. 有害仮説――そもそもなぜポルノが問題なのか

まずは「ポルノグラフィ」という言葉の意味を明確化するところから始める。つまり「反ポルノ」というときに何が批判対象とされているのか、ということを明確にするのである。

賢明なポルノ批判では、批判の範囲を「不平等なポルノグラフィ」(inegalitarian pornography)に限定する。「不平等なポルノグラフィ」とは、ジェンダー不平等によって特徴づけられた関係(行為、シナリオ、または姿勢)を全体としてエロス化するような、性的にあからさまな表現」のことである(Eaton 2008: 676)。ただし、「不平等なポルノグラフィ」は必ずしも暴力的なポルノグラフィとは限らない。たとえばある種のBDSMのように、外見上は暴力的だが必ずしも不平等とは言えない性行為がある。さらに暴力的ではないが不平等である場合もある。以下「ポルノグラフィ」という語で「不平等なポルノグラフィ」を指すものとする。

では、こうした「不平等なポルノグラフィ」は何故、どのようにして女性に害となるのだろうか。ポルノグラフィが女性に害を及ぼすとする主張を総称して「有害仮説」(harm hypothesis)と呼ぶ。この仮説は以下のような論理に則って主張される。

i) 私たちの社会はジェンダー不平等を特徴としている。

ii) これは重大な不正義である。

iii) 女性の従属は決して自然なものではなく、社会的要因の束によって維持・再生産されている。そうした要因には露骨なものもあれば些細なものもある。

iv) ある意味で、ジェンダー不平等は多くの人々にとって性的な魅力あるものとなっている。

v) こうした不平等な関係への性的欲望もまた自然なものではなく、さまざまな種類の表現を通じて形成される。

vi) ジェンダー不平等を性的な魅力あるものへと変換することは、ジェンダー不平等を許容しやすくするだけでなく、むしろそれを楽しめるものにしてしまう。さらにジェンダー不平等に結びついた喜びは、多くの人々に浸透してゆき、それによってジェンダー不平等を広げる。こうしたジェンダー不平等のエロス化は、男性にも女性にも作用する。そしてジェンダー不平等のエロス化は、性差別に有利な肉体的欲求や性的欲望を高める。

vii) ポルノグラフィは、a) 受動的な征服の対象から屈辱、堕落、性的虐待のシナリオに至るまで、様々な不平等な関係や状況から性的快感を得る女性を描写することや、あるいは b) 性的興奮を目的とした方法で従属の表象を提示することによって、ジェンダー不平等のメカニズムや規範などをエロス化する。

 ゆえにポルノグラフィは特に、視聴者にジェンダー不平等な見方を内面化させるものである。このように、フェミニズムはポルノグラフィが猥褻だから批判しているのではなく「ポルノグラフィは女性の利益を追求する能力を損なうか、または妨げるという意味で、女性を傷つける原因となる」から批判しているのである。

 ただし議論を進める前に、この仮説についていくつか補足すべきことがある。

1. 不平等なポルノグラフィが批判されるのは、単に女性が従属させられている様子を描いているからではない。あくまでも問題なのは、不平等なポルノグラフィが女性の服従や堕落を是認したり推奨したりすることである。たとえば、女性の性虐待被害を告発するドキュメンタリーなどは、女性の従属を描いているからといってフェミニズムの批判対象となるわけではない*2

では、どのような場合に「女性の服従や堕落を是認したり推奨したりする」ことになるのだろうか。Eatonによれば以下の3つの要素によって、ポルノグラフィがジェンダー不平等を是認する。(a) 従属、堕落、またはモノ化する行為が加害者とその行為の対象となる女性の両方にとって楽しいと強く示唆する表現であり、(b) そのような扱いが容認され、また相応しい扱いであると示唆するような表現である。さらに(c) 不平等なポルノグラフィは、女性が堕落してモノ化した描写をエロス化する。

2. 一口に「ポルノグラフィがジェンダー不平等をエロス化する」と言っても、そこでエロス化されるジェンダー不平等の程度はさまざまである。たとえば、暴力的でなくとも、支配的な男性によって女性が性的に刺激されるという描写はジェンダー不平等的であると言える。

3. ポルノグラフィだけがジェンダー不平等を促進し維持するわけではない。しかしポルノグラフィは、激しくエロチックな形式によって、特に強く不平等なメッセージを発する。

4. 有害仮説は社会構築主義の枠組みに現れる必要はない。ジェンダー不平等は自然なものなのか、そうした不平等に性的魅力を抱くことは自然なものなのか、という議論は究極的には解決しないかもしれない。しかし、ジェンダー不平等は正当ではなく、そのエロス化を通じて強化されたり仕込まれたり悪化されたりすることがありうる。必要なのはこの点を受け入れることであり、一切のジェンダー不平等がすべて社会的に構築されているという主張を受け入れる必要はない。

5. ジェンダーヒエラルキーをエロス化することは、すでに存在する不平等の条件を強化したり悪化させたり、差別的な振る舞いへの非難を弱めたりして、それによって聴衆をジェンダー不平等の心理を内面化させやすくするものである。ここからわかるように、ポルノグラフィの害は必ずしもレイプを増加させるという形をとるとは限らない。ポルノグラフィの有害/無害を考えるうえで、レイプ件数は決して唯一の指標ではないのだ。

以上を踏まえたうえで、今度はポルノグラフィによる害を丁寧に腑分けしていく作業に移ろう。

2. 害の分類――ポルノにはどのような問題がありうるか

Eatonはポルノグラフィによる害を詳細に分類する。まず、ポルノグラフィへの晒されを「第1段階の原因」(stage 1 cause)、ポルノグラフィ消費者への影響を「第1段階の影響」(stage 1 effect)、消費者に促す行動を「第2段階の原因」(stage 2 cause)、他の当事者への加害を「第2段階の影響」(stage 2 effect)として、大きく4つに区分する。以下で各段階を細かく見ていく(章末に議論を整理した図が掲載されているので、参考にしてほしい)。

第1段階の原因(stage 1 cause)では、ポルノグラフィを視聴する段階が扱われる。ポルノグラフィの視聴は、さらに「単一的な原因」(Singular causes)と「拡散的な原因」(Diffuse causes)に分けられる。前者は特定のポルノグラフィを単発的に視聴することであり、後者は継続的に様々なポルノグラフィを視聴することである。単一的な原因と拡散的な原因のそれぞれについて、(1) 視聴するポルノグラフィがどの程度不平等的か、(2) 視聴頻度や期間によって分類できる。さらにポルノグラフィ使用が限定された集団のなかにとどまっているか、社会に広く浸透しているか、という点に注目することも重要である。

第1段階の影響(stage 1 effect)は、ポルノグラフィ消費者への影響である。先に述べた「単一的な原因」は、他の影響から独立しており、また即座に定着するような影響を与える。これを「独立した影響」(Isolated effects)と呼ぶ。ポルノグラフィに対するほとんどの心理的反応は前者の独立した影響である。これに対して「拡散的な原因」は「累積的な影響」(Cumulative effects)を与える。独立した影響と累積的な影響のそれぞれについて、「生理的な影響」(physiological effects)と「態度的な影響」(attitudinal effects)がある。前者は不平等な表現に対する性的反応を調教するという影響であり、後者は女性の劣位に関する意識や信念への影響である。態度的な影響はさらに意識的/無意識的、積極的/消極的に分けられる。この第1段階の影響は、控えめな性差別的態度から、実際の暴力行為まで、重大さについて連続性がある。

第2段階の原因(stage 2 cause)は、第1段階の影響が社会に現れたものである。言い換えれば、ポルノグラフィの影響を受けた人々の行為である。第1段階の原因と同じく単一的/拡散的に分けられる。さらに言語的/非言語的、暴力的/非暴力的、ささい/ひどい、というように多様な行為が含まれる。また、害の現れ方も多様であり、家庭での行為から職場で行為、あるいはプライベートな性関係から法廷での争いにいたるまで、公/私でさまざまに区分できる。具体例としては、専門的な状況で女性の身体を公然と見ている習慣のようなものから、裁判で強姦者に寛容になるという無意識なもの、同意のセックスと強要されたセックスを区別できない、というものなどが挙げられる。

第2段階の影響(stage 2 effect)は、第2段階の原因によって(主に女性が)受ける被害のことである。これも独立的/累積的の2つに分類できる。さらに下位分類として、身体的な被害か心理的被害か(あるいは両方か)という分類が挙げられる。この被害についても、軽度な被害から重大な被害に至るまで様々である。

最後に、上記の4つすべてを横断する区分として、「個々人としての女性」への被害と「集団としての女性」への被害、という分類ができる。前者は特定の個人が受ける被害である。後者は、特定の個人が被害を受けたとは言えないが、総体としての女性の地位を引き下げるようなものである。

以上を整理したものが、次の図である*3

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このように、ポルノグラフィからは複合的で連続的な害を想定できるが、そのうちどれが妥当な有害仮説で、どれが非合理的な主張なのかを選り分けることが必要である。また、害の種類によって求められる対応・対策も変わってくる*4。上記の分類によって、そうした議論を洗練させることができるようになる。

長くなったので、ここで一区切りとする。後編では以下のような論点が検討される:

・「ポルノグラフィが性差別や性暴力の「原因である(cause)」と言われるとき、「原因である」とは具体的にどのような意味なのか?

・実証的な先行研究ではポルノの悪影響について賛否両論あるが、これらの先行研究をどのように評価するべきか?

・結局「有害仮説」は立証されたのか?

 

*1:以下、誤解や誤読などがありましたら是非コメント等でご指摘ください。

*2:この点について正しく理解できていない論者が、ポルノ批判側にもしばしば散見されるとEatonは指摘している。

*3:画質が悪いので、読みにくい方は元の論文データを確認してください

*4:ポルノが有害であると主張するからといって、必ずしもポルノの法的規制を要求するわけではない。どのような意味で「有害」なのかによって、法的規制という手段で対応すべきか否かも議論が分かれるのである。こうした点を検討するためにも、害の分類は欠かせない。

「(性的)モノ化」論のアップデート――心理学的研究を踏まえて【文献紹介】

E Orehek and CG Weaverling (2017) “On the Nature of Objectification: Implications of Considering People as Means to Goals,” Perspectives on Psychological Science, 12(5): 719-30

全文PDFは上記リンク先でダウンロードできる。

梗概和訳

人がある目標への手段として扱われるとき、モノ化される。 よく知られた例としては、女性が性的にモノ化され、身体的な外見、性、または個々の身体部位へ縮小されることが挙げられる。 このようなとき、人はモノと同じ方法で使用され、他者の目標に合わせて評価される。 この論文の目的は、モノ化のより良い理解を得ることである。私たちは(a)目標達成のための手段 - 目標(means-goal)関係の基本原理を概説し、(b)人がある目標の手段であるような場面に関する先行研究をレビューし、(c)人が目標の手段として奉仕する場面における手段 - 目標の心理に照らしてモノ化を説明し、(d)モノ化の帰結に関する私たちの解説の含意を説明する。具体的には、モノ化は不可避であり、その道徳性を含めたモノ化の帰結は、モノ化された人が奉仕する目標と、モノ化された人がその目標に奉仕したいかどうかとに依存すると主張する。

内容整理

「モノ化」(Objectification)は哲学的にはカントやマルクスサルトルなどの議論があるほか、20世紀後半以降はフェミニズムの観点から「性的モノ化(性的客体化)」(Sexual objectification)も議論されており、近年ではヌスバウムの議論も重要視されている。今回取り上げる論文は、こうした議論に心理学的な研究を踏まえながら応答していくものである。なお記事終盤に要約を箇条書きしているので、必要に応じて活用していただきたい。それでは、さっそく内容に入っていこう。

「モノ化」を定義する

道具性

「モノ化」論において最も重要な論者の一人としてマーサ・ヌスバウムが挙げられる。ヌスバウムは「モノ化」に複数の意味があることを指摘しつつ、そのなかで「モノ化」の特徴を真に定義づけるのは「道具性」(instrumentality)であるとする。道具性とは、ある対象をある目的のための手段や道具として使うことである。

道具性を介したモノ化には、自分の目標にとって有用かどうかという基準によって他者を知覚したり、定義したり、評価したりすることが含まれる。つまり、モノ化はある人が他人の目標達成のための手段と見なされたときに生じる。

「モノ化」がよく言及されるのは、「性的モノ化」というフェミニズムの文脈である。しかし「モノ化」自体は性的な場面だけに生じることではない。たとえば「企業が従業員を交換可能な機械として扱う」といった場面でも「モノ化」が起きていると言える。

他人を評価する

ところで、道具としての有用さによって他人を評価する、ということは仕事のみならず恋愛などでも、日常的に行われている(これについて論文中ではいくつかの文献が挙げられているので、興味があれば原文を参照してほしい)。このように、「ある人が目標を追求しているときに、目標を達成する上での道具性にしたがって他人を評価する」(p.722)。つまり私たちは日常的に、自分の目標を達成するうえでの有用度によって他人を評価しているのである。この事実が、「モノ化」の道徳性を考えるうえで重要になってくる。 

「モノ化」自体は不可欠

従来から指摘されてきたように、人が「モノ化」されることによって、多くのネガティブな影響が生じることがある。たとえば「性的モノ化」の議論では、「自尊心の低下、羞恥心、罪悪感、性的快感の低下、抑うつ、無価値感」などが挙げられている。

(「性的モノ化」にかぎらず)「モノ化」については、カント以降さまざまな哲学者によって議論されてきた。代表的な人物はカント、マルクスサルトル、そしてヌスバウムである。このなかでカント、マルクスヌスバウムらは「モノ化」全般を原則として不道徳的なものと考えていた。それに対してサルトルは、どちらかといえば「モノ化」を必要不可欠なものだと考えていた。

これについて心理学的な研究からは、後者の「『モノ化』は必要不可欠だ」という立場が支持される。心理学の諸理論によれば、「人とモノは同じやり方で、同じ原理にしたがって精神的に表象される」のである(p.723)*1

そこで著者らは「モノ化をもたらす心理的プロセスは道徳的でも不道徳的でもない」、「代わりに、道徳性の決定は、評価が行われるプロセスではなく、評価される目標の内容に依存する」と主張する。「モノ化そのものは、評価において不可欠な心理学的プロセスを記述するものであるため、不道徳たりえない」のである。

つまり「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。そして「モノ化」それ自体は良くも悪くもない。

しかし「モノ化」によってネガティブな影響が出る場合があるのも事実である。それでは、どのような「モノ化」はネガティブな影響につながるのだろうか。言い換えれば、どのような「モノ化」が道徳的に非難されるべきなのだろうか。

どのような「モノ化」が道徳的非難の対象とされるのか

従来はどちらかといえば、「モノ化」を原則として悪いものだと考える議論が主流だった。しかし現実には、むしろ自ら「モノ化」されることを望むことさえある*2。さらに言えば、「道具」としての役割を上手く果たせなかったことによって意気消沈する、ということも日常茶飯事である。

このように考えると、ヌスバウムらが考えていた「モノ化」の問題は、モノ化する側とモノ化される側の双方の願望が食い違うことで生じるものだと言うことができる。つまり、望まない目標への「道具」としてのみ評価され、他の側面から評価されることがなかったり、またその目標への「道具」以外の行為ができないものとみなされたりしたとき、私たちは見下されたような感覚や自己を否定されたような感覚を抱くのである。

具体例で考えてみよう。一般的に、医者は自らの医学的知識や技術によって評価されることを望んでいる。もしこの医者が仕事の場面で、医学的能力ではなく性的魅力によって評価されたり、性的誘惑に応じることを期待されたりすると、自己を否定されたように感じるだろう。他方で、この医者が自分の配偶者の性的目標のために役立ちたいと望んだときには、性的魅力によって評価されることでむしろ自己肯定感が高まるだろう。

「所有」の是非

このほか、「道具」として評価されるとき、しばしば代替可能なものとして認識されることがある。こうした点から、「モノ化」は「所有」と結びついている指摘されることがある。つまり、「道具」は売買や交換ができるということである。最も極端な例は奴隷であるが、それほど極端でなくとも、たとえばプロ・スポーツなどでチーム同士が選手を交換することなどもこれに該当する。

そもそも「私の目標」「あなたの目標」などと言うように、「目標」という概念自体が関与と所有(commitment and ownership)を暗に含んでいる。また「彼は私のもの」「私の子供」などと言うように、親密な関係性にも関与と所有が含まれていると言える。

このように考えると、「所有」されること全般が一様に悪いというわけではない。合意があるかどうかや互恵的かどうかによって、「所有」の善悪も分かれるのである。

それでは、「モノ化」によるネガティブな影響に対しては、どのような処方箋が求められるだろうか?

有害な「モノ化」に対して、どのような対策が必要か

ここまで見てきたことから分かるように、「モノ化」される当人がその目標に関して道具として奉仕することを望むか否か、ということが「モノ化」の善悪評価にとって重要になる。

具体例で考えてみよう*3。職場における女性の「モノ化」をなくすためには、彼女らを性的魅力によって評価するのではなく、職務能力によって評価することに焦点を移す必要がある。言い換えれば、職場の従業員を「道具性」(「モノ」としての有用さ)によって評価することを止めろと主張するのではなく、適切な次元での「道具性」によって評価すべきだということである。そして女性の「性的モノ化」について付け加えれば、女性が性的目標のための有用さという観点から評価されることをすべて排除する必要はなく、文脈と「モノ化」される当人の希望にもとづいて判断されるべきということになる。

結論

まとめよう。

★「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。
★「モノ化」は他者を評価するときに日常的に行なわれており、それ自体は良くも悪くもない。

★「モノ化」は以下の場合に有害であり、道徳的非難に値する:
・「モノ化」する側の人間が、自分が不道徳だと思っているような目標を達成するために、他人を道具として使う場合
・「モノ化」される側の人間が、道具として奉仕することを望まないような目標に関して、道具としての有用度にもとづいて評価される場合

*1:その例として認知的不協和理論や意思決定の理論などが挙げられているので、興味がある方は原文を確認してほしい

*2:論文中では、パートナーをケアする例が挙げられているほか、集団内で「道具」として上手く役に立つことが自尊心やポジティブな感情につながるという研究が取り上げられている

*3:以下の具体例はp.726