境界線の虹鱒

セクシュアリティ徒然草

Aセクシュアル研究への招待――英語圏での研究動向(文献メモ)

Ela Przybylo (2016) "Introducing asexuality, unthinking sex "

Introducing the New Sexuality Studies 3rd Edition の第21章 (pp.181-191) である。当該箇所の全文pdfはこちらのリンク先でダウンロードできる。  https://www.researchgate.net/publication/312664690_Introducing_Asexuality_Unthinking_Sex

今回のブログはあくまでも上の文章のまとめメモである。ブログ内で取り上げていない箇所にも重要な解説があり、また文献リストも充実している。ぜひ原文を活用していただきたい。なおブログ筆者は英語素人なので、例によって誤訳誤解などがあればご指摘ください。

Aセクシュアルとは

Aセクシュアルとは「セックス、性実践、そして人間関係における性の役割などについて無関心であったり反感をいだく人」全般を指す、包括的な用語 (umbrella term) である。それゆえAセクシュアルという概念は、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、パンセクシュアル、そしてストレートなどのような性的指向を横断するものである。言い換えれば、「セクシュアル/Aセクシュアル」という単純な二元論では整理できないということである*1

Aセク自認者がセックスに対して取る態度

Aセク研究者Mark Carrigan (2011)によれば、Aセク自認者がセックスに対して取る態度は大きく3つに整理できる。1つめは「セックス肯定 (sex-positivity)」という態度であり、性行動を必ずしも欲してはいないかもしれないが、それでもセックスを肯定的で有効なものと見なす態度である。2つめ「セックス中立(sex-neutrality)」という態度で、セックスに無関心な態度である。3つめは「セックス嫌悪(sex-averse or anti-sex disposition)」という態度であり、理屈抜きにセックスを嫌なもの、不快なものと感じる態度である。

心理学的研究

心理学系のAセクシュアル研究からは、性器など身体的な興奮を経験しているからといって、主観的にも*2興奮を経験しているとは限らないという考えが出ている。

心理系の研究においてAセクシュアルは、性的に惹かれる感覚が低いこと、性行動を実践しないこと、あるいは単純にAセクシュアルを自認していること、といった観点で定義されてきた。近年の心理学的な研究では、Aセクシュアルをグラデーションと捉え、12問の質問によってAセクシュアルである度合を測る "Asexuality identification Scale"が考案されている。

Aセクシュアルの人口について、世界人口の1%ぐらいだという研究もある。ただしこうした研究はあくまで西洋諸国のデータに限られるということを留意しておく必要がある。

 Aセクシュアルを「定義する」ことへの困難

ここまで述べてきたのように、Aセクシュアルにも色々な人がいる。しかしAセクシュアルに関する言説は、往々にしてAセクシュアルを単純化しがちである。よくある言説は、「Aセクシュアルは「選択」ではなく「生まれつき」のセクシュアリティであり、生涯変わらない」とか「Aセクシュアルは性的関心を一切欠いている」などと規定するものである。このように定義することは、Aセクシュアルが多様であるという理解を妨げかねない。さらに、こうした定義は別の問題にもつながってくる。

Aセクシュアルというアイデンティティの基準として、自身のセクシュアリティが生涯不変であることを当事者らに強要するのは不当である。なぜならセクシュアリティそのものが、私たちの生に関する状況や文脈が変化するにつれて、生涯を通じて変化しうるからだ。同様に、Aセクシュアルは決して選択ではなく「生まれつきの」ものであると仮定してしまうと、私たちのセクシュアリティが社会的に位置づけられた文脈において理解されるということを見落としてしまう。(p.184)

セクシュアリティに関する理解は、私たちの社会にある認識枠組みによって大きく左右される。たとえば、単に「同性愛行為をしている」人がいるというだけでは「同性愛者」という概念は成立しない。「誰とセックスをするのか」がアイデンティティに関わる問題として認識されるようになったとき、初めて「同性愛者」という概念が可能になるだろう。

同じことがAセクシュアルについても言える。単に「性欲がない」「セックスをしない」というだけでは「Aセクシュアル」という概念は成立しない。「性欲がない」「セックスをしない」等がアイデンティティに関わる問題として認識されるようになったとき、初めて「Aセクシュアル」という概念が可能になる。

なので「同性愛者」という概念が存在しなかった時代があるように、「Aセクシュアル」という概念が存在しなかった時代も当然ある。しかし、だからといって当時の「性欲がない」「セックスをしない」人々が “現代で言うAセクシュアル的な人々が経験するような困難” を経験していなかったとは限らない。もしAセクシュアルを「生涯Aセクシュアルを自認し続けた人」として定義してしまうと、そうした歴史上の「Aセクシュアル」差別や「Aセクシュアル」的経験が無視されてしまう*3

「強制的性愛 (compulsory sexuality)」とは

強制的性愛("sexual imperative” or "compulsory sexuality")とは、簡単に言うと「人間はみな性的であるべきであり、また性を欲望するべきである。そして性的でなかったり性を欲望しなかったりすることは本質的に間違っており、治療が必要である」という社会規範のことである。具体的には、「(1) 人間関係においてセックスを特権化し、(2) セクシュアリティを自己形成や自己認識のプロジェクトに集中させ、(3) セックスを健康へと付属させ、(4) セックスをカップル関係、愛、親密性へと結びつける」ことを通じて、セックスとセクシュアリティを特権化することである。

また、「セクシュアリティは私たちの人生と人間関係において普遍的な要素である、という信念を中心として編成される社会」を表す言葉として「性社会 (sexusociety)」という語も作られている。

 「強制的性愛」と人種、障害、ジェンダー

たとえば、障害者は性欲のない存在であってほしいという暗黙の願望が、社会には存在している。障害者は強制的に「脱性化」されていると言えるだろう。こうした期待は、「どのような人間の生が、生きやすいとみなされたり再生産に値すると考えられたりするのか」ということに関する認識と密接に結びついている。それゆえ極端な場合には、国家による強制的な断種政策にもつながる。
他方で人種化された集団は、過度に性的な存在としてイメージされる。それゆえ彼らがAセクシュアルを自認しても信じてもらえない、という事態が生じることがある。

このように、セクシュアリティは正常であることや規範的な身体にとって当然必要であると見なされている。それゆえAセクシュアルは歴史的に治療対象と見なされてきた。たとえば19世紀後半以降、性欲が低いということが「性的麻酔 (sexual anesthesia)」(Krafft-Ebing 1886/1922)、「阻害された性欲 (inhibited sexual desire)」 (Lief 1977)、「不感症 (hypoactive sexual desire disorder)」(DSM-III-R 1987) などとされてきた。さらに近年でも「冷感症 (female sexual interests arousal disorder)」や「 男性不感症(male hypoactive sexual desire disorder)」 (DSM-V203)といった扱いが為されている。このように、性欲が低いということは「不健康」であると見なされ、性科学や医学の対象となってきたのである*4

ジェンダーについて言えば、多くの女性が性的不感症と診断されるという現象がある。2002年のとある調査では、アメリカの女性のうち1/3が不感症かもしれないという結果が出たそうである。これに対しては「女性は、社会でよく奨励されるセックスが気に入らないために、性的欲求のレベルが低くなるのではないか」「ヘテロノーマティブな文脈の中では、男性のオルガスム、快楽、満足感、性交を中心としてセックスが編成されているのではないか」といった指摘がなされている。こうした論点は、女性は性的に受動的であるべきだという社会規範とも関連していると考えられる。

また、現代のAセクシュアルのコミュニティには男女二元論に収まらない人々*5が多いという調査も出てきている。トランスジェンダーAセクシュアル自認との関連についてはさらなる研究が待たれる。

Aセクシュアル差別

ゲイル・ルービンなどのフェミニストは性に関する様々な偏見を打破しようと試みてきた*6。しかしルービンの代表的論文 "Thinking Sex" (1984) においてAセクシュアルやそれに類するセクシュアリティは見落とされていた。こうした傾向はルービンに限らず、その後のセクシュアリティ研究にも見られた。

また、心理学者Cara Maclnnis と Gordon Hodson (2012) がカナダの大学生を対象に行った調査から、「反Aセクシュアルな偏見 ("antiasexual bias" or "antiasexual prejudice")」が存在することが分かった。これはAセクシュアルを「不完全な人」「人間性を欠いた、嫌な人」と捉えるような偏見である。強制的性愛のもとで、Aセクシュアルは周縁化され、差別されている。このことをきちんと認識しておく必要がある。

ヘテロノーマティブでも、クィアでも、困難

まずヘテロノーマティブな集団において、異性に対して性的関心をいだくことが「普通」であるとされており、そこから外れる場合に不利益を被る。たとえば猥談や好みの異性の話などは、集団の結束を強める会話として位置づけられている。こうした文化に馴染めず居場所がなかったという語りが、Aセクシュアル男性への調査から出てきている (Przybylo 2014)。

他方クィアカウンターカルチャーは、性に関する強制的な規範に挑戦するが、しばしばセックスをクィアな関係において不可欠なものとみなすことがある。そうした場合Aセクシュアルの人々は、クィアな集団内に居場所がないと感じることになる。

セックスとセクシュアリティが人間関係の結束において普遍的で本質的だとする固定観念によって、Aセクシュアルクィアな文脈からもヘテロノーマティブな文脈からも排除されることになる。

交際関係における困難

また、Aセクシュアルの人々は、特にAセクシュアルでない相手と交際しているときに、望まないセックスを強制されやすい。その結果、恋愛関係を希望しつつも、そうした望まないセックスのために関係を諦めることもある*7

Aセクシュアルの抹消と不可視化

最後に、「強制的性愛」 の規範がある社会では、Aセクシュアルは理解不能な存在と見なされる。そのときAセクシュアルは、「性的に未熟な人」「潔癖でお堅い人」「抑圧された人」「性的に解放されていない」「性的なことから目をそらしている」などと見なされ、不健康で治療の対象であると位置づけられるのだ。あるいは、Aセクシュアルの人は、Aセクシュアルでない人々から「本当に性に関心がないのか?」と疑問を向けられることがある。「お前はAセクシュアルなどと名乗っているが、本当は性に関心があるのではないか? 嘘をついているのではないか?」というように、Aセクシュアルであることを否定するような言葉を向けられることもある。

このような否定的な尋問や、Aセクシュアルへの偏見などによって、Aセクシュアルへとアイデンティファイすることが困難になる。つまりAセクシュアルという存在が抹消され、不可視化されるのである。

結論

セクシュアリティ研究をする人も含めて、私たちは「強制的性愛」のもとでAセクシュアルが差別され、不可視化されていることを認識しなければならない。こうしたAセクシュアルの不可視化を認識することによって、この社会においてセクシュアリティがどのように位置づけられているかを明らかにすることができるだろう。

関連記事

*1:一口に「Aセクシュアル」と言っても、「グレーAセクシュアル」や「デミセクシュアル」などのように、単純な定義ではとらえきれないアイデンティティを持つ人々もいる。また、性的指向に関するアイデンティティのほかに、恋愛的指向に関するアイデンティティも無視してはならない。なお「グレーAセクシュアル」「デミセクシュアル」や「恋愛的指向」などについてはググれば出てくるので、各自調べてほしい

*2:ここで言う「主観的に」とは、精神や感情のレベルで、ということ

*3:そもそも、もし「生涯Aセクシュアルであり続けること」がAセクシュアルを名乗る条件だとするなら、「Aセクシュアルであることが、死ぬまで証明できない」ということになってしまう。こうした論点については、こちらの記事 恋愛しなくちゃいけないの? アセクシュアルの私が感じる生きづらさ が読みやすくてオススメ

*4:病名の訳語が不正確かもしれませんが、ご容赦ください

*5:トランスジェンダージェンダークィアジェンダー中立、両性具有などが挙げられている

*6:たとえば乱交、自慰、S/Mなどの性実践や、レズビアンやゲイなどの性的アイデンティティ

*7:前述のように、性的指向と恋愛的指向は区別して考える必要がある

「ルギアで抜いた人」から考えるセクシュアリティ論【雑感】

 今まで文献紹介の記事しか書いていなかったので、息抜きも兼ねて軽めの記事を書いてみる。こういう記事は初めてなので、取りこぼしている論点は多々あるし、また不慣れな文章になっているかもしれないが、お許しいただきたい*1

 今回取り上げるのは、いわゆる「性的嗜好」に関するマイノリティが、自身の経験を語ったネット記事である。元記事の作者いなだみずき氏は、以下の記事でポケモンのルギアに性的興奮をいだいた経験を語っている。まずは一読していただきたい。

 この記事について私が感想をツイートしたところ、サイトの編集長から以下のような引用RTがあった。

 確かに「性的嗜好」に関するマイノリティについては、これまであまり掘り下げられてこなかった分野である。それゆえ上の記事をマイノリティの孤独に関するテクストとして読む意義はあるだろう*2

 しかし今回は、そのような「個人が経験する疎外感」とは別の観点から、「ルギアで抜いた」記事を考察してみたい。

なぜ「ルギアで抜く」と「違和感を覚える」のか?

 考察を始める前に、まず意識しておくべきことがある。それは、上記の「ルギアで抜いた」記事は一貫した「物語」として書かれている、ということである。……このように書いてみたが、特に難しい話ではない。要するに、いなだみずき氏の「語り」は次のような構成になっている、というだけのことだ。

1: 中学時代、水着グラビアよりもHな妄想をしたい

2: しかし身近にあった妄想のネタがラブラドールレトリバーの太ももしかなかった

3: その結果、「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」ものへの性的欲望が形成された

4: それによって、ルギアで抜くようになった

5: ルギアで抜く自分に対して違和感を抱くようになった

  元の記事にはもう少し続きがあるが、いったんここで話を進めよう。このように番号を振ってみれば一目瞭然だが、いなだみずき氏の語りは、一本の矢印で結ばれた、因果関係の整然とした「物語」になっているのだ。

 「……それがどうしたの?」と思う方もいるかもしれない。しかし落ち着いて、先入観を取り払って考えてみよう。上の「物語」から、「しかし」や「その結果」や「~が形成された」など因果関係を説明する言葉を取り払って、さらに「違和感をいだいた」などの価値判断をも取り払ってみてほしい。つまり「物語」ではなく、単なる文章の羅列に分解してみるのだ。すると、とりあえずこうなる。

・水着グラビアで抜いていた。

ラブラドールレトリバーの太ももにエロスを感じていた。

・「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」なものに性欲をいだいていた。

・ルギアで抜いていた。

 ここで考えていただきたい。もし「ルギアで抜いた」記事を読まずに、この四つの文章だけを見たとき、あなたはどのような「物語」を思い浮かべるだろうか? ……いきなり問われても困るかもしれない。つまりこういうことだ。

 小中学生ぐらいのときに、四枚の絵を見せられて「この絵はどんな『物語』ですか? 自由に解釈してください」と問いかけられた経験のある方も多いと思う。それと同じ発想で、上の文章を「自由に解釈して」みてほしいのだ。

  そうすると、たとえば次のような「物語」を思い浮かべることも不可能ではないはずだ。

1:水着グラビアで抜いていた。

2: しかしラブラドールレトリバーの太ももにエロスを感じ始めた。

3: そして「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」なものに性欲をいだくようになった。

4: そしてルギアで抜くようになった。

5: とうとう理想の性的対象を見つけた!と喜んだ。

 突然なにを言っているのか、と思われるかもしれない。ここで言いたいのは、次のようなことだ。時系列順に並んだ出来事が、特定の因果関係によって編成された「物語」として語られるのは、出来事が終わった後なのである。言い換えれば、今になって振り返れば・・・・・・・・・・、あのときの出来事は全部つながっていたんだなぁ」という形でしか「物語」は語られ得ないのだ。 件の記事に以下のような文章があるのは、その傍証と言えるだろう。

ふと冷静に自己を振りかえってみたときに思った・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のが、
「なんで俺はルギアで抜いているのか?」という至極真っ当な疑問だった。

 つまり「ルギアで抜いた」記事は、現在の価値観のもとで「冷静に自己を振りかえってみた」結果として書かれたものなのである*3。そう、「物語」には、それが語られた時点での意識や価値観がしみ込んでいるのである。特にセクシュアリティに関する「語り」を読むときには、必ずこのことを意識しておく必要がある。

 では、「ルギアで抜いた人」の「語り」には、どんな価値観が通底しているだろうか。それは、「人間(多くの場合異性)が『正しい』性的対象であって、ルギアは『間違った』性的対象である」という固定観念である。この価値観は、単に記事を書いた個人の価値観ではなく、社会全体に共有された価値観であるだろう。

 ここに至って私たちは、以下のように問う必要がある。 なぜ(異性の)人間が『正しい』性的対象であって、ルギアは『間違った』性的対象だと見なされるのか?

そういえば、性欲って何なの?

 どうしてこんなことを問う必要があるのだ、と疑問に思う方もいるかもしれない。それを説明するために、まず「性欲」とは何か、ということを考えてみたい。

 さて、「性欲は本能なのか文化なのか?」という議論をしばしば目にする。性欲は生物学的なものなのか、文化的なものなのか? これに対する回答は、問いそのものが間違っている、である。どういうことか。

 簡単な話だ。生物学的要因と文化的要因が、お互いに関連し合っているのだ。そのことを中村美亜は端的に説明している*4

性衝動は主にホルモンの働きによって引き起こされるが、そのホルモンがどう作用するかは人それぞれであるし、またその作用の仕方を決定する体内のメカニズムは、心理・社会的なことと大きく関わっている。つまり、個人の心理的特性や過去の体験、家族や社会からの影響によって性的衝動を司る身体の働きは異なるのである。

(中村美亜(2008)「"アイデンティティの身体化"研究へ向けて――『感じない男』を出発点に」『身体とアイデンティティ・トラブル――ジェンダー/セックスの二元論を超えて』p.261-262)

 このことは、「食欲」と比較すると分かりやすくなる。すこし長くなるが、こちらも引用しておこう。

人間は食事を長時間とらないでいるとお腹がすく、しかしそのすき方は、個々人の体の大きさによって随分違う。また、楽しく食事をする体験のある人とそうでない人では、食べることに対するモチベーションが異なるし、自分があまり空腹を感じていない時でも、まわりで何かをおいしそうに食べている人を見ると、自分も食べたくなったりする。あるいは食事を一日三回とる人と、二回が習慣になっている人では、お腹のすくタイミングは変わって来る。このように個人の身体的特性、過去の体験、周囲からの影響、習慣などによっても、何かを食べたいという生理的機能の働き方は変化するのである。(中村 同上: p.262)

 ただし食欲と違って、性欲はなくても生きていけるし、現に性欲がないという人も存在する。また、「どのような感覚を『性欲』と呼ぶのか」も人によって異なる*5。さらに、性欲は食欲よりも多様である。たとえば食欲の場合では、「経口摂取よりも点滴で栄養を摂る方が好きだ」という人はほとんどいないだろう。しかし性欲については、それと同レベルの「倒錯」が、現に存在している。こうした点に留意しつつ、中村美亜の説明を読んでほしい。

 さて、以上を踏まえると、先ほど「ルギアで抜いた」記事を「物語」として捉えた意義が分かるだろう。この社会には性経験に関する「語り」が無数にある*6。そうした「語り」は、すべて自分の経験に様々な意味づけをしながら語られる「物語」なのだ。そして、この「意味づけ」の部分には、まさに文化的・社会的な側面が強く関わっている。

 さらに、先に述べたとおり「物語」の中には社会的な価値観や固定観念が含みこまれている場合が多々ある。セクシュアリティについての「語り」を単なる面白コンテンツとしてのみ読むのではなく、そこから社会的な規範を読み取るために、「物語」として意識的に読むことも意義があると思う。

ルギアから二次ロリエロ漫画を考える

 というわけで、いなだみずき氏が「ルギアで抜いた」ことによって疎外感や孤独感・苦痛などを感じたのは、決して本能ではない「ルギアで抜くなんて異常だ」という社会的な価値観が生み出した感覚である。だからこそ、「ラティアスは抜ける」という友人との出会いによって、そうした感覚を取り払うことができたのである。

 そしてこのような感覚を作り出すのが、対人セックスこそが理想の性行動である、という固定観念なのだ*7。この固定観念は、私たちの社会にある「セクシュアリティに関する暗黙のルール」と考えてよいだろう。

 これによって「ルギアで抜いた」人が疎外感をいだくことになったわけだが、実はこの固定観念は他にもさまざまな問題と関係している。

 たとえば、Aセクシュアルの苦悩についても、性愛の特権化という観点から考えることができるだろう。あたかも恋愛感情や性的感情をいだくことが当然視され、それによって恋愛感情あるいは性的感情をいだかないことに対する違和感をいだくことになるということだ*8

 あるいは、いわゆる「非モテ」と呼ばれる人々が苦悩することについても同様ではなかろうか。つまり、愛あるセックスが理想視されるからこそ、それを獲得できないことによる疎外感をいだくと考えられるのである。

 そしてもう一つ挙げたい例が、「二次元ロリエロ表現」をめぐる議論である。この議論は、対人セックスの特権化という問題構造が特に分かりやすく表れているように思う。ということで突然だが、二次元ロリエロ表現に対する批判について、ごく簡単に考えてみたい*9。 

 ペドフィリア(いわゆる「小児性愛者」)は、児童という「セックスをしてはいけない相手」を性的対象としているということから非難を浴びてきた。ここで「セックスをしてはいけない」理由は、児童の自己決定能力が未熟であるという点にある。児童への性暴力を防ぐという観点からすれば、「児童と性交してはならない」という規範はとりあえず意義があると考えられる*10。しかし、ここでいったん立ち止まって考えなければならない。

 「ある特定の対象とは、セックスをしてはいけない」という規範が成り立つためには、「性欲によって引き起こされる行為とは、対人セックスである」という認識が社会一般に共有されていなければならない。……このように書くと小難しく見えるかもしれない。しかしあえて単純化するならば、そもそも誰もセックスしない社会なら、「ペドフィリアが差別される」ということはあり得ないのではないか? という話である。

 冷静に考えてほしい。そもそも「セックスしたい」と思う人がいなければ、わざわざ「ある対象とはセックスしてはいけない」なんてルールを作る必要はあるだろうか? そんな状況なら、わざわざルールを作る必要すらないはずだ。

 この点を考えれば、しばしば散見されるペドフィリアへの非難についても、吟味が必要だということがわかる。どのような非難かというと、「ペドフィリアの欲望は必然的に性暴力となる」などという主張である。しかし、その主張が成り立つのは、「性欲の対象とすること」が「性交をすること」とイコールで結ばれるからではないか。言い換えれば、性交を「必然的」なものと見なしているからではないか*11*12

 このように書くと、「児童が性的対象とされることによって、児童自身が性暴力を受ける可能性に恐怖感をいだくのではないか」という反論があるかもしれない。しかし、そもそも「性的対象とすること」が「性交をすること」に結びついていなければ――言い換えれば「性的対象」とされても「性交の対象」とされないのであれば――多くの場合そのような恐怖は成り立たないはずだ。また、解決すべき問題は「性的対象とされることが、性暴力を受ける可能性につながる」という状況自体である。「性的対象とする」ことを許容しつつ「性暴力自体を批判する」のは可能であるし、むしろそれが性暴力に対する常識的な発想ではないだろうか*13

 あるいは、「性的対象とされることによって児童が傷つくのではないか」という反論もあるかもしれない。確かに、女性差別の論点として――とりわけセックスワーカーへの差別など――「性的対象とされることによって、社会的に低い位置に置かれることになる」という状況があるのは事実だ。しかし、ここでも解決すべき問題は「性的対象とされる=社会的に劣位に置かれる」という結びつき自体である。それゆえ、批判をペドフィリアのみに向けることは論点を逸らすばかりで、本当の問題解決を遠ざける。これも有害無益と言わざるを得ないだろう。

 ここまでペドフィリア批判に対するいくつかの反論をしてきたが、「児童の自己決定能力が未熟である」という点を考えるならば、児童との性行為を暴力とみなすことはとりあえず妥当だろう。現に小児性暴力が被害者を強く傷つけているという状況は、重く受け止めなければならない

 しかし、そのことを理由に、実在の被害者のいない二次元ロリエロ表現を批判するのは、本当に妥当だろうか? 少なくとも言えるのは、「『愛ある平等な対人セックス』はまったく無罪であり、ゆえに我々はロリエロ漫画を一方的に批判できる」という認識は不当であるということである*14

 だって、よろしいか。もし仮に二次ロリエロ表現が児童に対する性欲を再生産するとして、では性欲を性交欲として再生産しているのは何だ? それは対人セックスを特権化する社会全体・・・・・・・・・・・・・・・・ではないか。そうである以上、「児童に対する性欲を作り出す」という理由で二次元ロリエロ表現の責任を問うならば、同じ理由で、「性欲を性交欲へとスライドさせる」対人セックス文化も批判されなければならないはずだ。もし後者を批判しないのであれば、それは単なる対人セックスの特権化であり、対人セックス以外のセクシュアリティを攻撃することと同義ではないか。

 たとえどれだけ情愛に溢れた平等な性関係だったとしても、それが特権化されてはならない。言い換えれば、対人セックスにとってのみ都合のよいルールを作るのは、端的に言って差別である。つまり、「性行動は、本来ならば(異性間の)愛情ある性器接触であるべきだ」という形であっても、対人セックスを特権化してはならないのだ*15。以上の議論の要約として、過去ツイを再掲しておく。

結論――対人セックス調子に乗るな*16

 ところで、いなだみずき氏は決してルギアでしか抜けないというわけではない。元記事を読むかぎりでは、いわゆる「一般的な」オカズでオナニーをするようになったとのことらしい。

 しかし、そのことは今回の記事で考えてきた内容を覆すものでは全くない。ここまで読んでくださった方にはお分かりだと思うが、「ルギアで抜くこと」と「AVで抜くこと」と「誰かとセックスすること」の違いは、根本的には「ラーメン」と「うどん」と「そば」程度の違いでしかない。ただ世間にやたら「そば好き」が多く、そのせいで「ラーメン好き」が不当に追い詰められているというだけのことなのだ。あるいは、「そば好き」がやたら多数派であるせいで、特にこだわりはないのになんとなく「そば」を食べている、というパターンもあるだろう。私たちは、「そば」以外のものを食べる人たちを追いつめてはならない。そしてそれは、「そば」を不当に特権化しないということである*17

 近年、セクシュアリティの多様性について盛んに議論されている。性関係について言えば、たとえば同性愛や両性愛といった関係について、「愛があれば性別は関係ない」という理屈で「尊重」しようとする人々が散見される。しかし、上の議論を経てきた今、私たちは次のように問わなければならない。

「なぜ対人セックスが自明視されるのか」

「そもそもなぜ私たちの『性的欲望』は、対人セックスへと水路づけられているのか」

「『性欲』が『性交欲』と同一視されることによって、どのような人々が特権化されるのか、またどのような人が不利益を被るのか」

 そしてそれらを考えたとき、「対人セックスを特権化してはならない」という結論に至るだろう。これが「ルギアで抜いた」記事から考えられる結論である。

簡単な補足

●セックスの価値相対化を主張すると、しばしば「それじゃ子供が生まれないじゃないか」などと難癖をつけられる。これに対してはいくつかの反論があるが、とりあえずいつものツイートを貼っておく。

●対人セックスの特権化を批判するからといって、対人セックスの禁止を要求するわけではない。 ただ単に、対人セックスを基準とした社会制度やイデオロギーの解体を要求するだけである。要するに、「対人セックス調子に乗るな」ということだ。

●「対人セックスは重要なコミュニケーション手段だから特別なのだ」という反論もあるかもしれない。別に対人セックスでコミュニケーションしたければ、勝手にしていればいい。しかし「対人セックスがコミュニケーションの手段である」ということは、対人セックスの特権化を正当化する根拠にはならない。言いかえれば、対人セックスが調子に乗ってよいという根拠にはならないということだ。また、コミュニケーションツールとしてのセックスを過信してはならないし、セックス以外のコミュニケーションを舐めてもいけない。

●「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」ということは、決して性暴力を肯定することではない。そもそも「人を傷つけてはならない」という規範は、性に関する領域のみならず社会全体で適用されるべきルールだろう。「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」とは、性の領域に固有の――そして不当な――原則を作るなということであり、性に関する領域も原則として社会一般のルールと同じように考えるべきだということである。

●対人セックスを志向しないセクシュアリティなんてあり得るの? と思われる方は、この辺の記事をどうぞ(関連記事)

*1:という書き出しで始めたところ、いつの間にか一万字を超えてしまっていた。やはり慣れないことはするものじゃない。

*2:そして当然、それに対する異論・反論もあるだろう。また、記事の内容自体への批判的な考察もあるだろう

*3:もちろん、出来事が起こった当時と価値観が変わらないという場合はあり得るだろうが

*4:中村美亜の論文は、「性欲」について考える上で役に立つ。20ページ程度の短い論文なので、ぜひ図書館などで読んでみてほしい。ついでに同氏の『クィア・セクソロジー――性の思いこみを解きほぐす』セクシュアリティ論の入門書としてオススメである。

*5:こうした点については、こちらの過去記事: Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編) - 境界線の虹鱒が参考になるかもしれない

*6:ここで言う「語り」には、会話だけでなく文章表現も含まれる

*7:なぜ「対人セックス」という語を使ったかというと、実は「セックス」という語が多義語だからである。日本語では基本的に「性交」という意味で用いられるが、文脈によっては「性行為全般」を指すこともある。たとえば「マスターベーション性行為セックスだ」という使い方が挙げられる。他にも様々な用法があるが、それらと区別するために、他者との性的接触という意味で「対人セックス」を用いた。

*8:この文脈に「Aセクシュアル」を置かれることに不快感をいだく方もいるかもしれない。たとえば「Aセクシュアル性的指向だが、ルギアや(後述する)ペドフィリアなどは性的嗜好ではないか」という主張があるかもしれない。しかし、セクシュアリティの分類方法は一つではない。「性的指向性的嗜好」という分け方以外にも、たとえば「身体接触をともなうセクシュアリティ/ともなわないセクシュアリティ」という分類も可能だろう。なお「Aセクシュアルが『性的指向』なのか『性的指向の欠如』なのか」という議論もあるが、結論はまだ出ていない。

*9:今回の記事では到底すべての論点を議論することはできない。こうした議論は別稿で深めてみたい

*10:ただし、より根源的な、より原理的なところまで議論するならば、異論を立てることも不可能ではないだろう。しかし個人的には、まだそうした議論を始められる段階ではないと思う。

*11:なおここで言う「性交」とは、性器接触だけでなく、他者の身体に直で接しようとする性的行為全般を含むものとする。

*12:また、当然ながらすべてのペドフィリアが小児性暴力におよぶわけではない。むしろ多くのペドフィリアが、実際には「非触法ペドフィリア」である。こうした点について日本語で読める文献として、湯川やよい「承認の臨界を考える――あるペドファイル小児性愛者)男性の語りから」(『承認―社会哲学と社会政策の対話』収録)がある

*13:ここで言う「『性的対象とする』ことを許容」するとは、性的対象とすること自体を原理的な悪とは見なさない、ということである。決して「性的対象とする」ことをすべて無条件に肯定するわけではない。その点については別途議論が必要である。

*14:なお実写の「児童ポルノ」については、被写体が直接の被害者であり、まさしく「児童性虐待記録物」であるため、ロリエロ漫画と同じ議論はできない

*15:「であるべきだ」という形が問題なのである。それ以外の性を許さないという意味だから。

*16:「対人セックス調子に乗るな」って、なんとなく語呂が良いよね。

*17:これに対して、「対人セックスとルギアの違いは、そばとラーメンの違いよりも大きい」と感じる方がいるかもしれない。しかし文化人類学者ゲイル・ルービンが指摘したように、セクシュアリティの領域では、価値観や好みに関する小さな差異が過剰に重視されている。つまり「性行為は過度な意味付けをされているということなのだ」。この「過度な意味付け」が、セクシュアリティに関する差別と表裏一体となっている。この点については、以前の記事:ゲイル・ルービン『性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』個人的要約メモ - 境界線の虹鱒で紹介した論文を参照していただきたい

【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声

2012年8月31日 マーク・グリフィス(Mark Griffiths)

 以前のブログで、ファーリー・ファンダム(Furry Fandom:動物に扮することで性的快感を得たり、あるいは動物の格好をした人とセックスすることで性的快感を得る人のこと)と対物性愛(objectum sexuality:無生物または構造に対して、感情的なあるいは恋愛的な深い愛着をはぐくむ人のこと)について調査してきた。今回はトゥーノフィリア*1について、様々なネット上の言説を蒐集した。

 トゥーノフィリアとは、性的あるいは感情的に漫画のキャラクター(日本のアニメキャラクターを含む)へ惹きつけられるという性的倒錯のことである。ネット上ではいくつかの若干異なる定義が見られるが、その中には、漫画のキャラクターにしか性的関心がないという人だけがトゥーノフィリアだ、と主張するものがある。また、fictophilia(虚構嗜好:本のなかの架空の人物へ、恋愛的あるいは性的に惹かれる人)やgameophilia(ゲーム嗜好:たとえば『トゥームレイダー』のララ・クロフトといった、架空のビデオゲームのキャラクターに対して、恋愛的あるいは性的に惹かれる人)などと同じような嗜好であるとする主張も見られる。あるウェブサイト*2では、トゥーノフィリアを一種のライフスタイルと捉え、そして「人間とマンガキャラクターとの間に物理的接触がないがゆえに」トゥーノフィリアの性行動は(当然のことだが)マスターベーションによって構成されると主張していた。


 私はトゥーノフィリアについて学術的に言及されているのを、一度だけ見かけたことがある。2009年に”Forensic and Medico-legal Aspects of Sexual Crimes and Unusual Sexual Practices” (『性犯罪と非定型的性実践の法医学』)の題で出版された、Anil Aggrawal 氏の博士論文内で、性嗜好の包括的なリストに挙げられていた。しかしそこでの言及は、1行の定義だけだった。またこの本では、トゥーノフィリアが「schediaphilia」という別の名前で知られていることにも言及していた。このほかに私はブレンダ・ラブ氏の(基本的にとても信頼性が高く包括的な)"Encyclopedia of Unusual Sex Practices"*3を確認したが、トゥーノフィリアについての言及はまったくなかった。
 最も有名なトゥーノフィリアの1人は、漫画家のロバート・クラム(Robert Crumb)である。彼は幼い頃、女装していたときにバッグス・バニーに性的に惹かれた、と公言している。具体的には、彼はこう言った:

「5歳か6歳ぐらいの頃だっただろうか。私はバッグス・バニーへ性的に惹かれました。そして私は、このバッグス・バニーを漫画の表紙から切り取って、自分と一緒に持ち歩いていました。ポケットに入れて持ち歩いて、定期的にそれを取り出して眺めていて、そして……そして、長らく持ち歩いていてくしゃくしゃになったので、アイロンをかけて伸ばしてもらうよう母に頼んだのです。そして母はそのとおりにして……私はひどくがっかりしました。母がアイロンをかけたことで、その表紙は茶色になり、ぼろぼろに崩れてしまったので」

 芸術投稿サイトDeviant Artのウェブサイトで行われた定期的な投票では、58人のユーザー*4のうち60%が「あなたはトゥーノフィリアですか?」という設問に対して「はい、そのとおり」と答え(n=35)、14%が 「いや、そうでもない」と答え(n=14)、そして16%が「多少は」と回答した。もちろん、そのアンケートが科学的でないことは承知しているし、回答者の数も非常に少ない。だがそのアンケートは、私が見つけることができる唯一の数値データだった。また2008年のハフィントン・ポストの記事*5は、漫画のキャラクターと公的な関係を持ちたいというトゥーノフィリアもいると報じた。その記事では、Toonophile Planetのウェブサイトが(そのキャラクターがまだ他のトゥーノフィリアと結婚していないと仮定して)婚姻証明書を提供していたと報告した。さらに、人間と漫画のキャラクターの関係や結婚を合法的にするよう本気で求める請願が、Go Petitionのウェブサイトにある。請願によると:

「トゥーノフィリアは広がりつつある考え方だ。漫画/ビデオゲームのキャラクターへの心からの愛のみならず、私たちは彼らの存在感を感じており、さらに私たちのキャラクターへの愛はあなたや私の存在と同じぐらいリアルである。トゥーノフィリアたちはインターネット上でヴァーチャルな恋人たちのと結婚を表明しており、ヴァーチャルな結婚証明の件数は増加している。トゥーノフィリア向けのウェブサイトの例として以下のものがある。www.sonic-passion.com、www.toonophilia.net*6。これらの結婚証明書は残念ながら単なる仮想にすぎない。私たちは、私たちの名前と愛する人の名前が書かれた「法的な」結婚証明書を要求する。私は実在の人間との関係に興味を持ったことは一度もなく、仮想のキャラクターにしか興味がない。この請願は十分な署名が集まり次第、BBCに送られる。私たち署名者は、イギリスにおいて人間と仮想のマンガ/ビデオゲームのキャラクターとの結婚を認めるよう要求する」

 またハフィントン・ポストの記事では、他のウェブサイト(ToonsPortalなど)は様々なキャラクター(たとえば『原始家族フリントストーン』など)の猥褻でポルノグラフィックな画像や動画を特集していると記述した。2012年3月に、Willow Monroeはトゥーノフィリアに関するオンラインエッセーを書いた。書いてある内容についての裏付けは何もなかったが、彼女は次のように主張していた:

「トゥーノフィリアにとっての性的魅力は、ジェシカ・ラビットやベティ・ブープのような露骨なエロチックなキャラクターである必要はなく、愛情や欲望の対象は――バッグス・バニーからミズ・パックマンにいたるまで――あらゆるアニメやスケッチであり得る。トゥーノフィリアは、彼らの憧れるキャラクターの画像を持ち歩いたり、ぬいぐるみやフィギュアを収集したりすると知られている。トゥーノフィリアに友好的なサイトの中には、自分の好きなキャラクターがまだ求婚されていなければ、サイトのメンバーがそのキャラクターと結婚することを許可するというところもある。ウェブ上には、このフェティシストの空想に応える豊富なサイトがある。さまざまなキャラクターについて、想像しうるあらゆる種類の性的行為を演じているのを見ることができる。インターネット上のポルノマンガのうち、ずば抜けて最もポピュラーな形式は、日本のアニメ市場によって提供されている。アニメ調で描かれたポルノマンガは俗にHentaiと呼ばれている。その単語の語源からは、このスタイルの起源となったアーティストたちが自分の作品を、「倒錯(perversion)」と訳されるような言葉で示されるものとして考えていた、ということを読み取ることができる」

 私は休暇の時間でトゥーノフィリアについてのフォーラムを漁り回り、漫画のキャラクターと恋愛をしたり長年にわたる性的関係を持っていると主張する何十人もの人々に出会った。例えば、これはいくつかの(真正の)告白であり、また氷山の一角である:

・「私はトゥーノフィリア*7だと思います。私の好きなアニメキャラクターの番組を観るといつも、私の心は狂ったように高鳴るから。それに加えて、そのキャラクターについて性的な夢想もします。私はそのアニメのキャラクターにすっかり首ったけです」


・「私はトゥーノフィリアに近い人間です。私は4年前から自分がトゥーノフィリアであると自覚しましたが、その萌芽は、私がトゥーノフィリアという概念を理解すらしていなかった幼少期にまでさかのぼります。私はいつも漫画のキャラクターに魅力を感じていて、その感覚は大人になるにつれて明確になっていきました。だけどほとんどの人は「マジで?」という反応で、本当のことだと信じさえしない人もいます。なのでほとんどの人に対して、私は自分のセクシュアリティを説明できません。ですが本当にそうなのです。私は本当に、実在する人に性的魅力を感じることができません。正直言って、私は実際の人とセックスすると考えると吐き気がします、趣味じゃないんです。だけど『美女と野獣』の野獣のような、ある一定のキャラクターに対しては、その気になります」


・「私が15歳になってからずっと、私はエミー・ローズ(『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のキャラクター)への恋に落ちています。今日にいたるまで私は彼女と恋をしており、私の人生を彼女と共有しています。皆さんの大部分は、「なんという敗者だ、架空の人格を愛しているなんて。本物のガールフレンドを作れよ」と思うでしょう。だけど、エミーは私を幸せにしてくれますから、そういうことにしておいてください」


・「私はトゥーノフィリアのようなものです。あるいは、私はマンガではない架空のキャラクターに惹かれているので、虚構性愛(fictosexual)と言うべきでしょうか。私は、私が実在の人間に惹かれていないことに気づきましたが、架空の人物についての性的な空想や恋愛関係の空想をしていました。私は架空のキャラクターと付き合ったり、セックスをしているところを想像します。キャラクターによって、より性的であったり、恋愛関係的であったりします。ある日はこのキャラクター、別の日には別のキャラクターで空想するのです。それはポリガミーのようですが、彼らには嫉妬もなく、また病気になったり妊娠してしまう危険性もありません」

・「幼少時から漫画のキャラクターに強い魅力を感じるという以外に、どうやってこの嗜好に気づいたかなんて思いつきません。もちろん、ポニー*8や野獣*9、漫画のドラゴン、ポケモンデジモンのようなものは、私にとっても肉体的なものです。彼らはもとの姿のままで、文字通り私にとって肉体的に魅力的です。そうしたキャラクターが私にとって魅力的である理由の一つには、こういうものがあるように思います。そのキャラクターが現実世界のルールに制約される必要のないキャラクターであるがゆえに、より「独創的な」あるいは「非現実的な」フェチにも有益である、という理由です」

 ビデオゲームに関する私の調査からは、たとえばララ・クロフト*10のようなビデオゲームのキャラクターについて考えると、若いプレイヤーのなかに確かにトゥーノフィリアがいることを見て取れる。以前の記事では、私はララ・クロフトが大人気である理由を考察した。1つは――これはかなり明白かもしれないが――彼女が巨乳のデジタルアイコンだということである。しかし『トゥームレイダー』プレイヤーのほとんどは、欲情している青少年ではない。私はプレイヤーのグループに対して、なぜ『トゥームレイダー』がそんなに良いゲームだったのかと質問した。一つの最も重要な要素は、トレジャーハンティングゲームとしてのクオリティであるようだ。彼女の身体的な属性は、10代の若者を除いてほとんどのプレイヤーにとって重要ではないようだ。もしかすると『トゥームレイダー』プレイヤーの中には、トゥーノフィリアの傾向が発達し始めている10代のビデオゲームプレイヤーもいるかもしれない。


参考文献
Aggrawal A. (2009). Forensic and Medico-legal Aspects of Sexual Crimes and Unusual Sexual Practices. Boca Raton: CRC Press.
Griffiths, M.D. (1998). Shrink Rap: The Croft Report. Arcade, 1 (November), p. 49.
Love, B. (2001). Encyclopedia of Unusual Sex Practices. London: Greenwich Editions.
McCombs, E. (2008). Toonophilia: Is it porn? Huffington Post, October 1st. Located at: http://www.asylum.com/2008/10/01/toonophilia-is-it-porn/
Monroe, W. (2012). Fetish of the Week: Schediaphilia (Toonophilia). ZZ Insider, March 12. Located at: http://www.zzinsider.com/blogs/view/fetish_of_the_week_schediaphilia_toonophilia

翻訳について

この文章は、2012年8月31日にマーク・グリフィスノッティンガムトレント大学教授。アディクションについて研究している心理学者)が自身のウェブサイトに掲載した記事Something to get animated about: A brief overview of toonophiliaの全訳である。なお原文著者のツイッターアカウントはこちら:Mark Griffiths (@DrMarkGriffiths) | Twitter

ちなみに翻訳した記事は、前回紹介した性的空想とAセクシュアルに関する論文("Sexual fantasy and masturbation among asexual individuals: An In-Depth Exploration")に、参考文献として挙げられていたサイトでもある。こちらの論文は2016年に発表されたもので、Aセクシュアルと虚構性愛(fictophilia)の関係や、虚構キャラクターを性的対象とする人々について研究する必要性なども議論されている。関心のある方は前回の記事をご覧ください。このように、二次コンやトゥーノフィリアについては、オタク論の文脈だけでなく、セクシュアリティの側面からも議論される必要があるだろう。

なお翻訳の正確さについては責任を負いませんので、必要に応じて原文を参照ください。

関連記事

*1:toonophilia:日本語で言うところの「二次元コンプレックス」とほぼ同じ。英語圏ではSchediaphiliaとも呼ばれている

*2:SCHEDIAPHILIA in the Serial Killer Calendarというサイト。ちょっとサイトのデザインがおどろおどろしいので、一応閲覧注意

*3:非定型的な性実践についての百科事典。原著初版は1992年刊行。日本では『トンデモ超変態系』という題で1996年に抄訳が出版されている。しかしなんでこんな邦題にしたのか……

*4:”deviants”と呼ばれている

*5:http://www.asylum.com/2008/10/01/toonophilia-is-it-porn/ただしリンク切れ

*6:両サイトともすでに閉鎖されている模様

*7:原文ではschediaphiliaとなっているが、意味は同じ。以下schediaphiliaも「トゥーノフィリア」と訳出する

*8:おそらく『マイリトルポニー』のキャラクター

*9:おそらく『美女と野獣』のキャラクター

*10:Lara Croft:『トゥームレイダー』の登場人物

Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編)

 お待たせしました。以前の論文紹介の続きです。(元論文へのリンクは前回の記事にあります)

【内容報告】

 前回の記事でも述べたとおり、Aセクシュアルの性的空想とマスターベーションに関する量的調査である。まずは調査結果の概要をまとめておく(今回の論文の知見について、記事終盤に箇条書きで要約しておりますので、忙しい方はご活用ください)

 Aセクシュアルの女性は、セクシュアルの女性やAセクシュアルの男性よりも、最低でも毎月マスターベーションをしているという人の割合が有意に少なかった。またAセクシュアルの女性は、性的悦びや楽しみのためにマスターベーションをしていると答えた人の割合が、セクシュアルの人よりも低かった。

 Aセクシュアルの男性は、性的悦びや楽しみのためにマスターベーションをしていると答えた人の割合が、セクシュアルの男性よりも少なかった。

 Aセクシュアルの男女は、一度も性的空想を抱いたことはないと答えた人の割合がセクシュアルの男女よりも有意に高かった。

 性的空想を抱いたことのある人のうち、Aセクシュアルの男女が「私の空想には他人を伴わない」という応答を支持した割合は、セクシュアルの人々と比べて明確に高かった。

 Aセクシュアルの女性は、性的空想を抱いたことがないと答えた割合が、Aセクシュアルの男性よりも明確に高かった。またAセクシュアルの女性は、虚構的キャラクターを伴う性的空想を報告する傾向が有意に高かった。

  注目すべきは、今回の研究においてAセクシュアルのうち相当な割合が、性的空想をすると回答しており(Aセクシュアル女性の65%と、Aセクシュアル男性の80%)、また多くのAセクシュアルが、セクシュアル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)がないと報告しているにもかかわらず、性的空想とマスターベーションをしていた(Aセクシュアル女性の51%と、Aセクシュアル男性の75%)という点である。さらにAセクシュアルの回答者の性的空想は、セクシュアルの回答者の性的空想と多くの重複があった。そこにはBDSM、フェティシュ、同意のない性的空想といったテーマが含まれていた。

  Aセクシュアルの回答者は、グループセックスやパブリックセックスや不倫といったトピックを空想する傾向が低かった。しかしBDSM、脚フェチや肥満フェチや妊婦フェチや丸呑みフェチなどのようなフェティシュに関するトピックについては、Aセクシュアルの回答者もセクシュアルの回答者も同様の傾向を示した。

マスターベーションについて

 Aセクシュアルの男女は、セクシュアルの男女よりも、マスターベーションの理由として性的快感を挙げる人が有意に少なかった。また、Aセクシュアルの女性は「楽しみのために」マスターベーションをすると回答した割合が少なかった。むしろAセクシュアルの女性たちは、マスターベーションの理由として「しなければならないように感じる("I feel that I have to [engage in masturbation]")」と回答する傾向が高く、「緊張を和らげる」と回答する割合が低い傾向にあった。Aセクシュアルの男性は、マスターベーションの理由として「その他」(たとえば、眠るため、退屈をまぎらわすため、など)と回答する割合が有意に高かった。

 こうした結果から、Aセクシュアルにとってマスターベーションの第一の動機は非性的なものである、という先行研究の仮説が補強される。ここではBogaertの提唱する「無向的マスターベーション(non-directed masturbation)」という概念に言及している。これは「性的欲望やマスターベーションへの衝動はあるが、その欲望は特定の人やものなどを対象としていない」という現象を表す言葉である。

 以上のように、マスターベーションの理由としてAセクシュアルが挙げた回答は多様である。このことは、Aセクシュアルにも多様性があるということの証拠と言えるだろう。

●性的空想について

 今回の調査では、Aセクシュアル女性のうち35%、Aセクシュアル男性のうち20%が性的空想をいだいたことがないと回答した。セクシュアルのうちでこのように回答した人はごく少数だった。先行研究のとおり、性的空想は誰もが抱くものではない、と言える。

 興味深いことに、性的空想をいだいたことがないというAセクシュアルの人は、性的空想をいだいたことのあるAセクシュアルと比べて、AIS(Asexuality Identification Scale:アンケートを用いて、回答者がAセクシュアルであるかどうかを判定する尺度)でよりAセクシュアル度が高いと判定された。このことは、Aセクシュアリティは連続的な存在であることを示唆している。性的空想やマスターベーションをめぐって、Aセクシュアル内にも多様性があるということを考慮する必要があるだろう。

・他の人間を対象としない性的空想

 今回の調査では、Aセクシュアル女性の14%とAセクシュアル男性の12%が「他者を伴わない性的空想をする」と回答した。セクシュアルの女性でこの回答をした割合は1%で、セクシュアルの男性では一人もいなかった。この結果から、Aセクシュアルの一部は「非他者的性欲(analloeroticism)」であると言える。非他者的性欲とは、もともとオートガイネフィリアの研究から出てきた概念で、「男女いずれの相手であれ、他人を性欲の対象にしないようなセクシュリティ」を指す言葉である。最近ではAセクシュアル自認の人々が、同義語として「リビドイスト(libidoist)」という語句を使うこともあるらしい。今後の研究では、Aセクシュアルの下位類型として非他者的性欲などが存在する、という可能性を視野に入れた調査が求められる

・虚構的キャラクターを対象とする性的空想

 Aセクシュアル女性では、実在する他人について空想すると答えた割合より、虚構の人間キャラクターについて空想すると答えた割合の方が有意に高かった。実際、一部のAセクシュアル自認の人々は「空想性愛(fictosexualあるいはfictoromantic)」を自認している*1。ただし今回の調査では、人間ではない生物や風景画像やフェティッシュに関する空想をする割合については、Aセクシュアルとセクシュアルの間に有意な差は見られなかった。

 今回の調査ではマンガやアニメのキャラクターを性的対象とするセクシュアリティ(俗にSchediaphiliaあるいはtoonophiliaと呼ばれる)については焦点を当ててこなかったが、今後の研究では、実在する人間、人間以外のもの、そしてアニメなどの虚構的キャラクターを性的対象とする人々について、それぞれの違いを解明することが重要な課題となるだろう

・恋愛の空想

 Aセクシュアル女性はセクシュアル女性よりも、情緒や恋愛感情、非性的であったり、抱擁のような親密性であったりというような空想をしていると語る傾向が高かった。恋愛の空想と性的空想は厳密には区別する必要があるため、この結果から性的空想について直接的に結論を出すことはできない。それでも、「性的」空想についての質問に対してこのような恋愛の空想を語ったということは興味深い。もしかするとAセクシュアルの女性はこのような空想を性的なものとして経験しているのかもしれないからである。また、このことからAセクシュアルにとっては、「性的指向」概念よりも「恋愛的指向」概念の方が有用である場合があると言えるかもしれない*2

 今後の研究では、Aセクシュアルにおいて、恋愛的指向の違いが性的空想の経験に影響を与えるかどうか、またこの違いがセクシュアル・アトラクション(性的な惹きつけられ)やロマンティック・アトラクション(恋愛的な惹きつけられ)の発達の特徴を理解するうえでどう関係してくるか、といったことに注目する必要がある。

・自分自身の登場しない性的空想

 そしてAセクシュアルの回答者とセクシュアルの回答者との間で最も大きな違いは、自分自身を伴う性的空想についてである。先行研究では「自己非関与的セクシュアリティ(autochorissexualityあるいはidentity-less sexuality)」という概念が提唱されていた。これは「当人の自己意識と性的対象とを切り離すこと」と定義されている。

自己非関与的セクシュアリティの人は、彼らが見たり空想したりするような性的行動から彼ら自身を分離しており、それによって、彼らの自己意識とマスターベーションと性的空想とを切り離すことを可能にしている。

  Aセクシュアルの一部は自己非関与的セクシュアリティの特徴を持っていると考えられる。このことについては、いくつかの解釈ができる。一つは、Aセクシュアルの人々は露骨な性的刺激を、自身の性的興奮やその先にあるオーガズムへの乗り物として使っているという解釈がある。一方で別の解釈として、Aセクシュアルの人々は他人や他の物に関する性的空想するにもかかわらず、主体的な・・・・セクシュアル・アトラクションを経験していない、というとらえ方もできる*3。後者の解釈からは、次のような発想にもつながる。主体的なセクシュアル・アトラクションが、性的指向についての別の次元を表現するものであるかもしれない、という可能性である。つまり、「主体的指向/非主体的指向」を両極とする、「異性愛/同性愛」とは異なる軸があるかもしれないという仮説が考えられるのである。

・性的空想の内容についての補足 

 最後に性的空想の種類について。Aセクシュアル女性はグループ・セックスやパブリック・セックスのような、他者とのセックス(interpersonal sex)に焦点を当てた空想をする傾向が低い。逆にBDSMや羞恥プレイのような、性器への焦点化が弱い空想をする傾向があった。またAセクシュアル女性は、ただ自分自身のみを伴うような空想(たとえば、マスターベーションや性玩具を使うなど)や、直接的な他者との相互作用のない空想(たとえばのぞき見など)をする傾向があった。また、交際中のAセクシュアル女性は、交際中のセクシュアル女性と比べて、婚外セックスを空想する傾向が低かった。

 ●非定型的な性的関心について

 非定型的な性的関心(Paraphilic interest)とは、物、人、あるいは行為などについての、一般的ではない性的関心のことを指す。これに対して性嗜好障害(paraphilic disorder)とは、非定型的な性嗜好によって当人が苦痛を感じている場合のみを指す。これはDSM-5*4の定義であり、現在では、単に社会で一般的ではないという理由だけでは「障害」とは呼ばないことになっている。

  この区別を踏まえたうえで、Aセクシュアルのうちの大多数は、2つの理由から、非定型的な性嗜好(paraphilia)を持っていない傾向にあると考えられる。まず、非定型的な性嗜好を持つAセクシュアルの人であっても他者への性的関心をある程度は保っている。そしてAセクシュアルの多数派は女性であり、非定型的な性嗜好は女性には少ないということがある。しかしそれにもかかわらず、Aセクシュアルの人々は普通ではない性嗜好を経験したことがあるかもしれないという意見もある。というのも今回の調査からは、Aセクシュアルマスターベーションや性的空想の動機として潜在的に非定型的な性的関心があるかもしれないと考えられるからである。一部のAセクシュアルは(非他者的性欲や自己非関与的セクシュアリティを含めた)非定型的な性的関心を持っているかもしれない。ただし、この点については今後の調査が必要である。付け加えれば、いわゆる「非定型的」と呼ばれる性嗜好が、実は従来考えられていたよりも一般的なものであるという可能性もある。つまりAセクシュアルについても、彼らが「非定型的な」性的関心を持っていること自体が実は「定型的」であるという可能性もある。この点も含めた調査が、今後求められる。

●調査の限界

 今回の調査では、Aセクシュアル男性のサンプル数が少なく、彼らについては充分な調査ができなかった。またAVENのウェブサイトから調査対象者を集めたため、代表性にも疑問が残る。また今回は、どれぐらいの頻度でどのタイプの性的空想をするのか、ということについて調査しなかった。

【まとめ】

 紹介と言いつつ、論文終盤を長々と訳してしまった感があるため、ここで手短にまとめておこう。

・一口に「Aセクシュアル」といっても、その内部には多様性がある。
マスターベーションの動機も多様であるが、Aセクシュアルの人々のマスターベーションは非性的な動機による傾向が強い
・「セクシュアル/Aセクシュアル」というように単純に二分できるわけではなく、Aセクシュアルである度合によってグラデーションがある可能性がある
Aセクシュアルのなかには他人を性的対象としない「非他者的性欲(analloeroticism)」の人もいるようである。
Aセクシュアルのなかには「空想性愛(fictosexualあるいはfictoromantic)」を自認する人もいるようである。
Aセクシュアルの人々が恋愛的な空想をどのようなものとして経験しているか、調査が必要である。
Aセクシュアルのなかには「自己非関与的セクシュアリティ(autochorissexualityあるいはidentity-less sexuality)」である人もいるようである。
・「主体的指向/非主体的指向」という、これまで見落とされてきた指向があるかもしれない。
・まだ分からないことも多いので、今後も研究が必要である。

※なお記事作成者は英語素人なので、誤訳や誤解等がありましたらご指摘ください。

*1:具体的な当事者の声として、論文中ではWhat counts as fictosexual? - Asexual Musings and Rantings - Asexual Visibility and Education Networkが挙げられている

*2:このことは以前からも指摘されている。恋愛的指向 - Wikipedia

*3:なお、ここでの「主体的な」とは、「私を」とか「私が」という意識のことを指す。

*4:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: アメリカ精神医学会が出版する、精神障害の診断と統計マニュアル

性暴力ゲームは批判されるべきか?――レイプレイ事件に関する海外の論文

原題 “RapeLay and the return of the sex wars in Japan”(レイプレイと日本におけるセックス戦争の再来)PW Galbraith

梗概和訳
この論説では、プレイヤーに架空の女性をレイプすることを許すようなアダルトコンピューターゲームである『レイプレイ』(2006)への反応について考える。『レイプレイ』は世界的に流布したときに論争を引き起こし、日本で再び議論となった。そこではしばしば、1970年代後半から1980年代にかけての北米における、フェミニストによるポルノグラフィ批判の立場を明確に焼き直していた。2000年代における日本での「セックス戦争」の再来によって、私たちは、その闘争が未解決のまま放置した次の問いに直面する:空想それ自体は問題なのか? 言い換えれば、人々を架空の性行動の生産と受容に熱中させるが、描かれるような性行動には熱中させない、というアダルトコンピューターゲームは問題なのか? 性暴力を空想することは問題ないのか? あるいは一部の評論家が主張するように、そのような空想は女性への性暴力を常態化するだろうか? 日本では、性的空想、遊び、そして害への批評的で文化的なアプローチが考慮されている。

キーワード:日本、アダルトコンピュータゲーム、 性暴力、メディア効果、セックス戦争、性的政治、非西洋的視点、メディアリテラシーフェミニズム、レイプファンタジー

※上記リンクから全文がダウンロードできます。

【内容整理】

 アメリカの文化人類学者PW Galbraithによる、マンガやゲームにおける性暴力表現を巡る論考である。いつものように原文の目次に沿って紹介を進めていく。

・「レイプレイ問題」とは?

 簡単に言うと、2006年に日本のマイナーレーベルから発売されていた凌辱ゲームが、海賊版として違法な英語バージョンを作成され、それが2009年にイギリスやアメリカで注目され、批判された、という事件である。2010年頃に日本で「非実在青少年」騒動が起こったのは、この事件の影響もある。

 「レイプレイ問題」およびその影響から派生した日本での論争では、1970年代から1980年代にアメリカで生じたポルノグラフィ論争(通称 "Sex Wars"「セックス戦争」)と非常に似た議論が展開された。そのため今回の論文では随所で、レイプレイ問題を1980年頃のアメリカでの論争になぞらえて考察している。

中里見博によるレイプレイ批判

  徳島大学法学部の教授でポルノ・買春問題研究会のメンバーである中里見博は、「レイプレイ問題の経緯と法改正の課題」というエッセイで、『レイプレイ』に対して大きく3つの批判をしている。

・『レイプレイ』の内容は女性への差別を構成する
・『レイプレイ』は児童ポルノである
・このようなアダルトコンピューターゲームは女性と子どもを危険にさらすような性暴力文化を作り出す

 基本的に1980年代のポルノ論争で提出されていた批判と同じような内容である。しかし、架空のポルノグラフィはその他の形態のポルノグラフィよりも有害である、と主張している点は、『レイプレイ』問題ならではの記述だろう。中里見によれば、バーチャルだからこそより過激で、より暴力的な表現が作られ、それゆえにより社会にとって有害だという。

・「セックス戦争」を振り返るーーゲイル・ルービンの反論

 ここで話はいったん1980年代にさかのぼる。当時フェミニズムの立場からポルノグラフィを批判したダイアナ・ラッセルを相手取りながら、フェミニストである人類学者ゲイル・ルービンはポルノグラフィを擁護する論陣を張った。ルービンによれば、反ポルノ的フェミニズムの立論には以下のような問題があるという。

・明らかに悪いものへの批判から出発して、そこからあまり人々の怒りを買わないものにまで批判を向ける
・ポルノグラフィの制作時に行われた性暴力と、表現された内容の問題を混同する傾向がある
・有害性の根拠がないにもかかわらず、嫌悪と憤慨によって人々を動員させる
・断言によって(根拠がないにもかかわらず)あたかも信頼できる主張であるかのごとく見せかける
・男性を単純に抑圧と虐待と抑圧者・虐待者と見なすスタンスに、道徳的な権威を付与してしまう

 ルービンの主張については、前回の記事で(やや粗雑ながら)まとめているので、そちらも参照していただきたい。 

 やや話は逸れるが、ポルノグラフィが社会的に性暴力を増やすわけではない、という統計的調査として、ガルブレイスはいくつか論文を挙げている。関心のある方は原文の文献リストから確認していただきたい(Schodt 1996; Diamond and Uchiyama 1999; Ishikawa, Sasagawa, and  Essau 2012).

・では、日本でレイプファンタジーはどのように受容・議論されているか

 以下では性表現を受容する当事者や、その研究者たちの言説を整理している。マンガ・ゲーム評論家や研究者たちの著作および彼らへのインタビューなどが、主な題材となっている。

 レイプレイ問題が日本国内へと波及し、2010年頃には性暴力表現を規制する機運が高まっていた。これに対して、日本では多くのフェミニスト表現の自由や思想・良心の自由にもとづいて抵抗した。その例としてガルブレイスは、まずマンガ研究者である藤本由香里を挙げている。

  藤本はハーレクイン小説に描かれるレイプシーンに注目するよう促している。そこで描かれるレイプは「レイプしたい/されたい、という欲望を反映するものでもなければ、そのような欲望に影響を与えるものでもなく、むしろこの種の小説に特有の空想」である。BDSMが性暴力ではないのと同じように、レイプファンタジーはファンタジーなのである。

もしあなたがマンガファンに「実在の子どもかマンガか、どちらが欲しいか」と尋ねたなら、彼らはこう答えるだろう。「マンガをください」と。表現物の文脈を離れた道徳的な憤慨のなかでは、このことを誤解しがちである。

 つまり、「マンガキャラクターは現実的な身体を表象・参照するのではなく、むしろマンガ的な身体を表象・参照するのである」。

 また藤本は、一部の男性向けアダルトマンガやゲームの内容が「いやな」ものであると認識したうえで、その表現の規制に反対する。藤本によれば、性差別的な表現物は性差別の結果ではなくその兆候である。つまり性差別の可視化である。それゆえもし表現物が規制されてしまうと、単に性差別が不可視化されるだけで、むしろ性差別について議論する機会が奪われてしまうのである。またこのような規制は、成人男性が女性や子どもの性を統制・管理するというより大きな規制の一部になってしまう、とも指摘している。

 マンガ研究者・堀あきこも、ある研究会のなかで、フェミニストと保守政治家とが結びつくことに対して批判的に議論している。法的規制は、老若男女がマンガやゲームなどバーチャルセックスの安全な場へアクセスする機会を奪うのである。また堀は、男性向け表現ではなく、女性向けマンガ表現を擁護することに焦点を当てている。研究会には男性向けアダルトマンガを(おそらく無批判に?)称揚してしていた評論家が参加していたらしく、堀は彼に対して「あなたは自分がどのようにアダルトマンガを経験しているか、正直になって考えるべきである」「もしそのようなマンガが男性性をまったく規範化しないというのなら、どうしてなのか説明してほしい」と反論し、その後両者の間で活発な議論があったようである。このように、堀は「規制を増やすのではなく、自己批評、開かれた対話、他者への熟慮」をすべきだと考えている。

 そして『レイプレイ』から若干離れるが、3人目の論者としてフェミニズム研究者であるSetsu Shigematsuを取り上げている。Shigematsuは1970年代日本のフェミニズム運動史に関する初の英文研究書 Scream from the Shadows: The Women's Liberation Movement in Japan の作者であり、一貫して反ポルノ運動を批判する立場を取ってきた人物である。Shigematsuは1999年に発表した論文で、性表現が直接的に人々の価値観を左右するという考えを否定する。女性向けの性表現については、藤本と同様の主張を展開していると言える。現実にはさまざまな形で女性への性暴力が起こっているが、ポルノグラフィに描かれた内容を規制しても女性への暴力は解決しないのである。

「視聴者を性的に刺激する表現を置くことは、そこに描かれた行動を擁護することと同じ・・ではない」

 Shigematsuの議論のユニークな点は、女性向けだけでなく男性向けのアダルトマンガについても考察しているところである。Shigematsuはロリコンマンガを読む当事者の言説を参照し、次のように主張する。

ロリコンマンガを「女児ポルノ」と混同したり「実際の少女の性欲化や少女への性的いやがらせの結果・・とみなして、潰したり非難したりする」べきではない。

  Shigematsuは、表現物が直接に社会へと反映されるという考え方を否定し、むしろ現実から離れたマンガやゲームは「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」を切り拓くと論じている。そうしたメディアは、性について別の仕方で考える機会を提供するのである。

人々がどのようにロリコンマンガ(やその他のメディア)を消費し、私物化し、変形するかということや、彼らがその後どのように行動するかということを、あらかじめ管理したり決定することはできない。ポルノグラフィ制作・・における少女の使用や潜在的虐待や性的いやがらせは深刻な問題であるが、それを「ポルノの内容」の問題に置き換えたり切り詰めたりしてはならない。

・レイプレイ再考

 ここでガルブレイスは当事者男性に視線を移し、アダルトゲームのシナリオライター鏡裕之の著書(『非実在青少年論』)およびインタビューから考察を行う。鏡はフェミニズムをきちんと研究しているわけではないが、その著書には上述のフェニストらと共通する認識が書いてある。

  まず鏡は、アダルトゲームの制作者とプレイヤーがゲームと現実を区別していると語る。その根拠の一つとして、『レイプレイ』制作者が行なっていた倫理的配慮が挙げられている。

 倫理上の配慮も、ゲーム内で行われています。『レイプレイ』のエンディングでは、主人公はヒロインに殺されるという処罰を受けています。凌辱要素の強い美少女ゲームでは、凌辱を犯した者はエンディングで処罰されることになっているのです。
 パッケージやマニュアルにも、複数の箇所に注意書きが記されています。たとえば、パッケージの表と裏にはこうあります。

「※本作品には、暴力、残虐、犯罪行為等、過激な表現が含まれているのでご注意ください。また、痴漢やレイプを実際に行うと犯罪になるので絶対に真似しないでください」

 また次のような注意書きもパッケージに記されています。

「お店の方へ:この商品は18歳以上の方を対象にしたゲームです。一般の商品とは別の売り場または別の棚に陳列して興味のない方や子供の目に触れないようにできるだけ配慮して下さいますようお願い申し上げます」

 さらにマニュアルには、最初の項に「警告!」としてこのように記されています。

「このソフトの内容はあくまで創作物でありゲームです。このゲームの内容と同じことを現実に行うと法律によって処罰されます。ゲームの内容は芝居でありフィクションですので、影響を受けたり、絶対にマネをしないでください」

 配慮の上に配慮を、注意の上に注意を重ねているのがよくわかります。ケースには「JAPAN SALE ONLY」の表記もされていました。その『レイプレイ』に、アメリカの人権団体が噛みついたのです。(『非実在青少年論』p.218-p.220)

  また日本のマンガやゲームのキャラクターは、写真的リアリズムを志向する北米のゲームとは異なり、現実の身体を参照せず、それ自体として独立な欲望の対象であるとも指摘している。

 そして鏡の議論を通じて、ガルブレイスは「萌え絵リテラシー」や「萌えの倫理」といった用語に注目する。これは要するに、フィクションをフィクションとして受容し、現実と区別する能力のことである。萌えで描かれる女性像(あるいは男性像)が現実とは異なるということを正しく認識する、ということである。この倫理や能力が社会に行き渡っていれば、レイプファンタジーがレイプカルチャーを強化することはなく、性差別を再生産することもないだろう。これはShigematsuの言う「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」の具体例と言えよう。 

【雑感】

・内容について

 社会科学一般に言えることだが、特にセクシュアリティに関する議論では、当事者の実像を捉えないことには話が始まらない。今回の論文は、批評家兼マンガ読者という立場の人々の語りに着目したものとして参考になる。またアメリカのポルノ論争やBDSM論争を日本の性表現論争へと節合する試みとしても注目に値する。本論文のような観点も踏まえたうえで、発展的に議論を重ねていくことが重要だろう。

 また、鏡裕之の『非実在青少年論』は以前読んだことがあったので、ついでに触れておこう。こちらはゲーム作者兼消費者というまさに当事者の声で、言説分析の材料としては面白い。ただ内容自体を評価するなら、話題を広げ過ぎていて個々のテーマへの踏み込みが足りないというのが正直なところだった(これは想定している読者層の問題かもしれないが)。さらに、「男性性」や「女性性」というものを単一的・本質主義的に捉えている節があり、控えめに言ってもフェニズムや男性学からの掘り下げがかなり浅いという印象が否めなかった。とはいえ、『レイプレイ』騒動直後の状況を反映した言説資料としては興味深い。このジェンダー的知見を欠いた著述にも、藤本や堀やShigematsuらフェミニストと同様の志向が(時に「萌え絵リテラシー」など、より具体的な議論として)表れているというガルブレイスの指摘は意義のあるものだろう*1

・個人的な感想

 せっかくなので、現時点での自分の考えを暫定的に、ごくごく大雑把に書いてみる。

 表現がそれ自体として「悪」となる、という発想は基本的に間違いだろう*2。たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』は出版直後にヨーロッパ中で恋愛自殺を引き起こし、社会問題化したと言われている。しかし現代では、ウェルテルに「殺される」人はほとんどいない。表現された内容は全く変わっていないが、表現を受容する社会が変化したことによって、ウェルテルの影響力は大きく変化していると言えるだろう。これに対して、「将来的にどう社会が変化するかは知らないが、現にいま人が死んでいる以上、差し当たりいまは表現それ自体を批判するべきだ」と当時の人なら考えるかもしれない*3。しかし、その考え方に従って『若きウェルテルの悩み』や文学が社会的に抹殺されてしまえば、将来の社会への損失は計り知れなかっただろう*4

 同じ構図がマンガ等の性表現についても当てはまる。もし仮にマンガに描かれた女性像が現実の女性の営みを規定するという場合でも、問題なのは表現それ自体ではなく、その表現を受容する社会こそが問題なのである。これに対して、表現物それ自体を問題視してしまうと、別の問題が生じてしまうだろう。ただしここで言う「別の問題」とは、単に表現の自由が失われるという話ではない。 

 注目すべきは、身体接触や性愛関係を前提としない、オルタナティブな性の倫理がすでに現れている・・・・・・・・という点である。描かれたキャラクターが(現実の男/女の代替ではなく)それ自体として独立した性的対象である、ということが多くの当事者たちによって語られている*5。そうだとすると、もし「描かれた性表現が現実の女性の存在を劣位に留め置くものとして機能するのだ」と主張するのであれば、単に表現物やそれを直接的に享受する当事者のみを非難するのではなく、むしろそれらを取りまく社会環境や社会規範をこそ問題化すべきではないだろうか。本文中の言葉を使えば、「萌えの倫理」の浸透を妨げる社会環境をこそ、問題化すべきだということである*6

 ウェルテルの例からも分かるように、表現がもたらす悪影響を評価するためには、その表現物がどのような文脈に置かれているかを考慮しなければならない*7。たとえば話題に上っていた『レイプレイ』は、極めて限られた客層をターゲットにしており、また作品内容も決してレイプを肯定するものではない。『レイプレイ』それ自体が特段に日本のジェンダー観を悪化させたとは考えがたい。それにもかかわらず『レイプレイ』を批判するということは、結局のところ身体接触や性愛関係にとって都合の悪いセクシュアリティを排撃することにしかならないと思われる。身体接触という「正しいセクシュアリティ」を特権化し、そこから外れた営みを排除するという点で、単純にレイプファンタジーを批判するということは(たとえ法的規制を主張しないとしても)「萌えの倫理」への攻撃として機能し得るかもしれないのだ。この点で、単に表現それ自体を批判することは、ある種の保守的思考と共鳴しているようにも見える。これはまさに、80年代にアメリカの一部のフェミニストがBDSMを攻撃したことと同型な議論と言えるだろう。

 もし性暴力表現が現実社会に悪影響をもたらしうるとすれば、そこで問題とされるべきは「私たちの社会が、性器接触や性愛関係を前提としている」ということではないだろうか。「身体接触の相手や性愛関係の相手を獲得しない/できない人間が、不当に異端視・蔑視される」ことではないだろうか。もっと言えば「特定の『正しいセクシュアリティ』を規範化し、そこから逸脱する人間を排除している」ということではないだろうか。それらを批判せず一足飛びに表現物を批判することは、むしろ「オルタナティブな性の倫理」を踏みつぶし、「男‐女」という関係性を特権的なものとして温存し続けるだけに終わるのではないだろうか*8

 すでに多くの論者が指摘しているように、性差別と「正しいセクシュアリティ」の規範には密接なつながりがある*9。本論の文脈を考えれば、ここでは「正しいセクシュアリティ」を「性愛の倫理」と言い換えてもよいだろう。「性愛の倫理」はある一面で「SMの倫理」と対立し、また別の一面で「萌えの倫理」とも対立する。あるいは、Aセクシュアルの不可視化も「性愛の倫理」の下で生じている、と考えてよいかもしれない。そして「性愛の倫理」は正確には「異性愛の倫理」であり、「性愛の倫理」内で同性愛が他者化されているということも忘れてはならない。

 これに対して、「同性愛も萌えもSMも近年では社会に受け入れられているじゃないか」と考える人もいるかもしれない。確かに一面ではそうとも言えるだろう。しかしそれは「性愛の倫理」を脅かさない限りでの受容でしかなく、そこからはみ出す者については相変わらず排除の対象となっているのではないだろうか。

 論の展開上、ここでは同性愛や萌えやAセクシュアルやSMを同列に並べているが、もちろん個別には問題のあり方がそれぞれ異なる。とはいえ、いずれも「正しいセクシュアリティ」規範という同一の問題系に属している、と捉える視点にも一定以上の意義があるのではないだろうか。

 性差別への抗議は当然必要だが、その際に「正しいセクシュアリティ」を補強してしまうのは悪手と思われる。それよりも「オルタナティブな性の倫理」をさらに洗練させ、性差別的な「正しいセクシュアリティ」規範の解体を志向するべきではないだろうか*10

 ・関連記事

*1:正直、以前『非実在青少年論』を単体で読んだときは、あまり高く評価はできなかった。特にフェミニズムについて、法的な表現規制の観点からしか考察しておらず、法規制への反論にはなっても、規制を要求しない批判への反論・応答にはなっていなかった。つまりフェミニズムが何を問題としたのか、根本的な部分をとらえていないのである。あとソース不明で信憑性に欠ける記述が散見されたので、情報源にした資料をきちんと明記してほしい。とはいえ、ゲーム制作業界の裏話などについてはなかなか面白い話も載っており、言説資料としては価値のある本だと思う

*2:ヘイトスピーチはどうなのか、という疑問があるかもしれない。あくまで雑感なのでキチンとした論証はしないが、さしあたり「死ね」というシンプルな例から考えてみよう。この表現が暴力になる条件としては、たとえば「人間にとって『死』が暴力である」という背景がある。もし仮にこの背景を完璧に取り除くことができれば、「死ね」は暴力ではなくなるかもしれない。しかしここからが重要で、1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題が生じる。「死ね」の例は、1)について言えば技術的にも価値観的にも極めて困難であり、2)について言えば極度の困難を乗り越えてまでそのような社会を目指すべきと主張することは難しいだろう。それゆえヘイトスピーチとしての「死ね」については、表現物それ自体の問題として扱うことに一定の妥当性があると考えられる。

なおこの議論は法的規制の是非に関するものではなく、規制を要求しない一般的な批判について考察するものである。ヘイトスピーチではない「死ね」については、後述する文脈的問題の注を参照

*3:あくまで思考実験としての仮定である

*4:たとえばウェルテルを読むことで救われた人、そしてウェルテルの影響を受けた文学作品によって救われた人の存在を忘れてはならない

*5:溝口彰子『BL進化論』永山薫『エロマンガ・スタディーズなどにも、そのような語りが見られる

*6:先ほど注で挙げた1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題を考えてみる。個人的には、1)他のあらゆる価値変動と同じく困難はあるが、基本的に価値観の変化だけでよいので不可能ではない、2)もともとの性表現批判の目的が性差別解消であり、それに役立つという理由がある、と考えている。長くなるため論証はしないが、後述する「正しいセクシュアリティ」の議論も参照してほしい

*7:再びヘイトスピーチを考える。見知った仲の相手に、誇張表現であることが容易に理解できる文脈を共有したうえで発される「死ね」は、ヘイトとは言えないだろう。この意味でも、表現物それ自体だけでなく、文脈も判断する必要がある

*8:こういう話に関心のある方は、セジウィック『クローゼットの認識論』の序論やプラマー『セクシュアル・ストーリーの時代』の8章や9章あたりを読むと、良い示唆を得られると思う

*9:ここで言う「正しいセクシュアリティ」とは、愛によって恒常的に安定した家庭、生殖、および性器接触を特権化する規範である。詳しくは竹村和子『愛について』などを読んでいただきたい

*10:「性愛」や「親密性」を善きものとして称揚している論者が結構な数いるが、上述のように、むしろそのような一見美しく見えるものにこそ警戒をした方がいいだろう

ゲイル・ルービン『性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』個人的要約メモ

 フェミニズム文化人類学者のゲイル・ルービンによる、ゲイ/レズビアン運動やクィア・スタディーズにおける重要文献(原典初出は1984年)。多様なセクシュアリティが階層化され、下層に位置付けられたセクシュアリティが法制度や社会規範によって攻撃されている、ということを理論的に述べた論文である。また、セクシュアリティ研究とフェミニズムの理論は区別しなければならないという指摘も重要である。ネット上にまとまった紹介がなかったので、引用を中心に内容をまとめておく。(ただし自分用のメモなので、基本的に年表的な部分については省略しています。関心のある方は元の論文にあたってください)。

1 性の戦争
 セクシュアリティと法制度をめぐる闘争について、アメリカの事例を概観する章。取り上げられるのは、同性愛と小児性愛である。

2 性の思考

 まず本章の冒頭部分を引用しておく。

セックスをめぐるラディカルな理論は、性における不正や性的抑圧を見いだし、記述し、説明し、告発しなければならない。そのような理論は主体を把握することができ、それを見えるようにしておくことができるような洗練された概念的道具立てを必要としているのだ。そうすることで、セクシュアリティを社会や歴史のなかのありのままの姿で豊かに記述することができるようになるのである。また、それには性に関する迫害がいかに野蛮なことであるかを伝えることができるような説得力のある批判的言語が必要となる。(p.102)

 このような理論が形成されるのを阻害する要因として、ルービンは六つのイデオロギーを挙げている。
・性に関する本質主義
・セックスに関する否定
・誤ったものさしという誤謬
・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け
・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論
・好ましい性的多様性の概念の欠如

 

・性に関する本質主義
 性に関する本質主義とは「性は社会生活に先んじて存在し、制度を形作る自然の力であるという考え」(p.102)である。これに対しては多くの論者が批判している。

・セックスに関する否定
 キリスト教伝統のほとんどが、セックスを罪深いものとみなしてきた。生殖器が精神よりも本質的に劣った箇所である、という前提があった。現代ではこのような考え方は、もはや宗教的理由づけを必要とせず、一人歩きし始めている。

・誤ったものさしという誤謬
 これは、価値観や好みに関する小さな差異が過剰に重視されている、という状況を表すものである。「つまり、性行為は過度な意味づけをされているということなのだ」(p.105)。このことは「セックスに対する否定の必然的結果である」とされる(p.105)。

・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け
 近代西洋社会には、「結婚していて、生殖を伴う異性愛者」を頂点とする性のヒエラルキーがある。その下に、「カップルではあるが結婚していない異性愛者」が続き、その他の異性愛者がさらに下へと位置付けられる。
 「ひとりだけのセックス」(=マスターベーション)は、「パートナーとの出会いがない人達の劣った代替行為であるという考えなど」のようなスティグマを付与されている。

安定し、長期間続いているレズビアンやゲイのカップルは尊敬に値されるようになっているが、バーに通うようなレズビアンや乱交好きのゲイはピラミッドの最底辺にある集団の少し上あたりをうろうろしている(p.105-106)

 最も軽蔑される性的なカーストは、今のところトランスセクシュアルトランスヴェスタイト、フェティシスト、サド・マゾキスト、売春婦やポルノのモデルなどのセックスワーカーであり、その中でもとりわけ低い位置にあるのが、性的な結びつきにより世代間の境界を侵犯するような人々とされている。(p.105-106)

 このようなヒエラルキーの上位に位置する人には様々な物質的・制度的・社会的恩恵が付与される。対して下位の人々には、病気扱い、犯罪、恩恵の喪失、制裁などが与えられる。このヒエラルキーを示したのが、以下の図である。

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・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論
 これまで述べてきたセクシュアリティヒエラルキーを踏まえて、どの階層の性までが許されて、どの階層を認めないものとするか、に関する境界線が引かれる。そのことを表したのが、次の図である。

f:id:mtwrmtwr:20170402023027j:plain


 では、なぜこのような境界線を必要とするのか? 境界線がなくなると、「邪悪な」セックスがなし崩し的に生じてしまうのではないか、という不安があるからである。そのようなイデオロギーを「性的な危険のドミノ理論」と呼ぶ。

・好ましい性的多様性の概念の欠如
 先ほどの図に示されたような、「善良な」セックスと「邪悪な」セックスに関する性的道徳観には、「真の倫理観よりはむしろ人種差別のイデオロギーと共通するところがある。それにより支配集団に美徳が当然のように与えられ、特権をもたない人々には悪徳が委ねられてしまう」(p.109)。
「唯一の理想的なセクシュアリティ」が存在するという固定観念を破るために、文化人類学的な視点や実証的研究が求められる。

3 性の変遷

 同性愛は性をめぐる種族化の過程の絶好の例である。同性愛の行動はつねに人類の間に存在してきた。しかし、社会や時代が異なれば、推奨されることもあれば、罰せられることもあったのである。(p.111)

 同性愛が疑似エスニック的で、集団化し、性的に構成されたコミュニティとして成立していったのは、ある程度は産業化によって育成された人々が移動を果たした結果である。労働者が都市での労働を目的として移動するにつれて、自発的コミュニティを形成する機会が増えていった。同性愛の傾向をもつ男性も女性も、産業社会になる以前の農村では攻撃にさらされており、孤立した状態であったが、大都市の小さな一郭に集まり始めたのだ。(p.112)

こうした地域には悪評が立ち、それにより利害関係の対立する人々は同性愛者の存在や居住地に対して警戒心をもった。(p.112)

 売春も同じような変遷をたどってきた。(p.113)

倒錯のカテゴリーは、そうした人々(=同性愛者の「成功」を見習おうとする、他のセクシュアリティ)が社会的空間や小規模なビジネス、政治的手段、性的に異端者であるという罰から救い出される方法を獲得しようと試みているほどには、増えていっていないのである。(p.113)

4 性の階層化
 法律や社会規範がセクシュアリティを階層化し、下層の性に対して迫害をもたらしている。あげられる法令は30年以上前のアメリカのもので、具体例は省略。

5 性の対立

 性に関するイデオロギーは性的な経験のなかで重要な役割を果たす。したがって、性的行動の定義づけや評価は激烈な抗争の対象となる。(p.120)

 性的行動に対する法的規制は、もうひとつの戦場である。(p.120)

 定義と法律に対する戦いに加えて、私が領土的および境界の戦いと呼ぶような、あまり明白にはなっていない形の政治的対立が存在する。様々な性的マイノリティがコミュニティを形成する諸過程やそれらのマイノリティを禁止しようとする諸勢力が性に関わる諸区分の性質や境界をめぐって闘うことになるのだ。(p.120)

 最も重要かつ首尾一貫した性的対立は、ジェフリー・ウィークスが「道徳的パニック」と呼んでいるものである。道徳的パニックはセックスの「政治的機制」であり、その中では様々な態度が政治的行動に変換され、そこから社会変革へと移行するのである。一八八〇年代の白人奴隷のヒステリー(興奮状態)、一九五〇年代の反同性愛キャンペーン、一九七〇年代後半のチャイルド・ポルノ・パニックは典型的な道徳的パニックである。(p.122-123)

性的諸活動は個人や社会の不安にとっては、シニフィアンとして機能することがよくあるのだが、実際にはその不安と性的諸活動は何の結びつきもないのである。道徳的パニックが起きているあいだは、そのような不安は不運な性的活動あるいは性的集団にあると考えられてしまうのだ。(p.123)

 道徳的パニックがあらゆる現実問題を軽減することはほとんどない。というのも、そうしたパニックは様々な妄想やシニフィアンに向けられているからである。それらは「悪徳」を犯罪として取り扱うことを正当かするために犠牲者を作り出すような既存の言説的構造に依拠している。(p.123)

行動が無害であることが認識されているときでさえ、それは明らかにより邪悪なものに「なっていく」(ドミノ理論の別の表現)のではないかと主張されることで禁止されることもあるだろう。(p.123)

現在展開中のふたつのことのなかに潜む道徳的パニックを見出すには、それほどの洞察はいらない。ひとつは、フェミニズムの一部の人による、サド・マゾキストに対する攻撃であり、もう一つは右翼が敵意に満ちたホモフォビアを引き起こすためにエイズをますます利用するようになっていることである。(p.123)

初期の反ポルノのスライド・ショーでは、S/Mのイメージの巧みに選別された例を使って、きわめて説得力を欠く分析を行ってたのだ。文脈からはずれれば、そのようなイメージはショッキングになることは多い。こうしたショックの価値は残酷なまでに聴衆を畏怖させ、反ポルノ的視点を受容するように仕向けるために利用されたのだ。(p.123-124)

 フェミニストのレトリックは、反動的な文脈で再び現れるような、悲観的な傾向を有している。例えば、一九八〇年から一九八一年にかけて、ヨハネ・パウロ二世は、人間のセクシュアリティに関してもっとも保守的で、聖パウロの解釈に自らが傾倒していることを再肯定するような見解を述べた。離婚、中絶、足入れ婚、ポルノグラフィ、売春、生殖管理、制御の効かなくなった快楽主義、そして快楽を非難する中で、法王が性的なものに異議を唱えるにあたってフェミニストのレトリックを用いたのである。レズビアンフェミニストの論争家、ジュリア・ペネロープの言うように、教皇様は、「快楽に満ちたやり方で誰かについて考えることによって、その人を尊厳に値する人間であるとするのではなく、むしろ性的対象としてしまうのだ」とご説明なさったのだ。(p.124)

 右翼はポルノグラフィに反対し、すでにフェミニストの反ポルノのレトリックの諸要素を採用してきたのである。(p.124)

 エイズは、病気になった本人にとっては個人的な悲劇でもあり、またゲイ・コミュニティにとっては降ってわいた災難でもある。同性愛を嫌悪する人は、大はしゃぎで犠牲者に対して悲劇を振り向けようと躍起になっている。(p.125)

新しい疫病に伴うパニックやそれにより作り出されたスケープゴートによる被害者についての歴史から学ぶことは、エイズに基づく反ゲイ的な政策を正当化するあらゆる試みに対してはきわめて懐疑的なまなざしをもって立ち止まり、考えることを私たちのだれもがすべきだということである。(p.126)

6 フェミニズムの諸限界

反ポルノのプロパガンダによって、性差別は商業的な性産業の内部にその源泉があり、そのあと社会の別の部分に広がっていくといわれることがよくある。これは社会学的に言えば無意味なことである。性産業はフェミニストの理想郷ではない。まさに、性産業は社会全体に存在する性差別を反映したものなのである。われわれは性産業に特有のジェンダーの不平等性が様々な形で表れているものを分析し、それに対して反対していく必要がある。しかし、これは商業的なセックスを一掃してしまうという試みとは異なるのである。(p.127)

 同様に、サド・マゾキストやトランスセクシュアルなど多様な性的マイノリティは、政治的に任意な他の社会的集団と同じように性差別的な態度や行動を示すことがある。しかし、彼らが反フェミニスト的であると主張することは完全な幻想である。(p.127)

性をめぐる法律の大半が合意の上での行動と強制的行動とを区別していない。レイプに関する法律のみがそうした区別を含んでいる。レイプに関する法律は、私の視点では正しいと思うのだが、異性愛の行動は自由に選択される、あるいは強制されるという前提に基づいている。異性愛行動が他の諸法令の管轄の下に置かれず、双方の合意のものである限りは、それを行う法的権利が与えられるのである。

 このようなことは他のほとんどの性的行動には該当しない。(p.129)

セックスとジェンダーは関連しているとはいえ同じものではなく、社会的実践に関してはふたつの異なった領域の基礎を形成している(p.133)

ジェンダーセクシュアリティの個々の社会的存在をより正確に反映するために、分析上はふたつのものを分けて考えることが必要である(p.133)

・出典

Rubin, Gayle., 1984, “Thinking Sex:Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality,” Carole Vance, ed., Pleasure and Danger, London: Routledge.(=1997、河口和也訳、「性を考える」『現代思想』25-6: 94-144。)
原典(英語)はこちら
この論文の続編といえる論文 Blood under the Bridge: Reflections on "Thinking Sex"も併せてどうぞ

・おまけ

ルービンの図1に言及している記事で、興味深いものがあったので、ついでに紹介しておく。

オナニーしたってAセクです!――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(前編)

原題:"Sexual fantasy and masturbation among asexual individuals: An In-Depth Exploration"(「Aセクシャルの性的空想とマスターベーション:徹底的な調査」)

 梗概(和訳)
 Aセクシャルの人は一般的に、セクシャル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)を欠いている人、と定義される。私たちはオンラインアンケートを用いてマスターベーションの動機について調査し、Aセクシャルの人(Aセクシャル自認尺度を用いて同定した)とセクシャルの人の性的空想を調査、比較した。合計で351人のAセクシャル(女性292人、男性59人)と388人のセクシャル(女性221人、男性167人)が調査に参加した。Aセクシャルの女性は、セクシャルの女性、セクシャルの男性、Aセクシャルの男性と比べてマスターベーションする傾向が有意に低かった。Aセクシャルの女性はマスターベーションによる性的快感や愉しみを報告する傾向が他の属性の人と比べて低く、Aセクシャルの男性はマスターベーションによる性的快感や愉しみを報告する傾向がセクシャルの男性よりも低かった。Aセクシャルの男女両方で、性的空想をしたことのないという報告がセクシャルの男女と比べて有意に多かった。性的空想をしたことのある人のうち、Aセクシャルの男女では「私の空想は他人を伴わない(my fantasies do not involve other people)」という回答を支持する人がセクシャルの男女と比べて有意に多く、またセクシャルの回答者と比べて一貫して、アンケート上で性的空想をより性的に興奮する程度の低いものとして得点付けした。自由記述形式を用いたところでは、Aセクシャルの回答者は自分自身を伴わないような内容の性的空想をいだく傾向がより高く、また乱交や青姦や浮気などのようなトピックに関する空想をする傾向がより低かった。興味深いことに、Aセクシャルの回答者とセクシャルの回答者の性的空想には多くの重複があった。特に、Aセクシャルとセクシャルの回答者の両方(男女両方)が同じぐらいフェティッシュとBDSMのようなトピックについての空想をする可能性があった。
 キーワード:Aセクシャリティ性的指向マスターベーション、性的空想

全文はこちら↓
https://www.researchgate.net/publication/310785313_Sexual_Fantasy_and_Masturbation_Among_Asexual_Individuals_An_In-Depth_Exploration

【内容整理1 先行研究レビュー】

 Aセクシャルの自慰に関する研究である。この論文で行われた調査自体も興味深いのだが、イントロダクションにまとめられた先行研究レビューにも、色々と面白い情報が書いてある。論文本体の研究結果は次回紹介するとして、今回は先行研究のレビューから見ていこう。

●Aセクシャルの人はどれぐらい存在するのか?
 先行研究として、イギリス在住者に対する大規模な推定調査が挙げられている。それによると、成年人口のうち0.5%(Aicken,Mercer,&Cassel, 2013;Bogaert, 2013)から1%(Bogaert, 2004; Poston & Baumle, 2010)がAセクシャルだそうである。
 より小規模な研究もいくつかある。現在男女どちらにも惹かれていないというニュージーランドの高校生を対象とした調査では、2%がAセクシャルであるという(Lucassenet al.,2011)。また過去一年以内にセクシャル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)を経験していないフィンランド女性のうち、多く見積もって3.3%がAセクシャルであるという調査もある(Hoglund,Jern,Sandnabba,&Santtila,2014)。

●Aセクシャルは「性的指向」なのか?
 Aセクシャルが独立した性的指向であるかどうかは、研究者の間でも見解が分かれている。単なる性的指向の欠如であると考える研究者もいる一方、生物学的根拠のある独立した性的指向であると主張する研究者もいる。この論文の筆者らは後者の立場をとっている。この立場について詳しく知りたい方はBrottoらの論文(Brotto&Yule,2016)を参照せよ、とのこと。

●Aセクシャルの人はオナニーをするのか?
 梗概の和訳にも書いたように、Aセクシャルは「セクシャル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)を欠いている人」と定義される。ところが近年では、Aセクシャルの人々はマスターベーションをしている、という研究が出ている。
 Brottoら(2010)の研究からは、80%のAセクシャル男性と73%のAセクシャル女性がマスターベーションをしているという結果が出た。この割合は、イギリスでセクシャルの人を対象に行われた調査(Gerressu,Mercer,Graham,Willings,&Johnson,2008)と同じぐらいの値だそうである。
 これに対して別の研究からは、Aセクシャルの人々はセクシャルの人々よりもマスターべーションする割合が低いという結果が出されており(Bogaert, 2013;Yule, Brotto,&Gorzalka,2014b)、論文の筆者らもこの立場を支持する。
 とはいえ先行研究によれば、Aセクシャルの人々のうち無視できない数がマスターベーションをしている。一見するとAセクシャルの定義と矛盾するかのようにも感じられるが、これはどのように解釈するべきなのだろうか。

●そもそも人は何のためにオナニーをするのか?
 ここで一旦Aセクシャルから離れて、マスターベーション全般について考えてみたい。かの有名なキンゼイレポートによれば、ほぼすべての男性と60%の女性が、人生のうち最低でも一度はマスターベーションをしたことがあるという(Kinsey,Pomeroy,&Martin,1948;Kinsey,Pomeroy,Martin,&Gebhard,1953)。キンゼイの研究はかなり古い調査だが、より最近の調査からも同様な結果が確認されたようである(Laumann, Gagnon, Michael, & Michaels, 1994)。
 さて、人はどうしてマスターべーションをするのだろうか? マスターベーションの動機は何なのだろうか?
 多くの人が最初に思いつくのは、性的快感を得ることや、叶わない性交への渇望を解消すること等だろう。もちろんこのような動機もあるが、他にも自分の身体の探求(body exploration)や、寝つきを良くするため、あるいは退屈や孤独を紛らわす、といった動機も一般的なものである(Carvalheira&Leal,2013;Clifford,1978)つまりマスターベーションには、性的な動機と非性的な動機があるというわけである。

●Aセクシャルの人にとって、オナニーの動機は何か?
 この問題については、まだはっきりした答えはない。Brottoら(2010)の調査では、Aセクシャルのマスターベーションは非性的な動機によるものだ、という仮説が提示されている。これに対してBogaert(2012b)は、アイデンティティ欠如型マスターベーション(an identity-less masturbation pattern)という考えを導入した。これは性的パートナーや性的空想を介することなしに行われるもので、このようなマスターベーションのなかで、当人は自己意識と性的対象との分離を経験するという。

●性的空想とは何か?
 LeitenbergとHenningら(1995)によれば、性的空想は、「エロティックもしくは性的な刺激を経験させるような思考、精神的イメージ、あるいは想像上のシナリオである」と定義される。LeitenbergとHenningによる先行研究のまとめによれば、77%から100%の男女が性的活動をしていないときに性的空想を持ったことがあり、また86%の男性と69%の女性がマスターベーション中に性的空想をするという。
 性的空想は個人の性的指向とセクシャル・アトラクションを明らかにする上で、性的振る舞いや性自認よりも重要なものだと言われている。というのも、振る舞いは社会的規範によって抑圧されることがあり、また性的パートナーから自身の指向と異なる性行為を強制されることもあるからだ。

●性的空想は無意識の願望か?
 性的空想は、空想する本人の欲望を反映していると言われることがある。しかし「レイプ・ファンタジー」のような、本人が現実生活で経験したくないようなテーマを空想することはままあり(Bivona,Critelli,&Clark, 2012;Clifford,1978; Critelli & Bivona, 2008)、57%の女性がそのような空想をしたことがある、という調査もある。これについては、男性の性的空想は欲望の反映である割合が高く、女性の場合は相対的に低い、といった男女差があるかもしれない。

●Aセクシャルの性的空想にはどんな傾向があるのか?
 先行研究によると、Aセクシャルの人はセクシャルの人と比べて、性的空想をいだいたことがないという割合が有意に高かった。Yuleら(2014)によれば、セクシャルのうち性的空想をしないという人は1%から8%だったが、Aセクシャルでは40%だったという。さらに興味深いことに、「自分の性的空想は他人についてのものではない」("these fantasies were not about other people")という人の割合である。セクシャルの人のうちこのように答えた人は1.5%だったのに対し、Aセクシャルでは11%だったのだ。
 つまりAセクシャルの人の方が、人を主役とする性的空想をあまりしない傾向があるかもしれない。ただしAセクシャルの空想の内容について、まだはっきりしたことは言えない。

●というわけで
 以上が、今回紹介した論文にまとめられていた先行研究である。これをふまえてYule、Brotto、Gorzalkaらは、Aセクシャルの性的空想の内容をこまかく調査する。その調査・分析の結果については次回の記事で紹介する。 

※なおブログ筆者は英語素人です。訳や解釈の誤り等については一切責任を負いませんのでご了承ください。文献情報については、元論文の掲載URLを参照ください。

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