境界線の虹鱒

セクシュアリティ徒然草(情報の正確さは保証いたしませんので自己責任でご活用ください)

【文献メモ】トランスジェンダー差別とクィア・アフェクト理論――アメリカの「トイレ法案」を事例に

Julie D. Nelson, 2018, “Governing Bodies: The Affects and Rhetorics of North Carolina’s House Bill 2” Lei Zhang, Carlton Clark eds., Affect, Emotion, and Rhetorical Persuasion in Mass Communication, New York: Routledge, 106-114.

2016年2月にノースカロライナ州の都市シャーロットで、公共施設が性的指向性自認にもとづいて人々を差別することを禁じる市議会条例が可決された。ところがこれに対抗する形で、2016年3月にノースカロライナ州知事パット・マクロリーがNorth Carolina House Bill 2(略称HB2、通称「トイレ法案」Bathroom Bill)に署名した。この法案は、トランスジェンダーの人々に出生証明書の性別に応じた公衆トイレを使用することを義務づける、というものである。

この章では、まず法案が部分的に撤回されるまでの顛末を確認する。次いで、どのようにして情動がトランスジェンダージェンダー規範に従わない(gender nonconforming)人々のクィアアイデンティティと文化的反応を形成するかを考えるために、クィア研究における情動理論をサーヴェイする。最後にHB2支持派のレトリックなどを分析し、とりわけトイレが象徴的な文化的、情動的な場となったときに、いかにして情動が世論を形成するかを考察する。

HB2の背景(HB2 Background)

この法案は2017年3月に部分的に撤回されたが、それにもかかわらず法案の衝撃は広範囲に及んでいる。本節では、ノースカロライナ州知事マクロリーによる署名以降の顛末を概観する*1

州知事マクロリーの署名後、HB2は公民権の侵害だとして複数の企業が州をボイコット

・同法案は公民権法第9編(the Civil Rights Act, Title IX)と女性に対する暴力防止法(the Violence Against Women Act)に違反しているとして、2016年にアメリカ司法省がマクロリーを告訴

・企業の大規模なボイコットにより、12年間で40億ドル近くの州の収入が失われるという見積が公表。これによって多くのノースカロライナの住民が抗議し、2016年の州知事選挙にてマクロリーが僅差で敗北

全米大学体育協会NCAA)が、48時間以内にHB2を部分的に撤回しなければノースカロライナでの大会予定を変更すると表明。これを受けてトイレに関する条項は削除された。しかし依然として、LGBTQの人々を差別なく保護するための議案を地方自治体が可決することは禁じられたままだった。それゆえ「偽りの撤回」(fake repeal)や "HB2.0."などと批判された。

・このような流れを受けて、ほかに16の州で同様の法案が推進されたが、現時点では他の法案は成立していない

クィア理論 

西洋では、物事を二元論的に捉える見方が歴史的に存在した(男/女、白人/黒人、論理/感情、異性愛/同性愛、正常/逸脱、など)。さらにこうした二元論的な枠組みには権力関係がともなっており、一方が特権化され他方が従属的地位におかれている。さらに二元論的な見方のもとでは、ジェンダーセクシュアリティに関する多様なアイデンティティ(パンセクシュアル、トランスジェンダーアセクシュアルインターセックスなど)が不可視化される。

こうしたヘテロノーマティヴィティ(男女の関係が自然で正しいという信念)や、「男」「女」は出生時に決定される固定的なアイデンティティであるという思い込みを批判的に検討するのが、クィア理論である。

ジェンダー二元論やヘテロノーマティヴィティにもとづく排他的な実践は、言語のレベルだけでなく身体のレベルでも学習され強制される。人間の身体には、他者との交流や環境に応えるような生理的反応が備わっている(例:幸福に温かみをいだいたり、恐怖で緊張したり、嫌悪からすくみ上ったり)。そのためクィアな人々は、排除されたり受容されたりしていることを身体で感じ取る。

情動に関する諸理論は、いかにして身体的感覚と強度が世界についての理解を形成するか、ということに焦点を当てている。それゆえ、クィアアイデンティティを構成しつつ周縁化するような感覚、感情、欲望を考えるさいに、情動理論が役に立つ。

クィアな情動(Queer Affects)

情動の第1の機能:さまざまなものと結びつく(アタッチメント)

人文社会系の研究ではブライアン・マッスミなどの情動理論(情動をはっきりした意識の外側で働くものと定義している)から議論を進めるものが多い。これに対してクィア研究では、心理学者シルヴァン・トムキンス(Silvan Tomkins)の情動理論に依拠する傾向がある。トムキンスの場合、マッスミよりも情動を流動的に定義しており、しばしば感覚や感情あるいは気分(feeling, emotion, or mood)と言った概念と置き換え可能なものとして使われる。

イヴ・コゾフスキー・セジウィック(Eve Kosofsky Sedgwick)*2トムキンスの情動理論をクィア理論に統合し、「情動は、事物、人々、思考、感覚、関係、活動、意思、組織、または他の情動を含む数多くの他のものと結びつき、そして結びつきうる」と主張している*3セジウィックは、このようなアタッチメント(結びつき)を情動の1つの主要な機能と位置づけている。

情動の第2の機能:自己と社会についての捉え方を形成する

多くのクィア理論家が、恥をクィアアイデンティティに付随する共通の情動だと論じている。恥は特定の集団を「逸脱している」ものとして徴しづけ、そして否定性を当の集団自身へと向ける。エルスペス・プロビン(Elspeth Probyn)*4によれば、恥は身体が相互作用する仕方や私たちが社会を理解する仕方を形成する*5。このような相互作用によってクィアな人々は、自身のアイデンティティにネガティブな情動が結びつき、その蓄積のもとで生が形成されることになる。

またメーガン・ワトキンス(Megan Watkins)*6によれば、このように特定の情動をともなう経験が続くことによって、人々に特定の行為や反応を促す傾向が生じる。ネガティブな情動をともなう経験が繰り返されるなかで、自分自身の捉え方が形成されるのである。

情動の第3の機能:公共的な場に参加できる可能性を拡張/制限する

ローレン・バーラント(Lauren Berlant)*7によれば、公共空間は情動的なものであり、そこでは文化的な区分や慣習によって、包摂される人と排除される人が巧妙に生み出される*8。またサラ・アーメッド(Sara Ahmed)*9によれば、身体が空間内へ拡張される仕方や、空間内で制限される仕方によって「諸身体はジェンダー化され、セクシュアル化され、人種化されている」。アーメッドは公共の場に存在することを歓迎される身体を「拡張された」(extended)身体と呼ぶ。これに対して社会的マイノリティは、公共の場に現れることを制限される(お前は誰だ、なぜここにいるのか、何をしているのか、などという疑問を向けられることによって)。

情動の第4の機能:大衆感情を生み出す

公共的な情動が繰り返されることで、バーラントが「情動的公共圏」(affective public sphere)と呼ぶような集合的/文化的感覚が構成される。クィアな人々への恐怖は、LGBTQフォビックな大衆感情を形作る情動である。

アーメッドによれば、異性愛の生活と生殖の正当性を脅かすものとしてクィアネスを位置づけるような文化的原理が「強制的異性愛」である。強制的異性愛は、公共空間におけるクィアな身体の移動を判定し制限する特権をシスジェンダー化された人々に付与している*10。現代では情動的公共圏は、地理的なコミュニティだけでなくデジタルなコミュニティにも広がっている。

情動分析(Affective Analysis)

トイレが焦点化されたことの意味

HB2の法案には具体的な犯罪名や刑罰の内容を明記したガイドラインはなかった。こうしたガイドラインの不備に加え、人的リソースの兼ね合いもあり、トイレをパトロールするための人員を配備しない警察も複数あった。それゆえHB2が実施されていた年でも制度的な実行力は希薄であり、あくまでも象徴的なものであった。それでもこの法案は、出生証明書に書かれた性に従って振る舞うことを人々に期待し、「不適切に」ジェンダー化された人々をあぶり出すことを促すような情動的公共圏を作り出すことにつながった。

この法案をめぐる議論では、トイレという場所が焦点化されたことによる影響を無視してはならないだろう。そもそもトイレという場所に対する文化的な理解が、安全、脆弱、恥といった感覚に根差している*11。だからこそ、トイレに焦点を当てるHB2のレトリックは、自分自身の身体機能に結びついた個人的な感覚や困惑を首尾よく呼び起こすことになる。私たちの文化におけるトイレに対する情動的な歴史によって、トイレへ「脅威」が入って来ることに対する恐れが強化されると考えられる。

トランスジェンダーの自己形成に対する影響

公衆トイレに入ることで自身のアイデンティティを公に宣言するという行為そのものが、ジェンダー規範に従わない(gender nonconforming)ように見える人々やジェンダー規範に従わない人々の恥を引き起こすこともある。たとえばトランスジェンダー・アクティヴィストのHunter SchaferはHB2があった時期に高校時代を過ごしていたが、当時どちらの公衆トイレを使うべきか悩んでいたときの感覚について、次のように語っている。

私はおしっこをするたびに無法者(outlaw)であるような感じがして、まるで[排泄という]この自然な身体機能が許されない(unforgivable)行為であるかのようでした*12

「不法者」や「許されない」という言葉から、ネガティブな情動が蓄積したことでSchaferがいかに自分のことを倒錯的で恥ずかしいと感じるようになったか、ということを見て取ることができる。彼女は法的に処罰されたことこそないものの、HB2の情動は彼女が自分自身を理解したり世界と相互作用したりする仕方を形成するうえで、強力に作用した。そのためSchaferは、男/女の選択を強いられる場面を避けるために、公衆トイレをできるだけ使わないようにしていたと語っている。ワトキンスが示唆するように、情動をともなう経験が繰り返されることは、その人の機会を拡張したり制限したりすることにつながるのである。

HB2支持派のレトリック

HB2支持派は、クィアに見える身体にネガティブな情動を付与することに加えて、「プライバシー」と「セキュリティ」という2つのレトリックを強調した。HB2支持者は、クィアは捕食者(predator)で精神障害で性倒錯だというような長年のLGBTQフォビックな信念を復活させ、クィアな人々は「プライバシー」と「セキュリティ」両方にとっての脅威であると仄めかした。

またマクロリーは、「男性が女性の施設に入ることや女性が男性の施設に入ることに関する重大なプライバシー上の懸念」があったと主張していた。単に施設に「入る」というだけでは脅威とは思われないが、そこに「重大な懸念」という漠然とした言葉を意図的に用いることによって、LGBTQ差別を禁止することに何らかの問題があるかのような誘導を(実際にどのような問題があるのか明らかにすることなく)行った。

HB2支持者はこうしたマクロリーの発言を、「男性が女性用トイレに恥ずかしげもなく侵入して女性に危害を加える」というシナリオとして解釈した。とりわけソーシャルメディアで、「セキュリティ」を強調するようなHB2支持の発言が拡散された。このようにして、(アーメッドの言うように)人々のジェンダーアイデンティティを規制することは、クィアな人々や「クィアに見える」人々の移動を制限することになる。またマクロリーは、あたかも「子どもの安全」と「政治的正しさ」が両立しないかのようなレトリックを用いることで、HB2反対派の意見をばかげたものであるかのように位置づけた。このような流れを経て、HB2支持派のレトリックが拡散することによってデジタルな情動的公共圏が形成され、それによって主流メディアや一般大衆の注目を集めることにつながった。

LGBTQフォビアを捉えるための情動理論

HB2は決してトイレの利用だけにとどまる問題ではない。HB2はジェンダー二元論に固執する一般大衆に訴えかけるものであり、その中心にトランスフォビアがあることを見落としてはならない。HB2に結びついた情動は、クィアな人々を恥じ入らせ、クィアな人々への恐怖を広めるのである。

LGBTQフォビアについての議論やレトリックを掘り崩していくためには、感覚や感情そして欲望がどのように私たちを説得するか、ということを考えなければならない。そのときに情動理論が有効な枠組みとなるだろう。

その他オススメ記事

当該論文の要約は以上である。以下付録として、関連しそうな文献や記事へのリンクをメモしておく。

エリック・シャウス「フィーリング、エモーション、アフェクト」(難波優輝訳)

情動理論(とりわけマッスミ)におけるフィーリング、エモーション、アフェクトという3つの概念を整理した短い論文。以下のリンク先でダウンロードできる。

タリア・メイ・ベッチャー "Trans 101" 紹介記事(小宮友根)

トランスジェンダーにかんする哲学的な論点をまとめた文献を紹介した記事。「身体に対する感情投入」についても注目しており、本記事と関連する議論として読める。

注釈

*1:ハウスビル2について日本語で読めるネット記事として以下のものがある。

*2:Sedgwick 2003, Touching Feeling: Affect, Pedagogy, Performativity

*3:例:苦痛な経験にはネガティブな情動が結びつくことが多いが、しばしばポジティブな情動が結びつくこともある

*4:Probyn 2005, Blush: Faces of Shame

*5:例:公衆トイレで見知らぬ人から怪訝な顔をされる、ソーシャルメディアでアンチゲイ的な書き込みを投稿する、LGBTQのヘイトクライムをニュースメディアが報道せずにおく、内科医が患者をシスジェンダーだと思い込む、バリスタが間違った代名詞を使う、など

*6:Watkins 2010, "Desiring Recognition, Accumulating Affect" In The Affect Theory Reader

*7:Berlant 2008, The Female Complaint

*8:例:現在のアメリカでは、アフリカ系アメリカ人は別々のトイレを使う必要がない。それにもかかわらず、現代の経済的、教育的、不動産的な慣習を通じて、アフリカ系アメリカ人を裕福な白人居住区や公共の場から締め出すような人種的分離が依然として機能している

*9:Ahmed 2006, Queer Phenomenology: Orientations, Objects, Others

*10:このことは、HB2のような明示的な法律だけでなく、自分は迷惑がられているのではないかとクィアな人々が感じるような、日常的な相互作用にも見られる

*11:たとえば私たちは、排泄や月経のような生物的な行動は見苦しいものである、という感覚を幼いころから培っている

*12:

「観客」はそこにいる:『やがて君になる』における「舞台」というモチーフと「安全ではない」槙くんについて

※原作7巻(第39話)までのネタバレを含みます。

※舞台版「やがて君になる」のネタバレはありません。

※この記事は単体で完結していますが、前回の記事を先に読むとさらに理解が深まります。お時間があればこちらの記事もご覧ください。 

はじめに

やがて君になる』では「演劇」や「舞台」といったモチーフが重要な役割を担っている。ヒロインである七海燈子は、亡き姉を模範として「演じ」つづけていた。彼女がその過去を乗り越えるきっかけとなるのが「生徒会劇」である。しかしそれだけではない。この作品には、他人の恋愛を「舞台」とみなし、自らは恋愛に参加せずに「観客」として楽しむ、というキャラクターが登場する。それが、前回の記事でも論じた槙くん(槙聖司)である。

「『アセクシュアル』かつ『読者』としての槙くん」を描くことによって、『やがて君になる』は「恋愛の問い直し」というテーマをかろうじて完遂する。これが前回の記事の要約である。前回は「観客」を自認する槙くんを「読者」の表象として考察した。これに対して、今回は槙くんを「舞台」の「観客」として捉えなおすところから始めたい。

役者と共在する観客――生徒会劇に巻き込まれる槙くん

マンガや小説の「読者」と、上演された演劇の「観客」。いずれも芸術作品を受容する人という点では共通しているが、制作者との関係を考えると、両者には大きな違いを見出せる。

普段私たちがマンガや小説を読むとき、目の前に作者はいない。私たちは作者から離れた場所で、作品を受け取る。これに対して、演劇が上演されるときには、必ず役者の目の前に観客がいる。役者は舞台に立ち、観客は客席に座る。このように、役者と観客は「劇場」という同じ空間に居合わせているのである。エリカ・フィッシャー=リヒテにならって、このことを「肉体の共在」と呼んでおこう *1

多くの演劇作品において、「役者/観客」との間には「舞台上/客席」という明確な線引きがあるように思える。しかし、そうでない演劇も少なくない。ある種の演劇作品は、役者と観客という区別を疑問に付し、観客もまた舞台に参加しているのだということを暴き出す。たとえばユルゲン・ゴッシュが演出を手掛けた『マクベス』では、役者が舞台から退場するときに舞台裏ではなく観客席へと降りてゆき、そこから舞台上の役者を観ている、という演出が用いられた *2

このような、一見自明に思われた演劇の特徴へと直接的に疑問を投げかけるような演劇は、しばしば「ポストドラマ演劇」と呼ばれる。しかし実際のところ、役者と観客が切り離せないという特徴は、ポストドラマ演劇にかぎったものではない。どのような演劇であっても、それが上演されるさいには役者と観客が同じ空間に共在する。ポストドラマ演劇は、あくまでも演劇の特徴を自覚的に照らし出すものである。

オブジェやメディアという手段を使った他の芸術と違って、演劇では、芸術行為そのもの(演じること)と受容行為(見ること)の双方が、いま・ここという現実の行為として生起する。演劇とは、演じることと見ることが同時に起こる空間であり、その空気をともに吸いながら、俳優と観客に共同で過ごされ、共有で消費される生の時間なのである。*3

やがて君になる』に話を戻そう。槙くんの立ち位置に目を向けたとき、『やがて君になる』では「役者」と「観客」との共在が自覚的に描き出されていることに気づく。たとえば原作2巻第6話で、槙くんは「どうも自分が活躍しようと努力するより/活躍する人のサポートをする方が性に合ってるみたいで」と語ったのち、「だから劇も自分が出るのはちょっと…」と言っている。しかし原作4巻第18話で、槙くんにも生徒会劇での役が割り当てられる。

自分のことを「観客」と位置づけている槙くんもまた、否応なく舞台に参加させられる。これによっては、観客もまた舞台に対して一定の役割を担っているということが示される。この点で、『やがて君になる』には「ポストドラマ演劇」的な要素を見て取ることができるだろう。

舞台への責任を負う観客――槙くんの癖について

私たちが舞台を観るときのことを思い出してみよう。舞台上の役者の演技を観ているとき、観客は色々な反応をする。たとえばコメディに笑ったり、悲劇にすすり泣いたり、サスペンスに息をのんだり、あるいは退屈なシーンであくびをしたり、ときには苛立たしげに席を立って劇場を後にしたり……。そうした観客の反応は、当然舞台上からも見ることができる。観客の反応は役者にも影響を及ぼし、ときには物語の進行をも左右しうる。

せっかくなので、舞台「やがて君になる」公式アカウントによる、観劇マナーについての注意喚起を確認しておこう。

「キャストにも聞こえてしまう」というところが、ここでは重要である。このように、「演者がすることは何であれ観客に影響を及ぼし、観客がすることは何であれ演者と他の観客に影響を及ぼす」*4。こうした特徴は、役者と観客が共在するあらゆる上演作品に当てはまる。

しかしポストドラマ演劇的な作品では、舞台と客席との境界が揺さぶられ、ときに役者と観客の役割が入れ替わる。こうした演出によって、観客もまた舞台への参加者であるということがあぶり出される。観客自身にも、参加者としての自覚が促されるのである。

観客は自らがそこに存在しているという事実にいやおうなく向き合い、同時に演劇プロセスの創造者との仮想上の闘いを余儀なくされる。何をなすべきなのか、と。*5

役者の演技が劇を進めるのと同じように、観客の振る舞いもまた劇の進行を左右する。そのとき、観客は「何をなすべきなのか」。ここにおいて、観客は劇の進行に対してどのような責任を負うのか、という問いが浮かび上がる。

このような観点から、槙くんの「責任」について考えてみたい。というのも、槙くんは観客としての「責任」を果たしている人物として描かれているからである。この点について、原作者の仲谷鳰は次のように語っている。

当初は読者の自己投影先として用意したキャラではありませんでした。侑との対比のために登場させたキャラなんです。ですが、百合漫画に登場するキャラとしてあるべき姿を探った結果、今の形に落ち着きました。*6

槙くんは、百合という「舞台」を成立させるための「あるべき姿」として描かれている。先の言葉で言い換えれば、舞台を成り立たせるための「責任」を果たしている人物として描かれているということである。では、「あるべき姿を探った結果」は具体的にどのように描かれているのだろうか。

ここで注目すべきは、槙くんの癖である。

槙くんは他人の恋愛を見ることを好んでいる。そして好みのシチュエーションに遭遇したとき、彼は決まって自らの口元を隠す。彼は好みのシチュエーションを観ると思わずにやけてしまうのであり、このしぐさはそれを隠すために行われているのである*7

さて、口元を手で隠すという槙くんの癖をどう解釈すればいいだろうか。

まずは槙くんが「舞台」と捉えているのは他人の恋愛である、というところを確認しておこう。

一般論として、恋愛は、しばしば第三者によってかき乱される。恋愛関係にある人たちが周りの人から囃し立てられ、場合によってはそのせいで関係が悪化することもある。さらに異性間の関係と比べると、同性間の関係はとりわけ他者からの攻撃を受けやすい*8。それに加えて、ここでは「男=見る主体」と「女=見られる客体」という非対称な関係も考えなければならない。ありていに言えば、「異性愛男性」の欲望が、女性同士の関係にとってとりわけ脅威となってきたということである *9

以上のことを考えると、「他人の、女性同士の恋愛模様を、男性が見て、にやける」ということがどのような意味を持つか、ということが分かるだろう。性別を問わず、他人の恋愛を見てにやけるということは、一般的には相手を冷やかすものとして解釈される。さらに「男性が女性を見てにやける」という行為は、多くの場合「対象の女性に対して性的欲望を向けている」と解釈される。もちろん前回論じたように、槙くんの欲望は単なる「異性愛男性」の性的欲望ではない。それでも、こうした振る舞いは、他者から見れば「性的欲望」として解釈されかねないのである*10

このように、他人の恋愛を「観る」男性としての槙くんは、女性同士の恋愛関係にとって脅威となりうる。だからこそ彼は、自分の振る舞いが百合という「舞台」を妨げることのないよう、にやけた口元をさりげなく隠す。あたかも劇場内で携帯電話の電源を切るように、槙くんは自らの欲望の表出を抑制するのである。百合マンガの男性キャラの「あるべき姿」という意味で、このことを百合男子の倫理と呼んでもよいかもしれない。

可傷的な観客――「君を僕と一緒にしないでよ」というセリフの意味

原作2巻第7話のタイトルになっているように、槙くんは「役者じゃない」。しかし観客としての槙くんは、決して舞台から隔絶されているわけでもない。役者と観客は同じ場に居合わせており、観客もまた舞台上の物語を左右する。ある意味で、観客は役者に対して脅威となりうるのであり、だからこそ観客もまた舞台に対して責任を負うのである。

しかし「観客」としての槙くんは、舞台上の「役者」を脅かすだけの存在ではない。その逆に、槙くんが「役者」によって傷つけられることもありうる。このことを描き出したのが、原作7巻第39話である。

原作6巻の最後で七海燈子に想いを告げた小糸侑。けれど燈子からの返事は「ごめん」だった。その言葉を拒絶と受け取った侑は、一方で劇的な悲しみこそ抱かないものの、捉えどころのない苦しさやイライラにさいなまれる。この「失恋」経験を槙くんに語りながら、侑はその漠然とした感覚を「好き」が分からないのだという考えで片付けようとする。

侑「好きとか誰が特別だとかさ/やっぱわたしにはよくわかんないや/なんかもういっかって感じ」
槙「小糸さんはつらくないの?」
侑「んー/大丈夫」
侑「好きって気持ちを/わかりたいと思ってたこともあったけど/槙くんはそういうの無くても楽しそうじゃん」
(原作7巻第39話148ページ)

これに対して槙くんは、「それは逃げてるだけだよ」と答える。それに続く彼の言葉は、ある意味で槙くんらしくないものだった。

槙「本当はもう人を好きになる気持ちがわかってるくせに/好きなのに受け入れてもらえなかったってわかっちゃうと痛いから/ごまかしてるだけでしょ」(原作7巻第39話150ページ)

その後のストーリーの展開を考えるならば、このシーンは小糸侑の恋愛を後押しするものとして解釈できる。しかし槙くんは、単に「物語」の進行を手助けしているだけではない。ここには槙くん自身の怒りが表れているのである。どういうことか。

槙くんにとって、この時の侑から同類意識を語られるということは、どのような意味を持つだろうか。それは、『本当はもう人を好きになる気持ちがわかってるくせに/好きなのに受け入れてもらえなかったってわかっちゃうと痛いから/ごまかしてるだけ』の人間から同類扱いされた、ということにほかならない。つまり、『あなたも私と同じで、何か理由があって人を好きにならないだけでしょ』と言われたも同然ではないだろうか。

だからこそ槙くんは、これまでになく厳しい言葉で侑との間に線を引く*11

槙「君と僕を一緒にしないでよ」(原作7巻第39話151ページ)

 このシーンを描くことによって、『やがて君になる』はアセクシュアルの不可視化という問題へと切り込んでいく。

「人は当然、誰しも他者へと性愛的に惹かれるものだ」という考え方*12が浸透している社会において、アセクシュアルの人々はしばしば自分自身のセクシュアリティに関する「認識の権限」(epistemic authority)を否定される*13。「認識の権限の否定」と言うと小難しく見えるが、具体例で考えればそれほど複雑な話ではない。アセクシュアルの人々が、周囲から「まだ良い人と出会えていないだけ」とか「性欲を抑圧しているだけ」といった言葉を投げかけられて、それによって自分自身の感覚を否定される……「認識の権限の否定」とは、そういった状況のことである。

たしかに、同性愛者の排除と比べれば、アセクシュアルがはっきりと差別されることは少ないかもしれない。しかしアセクシュアルは、こうした一見何気ない日常のやり取りのなかで、じわりじわりと違和感を募らせていく。その積み重ねから生まれる息苦しさは、決して無視してよいものではない。

さらに付け加えれば、「人は当然、誰しも他者へと性愛的に惹かれるものだ」という考え方は、異性愛者だけに見られるものでもない。クィアスタディーズやフェミニズムのなかで異性愛主義(ヘテロノーマティヴィティ)は批判されてきたが、他方でセクシュアルノーマティヴィティ(性愛を自明視する価値観)は十分に議論されてこなかった*14。2000年代以降のアセクシュアルをめぐる議論には、そのような背景がある。

このことを踏まえて、「舞台」に話を戻そう。

観客と役者は同じ場に居合わせている。だからこそ、観客は役者を危険に晒しうる。ここまでは上で論じたとおりである。しかし、これに加えて逆の関係も生じうる。つまり観客もまた、役者によって傷つけられうるのである。

槙くんと侑の関係は、単純な「見る/見られる」という関係ではない。「観客」としての槙くんもまた、他の登場人物たちと同じように『やがて君になる』という物語に関わっている。そしてそれゆえに、槙くんは他の登場人物によって傷つけられうる。あえて強調するなら、槙くんは「可傷性を帯びた観客」と言えるだろう。

それゆえ槙くんは、「アセクシュアル」と「観客」の重ね合わせとしてーーつまり「恋愛」の「舞台」の上から傷つけられうる存在としてーー解釈できる。「観客」としての可傷性を「アセクシュアル」としての可傷性と重ね合わせることによって、『やがて君になる』は物語の自然な流れのなかで、アセクシュアルの不可視化(およびそれに対する怒り)を描き出しているのである。

結論――「恋愛の問い直し」のために

槙くんは、一方的に舞台を覗き見るだけの観測者でもなければ、侑たちの恋物語に奉仕するだけの単なる舞台装置でもない。 

槙くんは、侑たちの恋愛関係を危険に晒しうると同時に、彼自身も危険に晒されうるという、二重の意味で「安全ではない」存在と言えるだろう。

男性である槙くんが女性同士の恋愛関係を脅かしうると同時に、異性愛規範のもとで排除されるマイノリティもまた他のマイノリティ(たとえばアセクシュアル)を傷つけうる。このことから目をそらさず、誠実に向き合った作品として、『やがて君になる』を読むことができる。

そもそも、なぜ槙くんの「欲望」が、他者からは「異性愛男性」の性的欲望として解釈されてしまうのだろうか。その背景には、人は他人を(特に異性を)性的対象とするのが当たり前だ、という価値観があるのではないだろうか。つまりある面において、性愛を自明視する規範があるからこそ、槙くんの「欲望」が小糸侑たちにとっての脅威へと変換されるのである*15前回の記事の言葉を使えば、「『恋愛』を欲望すること」と「『恋愛すること』を欲望すること」を区別するような認識枠組みがないからこそ、槙くんの「欲望」が「異性愛男性」の欲望に取り違えらえれるのである。

このように考えると、単に「槙くんが欲望の表出を抑えればよい」と言うだけでは不十分だということが分かるだろう。もしも単に槙くんのみに譲歩を求めるならば、その批判は異性愛主義の相対化だけにとどまってしまい、性愛の自明性が問われないままとなってしまう。つまり、「『恋愛』を欲望すること」が「『恋愛すること』を欲望すること」へとすり替えられるような認識枠組みを無批判に温存することになりかねない、ということである。

単に異性愛主義を相対化するだけでは、槙くんの「欲望」は正しく認識されることができない。そしてなにより、それだけでは「恋愛の問い直し」というテーマを完遂することもできない。

だからこそ、『やがて君になる』が「恋愛の問い直し」というテーマを完遂するためには、女性同士の同性愛を脅かさないという倫理を描くことに加えて、「恋愛≠する」という欲望を不可視化するような認識枠組みにも批判的に切り込まなければならない。

そこに切り込んだのが、原作7巻第39話における槙くん自身の怒りなのである。

そして舞台へ

2019年5月3日~5月12日まで、舞台『やがて君になる』が上演されている。

「舞台」というモチーフを貫いてきた原作が、舞台になる。ある意味ではこれ以上ないほど適切なメディアミックスであるとも言えるし、他方ではとても難しい試みとも言えるかもしれない。

舞台という形式になることで、『やがて君になる』という作品がどのように生まれ変わるのか。どのような世界を見せてくれるのか。しかと見届けたい。

参考文献

Chasin, CJ DeLuzio. 2013. “Reconsidering Asexuality and Its Radical Potential.” Feminist Studies 39(2): 405-26. 
Chasin, CJ DeLuzio. 2014. “Making Sense in and of the Asexual Community: Navigating Relationships and Identities in a Context of Resistance.” Journal of Community & Applied Social Psychology 25(2):167–80.
Gupta, Kristina. 2016. ““And Now I’m Just Different, but There’s Nothing Actually Wrong With Me”: Asexual Marginalization and Resistance.” Journal of Homosexuality 64(8):991-1013.
Fischer-Lichte, Erika, 2010, Theaterwissenschaft. Eine Einführung in die Grundlagen des Fachs.(山下純照ほか訳,2013『演劇学へのいざない』国書刊行会.)
Lehmann, Hans-Thies, 1999, Postdramatisches Theater(谷川道子ほか訳,2002『ポストドラマ演劇』同学社.)
堀江有里,2014「女たちの関係性を表象すること――レズビアンへのまなざしをめぐるノート」『ユリイカ』46(15): 78-86.
Milks, Megan and Karli June Cerankowski. 2014. “Introduction: Why Asexuality? Why Now?” Pp. 1–14 in Asexualities: Feminist and Queer Perspectives. New York: Routledge.
竹村和子,2002『愛について』岩波書店

注釈

*1:『演劇学へのいざない』(山下純照ほか訳)p.38

*2:『演劇学へのいざない』p.43

*3:『ポストドラマ演劇』(谷川道子ほか訳)p.16 太字原文

*4:『演劇学へのいざない』p.40

*5:『ポストドラマ演劇』p.134

*6:【コラム】 今もっとも読んでほしい恋愛漫画「やがて君になる」の人気に迫る!仲谷鳰先生インタビュー : アキバBlog 強調は引用者

*7:生徒会室で小糸侑と七海燈子がキスしているところを目撃したシーン(原作2巻第6話p.30)や、堂島から表情のゆるみを指摘されたシーン(原作2巻第7話p.42)などが分かりやすい。

*8:このことは、『やがて君になる』2巻第7話や7巻幕間などでも描かれている。

*9:この点について、現実で女性同士の性愛関係がどのように扱われてきたか、ということを確認しておきたい。女性同士の性愛であるレズビアンは、一方で社会的に取るに足らないものとして抹消・不可視化されてきたが、他方で(男性にとっての)性的な対象として過剰に意味づけられてもきた。たとえば、「ゲイ・ポルノ」が主に同性愛男性のものであるのに対して、「レズビアン・ポルノ」は主に異性愛男性のためのジャンルである。このようなことから分かるように、ある側面においてレズビアンは男性の欲望の対象とみなされてきたのである(堀江有里,2014「女たちの関係性を表象すること――レズビアンへのまなざしをめぐるノート」p.80)。さらにこの延長線として、レズビアン異性愛男性との「本当のセックス」によって「正常な」異性愛者へと「矯正」されるべきである、と認識されることさえある。竹村和子の指摘するように、「現在でも同性愛嫌悪による暴力は、ゲイ男性に対しては殺傷事件となる場合が多いが、レズビアンに対してはレイプによって彼女達の「目を覚まさせる」というかたちをとる傾向がある」(竹村和子,2002『愛について』p.51)。
もちろん、歴史を確認すれば分かるように、女性のなかにホモフォビアがなかったわけでは断じてない。それでも、レズビアンはとりわけ「異性愛男性」によって脅かされてきた。このことをしっかりと直視しておきたい。

*10:作中でも堂島からそのように解釈されている(原作2巻第7話p.42)

*11:ただし、アセクシュアルと非アセクシュアルとの間に明確な境界線を引くことは、決して望ましいことではない。アセクシュアル/非アセクシュアルという二項対立的な見方を採用すると、「アセクシュアルはあくまでも例外的な人間にすぎず、大多数の『普通』の人は性愛を欲望するのが当然だ」というような形で、アセクシュアルが他者化されてしまう。つまり、性愛を自明視する規範(セクシュアルノーマティヴィティ)が温存されてしまうのである(Chasin 2013)。

「誰がアセクシュアルなのか」を客観的に決定する必要はない。むしろ重要なのは、誰もが性愛に囚われることなく生きられる社会を模索することである。つまり、アセクシュアルであるかどうかを問わず、誰もが性愛の「舞台」から自由に降りられる、ということが求められるのである。

なので繰り返しになるが、ここで槙くんが自身と侑との間に明確な線を引いているのは、望ましいことではない。しかしこの記事では、なぜ槙くんがこのような望ましくない発言をしたのか、ということを考えている。その回答として、ここでは「それだけ槙くん自身が怒っていたのだ」という解釈を採用する。
(なおこの注釈および文献リストのChasin(2013)は5月6日に加筆したものである)

*12:アセクシュアルに関する議論では、「人は誰しも他者へと性愛的に惹かれるものであり、性愛的な惹かれを経験しない人間は異常である」という規範のことを、「セクシュアルノーマティヴィティ」(sexualnormativity)と呼ぶことがある。この言葉は、異性愛を自明視する規範を指す「ヘテロノーマティヴィティ」に倣った造語である。

同性愛者の排除と比べると、アセクシュアルは明確な排除の対象にはなりにくいかもしれない。しかしアセクシュアルは、しばしば日常の何気ない場面で周縁化・不可視化される。

セクシュアルノーマティヴィティ(およびセクシュアルか非アセクシュアルである方が、アセクシュアルであるよりも望ましいという断定的な信念)は、それほど直接明瞭に表現されることはめったになく、むしろあまり際立たず、より狡猾に、ありふれた文脈で現れる――たとえば、アセクシュアルの人々は性的なことについての「機会を逃したmissing out」のだという仄めかしや、自らをアセクシュアルに「分類するpigeon holing」人々に対して早計だと警告するというように。(Chasin 2014: 169-170)

なおセクシュアルノーマティヴィティに類する言葉として、compulsory sexualityやsexualnormalcyなどが使われることもある。

*13:Gupta 2016: 999-1000

*14:たとえば、性愛を強く重要視するようなクィア・コミュニティのなかで、アセクシュアルの人が異性愛者にもクィアにもアイデンティファイしきれずに悩む、という事例が語られることもある(Milks and Cerankowski 2014)。

*15:先行研究でも指摘されているように、アセクシュアルをはっきりと異性愛オルタナティブと位置づけるような認識がない社会で、アセクシュアル異性愛を実践しないということから同性愛者とみなされ、しばしばホモフォビアの対象となる(Chasin 2014: 171)。しかしアセクシュアル異性愛オルタナティヴと見なされないということは、アセクシュアルが「普通の」異性愛者として認識される可能性もある、ということでもある。つまりアセクシュアル異性愛に対立しないとみなされたときに、しばしば異性愛者として認識され、異性愛主義に回収される可能性がある。槙くんについて考えるうえでは、後者の側面にも注目する必要がある。

『セックスの哲学』The Philosophy of Sex: Contemporary Readings 目次一覧(暫定版)

セックスの哲学に関する論文集 The Philosophy of Sex: Contemporary Readings の収録論文リストです。文献探しにご活用ください。

※以下のリストはAmazonの目次から作成した暫定版です(気が向いたら古い版もリスト化するかもしれません)。無料公開されている論文にはリンクを付けていますが、見落としがあればコメント等でご指摘いただけると幸いです。

7th Edition (2017)

1 An Introduction to the Philosophy of Sex   
2 Are We Having Sex Now or What? Greta Christina 
3 Sexual Perversion邦訳あり Thomas Nagel 
4 Plain Sex Alan Goldman 
5 Sex and Sexual Perversion Robert Gray 
6 Chatting Is Not Cheating  John Portmann 
7 An Essay on Masturbation  Alan Soble 
8 Trans 101 (日本語での紹介記事あり Talia Bettcher 
9 The Negotiative Theory of Gender Identity and the Limits of First-Person Authority Burkay Ozturk 
10 Bisexuality and Bisexual Marriage Kayley Vernallis 
11 Racial Sexual Desires Raja Halwani 
12 Is Loving More' Better? The Values of Polyamory Elizabeth Brake 
13 What Is Sexual Orientation? Robin Dembroff 
14 Thinking Queerly about Sex and Sexuality Kim Q. Hall 
15 LGBTQ ... Z?  Kathy Rudy 
16 Sexual Morality and the Concept of Using Another Person Thomas Mappes 
17 Sexual Use  Alan Soble 
18 Consent and Sexual Relations Alan Wertheimer 
19 Dark Desires Seiriol Morgan 
20 The Harms of Consensual Sex  Robin West 
21 Sexual Objectification  Evangelia Papadaki 
22 Casual Sex, Promiscuity, and Objectification  Raja Halwani 
23 BDSM  Shaun Miller 
24 Two Views of Sexual Ethics David Benatar 
25 Gifts and Duties  Alan Soble

 6th Edition (2012)

1 Introduction Alan Soble
Part I Analysis and Perversion   
2 Are We Having Sex Now or What?  Greta Christina
3 Sexual Perversion  Thomas Nagel
4 Sexual Behavior: Another Position  Janice Moulton
5 Plain Sex  Alan Goldman
6 On Jacking Off, Yet Again  Alan Soble
7 Sex in the Head  Seiriol Morgan
8 Chatting is Not Cheating  John Portmann
Part II Queer Issues   
9 Beyond Gay Marriage: The Road to Polyamory  Stanley Kurtz
10 In Defense of Same-Sex Marriage  Cheshire Calhoun
11 Gay Divorce: Thoughts on the Legal Regulation of Marriage  Claudia Card
12 What Is "Sexual Orientation"?  William S. Wilkerson
13 Bisexual Marriage  Kayley Vernallis
14 Trans Women and the Meaning of "Woman"  Talia Mae Bettcher
15 Trans Persons, Cisgender Persons, and Gender Identities  Christine Overall
Part III Objectification and Consent - The Theory   
16 Sexual Morality and the Concept of Using Another Person  Thomas A. Mappes
17 Sexual Exploitation and the Value of Persons  Howard Klepper
18 Sexual Use  Alan Soble
19 Why "Derivatization" Is Better Than "Objectification"  Ann J. Cahill
20 Consent and Sexual Relations  Alan Wertheimer
21 The Harms of Consensual Sex Robin West
22 Two Views of Sexual Ethics: Promiscuity, Pedophilia, and Rape  David Benatar
Part IV Objectification and Consent - Applied Topics   
23 Whether from Reason or Prejudice: Taking Money for Bodily Services  Martha C. Nussbaum
24 On Fucking Around  Raja Halwani
25 Date Rape: A Feminist Analysis  Lois Pineau
26 How Bad Is Rape?-II  H. E. Baber
27 Surviving Sexual Violence  Susan J. Brison
28 Pornography as Embodied Practice  Joan Mason-Grant
29 Cheap Thrills: A Call for More Pornography  Nicholas Power

 

他のアンソロジーについては、以下の記事で江口先生が暫定的にリスト化しています。

「読者」は恋をしていない:なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか

「恋愛」とは何か。

この問いには色々な答えがありうるし、上手く言えないという人もいるかもしれない。それでも多くの人にとって、「恋愛」という言葉が何を指し示しているのかは(たとえうまく言えないとしても)当たり前のように「わかる」ものなのだろう。だから「恋は理屈じゃない」とか「人を好きになるのに理由はいらない」とか言いながら、恋愛とは何かと問うより先に恋愛をしてしまう(あるいはできてしまう)のだろう。

しかし他方で、それなりに多くの人々が、「恋愛」とは何なのかというところで悩むことになる。どのような感情を抱けば「恋愛」をしていると言えるのか、どのような関係になれば「恋愛」をしていると言えるのか。そもそも「恋愛」は感情を指すのか、関係を指すのか、あるいはもっと別の何かが関わっているのか……。場合によっては、答えは人によって違ったものになるかもしれない。たとえば恋愛と性欲が同じだと感じている人もいる一方で、性的指向と恋愛的指向が異なる人もいる*1。そしてそもそも、恋愛を経験することがないという人だって存在する。

こういった諸々の疑問は、けれど多くの恋愛物語ではそれほど深く問われない。当たり前のように恋愛感情をいだいて、当たり前のように関係を築こうとする。けれど、ある人物のことが好きだからといって、その好意がなぜ「恋愛感情」と言えるのだろうか。そしてある人物に特別な好意をいだいたからといって、なぜ「恋愛関係」を築こうとするのだろうか。このようなことについて、多くの作品では説明されない。そんなことは語るまでもないだろう、と言わんばかりに。

これに対して『やがて君になる』は、「当たり前なもの」としての「恋愛」に問いを投げかける。恋愛物語でありながら「恋をする」ということの自明性を疑問に付す、稀有な作品なのである。

「恋愛の問い直し」というテーマ

やがて君になる』は、「人に恋する気持ち」が分からないという悩みを抱える少女(小糸侑)と、自分を肯定できないせいで相手からの好意を受け入れられない少女(七海燈子)の物語である。この作品は恋愛マンガであるが、にもかかわらず恋愛を自明のものとして扱ってはいない。「なぜ、どのようにして、この登場人物たちに恋愛が生じるのか」というプロセスを丁寧に描き出し、それによって「私たちの社会において、恋愛とはいかなるものなのか」という思索へと読者をいざなう作品なのである*2

実際に作中では、「恋愛は誰もが当たり前にするものだ」という固定観念を相対化する場面がいくつか描かれる。

燈子「好きにならなきゃいけないと思ってつらかったんだね」
燈子「みんな恋愛の話大好きだもんなぁ/自分がおかしいような気にもなるよね」
(原作1巻 35-36ページ)

とはいえ『やがて君になる』も恋愛マンガである以上、主要キャラクターたちが恋愛をすることは避けられない。その意味で、ともすれば「恋愛の分からなかった少女と、恋愛を受け入れられなかった少女が、成長することによって恋愛できるようになる」というストーリーに回収されかねない。言い換えれば、「恋愛ができるようになることを『望ましい』『成長』の結果として描くことで、恋愛しないことやできないことを望ましくない事態と位置づけてしまう」という帰結に陥りかねないのである。

多くの百合やBLは、同性同士の恋愛を描くという点で異性愛主義*3を相対化している。しかし、ともすれば「対象が同性か異性かという違いがあるだけで、それでも『普通の』人間なら誰もが恋愛できるはずだし、するのが望ましい」というような、素朴な性愛主義*4に回収される危険もある。こうした価値観は、恋愛しない人やできない人を「未熟な」「劣った人間」とみなすものであり、またアセクシュアル(無性愛)を不可視化するという問題にもつながる*5

もちろん、恋愛マンガが恋愛を描くこと自体は非難されるべきではない*6。しかし『やがて君になる』は「恋愛の問い直し」を一つの重要なテーマとしている。そうである以上、性愛主義をきちんと相対化できないかぎり、作品のテーマを完遂できないということになる。

恋愛マンガでありながら、性愛主義を批判しなければならない。

このきわどいバランスを保つうえで重要な役割を果たしているのが――意外かもしれないが――槙くんなのである。

アセクシュアル」かつ「読者」としての槙くん

槙くん(槙聖司)は、「他人の恋愛を見たり相談に乗ったりするのは好きだが、自分で恋愛をしたいという欲望はない」という少年である。つまり彼は「恋愛感情を経験しないことを肯定する」キャラクターとして描かれているのである。

槙「人の恋愛を見てると良いものだと思えるし/理解はできるつもりだけど/自分の中にその感情を持ったことはないね」
侑「…小説を読んでるか映画を見てるみたいな」
槙「うんわかる/自分の世界のことではないって感じ」
侑「槙くんはそれを寂しいと思ったことはない?」
槙「ないね/僕は楽しいよ こういう距離からみんなを眺めるの」
(原作3巻 135-136ページ)

彼は「百合マンガ読者」の表象であると同時に「アセクシュアル*7の表象としても描かれている*8。『やがて君になる』を読み解くうえで槙くんが重要であるということは、原作者・仲谷鳰自身の語りからも確認できる。

特に槙くんは、侑と似ているようで対照的な人物。『好き、特別』という気持ちを知りたくて焦っている侑と、恋愛感情なんてわからなくてもいいと思っている槙くん。その対比が見せられればと思っています(「誰かの特別になる」ってどういうこと? 一筋縄ではいかない少女同士の恋を描いた『やがて君になる』【著者・仲谷鳰さんインタビュー】 | ダ・ヴィンチニュース

槙くんを登場させることによって、『やがて君になる』には性愛主義へと回収されない余地を残している。しかし、それだけではない。槙くんの立ち位置は、恋愛物語のキャラクターというよりも、むしろ物語を楽しむ「読者」に近いものとして描かれている*9。つまり槙くんは「読者」かつ「アセクシュアル」な男子として描かれているのである。

実はこの2つの側面が組み合わされることによって、槙くんは特異な形で性愛主義に破れ目を開けている。この点について、以下で原作2巻第7話 54-56ページ(アニメ4話)に描かれる、槙くんのモノローグを考察していく。

「恋愛≠する」による性愛主義の破れ目

槙くんは「姉二人と妹に囲まれて育ったせいか(……)女の子の相談相手になることが多い」。しかし彼は、恋愛相談を「面倒だとは思わない」。むしろ彼は、他人の恋愛を「舞台の上の物語」とみなし、自分自身をその「観客」として位置づけている。一方で、彼は恋愛感情を自分に向けられることを望まない。つまり彼は恋愛をするのではなく、見ることを楽しんでいるのである。

役者が観客に恋するなんて/がっかりだ/そんなのはいらない/僕は客席にいてただ舞台の上の物語を見ていたい(原作2巻 55ページ)

ところで、槙くんのモノローグのなかには「女の子は恋の話が好きだから」という語りが挿入されている。これは一見すると女性に対するステレオタイプであるようにも見えるが、そうではない。この語りは、槙くんの周囲に「恋の話が好き」な女の子が多かったということを表している、と解釈するべきである。つまりある意味で槙くん自身が恋愛に「囲い込まれて」いた、ということである。それにもかかわらず、槙くん自身は恋愛をしていないし、する気もない

槙くんにとって、恋愛は「する」ものではなく「見る」ものである。そんな彼を描くことによって、やがて君になる』は「恋愛‐する」という結びつきに切れ目を入れるのである(「恋愛≠する」)。

実を言えば、この切れ目は日常的にありふれている。たとえば恋愛マンガを読んでいるまさにそのとき、多くの読者は実際に恋をしているわけではない。そこでやっていることはあくまでも読書であって、恋をしているのではないのだ*10。この当たり前すぎるがゆえに見過ごされがちな「切れ目」を、槙くんは露悪的なまでに前景化させてしまうのである。

このことは、性愛主義を相対化するうえで極めて大きな意味を持つ。たとえばドラマやマンガなどの恋愛フィクションは日々数えきれないほど生産されており、あたかも恋愛は誰もが「普通に」経験するものだというイメージをばらまいているかのように見える。しかし、恋愛は必ずしも「する」ものであるとはかぎらない。恋愛フィクションは、恋愛を「する」以外の動作へと結びつけてしまうものであり、その意味ではむしろ恋愛を価値相対化する可能性さえ含まれる*11。この可能性を「読者=アセクシュアル」な槙くんは暴き出すのである。

「読者」は恋をしていない。「舞台」には終わりがあり、「劇場」には外がある。世界は恋で満ちているかもしれないが、恋で満ちた世界は、同時に穴だらけでもある。

もしも槙くんが単に「人の恋愛を見るのが好き」なだけであれば、「本編で描かれないだけで、彼もきっと普通に恋愛するに違いない」という性愛主義的な解釈枠組みによって、いともたやすく読み流されてしまうだろう。あるいは、槙くんが単に「恋愛する気のない」だけであれば、依然として「恋愛‐する」という結びつきは維持されたままとなり、上記のような「恋愛」の破れ目は不可視なままとなるだろう。

しかし「『恋愛』を欲望すること」と「『恋愛すること』を欲望すること」は、同じではない。このように「欲望」のあり方を分節化し直すことによって、「『恋愛』を欲望するからといって、『恋愛すること』を欲望するわけではない」という、これまで見えにくくなっていた営みを記述しなおすことができる。そしてそれによって、「恋愛を欲望する人/しない人」という二項対立を成り立たせていた前提それ自体が突き崩されていく。「恋愛を欲望する人」という単一カテゴリーのもとに、実は多様なあり方が潜んでいたということを露わにしてしまうのである。

このように、『やがて君になる』は槙くんを描くことによって、性愛主義の破れ目を可視化させている。複数の破れ目が、いたるところに開いていることを暴き出しているのである。ゆえにやがて君になる』のテーマである「恋愛の問い直し」は、「『アセクシュアル』かつ『読者』としての槙くん」なしには完遂されないと言えるだろう。これが「なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」という問いへの回答である。

終わりに

誰もが恋愛を好んでいるというわけではない。

恋愛を好んでいるからといって、恋愛したいとはかぎらない。

ある人のことが好きだからといって、その好意が恋愛感情であるとはかぎらない。

特別な好意を抱いたからといって、その相手と独占的な交際をしたいとはかぎらない。

このリストはいくらでも書き連ねられるだろう。「恋愛」がどのような実践に結びつくかは、決して自明ではない。「恋愛‐する」という結びつきは、きわめて偶然的なものかもしれない。そもそも「恋愛」という言葉の指し示す内容は、私たちの間でどれだけ共有されているのだろうか……。

このような思索をも喚起するという意味で、『やがて君になる』はきわめて優れた「恋愛作品」だと言えるだろう。

もちろん『やがて君になる』は百合マンガであり、作品のメインとなるのは小糸侑と七海燈子の関係である。しかし彼女たちの「恋の物語」からこぼれ落ちるテーマを補完する存在として、槙くんのことも忘れないでおきたい。

(2019年5月5日追記)

続編とも言えるような記事を公開しました。

新規記事の公開に合わせて、本記事のタイトルを「槙くん論(1)――なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」から「「読者」は恋をしていない:なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」へと変更しました。

*1:恋愛的指向については 恋愛的指向 - Wikipedia や 恋愛対象と性的指向が食い違うことの意味について - don't look back into the sun を参照。

*2:たとえば『やがて君になる』を「異性愛主義における『恋愛感情の自明性』を問い直し、しかもその問い直しをホモフォビアから分離させた作品」として評価する記事として『やがて君になる』あるいは異性愛主義/百合の可能性について - don't look back into the sunがある。

*3:異性愛が「普通」の「望ましい」ものであり、非‐異性愛を異常なものとみなす社会規範。

*4:近年のアセクシュアル研究では、ヘテロノーマティヴィティ(heteronormativity)をもじって「セクシュアルノーマティヴィティ」(sexualnormativity)という言葉が用いられることもある。

*5:本記事ではアセクシュアルについて深く立ち入らないが、関心のある方は無性愛(アセクシュアル)研究への招待――英語圏での研究動向(文献メモ) - 境界線の虹鱒などを参照。

*6:もしも恋愛モノというジャンル自体が性愛主義を再生産するものとして非難されうるとすれば、それは世の中のあらゆるところに恋愛モノが充満していて、どこにも逃げ場がないという場合だろう。今の社会で実際にどれほど恋愛モノが充満しているのか、という点は別途検討が必要である。しかし本記事では、恋愛を扱ったフィクションが性愛主義を再生産するとはかぎらず、むしろ性愛主義の破れ目にさえなりうる、という側面に注目する。

*7:なおこの記事では「アセクシュアル」を「セックス、性的実践、そして人間関係におけるセックスの役割などについて無関心であったり反感をいだく人」全般を指す、包括的な用語として用いる。アセクシュアルについては先の注釈に挙げた記事を参照。無性愛 - Wikipediaも内容が充実している。

*8:なお本来であれば「槙くんをアセクシュアルの表象として解釈してよいのか」という点についても踏み込んで議論する必要があるが、本記事では省略する。

*9:実際に作中でも、槙くんはモノローグのなかで自らを「観客」と位置づけている(原作2巻 55ページ)。

*10:もちろんキャラクターに感情移入したり同一化したりすることはあり、それを「追体験」と呼ぶこともできる。しかし「恋愛マンガのキャラクターに感情移入すること」や「他者の恋愛経験を追体験すること」は、「自分が恋愛を実践すること」とは異なる行為だろう。また、読書のさなかに直接キャラクターと恋愛をする人はそれほど多くはないと思われる。ただし虚構的キャラクターと恋愛をする人が一定数いるということも忘れてはならない。この点については【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声 - 境界線の虹鱒を参照。

*11:もちろん、こうした形での相対化が可能になるためには、いくつかの社会的条件が必要である。ここでは詳述しないが、たとえば一例としてアンソニー・ギデンズ(1992=1995)の指摘するような「性と生殖の分化」が挙げられるだろう(『親密性の変容』47ページ)。

【文献メモ】二次創作のアーカイブに関するフェミニズム・クィア的評価

Rogue Archives: Digital Cultural Memory and Media Fandom
By Abigail De Kosnik
Chapter 3 Queer and Feminist Archival Cultures: The Politics of Preserving Fan Works

アビゲイル・デ・コズニック『ならず者のアーカイブ――デジタル文化の記憶とメディア・ファンダム』第3章「クィアフェミニストアーカイブ文化――ファン作品保護のポリティクス」のまとめである。なお本書全体の概要については上記サイトを確認してほしい。

本文に入る前に、まずはよく出てくる用語について簡単に確認しておく。「ファン・フィクション」とはファンによる二次創作のことである。そのなかでもBL二次創作は「スラッシュ・フィクション」と呼ばれる。アメリカにおけるファン・フィクションの担い手は女性が主流である。ファン・フィクションを集積してアーカイブ化したものが「ファン・フィクション・アーカイブ」である。以下の議論では日本の二次創作文化に近い内容も含まれるが、主にアメリカのファン文化を扱った研究であるため、歴史的・文化的背景が日本と異なるという点に留意して読む必要がある。

本章のテーマ

・ファン・アーカイブがどのように女性ユーザーやクィアユーザーにとって役立っているか
・彼女らのコミュニティのためのアーカイブとしての働きから、どのようにして文化的リソースとしてのファン・アーカイブの価値が生じるか

男性支配的技術に対抗する女性ファンたち(Women Fans against Male-Dominated Tech)

 2000年代半ば以降、技術企業や起業家たちが、ユーザー生成コンテンツ*1と社会的ネットワークに関心を寄せ始めた。一方でソーシャルメディア企業は、どのような種類のコンテンツならばオンライン上で共有してもよいか、ということについて制限を課してくる。これによって、多くのユーザーが警告なしにコンテンツを削除されるという事件が生じてきた *2

 他方で、ソーシャルメディアの起業家はファン・フィクションを収益化しようとして、ファンや作家ではなくサイト所有者が金銭的利益を得るようなサイト構築を目指した 。2000年代半ばから後半にかけて、ファンにとって有益でないような形でファン・フィクションを企業化しようとする試みがさらに現れている*3

 StrikethroughとFanLibののち、著名なファンであるSperanzaたちはファン自ら管理するインターネットインフラが必要であると考え、営利企業に依存しない形でコミュニティの作品を保存する活動を始めた。これをきっかけに、ファン自身がファン・フィクションのアーカイブ活動をするNPO「変形的作品のためのNPO (The Organization for Transformative Works)」が2007年に結成された。OTWは「みんなのアーカイブ(AO3)」*4 を設立し、また親会社の倒産やアーキビストの死去などで危機に瀕したファン作品を保護する「オープンドア」 *5を設立した。

 ファン・フィクション・コミュニティの多数派は女性であり、OTWとそのすべてのプロジェクトは女性プログラマーによって展開された。それゆえAO3は女性プログラマーを育成する機会にもなった。

 すべてのファン製ファン・フィクション・アーカイブは女性のコミュニティ・アーカイブとして機能する、というのがDe Kosnikの主張である。またDe Kosnikによれば、こうしたアーカイブクィアなコミュニティでもある。こうしたアーカイブは、デジタルの短命なコンテンツを失いたくないという動機だけでなく、集団としての感覚を強化するという、ファンダム内の女性やLGBTQを自認する人々のニーズによっても動機づけられている。

発見の瞬間(The Moment of Discovery)

 インターネット上のファン・フィクション・アーカイブを初めて見つけたとき、ファンは強烈で積極的な情動的反応をする。このことがファンたちへのインタビュー調査から浮かび上がってきた。このテーマを「発見の瞬間」と呼ぶ。このとき、独りではなかったのだという感覚や、突如としてコミュニティのメンバーになるような感覚を経験する、と語られている。

 このような効果はアーカイブという形式に特有ではない、という指摘もあるかもしれない。しかしここで言及されたウェブサイトがアーカイブであり、多くの作品が集積しているからこそ、ファンたちの「帰属意識」に特別な貢献をしている。アーカイブによって、ユーザーは当該コミュニティが長い年月にわたって作り出してきた文化的テクストへの理解を深めることができる。言い換えれば、アーカイブはコミュニティの歴史と記憶の担い手なのである。

アーカイブの情動的力(The Emotional Power of Archives)

 社会的・政治的に権力のない人々のテクストやエフェメラ*6を集めて、保存して、そして利用可能にすることを目指すコミュニティ・アーキビストがいる。こうした人々の主要な動機の一つは、周縁化された集団のメンバーであると自認する人々にポジティヴな感覚をかき立てる、というものである。アーカイブの理論家たちは、自らの文書をアーカイブ化された人々や、そのアーカイブを通じて文書にアクセスする人々のなかに生じる感覚の重要性を強調する。

・同じような感情を抱いている人が他にもいる、という感覚
・その人の属するグループの歴史や記憶が保証される、という感覚
・公的な文書やアーカイブから無視されていた場合には、そのグループ自体が自らのドキュメントを尊重している、という感覚

 ファン・フィクションのアーカイブに初めてたどり着いたとき、ファンはファン・フィクションに没頭して多くの作品を一気に読む。これは何故か。一つは、原作に対する全面的コミットメントを楽しむということが考えられる。しかしこれに加えてDe Kosnikは、もう一つの動機を挙げる。そのグループのメンバーになるために、自身が参入する前に作られた二次創作を読むことによって、そのファンダム内で原作がどのように加工されてきたのかという記憶を習得する、という動機である。主流文化のなかにファン・フィクションがアーカイブされていないことから、ファン・フィクション・アーカイブを初めて見つけたファンは、ある意味で飢えを満たすように作品を貪り読むのである。

 またインターネット・アーカイブはAndrew Flinn (2007) の定義するコミュニティ・アーカイブ(コミュニティメンバーの草の根活動によって作られたアーカイブ)に合致する。 

ファンダムにおけるジェンダーセクシュアリティ(Gender and Sexuality in Fandom)

 上記のように、コミュニティ・アーカイブは、制度的なアーカイブから歴史的に排除されていると感じている下位集団によって、その集団のために設立されるものである。これに加えて、ファン・フィクション・アーカイブは、文化の公的アーカイブから放置された集団の文化的記憶を保護するコミュニティ・アーカイブでもある。スラッシュファンフィクションのメンバーは大半が女性であり、それゆえファンのアーカイブは男性支配的なメディア産業から無視されたり軽視されたりしてきた。このことが、女性や少女たちが独自のファン・フィクションを書くことを動機づけている。ファン・フィクションは女性の文化であり、かつ女性の欲望を反映してこなかった主流文化との相互作用でもある。これは以下のアドリエンヌ・リッチの議論に通じるものである。

 Re-vision――ふりかえる行為、新鮮な目で見る行為、新しい批判的な方角から古いテキストに入っていく行為。これは女にとって、文化史の一章というよりもずっと大きなことだ。生きのびるための行為なのだ。(Rich 1979=1989: 53)

 ファン・フィクション・アーカイブには、いくつかの点でクィアアーカイブと似たような機能がある。たとえば、ファン・フィクション・アーカイブは「秘密から暴露への変化」(change [from] secrecy to disclosure)を促す。また、ファン・フィクション・アーカイブはグループの新参者に対して文化的リソースへのアクセスを提供したり、グループのメンバーを安心させたりする。

 とはいえLGBTQと違い、ファンは法制度によって周縁化されたり抑圧されたり標的にされたりすることはなく、ヘイトクライムや構造的な社会的・文化的抑圧を受けることもない。しかし他方で、ファン・コミュニティでcloseted*7やcoming out*8 やbeing outed*9といったクィア・コミュニティの語彙が用いられてもいる。

 John Edward Campbellのように、クィアとファンとを並置することに批判的な論者もいる。しかし他方で、ファンとクィアとの類似性や共通性を指摘する論者もいる。ファン・アイデンティティクィアアイデンティティはしばしばパラレルなものとして語られる。性的コンテンツが含まれるファン・フィクションについて、私的な家庭圏、職場などの公共圏、そしてインターネットなどの半‐公共圏のそれぞれで衝突が生じている*10

 すべてのインターネット上のファン・フィクションが性的コンテンツを含んでいるわけではないが、一般の書店や図書館よりも性的コンテンツを見つける機会はインターネットの方が多い。そのためオンラインのファン・フィクション・アーカイブは、ある面で女性の公的な性文化を構成している。この点はCvetkovich (2003) の“lesbian public sex culture”と類比的である。

 Catherine Tosenbergerは確言的ファン空間(affirmational fannish spaces)と変形的ファン空間(transformational fannish spaces)を区別する。前者は原作についての細かな事実にこだわるもので、どちらかというとマジョリティ男性が多い。後者は原作を書き換える二次創作をするもので、どちらかというとマジョリティ女性が多く、クィアとの親和性も高い。後者の方がより病理的なものと見なされる傾向にある。

 ファン・アーカイブは、検閲に対するシェルターになると同時に、ファンでない人々にファンの存在を認識させるものでもある。「安全な空間」であると同時に標的となる空間でもあるという点で、クィアな空間と同じように機能している。また、スラッシュフィクション愛好家にクィアを自認する人が多いという調査もある。

 それゆえ、ファンとクィアが社会的に同じ扱いを受けているわけではないとしても、インターネットのファン・フィクション・アーカイブクィアな空間として機能している。

 Lothian, Busse and Reid (2007) によれば、オンラインのスラッシュ・ファンダムは、セクシュアル・アイデンティティ、地理的位置、家族構成などの異なる多様な女性同士が交流できる「クィアな女性の空間」である。これに加えてDe Kosnikは、同性愛表現が含まれるかどうかを問わず、インターネットのファン・フィクション・アーカイブはすべてクィアな女性の空間であると主張する。Jack Halberstamが書いているように、多くの男/女の性的シナリオはクィアとして読まれうる*11。またAlexander Doty(1993)によれば、「クィアな受容は、受容者の性的アイデンティティと文化的ポジションについての意識的な現実生活の定義を超えた場であり――いつもではないが、しばしば性的アイデンティティアイデンティティ・ポリティクスを超えた場である」。こうした議論を踏まえてDe Kosnikは、クィア自認のファンもストレート自認のファンも、しばしばマスメディアのテクストをクィアに解釈し、そのテクストのクィアなバージョンやクィア多様体を作り出す、と主張する。ファンサイトやアーカイブは、高度にクィアで政治的な場となっている。

 Dotyの言う「クィアなポジション、クィアな読解、そしてクィアな喜び」のほかにも、女性ファンが自分自身をクィアする・・・・・・・・・・(female fans queer themselves)ということがある。例として、女性ファンがヘテロセクシュアルな物語を受容するとき、男性キャラクターに同一化し、男性キャラクターが女性に対して抱く恋愛感情を読んだり書いたりすることがある。あるいは、他の女性ファンを想定しながら性愛フィクションを書くことによって、女性ファンがクィアな関係に参加する・・・・・・・・・・engage in queer relations)ことも挙げられている。

 以上から、ファン・フィクション・アーカイブアドリエンヌ・リッチの言う「強制的異性愛」への抵抗となっていると言える。

クィアアーカイブの機能(The Work of Queer Archives)

 Halberstam(2005) とCvetkovich (2003) によってクィアアーカイブの機能が論じられている。Halberstamによれば、クィアサブカルチャーアーカイブは、単なる資料収集や文書保管の場所ではなく、文化的有意性(cultural relevance)の理論や、集合的記憶の構築、クィアな活動の複合的な記録でもある。このことから、ファン・アーカイブは作品を蓄積するだけでなく、ファングループの「文化的有意性」や「クィアな活動」の変形をも記録するものであると言える。

 Cvetkovichによれば、クィアアーカイブは「親密的なことと個人的なこと」を保存するものであり、「感情や情動」に関する物によって構成される。そのようなアーカイブを作る動機としては、公的な記録から無視されたものが失われてしまうという恐れがある。これらの点はファン・アーカイブについても当てはまる。

 またクィア・コミュニティの間では、主流文化の表現をクィアに受容するということが行われてきた。セレブリティ・カルチャーやパルプフィクションの「うわべだけのヘテロノーマティヴィティ」は「受容とファンダムの策略によってクィアにされて」きたのであり、こうした表現もアーカイブ化する必要がある。それうえでCvetkovichは、ファンをクィアアーキビストのモデルと見なす。こうした点から、De Kosnikは「クィアアーカイブは少なくとも部分的に、しばしばファン・アーカイブである」と主張する。

必要なアーカイブ(Necessary Archives) (本章の要約)

 ファン・アーカイブは非ヘテロノーマティヴな実践のための「安全な空間」であり、ファンの情動的経験や変形的作品の歴史を保護する。それは他のどこにも記録されていないような可能性(性的なアイデンティティ、欲望、空想の可能性を含む)の探求や実験の歴史である。それゆえファン・アーカイブはコミュニティ・アーカイブ(特にクィアアーカイブ)と同じく、ファンとさらに大きな社会との両方にとって重要であり関連があるものと見なされなければならない。これらのアーカイブは社会的に周縁化された人々の文化を存続させるものであり、包摂という観点からも重要性を認められるべきである。

 同時に、クィアで周縁化されたグループの文化的生産物は、それがアーカイブされたとき、さまざまなタイプの搾取と抑圧のターゲットとなりうる。これはファン・アーカイブにも当てはまる。もちろん、構造的に排除された人々と同じようにファンも排除されている、というわけではない。しかしファンのほとんどは女性であり、なかにはクィアな人々も多く存在する。ファンは企業や法人による攻撃に晒されやすく、ファン・アーカイブは(特にあからさまに性的な領域について)女性やクィアな表現に反対する様々な検閲の力(censorial forces)によって蝕まれうる。このような脅威から自分たちの表現を守りたいという欲望によって、ファン・アーカイブ活動は動機づけられてきたのである。もし多様で開かれた社会に女性のアーカイブやLGBTQのアーカイブが必要であると認めるのであれば、ファン・フィクション・アーカイブもまた重要な文化的記憶機関であると考えるべきである。

*1:ユーザー自身が生み出すコンテンツ

*2:例としてStrikethrough 2007が挙げられている。Strikethrough 2007とは、ブログプラットフォームLiveJournalの運営母体であるSix Apartが、ファン・フィクションやファン作品を含む数百の記事を、攻撃的な性的コンテンツを含むという理由によって削除した事件である。このほか類似の事件として、FF.netで2000年代半ばから2010年代半ばまでの間に数千の「性的に露骨な」作品を削除したという事例が挙げられている。

*3:例としてFanLib が挙げられている。なおFanLibは2007に設立されたが2008年に潰れた。

*4:「Archive of Our Own – AO3(みんなのアーカイブ)はファン小説、ファンイラスト、ファン動画、SS朗読などのファン作品を投稿できる非商用かつ非営利なウェブサイトです。AO3はファンによって運営されてます。ここでの創造的なファン活動はOTW(変形的作品のためのNPO)の支持による活動の合法性と社会的価値を訴え続けることができます」(変形的作品のためのNPOArchive of Our Own(みんなのアーカイブ)」2018/11/27閲覧)。

*5:「Open Doors (オープンドアプロジェクト) は危険に晒されているファンによる作品に保護を提供するためのものです。私たちは、様々な種類のファン作品やファン文化における芸術品に対する保存と保護を目的とした、いくつかのサブプロジェクトや救済努力を行なっております」(変形的作品のためのNPOオープンドアプロジェクト」 2018/11/27閲覧)。

*6:長期保存を目的としない出版物のこと。チラシやパンフレットなどが挙げられる。

*7:ファン活動をしていることを周りに隠す

*8:ファンとしてのアイデンティティや実践を家族や友人などに明かす

*9:自分がファンであることを、他人から家族や職場の知人などへ勝手に言われてしまう

*10:こうした衝突の例として、FF.net が始めた2012年6月の大量削除事件が挙げられている。

*11:例としてバットマンキャットウーマンのファン・フィクションが挙げられている。

エロサイトにできる社会貢献を考えてみた

何気なく書いたツイートが思いのほか伸びた。

ツイッターだとすぐに流れていってしまうので、せっかくの機会ということでブログにも簡単なメモを残しておく。

R18コンテンツを扱うサイト*1にアクセスすると、以下のようなページが表示される*2

f:id:mtwrmtwr:20181214203946j:plain
確かに「年齢で線引きする」というのは、ルールとしては分かりやすい。しかしそれ以上に重要なのは、正しい知識である。

しばしば「AVのせいで誤った性知識を身に着けてしまう」と非難される。そのような事態を避けるためにも、年齢より知識を問う方が有意義ではないか。実際、成人であっても誤った性知識を持っている人は一定数いる。エロサイトへのアクセスをきっかけに性知識をアップデートしてもらうことができれば、それは大きな社会貢献となるだろう。

現実的な方策

とはいえ、「サイトにアクセスするたびに何問も何問もクイズに解答させられる」というのでは、ユーザーにとってストレスとなるだろう。場合によっては、そのせいでサイト利用者が減るということにもなりかねない。あまりにも負担が大きければ、現実問題としてどこのサイトも実施しないだろう。そうした点を考慮したうえで、実現可能と思われる形式(の一例)を以下に述べてみる*3参考程度に見ていただきたい。

・いくつかの設問からランダムに1問出題する

「正しい/間違い」の2択で答えられる設問を複数用意しておき、アクセスするたびに違う問題が出てくるようにする。2択問題を1つ解くだけならば、年齢確認に「はい/いいえ」で答えるのと手間は変わらないはずである。また、エロコンテンツを愛好している人であれば、エロサイトに複数回訪れると予想される。それゆえランダムに1問出題するという設計でも、性知識の伝達として役立つと考えられる。

・不正解の選択肢をクリックすると性教育関連のサイトに飛ばされる

成人向けだけでなく全年齢向けコンテンツも扱っているサイトであれば、全年齢用のページに飛ばすのが一般的である。それでも問題はないが、もし成人向けしか扱っていないのであれば、性知識について解説しているサイトに飛ばしてもよいだろう。

・年齢確認はチェックボックス

年齢確認が必要ということであれば、「わたしは18歳以上です」というチェックボックスをクリックさせる、という方式が効率的だろう。チェックを入れなければ設問に回答できない、という設計にするのがよいと思われる。

・会員登録時に数問解答させる

初めてアクセスするときに会員登録をして、アカウントを作成するというサイトもある。その場合はアカウント作成時に、メールアドレスやパスワード等の入力とあわせて、いくつかの設問に解答してもらうという方法が考えられる。

設問案

それでは、具体的にどのような設問がよいだろうか。設問の種類としては、さしあたり (1) 避妊方法について、(2) 性感染症について、(3) 身体や生理について、(4) 性交のやり方について、(5) その他、という大きく5つに分けられる。質問文の作り方としては、たとえば「青少年の性行動全国調査」で性知識を問う設問などが参考になる。この調査では(1) (2) (3) が扱われている。一例として以下に引用しておく。

●「膣外射精(外出し)は、確実な避妊の方法である」(答え:まちがい

●「排卵は、いつも月経中におこる」(答え:まちがい

●「精液がたまりすぎると、身体に悪い影響がある」(答え:まちがい

●「クラミジアや淋病などの性感染症を治療しないと、不妊症になる(赤ちゃんができなくなる)ことがある」(答え:正しい
●「日本ではこの10年間、新たに HIV に感染する人とエイズ患者は減少し続けている」(答え:まちがい 近年のデータはこちら

●「経口避妊薬(低用量ピル)の避妊成功率は、きわめて高い」(答え:正しい*4

また、(4) としてAV特有のファンタジーについての設問を用意してもよいだろう。この種類の設問を作るときには、たとえば以下の記事などが参考になる。

この記事から分かるように、 AV知識を真に受けた「間違った」セックス観は女性に苦痛をもたらす。それだけでなく、男性に対しても「男性がセックスを主導して、女性をオーガズムに導かねばならない」という抑圧的な思い込みを引き起こす*5。AVなど性的ファンタジーを扱うサイトだからこそ、こうした点についての啓発が求められるだろう。

これ以外にも、たとえば経口避妊薬の使い方について、性的マイノリティについて、ジェンダーに関連するトピックについて、など設問案は色々ある。一例を挙げておく。

●「セックスしないと子どもは作れない」(答え:まちがい*6
●「性欲は本能であり、生物学的メカニズムだけで決定される」(答え:まちがい*7
●「経口避妊薬は避妊以外の目的にも使われることがある」(答え:正しい*8
●「すべての人は「男」か「女」にキッパリと分類できる」(答え:まちがい*9

性教育についての書籍はいくつも出版されている。また、性知識の普及度を調べるアンケート調査もいくつか存在する。設問を作るさいには、そのような資料が参考になるだろう。

結論

言うまでもなく、性教育は学校など教育の場でしっかりと行われるべきである。とはいえ、インターネットもまた性情報の流通する大きな場となっている以上、エロサイトに正しい性知識を伝達する役割を担ってもらうことにも意義はあるだろう。

上記のような設問を用意することは、サイト側にとって手間かもしれない。しかし「正しい性知識をもっと知りたい」という需要自体が一定数存在すると思われる。設計次第では、むしろ新たな需要を掘り起こす可能性もあるかもしれない。いずれにせよ、社会貢献だと思って検討してみていただきたい。

補足(あるいはやや小難しい余談)

今回の提案は、エロサイトに性知識の伝達を協力していただこうという、いわばポジティヴ・アプローチである。エロサイトやポルノグラフィの危険性や有害さを強調するネガティヴ・アプローチとは異なる、という点に注意していただきたい。

ネガティヴ・アプローチとしては、たとえばタバコのパッケージの警告表示のように、危険性や有害さを前面に押し出すという方策が考えられる。しかしタバコと違い、ポルノの有害さは(少なくとも現時点では)実証されていない*10。この点で、タバコのようなネガティヴ・アプローチをエロサイトに適用するのは不当だと考えられる。

さらに「『対人セックスに適さない内容の性的空想』を愛好する人々」も一定数存在する。性的ファンタジーに対して過度にネガティヴなレッテルを貼ることは、そのような人々への偏見を助長することになりかねない。

そもそも、「現実の他者との性的身体接触」のみを正しい性行為として特権化すること自体にも問題がある*11*12。もちろん性的空想が無批判でよいというわけではないだろう。しかし対人セックスを自明視したまま、性的空想だけを一方的に問題視することは、「現実の他者との性的身体接触」それ自体は望ましい、という暗黙の前提に立つことになる。この点についてはもっと自覚的になるべきだろう。

言うまでもなく、ポルノグラフィが「フィクションである」ということを明記することは必要である。しかし過度にネガティヴな意味付けをすることは、むしろ「対人セックスの特権化」という別種の権力作用をもたらしかねない。こうした点を加味しても、性知識の伝達というポジティヴ・アプローチが適切であると言えるだろう。

注釈

*1:本記事では、主にAVなど性的ファンタジーを販売・掲載するサイトを想定している。

*2:画像は「とらのあな」のアダルトページを開こうとしたときのものである

*3:なお筆者はウェブサイト作成技術などについてまったく素人であるため、技術面については考慮していない。これについてはご了承いただきたい。

*4:※適切に服用しましょう

*5:赤川学(1999)はこのような発想を「性愛のノブレス・オブリージュ」と呼んで、男性にとっても「抑圧的」であると指摘している。個人的には赤川学屈指のパワーワードだと思う。ちなみに赤川学『セクシュアリティの歴史社会学』浩瀚学術書だが、文章が明快であり、読み物としても楽しめる。

*6:生殖に必要なのは精子卵子の結合であって、性器接触ではない。たとえば「男性が自慰等の手段で出した精液をスポイトに入れて、女性が妊娠を望むならば自分の意志で腟に注入する」という方法でも子どもが出来ることはある。より医療的な体外受精技術も存在する。

*7:性的欲望には、生物学的要因と文化的要因がお互いに関連し合っている。以下の中村美亜による説明が端的で分かりやすい。

「性衝動は主にホルモンの働きによって引き起こされるが、そのホルモンがどう作用するかは人それぞれであるし、またその作用の仕方を決定する体内のメカニズムは、心理・社会的なことと大きく関わっている。つまり、個人の心理的特性や過去の体験、家族や社会からの影響によって性的衝動を司る身体の働きは異なるのである。」
(中村美亜(2008)「"アイデンティティの身体化"研究へ向けて――『感じない男』を出発点に」『身体とアイデンティティ・トラブル――ジェンダー/セックスの二元論を超えて』p.261-262)

なお中村美亜『クィア・セクソロジー』セクシュアリティについての優れた入門書であり、性について様々な側面から分かりやすく説明されている。

*8:生理のタイミングをずらすことができるため、たとえば入試や旅行など重要なイベントに備えて服用する場合がある

*9:詳しくは性別二元制 - Wikipediaなどを参照

*10:従来のポルノ調査を幅広く視野に入れた学術研究としては 【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」前編 - 境界線の虹鱒 などがある

*11:これについては 「ルギアで抜いた人」から考えるセクシュアリティ論【雑感】 - 境界線の虹鱒 や 【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声 - 境界線の虹鱒 などを参照。

なお「セックスしないと子どもは作れない」などという反論が散見されるが、先に述べたように、セックス以外にも子どもを作る方法は存在する。また「対人セックスは重要なコミュニケーション手段だから特別なのだ」という反論もあるかもしれないが、セックス以外にもコミュニケーション手段は多々ある。コミュニケーションツールとしてのセックスを過信してはならないし、セックス以外のコミュニケーションを舐めてもいけない。

*12:言うまでもないことだが、「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」ということは、決して性暴力を肯定することではない。そもそも「人を傷つけてはならない」という規範は、性に関する領域のみならず社会全体で適用されるべきルールだろう。「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」とは、性の領域に固有の――そして不当な――原則を作るなということであり、性に関する領域も原則として社会一般のルールと同じように考えるべきだということである。

安全、正気、そして合意――英米でのS/M実践者についての研究

Darren Langdridge (2016) "The time of the sadomasochist"

Introducing the New Sexuality Studies 3rd Edition の第38章(p.337-345)である。今回第3版を参照したが、第2版であれば上記リンクから全文を読むことができる。なおページ番号や一部のデータや年号以外は基本的に第3版と同じである。

今回は上記の文献をもとに、イギリスやアメリカのサドマゾヒズムについて解説する。サドマゾヒズムは精神医学的な言説を通じて病理化されてきたが、他方で性行為のさいに明確な同意を取り交わす文化を発展させてもいる。そのためサドマゾヒズムについて考察することは、いわゆる「性的嗜好」をめぐる差別を考える場合や、性交の同意について議論するときなどに有益な示唆をもたらすと考えられる。

ただし社会的な文脈などが日本と異なるため、英米での議論がそのまま日本のサドマゾヒズムにも妥当するとはかぎらない。本記事後半で日本の文脈についてごく簡単な注釈を入れるが、ここでは日本におけるサドマゾヒズムについて踏み込んだ議論はしない。国や社会による違いがあることに留意しながら読んでいただきたい。

精神医学による病理化と、それに対する抵抗

サディズムマゾヒズムとは、19世紀の精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングによって命名されたものである。サディズムマゾヒズムについての理論は、まず精神医学のなかで形成されていった。

しかし当たり前のことだが、精神的な苦悩や不安を抱えていない人は精神科医の診療には行かない。そのため当初の精神科医たちは、主に同意のない性暴力行為をする人や、そうした欲望に苦悩する人への診療を行っていた。逆に言えば、同意のうえで幸せにS/Mを実践する人々を診る機会はほとんどなかった。こうした理由から、精神医学は「同意のあるS/M行為」と「同意のない性暴力行為」とを混同したまま、サドマゾヒズムを理論化していったのである。こうした歴史から、現在でもアメリカ精神医学会のDSM-5やWHOのICDといった精神障害に関するマニュアルのなかで、サディズムマゾヒズム精神障害の一種として分類されている*1。このような病理化に対して、今後のDSMやICDの改訂時にサドマゾヒズム精神障害カテゴリーから外すよう運動している人々もいる。

このように、精神医学のなかではサドマゾヒズム当事者の声が無視されてきた。それに対して、当事者の語りや実践に重きを置いた研究が、社会学や心理学などで1990年代以降に行われるようになる*2

法的な闘争

サドマゾヒズムに対する攻撃は、精神医学ばかりでなく法的なものもあった。その最たる例として挙げられるのが、イギリスで起きた「オペレーション・スパナ―」(Operation Spanner)である。

1990年12月、同意のうえでのサドマゾヒズム行為を実践していた16名のゲイ男性が、傷害や暴行などの理由で有罪判決を受け、罰金や懲役刑を科された。参加者のなかで治療が必要なほどのケガをした人はいなかったにもかかわらず、起訴に値するほど深刻な傷害だとみなされたのである*3

このときイギリス高等法院の裁判長Mr James Rant QCは「裁判所は文明社会で許容できるものとそうでないものとの間に線を引かなければならない。 この場合、その行為は明らかにその線の間違った側にある。」と述べた。ピアッシングや入れ墨、あるいはコンタクトスポーツが合法であるにもかかわらず、サドマゾヒズムは暴行に含まれるとされたのである。

メディアでの扱い

これに加えてLangdridge and Butt (2004) では、メディアにおけるサドマゾヒズムの扱いについての事例を挙げている。アメリカで1990年代頃に、インターネット上のSMチャットルームを通じて出会った人を次々殺害するという連続殺人事件が起きた*4。このときメディアでは、合意のSMと合意のない暴力とを混同しつつSMへの恐怖を煽るような報道がなされたのである。 

サドマゾヒズムの語りの出現

以上のように、サドマゾヒズムは病的で猟奇的なものと見なされてきた。しかしこうした出来事がありつつも、サドマゾヒズムに関する当事者の語りが1980年代頃から徐々に広がり始めてきた。この背景としては、まず家族計画や避妊技術の発展などによって、近代以降に性が生殖から段々と分離してきたことが挙げられる*5。これに加えて、20世紀後半以降に生じた様々な社会的変化がある*6。またフェミニズム運動も、特に1980年代頃のSex Wars論争を通じてサドマゾヒズムのストーリーを促した*7。こうした歴史を経て、現在ではサドマゾヒズムを扱った映画やテレビや文学なども作られるようになっている。

しかし一口にサドマゾヒズムと言っても、そこで実践される行為にはさまざまな種類があり、またサドマゾヒズトのコミュニティも多様である。そのため以下に述べるサドマゾヒズム実践の特徴はすべての実践者に当てはまるわけではない。それでも調査を通じて、ほとんどのサドマゾヒズム愛好者から語られた特徴がある。それが「安全、正気、そして合意」である。

安全、正気、そして合意のS/M実践

安全、正気、そして合意」(safe, sane, and consensual)というフレーズはS/M実践者たちの間でとても有名なものであり、ほとんどのS/Mコミュニティにおける中心的なルールとなっている。

まず「安全」について。S/Mにおける安全性についてはいくつかのレベルがある。1つめは、「シーン」*8に没頭する人々の身体的な安全性である。これについては、シーンの前やシーンの最中にも注意深い交渉が行われる。たとえば「セーフワード*9を確認しておいたり、安全なプレイを補助するための用具(コンドーム、グローブなど)を用意しておくといったことが挙げられる。また安全なプレイでは、パニックに陥ったり、良いように使われただけのような気分になったり、虐待されたりといったことを避けるために、精神的な安全性をめぐっても慎重な交渉が行われている。その例として「アフターケア*10が挙げられる。

正気」なプレイは以上の安全性とも関連するものである。過去の精神医学のなかでは、S/Mは正気でない人がやることだと見なされており、それゆえ合意を結ぶことは不可能だと見なされてきた。これに対する当事者たちの反論という側面が「正気」という語に含まれている。S/M実践者はシーンの前や最中にも可能なかぎりパートナーの精神衛生に気を遣う。S/Mクラブのようなパブリックスペースでは、そこに居合わせた人たちが正気なプレイの仲裁人となり、シーンの度が過ぎている場合には介入することもある。

最後に「合意」について。S/M実践者は完全な合意があるときにのみプレイを行う。これは、成人とだけプレイし、またシーンのすべての段階で積極的に合意を交渉するということである。

Langdridge and Butt (2004)による膨大なネット言説の調査から、S/M実践者たちの語る主要なテーマとして 1)サドマゾヒズムが病理的であるという見方を拒否するものと、2)同意をめぐって明示的な交渉があることを示すものが抽出された。1つめのテーマについては、さらに i) サドマゾヒズムは幼少期のトラウマの産物であるという考え方を拒否するものと、ii) サドマゾヒストは満足のいく関係性を構築できないという考え方を拒否するものがあった。

2つめのテーマについて、S/M実践者には(他のほとんどの性行為とは異なり)口頭もしくは書面での契約によって合意を明確化する文化が見られる。こうした契約は、たとえば伝統的な結婚式や、雇用契約、ビジネスサービス契約を真似るといった、パロディを通して行われる。

このような明確な契約を取り結ぶことは、長期的なS/M関係では一般的なものである。しかしすべてのS/M実践がこのような契約による合意を行っているわけではなく、特に商業的なS/Mの場では、過去に一度もあったことがない人やほとんど会話をしたことのない人とS/M行為をする場合もある。しかしこうした状況でも合意は重視されており、しばしば非言語的ではあるが、合意の交渉が継続的に行われる。

結論

S/Mは精神病理とみなされ、合意のない性暴力と混同され、ときに法的処罰を受けることもあった。しかし他方で、当事者の間では安全や合意をめぐる交渉が文化として発展している。さらに今回は詳しく取り上げなかったが、S/M実践には男女のジェンダーロールをパロディ的に演じることによって、ジェンダー規範へと抵抗する側面も見出せる。こうした意味でも、S/Mプレイをしない人々にとっても学べる要素があると言える。

おまけ:日本の状況に関する文献メモ

始めの方に書いたように、サドマゾヒズムはもともとは精神病理とみなされており、異常でおぞましいものとして扱われていた。しかし近年の日本では、「ドS」「ドM」という言葉が普及していることから分かるように、サドマゾヒズムを異常なものとみなすイメージは薄らいでいる。こうしたイメージ転換の言説史的背景については河原梓水(2015)が参考になる*11。また近年の日本の状況や、日本のSMイメージがどのように海外で受容されているかということについては、坂井はまな(2010)が参考になる。日本の性風俗産業におけるSMプレイについては熊田陽子(2017)による詳細なエスノグラフィがある。

サドマゾヒズムについてはサルトルドゥルーズなどの流れを汲んだ哲学・文学研究が多いが、当事者の実践などに関する社会科学的な研究はそれほど多くない。上に挙げた文献以外で、日本における重要な研究・文献があればコメント等でご指摘いただけると幸いである。

参考文献

・Beckmann, Andrea. 2001. “Deconstructing Myths: The Social Construction of ‘Sadomasochism’ versus ‘Subjugated Knowledges’ of Practitioners of Consensual ‘SM.’” Journal of Criminal Justice and Popular Culture 8(2):66–95.
・Giddens, Anthony, 1992, The Transformation of Intimacy: Sexuality, Love and Eroticism in Modern Societies, Cambridge: Polity. (=1995,松尾精文・松川昭子訳『親密性の変容――近代社会におけるセクシュアリティ,愛情,エロティシズム』而立書房.)
・Langdridge, Darren and Butt, Trevor, 2004, “A Hermeneutic Phenomenological Investigation of the Construction of Sadomasochistic Identities,” Sexualities 7(1):31–53.
・Plummer, Ken, 1995, Telling Sexual Stories: Power, Change and Social Worlds, London: Routledge.(=1998,桜井厚・好井裕明・小林多寿子訳『セクシュアル・ストーリーの時代――語りのポリティクス』新曜社.)
・Taylor, Gary W. and Jane M. Ussher. 2001. “Making Sense of S&M: A Discourse Analytic Account.” Sexualities 4(3):293–314.
・Taylor, Gary Wilson. 1997. “The Discursive Construction and Regulation of Dissident Sexualities The Case of SM.” in Body Talk: The Material and Discursive Regulation of Sexuality, Madness and Reproduction, edited by J. M. Ussher. London: Routledge.
・河原梓水,2015,「病から遊戯へ―吾妻新の新しいサディズム論―」井上章一三橋順子編『性欲の研究―東京のエロ地理編―』平凡社,262-9.
・熊田陽子,2017,『性風俗世界を生きる「おんなのこ」のエスノグラフィ――SM・関係性・「自己」がつむぐもの』新曜社
・坂井はまな,2010,「海外BDSM界における<日本>イメージ――快楽の活用とジェンダー川村邦光編『セクシュアリティの表象と身体』臨川書店,215-52.

関連記事

*1:余談だが、同性愛は1968年刊行のDSM-IIでは「人格障害」とみなされていた。1973年刊行のDSM-IIIで精神障害ではないとして項目から外されたが、「性指向障害」という項目のなかで「自我違和性同性愛」が置かれた。これは1987年刊行のDSM-III-Rで削除された。

*2:サドマゾヒズム本質主義的・病理的に捉える立場から離脱し、当事者へのインタビュー調査を実施した初期の研究としてTaylor と UssherやBeckmanなどの論文が挙げられる。

Taylor (1997)やTaylor and Ussher (2001)によって、サドマゾヒズムの言説的構築についての研究が行われた。Taylor (1997)はS/Mに関する伝統的な精神医学を批判的に概観し、その後24人のS/M愛好者へインタビューを行った。これをもとにして、Taylor and Ussher (2001)はさらに徹底的なインタビューを実施した。その結果、S/Mに関する4つの「定義的な言説」として「(i) 同意、(ii) 権力の不平等な均衡、(iii) 性的興奮、(iv) 定義の互換性」を挙げた。

またBeckman(2001)は、S/M愛好家たちがS/M実践を「『ノーマルな性器のセクシュアリティ』に代わるものとして、『より安全なセックス』として、『生きられた身体』の次元の探求として、ゲイ・レズビアンセクシュアリティステレオタイプを越え出る可能性として、そして『生きられた身体』の変化の潜在性を経験する可能性として」(Beckman 2001: 301)捉えていると論じた。

*3:この事件の背景には同性愛差別の影響があるとも言われている

*4:事件の犯人であるJohn Edward Robinsonは「インターネット初のシリアルキラー」とも呼ばれている。

*5:「生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ」のことをギデンズは「自由に塑型できるセクシュアリティ」(plastic sexuality)と呼んでいる(Giddens 1992=1995: 13)。これはセクシュアリティが「生殖や親族関係、世代関係との古くからの一体的結びつきから切り離された」ということである(Giddens 1992=1995: 47)。この自由に塑型できるセクシュアリティの発達と対応して、「純粋な関係性」(pure relationship)が生じてきた(Giddens 1992=1995: 90)。純粋な関係性とは、「社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしていると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況」を指す言葉であり、「性的純潔さとは無関係であり、また、たんなる記述概念でなく、むしろ限定概念である」(Giddens 1992=1995: 90)。ギデンズは純粋な関係性の例としてゲイ・レズビアンの実践に言及しているが、ラングドリッジらは「サドマゾヒズムもまた純粋な関係性のありうる原型を提供するかもしれない」と論じている(Langdridge and Butt 2004: 33)。

*6:「すくなくとも一九六〇年代の後半から、セクシュアリティの新しいストーリーが形成されてきた。」「家族、メディア、経済、政治形態、都市構造のあらゆるところで根底的な変化が生じ、新しいセクシュアル・ストーリーが語られ、新しいセクシュアル・アイデンティティが確かなものとなり、新しいセクシュアルな制度化をすすめることができた時代だった。一九八〇年代になると、西欧のセクシュアルな世界は一〇〇年前の世界とはまったく異なるものとなった。」(Plummer 1995=1998: 337 )

*7:(Plummer 1995=1998: 339)(Langdridge and Butt 2004: 35)

*8:S/Mプレイにおけるシチュエーションのこと

*9:シーンを止めてほしいときやペースを落としてほしいときに用いる、事前に取り決めておいた隠語。S/Mでは「イヤ」「やめて」といった言葉をプレイの一環として使うことがあるため、別の言葉を事前に話し合って決めておく

*10:プレイ中にできたケガを和らげたり、望まれない精神的後遺症がないことを保証するための時間

*11:河原は日本の通俗的SMイメージのルーツの一つとして、1950年代前半に雑誌『奇譚クラブ』で活躍した作家・吾妻新のサディズム論を取り上げている。「一九五〇年代は、サド(マルキ・ド・サド:引用者注)のサディズムを最も重度なサディズム。「正常な」人々のなかにも存在するささやかな加虐嗜好を軽度なサディズムとして、両者を連続的に捉える見方が強かった」(河原 2015: 263)。また当時はエログロ雑誌が大量に出回り、ポルノに加えて猟奇殺人・犯罪を扱った記事が巷に溢れていた時代でもあった。そうした状況下で吾妻は、猟奇的残虐行為とサディズムとの結びつきを解くような主張を展開した。

 吾妻の主張する新しいサディズムとは、肉体的苦痛よりも精神的苦痛をより重視し、合意の上で快楽を持続的に営むものである。さらに彼は、犯罪的な単なる残虐行為をサディズムの領域から切り離そうとする。(河原 2015: 264)

こうした主張は『奇譚クラブ』読者の間で賛同者を獲得していき、現在のSMイメージにつながっていったとされている。