境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

性暴力ゲームは批判されるべきか?――レイプレイ事件に関する海外の論文

原題 “RapeLay and the return of the sex wars in Japan”(レイプレイと日本におけるセックス戦争の再来)PW Galbraith

梗概和訳
この論説では、プレイヤーに架空の女性をレイプすることを許すようなアダルトコンピューターゲームである『レイプレイ』(2006)への反応について考える。『レイプレイ』は世界的に流布したときに論争を引き起こし、日本で再び議論となった。そこではしばしば、1970年代後半から1980年代にかけての北米における、フェミニストによるポルノグラフィ批判の立場を明確に焼き直していた。2000年代における日本での「セックス戦争」の再来によって、私たちは、その闘争が未解決のまま放置した次の問いに直面する:空想それ自体は問題なのか? 言い換えれば、人々を架空の性行動の生産と受容に熱中させるが、描かれるような性行動には熱中させない、というアダルトコンピューターゲームは問題なのか? 性暴力を空想することは問題ないのか? あるいは一部の評論家が主張するように、そのような空想は女性への性暴力を常態化するだろうか? 日本では、性的空想、遊び、そして害への批評的で文化的なアプローチが考慮されている。

キーワード:日本、アダルトコンピュータゲーム、 性暴力、メディア効果、セックス戦争、性的政治、非西洋的視点、メディアリテラシーフェミニズム、レイプファンタジー

※上記リンクから全文がダウンロードできます。

【内容整理】

 アメリカの文化人類学者PW Galbraithによる、マンガやゲームにおける性暴力表現を巡る論考である。いつものように原文の目次に沿って紹介を進めていく。

・「レイプレイ問題」とは?

 簡単に言うと、2006年に日本のマイナーレーベルから発売されていた凌辱ゲームが、海賊版として違法な英語バージョンを作成され、それが2009年にイギリスやアメリカで注目され、批判された、という事件である。2010年頃に日本で「非実在青少年」騒動が起こったのは、この事件の影響もある。

 「レイプレイ問題」およびその影響から派生した日本での論争では、1970年代から1980年代にアメリカで生じたポルノグラフィ論争(通称 "Sex Wars"「セックス戦争」)と非常に似た議論が展開された。そのため今回の論文では随所で、レイプレイ問題を1980年頃のアメリカでの論争になぞらえて考察している。

中里見博によるレイプレイ批判

  徳島大学法学部の教授でポルノ・買春問題研究会のメンバーである中里見博は、「レイプレイ問題の経緯と法改正の課題」というエッセイで、『レイプレイ』に対して大きく3つの批判をしている。

・『レイプレイ』の内容は女性への差別を構成する
・『レイプレイ』は児童ポルノである
・このようなアダルトコンピューターゲームは女性と子どもを危険にさらすような性暴力文化を作り出す

 基本的に1980年代のポルノ論争で提出されていた批判と同じような内容である。しかし、架空のポルノグラフィはその他の形態のポルノグラフィよりも有害である、と主張している点は、『レイプレイ』問題ならではの記述だろう。中里見によれば、バーチャルだからこそより過激で、より暴力的な表現が作られ、それゆえにより社会にとって有害だという。

・「セックス戦争」を振り返るーーゲイル・ルービンの反論

 ここで話はいったん1980年代にさかのぼる。当時フェミニズムの立場からポルノグラフィを批判したダイアナ・ラッセルを相手取りながら、フェミニストである人類学者ゲイル・ルービンはポルノグラフィを擁護する論陣を張った。ルービンによれば、反ポルノ的フェミニズムの立論には以下のような問題があるという。

・明らかに悪いものへの批判から出発して、そこからあまり人々の怒りを買わないものにまで批判を向ける
・ポルノグラフィの制作時に行われた性暴力と、表現された内容の問題を混同する傾向がある
・有害性の根拠がないにもかかわらず、嫌悪と憤慨によって人々を動員させる
・断言によって(根拠がないにもかかわらず)あたかも信頼できる主張であるかのごとく見せかける
・男性を単純に抑圧と虐待と抑圧者・虐待者と見なすスタンスに、道徳的な権威を付与してしまう

 ルービンの主張については、前回の記事で(やや粗雑ながら)まとめているので、そちらも参照していただきたい。 

 やや話は逸れるが、ポルノグラフィが社会的に性暴力を増やすわけではない、という統計的調査として、ガルブレイスはいくつか論文を挙げている。関心のある方は原文の文献リストから確認していただきたい(Schodt 1996; Diamond and Uchiyama 1999; Ishikawa, Sasagawa, and  Essau 2012).

・では、日本でレイプファンタジーはどのように受容・議論されているか

 以下では性表現を受容する当事者や、その研究者たちの言説を整理している。マンガ・ゲーム評論家や研究者たちの著作および彼らへのインタビューなどが、主な題材となっている。

 レイプレイ問題が日本国内へと波及し、2010年頃には性暴力表現を規制する機運が高まっていた。これに対して、日本では多くのフェミニスト表現の自由や思想・良心の自由にもとづいて抵抗した。その例としてガルブレイスは、まずマンガ研究者である藤本由香里を挙げている。

  藤本はハーレクイン小説に描かれるレイプシーンに注目するよう促している。そこで描かれるレイプは「レイプしたい/されたい、という欲望を反映するものでもなければ、そのような欲望に影響を与えるものでもなく、むしろこの種の小説に特有の空想」である。BDSMが性暴力ではないのと同じように、レイプファンタジーはファンタジーなのである。

もしあなたがマンガファンに「実在の子どもかマンガか、どちらが欲しいか」と尋ねたなら、彼らはこう答えるだろう。「マンガをください」と。表現物の文脈を離れた道徳的な憤慨のなかでは、このことを誤解しがちである。

 つまり、「マンガキャラクターは現実的な身体を表象・参照するのではなく、むしろマンガ的な身体を表象・参照するのである」。

 また藤本は、一部の男性向けアダルトマンガやゲームの内容が「いやな」ものであると認識したうえで、その表現の規制に反対する。藤本によれば、性差別的な表現物は性差別の結果ではなくその兆候である。つまり性差別の可視化である。それゆえもし表現物が規制されてしまうと、単に性差別が不可視化されるだけで、むしろ性差別について議論する機会が奪われてしまうのである。またこのような規制は、成人男性が女性や子どもの性を統制・管理するというより大きな規制の一部になってしまう、とも指摘している。

 マンガ研究者・堀あきこも、ある研究会のなかで、フェミニストと保守政治家とが結びつくことに対して批判的に議論している。法的規制は、老若男女がマンガやゲームなどバーチャルセックスの安全な場へアクセスする機会を奪うのである。また堀は、男性向け表現ではなく、女性向けマンガ表現を擁護することに焦点を当てている。研究会には男性向けアダルトマンガを(おそらく無批判に?)称揚してしていた評論家が参加していたらしく、堀は彼に対して「あなたは自分がどのようにアダルトマンガを経験しているか、正直になって考えるべきである」「もしそのようなマンガが男性性をまったく規範化しないというのなら、どうしてなのか説明してほしい」と反論し、その後両者の間で活発な議論があったようである。このように、堀は「規制を増やすのではなく、自己批評、開かれた対話、他者への熟慮」をすべきだと考えている。

 そして『レイプレイ』から若干離れるが、3人目の論者としてフェミニズム研究者であるSetsu Shigematsuを取り上げている。Shigematsuは1970年代日本のフェミニズム運動史に関する初の英文研究書 Scream from the Shadows: The Women's Liberation Movement in Japan の作者であり、一貫して反ポルノ運動を批判する立場を取ってきた人物である。Shigematsuは1999年に発表した論文で、性表現が直接的に人々の価値観を左右するという考えを否定する。女性向けの性表現については、藤本と同様の主張を展開していると言える。現実にはさまざまな形で女性への性暴力が起こっているが、ポルノグラフィに描かれた内容を規制しても女性への暴力は解決しないのである。

「視聴者を性的に刺激する表現を置くことは、そこに描かれた行動を擁護することと同じ・・ではない」

 Shigematsuの議論のユニークな点は、女性向けだけでなく男性向けのアダルトマンガについても考察しているところである。Shigematsuはロリコンマンガを読む当事者の言説を参照し、次のように主張する。

ロリコンマンガを「女児ポルノ」と混同したり「実際の少女の性欲化や少女への性的いやがらせの結果・・とみなして、潰したり非難したりする」(Shigematsu 1999: 138) べきではない。

  Shigematsuは、表現物が直接に社会へと反映されるという考え方を否定し、むしろ現実から離れたマンガやゲームは「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」(Shigematsu 1999: 128)を切り拓くと論じている。そうしたメディアは、性について別の仕方で考える機会を提供するのである。

人々がどのようにロリコンマンガ(やその他のメディア)を消費し、私物化し、変形するかということや、彼らがその後どのように行動するかということを、あらかじめ管理したり決定することはできない。ポルノグラフィ制作・・における少女の使用や潜在的虐待や性的いやがらせは深刻な問題であるが、それを「ポルノの内容」の問題に置き換えたり切り詰めたりしてはならない。(Shigematsu 1999: 138 強調原文)

・レイプレイ再考

 ここでガルブレイスは当事者男性に視線を移し、アダルトゲームのシナリオライター鏡裕之の著書(『非実在青少年論』)およびインタビューから考察を行う。鏡はフェミニズムをきちんと研究しているわけではないが、その著書には上述のフェニストらと共通する認識が書いてある。

  まず鏡は、アダルトゲームの制作者とプレイヤーがゲームと現実を区別していると語る。その根拠の一つとして、『レイプレイ』制作者が行なっていた倫理的配慮が挙げられている。

 倫理上の配慮も、ゲーム内で行われています。『レイプレイ』のエンディングでは、主人公はヒロインに殺されるという処罰を受けています。凌辱要素の強い美少女ゲームでは、凌辱を犯した者はエンディングで処罰されることになっているのです。
 パッケージやマニュアルにも、複数の箇所に注意書きが記されています。たとえば、パッケージの表と裏にはこうあります。

「※本作品には、暴力、残虐、犯罪行為等、過激な表現が含まれているのでご注意ください。また、痴漢やレイプを実際に行うと犯罪になるので絶対に真似しないでください」

 また次のような注意書きもパッケージに記されています。

「お店の方へ:この商品は18歳以上の方を対象にしたゲームです。一般の商品とは別の売り場または別の棚に陳列して興味のない方や子供の目に触れないようにできるだけ配慮して下さいますようお願い申し上げます」

 さらにマニュアルには、最初の項に「警告!」としてこのように記されています。

「このソフトの内容はあくまで創作物でありゲームです。このゲームの内容と同じことを現実に行うと法律によって処罰されます。ゲームの内容は芝居でありフィクションですので、影響を受けたり、絶対にマネをしないでください」

 配慮の上に配慮を、注意の上に注意を重ねているのがよくわかります。ケースには「JAPAN SALE ONLY」の表記もされていました。その『レイプレイ』に、アメリカの人権団体が噛みついたのです。(『非実在青少年論』p.218-p.220)

  また日本のマンガやゲームのキャラクターは、写真的リアリズムを志向する北米のゲームとは異なり、現実の身体を参照せず、それ自体として独立な欲望の対象であるとも指摘している。

 そして鏡の議論を通じて、ガルブレイスは「萌え絵リテラシー」や「萌えの倫理」といった用語に注目する。これは要するに、フィクションをフィクションとして受容し、現実と区別する能力のことである。萌えで描かれる女性像(あるいは男性像)が現実とは異なるということを正しく認識する、ということである。この倫理や能力が社会に行き渡っていれば、レイプファンタジーがレイプカルチャーを強化することはなく、性差別を再生産することもないだろう。これはShigematsuの言う「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」の具体例と言えよう。 

【雑感】

・内容について

 社会科学一般に言えることだが、特にセクシュアリティに関する議論では、当事者の実像を捉えないことには話が始まらない。今回の論文は、批評家兼マンガ読者という立場の人々の語りに着目したものとして参考になる。またアメリカのポルノ論争やBDSM論争を日本の性表現論争へと節合する試みとしても注目に値する。本論文のような観点も踏まえたうえで、発展的に議論を重ねていくことが重要だろう。

 また、鏡裕之の『非実在青少年論』は以前読んだことがあったので、ついでに触れておこう。こちらはゲーム作者兼消費者というまさに当事者の声で、言説分析の材料としては面白い。ただ内容自体を評価するなら、話題を広げ過ぎていて個々のテーマへの踏み込みが足りないというのが正直なところだった(これは想定している読者層の問題かもしれないが)。さらに、「男性性」や「女性性」というものを単一的・本質主義的に捉えている節があり、控えめに言ってもフェニズムや男性学からの掘り下げがかなり浅いという印象が否めなかった。とはいえ、『レイプレイ』騒動直後の状況を反映した言説資料としては興味深い。このジェンダー的知見を欠いた著述にも、藤本や堀やShigematsuらフェミニストと同様の志向が(時に「萌え絵リテラシー」など、より具体的な議論として)表れているというガルブレイスの指摘は意義のあるものだろう*1

・個人的な感想

 せっかくなので、現時点での自分の考えを暫定的に、ごくごく大雑把に書いてみる。

 表現がそれ自体として「悪」となる、という発想は基本的に間違いだろう*2。たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』は出版直後にヨーロッパ中で恋愛自殺を引き起こし、社会問題化したと言われている。しかし現代では、ウェルテルに「殺される」人はほとんどいない。表現された内容は全く変わっていないが、表現を受容する社会が変化したことによって、ウェルテルの影響力は大きく変化していると言えるだろう。これに対して、「将来的にどう社会が変化するかは知らないが、現にいま人が死んでいる以上、差し当たりいまは表現それ自体を批判するべきだ」と当時の人なら考えるかもしれない*3。しかし、その考え方に従って『若きウェルテルの悩み』や文学が社会的に抹殺されてしまえば、将来の社会への損失は計り知れなかっただろう*4

 同じ構図がマンガ等の性表現についても当てはまる。もし仮にマンガに描かれた女性像が現実の女性の営みを規定するという場合でも、問題なのは表現それ自体ではなく、その表現を受容する社会こそが問題なのである。これに対して、表現物それ自体を問題視してしまうと、別の問題が生じてしまうだろう。ただしここで言う「別の問題」とは、単に表現の自由が失われるという話ではない。 

 注目すべきは、身体接触や性愛関係を前提としない、オルタナティブな性の倫理がすでに現れている・・・・・・・・という点である。描かれたキャラクターが(現実の男/女の代替ではなく)それ自体として独立した性的対象である、ということが多くの当事者たちによって語られている*5。そうだとすると、もし「描かれた性表現が現実の女性の存在を劣位に留め置くものとして機能するのだ」と主張するのであれば、単に表現物やそれを直接的に享受する当事者のみを非難するのではなく、むしろそれらを取りまく社会環境や社会規範をこそ問題化すべきではないだろうか。本文中の言葉を使えば、「萌えの倫理」の浸透を妨げる社会環境をこそ、問題化すべきだということである*6

 ウェルテルの例からも分かるように、表現がもたらす悪影響を評価するためには、その表現物がどのような文脈に置かれているかを考慮しなければならない*7。たとえば話題に上っていた『レイプレイ』は、極めて限られた客層をターゲットにしており、また作品内容も決してレイプを肯定するものではない。『レイプレイ』それ自体が特段に日本のジェンダー観を悪化させたとは考えがたい。それにもかかわらず『レイプレイ』を批判するということは、結局のところ身体接触や性愛関係にとって都合の悪いセクシュアリティを排撃することにしかならないと思われる。身体接触という「正しいセクシュアリティ」を特権化し、そこから外れた営みを排除するという点で、単純にレイプファンタジーを批判するということは(たとえ法的規制を主張しないとしても)「萌えの倫理」への攻撃として機能し得るかもしれないのだ。この点で、単に表現それ自体を批判することは、ある種の保守的思考と共鳴しているようにも見える。これはまさに、80年代にアメリカの一部のフェミニストがBDSMを攻撃したことと同型な議論と言えるだろう。

 もし性暴力表現が現実社会に悪影響をもたらしうるとすれば、そこで問題とされるべきは「私たちの社会が、性器接触や性愛関係を前提としている」ということではないだろうか。「身体接触の相手や性愛関係の相手を獲得しない/できない人間が、不当に異端視・蔑視される」ことではないだろうか。もっと言えば「特定の『正しいセクシュアリティ』を規範化し、そこから逸脱する人間を排除している」ということではないだろうか。それらを批判せず一足飛びに表現物を批判することは、むしろ「オルタナティブな性の倫理」を踏みつぶし、「男‐女」という関係性を特権的なものとして温存し続けるだけに終わるのではないだろうか*8

 すでに多くの論者が指摘しているように、性差別と「正しいセクシュアリティ」の規範には密接なつながりがある*9。本論の文脈を考えれば、ここでは「正しいセクシュアリティ」を「性愛の倫理」と言い換えてもよいだろう。「性愛の倫理」はある一面で「SMの倫理」と対立し、また別の一面で「萌えの倫理」とも対立する。あるいは、Aセクシュアルの不可視化も「性愛の倫理」の下で生じている、と考えてよいかもしれない。そして「性愛の倫理」は正確には「異性愛の倫理」であり、「性愛の倫理」内で同性愛が他者化されているということも忘れてはならない。

 これに対して、「同性愛も萌えもSMも近年では社会に受け入れられているじゃないか」と考える人もいるかもしれない。確かに一面ではそうとも言えるだろう。しかしそれは「性愛の倫理」を脅かさない限りでの受容でしかなく、そこからはみ出す者については相変わらず排除の対象となっているのではないだろうか。

 論の展開上、ここでは同性愛や萌えやAセクシュアルやSMを同列に並べているが、もちろん個別には問題のあり方がそれぞれ異なる。とはいえ、いずれも「正しいセクシュアリティ」規範という同一の問題系に属している、と捉える視点にも一定以上の意義があるのではないだろうか。

 性差別への抗議は当然必要だが、その際に「正しいセクシュアリティ」を補強してしまうのは悪手と思われる。それよりも「オルタナティブな性の倫理」をさらに洗練させ、性差別的な「正しいセクシュアリティ」規範の解体を志向するべきではないだろうか*10

 ・関連記事

*1:正直、以前『非実在青少年論』を単体で読んだときは、あまり高く評価はできなかった。特にフェミニズムについて、法的な表現規制の観点からしか考察しておらず、法規制への反論にはなっても、規制を要求しない批判への反論・応答にはなっていなかった。つまりフェミニズムが何を問題としたのか、根本的な部分をとらえていないのである。あとソース不明で信憑性に欠ける記述が散見されたので、情報源にした資料をきちんと明記してほしい。とはいえ、ゲーム制作業界の裏話などについてはなかなか面白い話も載っており、言説資料としては価値のある本だと思う

*2:ヘイトスピーチはどうなのか、という疑問があるかもしれない。あくまで雑感なのでキチンとした論証はしないが、さしあたり「死ね」というシンプルな例から考えてみよう。この表現が暴力になる条件としては、たとえば「人間にとって『死』が暴力である」という背景がある。もし仮にこの背景を完璧に取り除くことができれば、「死ね」は暴力ではなくなるかもしれない。しかしここからが重要で、1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題が生じる。「死ね」の例は、1)について言えば技術的にも価値観的にも極めて困難であり、2)について言えば極度の困難を乗り越えてまでそのような社会を目指すべきと主張することは難しいだろう。それゆえヘイトスピーチとしての「死ね」については、表現物それ自体の問題として扱うことに一定の妥当性があると考えられる。

なおこの議論は法的規制の是非に関するものではなく、規制を要求しない一般的な批判について考察するものである。ヘイトスピーチではない「死ね」については、後述する文脈的問題の注を参照

*3:あくまで思考実験としての仮定である

*4:たとえばウェルテルを読むことで救われた人、そしてウェルテルの影響を受けた文学作品によって救われた人の存在を忘れてはならない

*5:溝口彰子『BL進化論』永山薫『エロマンガ・スタディーズなどにも、そのような語りが見られる

*6:先ほど注で挙げた1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題を考えてみる。個人的には、1)他のあらゆる価値変動と同じく困難はあるが、基本的に価値観の変化だけでよいので不可能ではない、2)もともとの性表現批判の目的が性差別解消であり、それに役立つという理由がある、と考えている。長くなるため論証はしないが、後述する「正しいセクシュアリティ」の議論も参照してほしい

*7:再びヘイトスピーチを考える。見知った仲の相手に、誇張表現であることが容易に理解できる文脈を共有したうえで発される「死ね」は、ヘイトとは言えないだろう。この意味でも、表現物それ自体だけでなく、文脈も判断する必要がある

*8:こういう話に関心のある方は、セジウィック『クローゼットの認識論』の序論やプラマー『セクシュアル・ストーリーの時代』の8章や9章あたりを読むと、良い示唆を得られると思う

*9:ここで言う「正しいセクシュアリティ」とは、愛によって恒常的に安定した家庭、生殖、および性器接触を特権化する規範である。詳しくは竹村和子『愛について』などを読んでいただきたい

*10:「性愛」や「親密性」を善きものとして称揚している論者が結構な数いるが、上述のように、むしろそのような一見美しく見えるものにこそ警戒をした方がいいだろう

ゲイル・ルービン『性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』個人的要約メモ

 フェミニズム文化人類学者のゲイル・ルービンによる、ゲイ/レズビアン運動やクィア・スタディーズにおける重要文献(原典初出は1984年)。多様なセクシュアリティが階層化され、下層に位置付けられたセクシュアリティが法制度や社会規範によって攻撃されている、ということを理論的に述べた論文である。また、セクシュアリティ研究とフェミニズムの理論は区別しなければならないという指摘も重要である。ネット上にまとまった紹介がなかったので、引用を中心に内容をまとめておく。(ただし自分用のメモなので、基本的に年表的な部分については省略しています。関心のある方は元の論文にあたってください)。

1 性の戦争
 セクシュアリティと法制度をめぐる闘争について、アメリカの事例を概観する章。取り上げられるのは、同性愛と小児性愛である。

2 性の思考

 まず本章の冒頭部分を引用しておく。

セックスをめぐるラディカルな理論は、性における不正や性的抑圧を見いだし、記述し、説明し、告発しなければならない。そのような理論は主体を把握することができ、それを見えるようにしておくことができるような洗練された概念的道具立てを必要としているのだ。そうすることで、セクシュアリティを社会や歴史のなかのありのままの姿で豊かに記述することができるようになるのである。また、それには性に関する迫害がいかに野蛮なことであるかを伝えることができるような説得力のある批判的言語が必要となる。(p.102)

 このような理論が形成されるのを阻害する要因として、ルービンは六つのイデオロギーを挙げている。
・性に関する本質主義
・セックスに関する否定
・誤ったものさしという誤謬
・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け
・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論
・好ましい性的多様性の概念の欠如

 

・性に関する本質主義
 性に関する本質主義とは「性は社会生活に先んじて存在し、制度を形作る自然の力であるという考え」(p.102)である。これに対しては多くの論者が批判している。

・セックスに関する否定
 キリスト教伝統のほとんどが、セックスを罪深いものとみなしてきた。生殖器が精神よりも本質的に劣った箇所である、という前提があった。現代ではこのような考え方は、もはや宗教的理由づけを必要とせず、一人歩きし始めている。

・誤ったものさしという誤謬
 これは、価値観や好みに関する小さな差異が過剰に重視されている、という状況を表すものである。「つまり、性行為は過度な意味づけをされているということなのだ」(p.105)。このことは「セックスに対する否定の必然的結果である」とされる(p.105)。

・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け
 近代西洋社会には、「結婚していて、生殖を伴う異性愛者」を頂点とする性のヒエラルキーがある。その下に、「カップルではあるが結婚していない異性愛者」が続き、その他の異性愛者がさらに下へと位置付けられる。
 「ひとりだけのセックス」(=マスターベーション)は、「パートナーとの出会いがない人達の劣った代替行為であるという考えなど」のようなスティグマを付与されている。

安定し、長期間続いているレズビアンやゲイのカップルは尊敬に値されるようになっているが、バーに通うようなレズビアンや乱交好きのゲイはピラミッドの最底辺にある集団の少し上あたりをうろうろしている(p.105-106)

 最も軽蔑される性的なカーストは、今のところトランスセクシュアルトランスヴェスタイト、フェティシスト、サド・マゾキスト、売春婦やポルノのモデルなどのセックスワーカーであり、その中でもとりわけ低い位置にあるのが、性的な結びつきにより世代間の境界を侵犯するような人々とされている。(p.105-106)

 このようなヒエラルキーの上位に位置する人には様々な物質的・制度的・社会的恩恵が付与される。対して下位の人々には、病気扱い、犯罪、恩恵の喪失、制裁などが与えられる。このヒエラルキーを示したのが、以下の図である。

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・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論
 これまで述べてきたセクシュアリティヒエラルキーを踏まえて、どの階層の性までが許されて、どの階層を認めないものとするか、に関する境界線が引かれる。そのことを表したのが、次の図である。

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 では、なぜこのような境界線を必要とするのか? 境界線がなくなると、「邪悪な」セックスがなし崩し的に生じてしまうのではないか、という不安があるからである。そのようなイデオロギーを「性的な危険のドミノ理論」と呼ぶ。

・好ましい性的多様性の概念の欠如
 先ほどの図に示されたような、「善良な」セックスと「邪悪な」セックスに関する性的道徳観には、「真の倫理観よりはむしろ人種差別のイデオロギーと共通するところがある。それにより支配集団に美徳が当然のように与えられ、特権をもたない人々には悪徳が委ねられてしまう」(p.109)。
「唯一の理想的なセクシュアリティ」が存在するという固定観念を破るために、文化人類学的な視点や実証的研究が求められる。

3 性の変遷

 同性愛は性をめぐる種族化の過程の絶好の例である。同性愛の行動はつねに人類の間に存在してきた。しかし、社会や時代が異なれば、推奨されることもあれば、罰せられることもあったのである。(p.111)

 同性愛が疑似エスニック的で、集団化し、性的に構成されたコミュニティとして成立していったのは、ある程度は産業化によって育成された人々が移動を果たした結果である。労働者が都市での労働を目的として移動するにつれて、自発的コミュニティを形成する機会が増えていった。同性愛の傾向をもつ男性も女性も、産業社会になる以前の農村では攻撃にさらされており、孤立した状態であったが、大都市の小さな一郭に集まり始めたのだ。(p.112)

こうした地域には悪評が立ち、それにより利害関係の対立する人々は同性愛者の存在や居住地に対して警戒心をもった。(p.112)

 売春も同じような変遷をたどってきた。(p.113)

倒錯のカテゴリーは、そうした人々(=同性愛者の「成功」を見習おうとする、他のセクシュアリティ)が社会的空間や小規模なビジネス、政治的手段、性的に異端者であるという罰から救い出される方法を獲得しようと試みているほどには、増えていっていないのである。(p.113)

4 性の階層化
 法律や社会規範がセクシュアリティを階層化し、下層の性に対して迫害をもたらしている。あげられる法令は30年以上前のアメリカのもので、具体例は省略。

5 性の対立

 性に関するイデオロギーは性的な経験のなかで重要な役割を果たす。したがって、性的行動の定義づけや評価は激烈な抗争の対象となる。(p.120)

 性的行動に対する法的規制は、もうひとつの戦場である。(p.120)

 定義と法律に対する戦いに加えて、私が領土的および境界の戦いと呼ぶような、あまり明白にはなっていない形の政治的対立が存在する。様々な性的マイノリティがコミュニティを形成する諸過程やそれらのマイノリティを禁止しようとする諸勢力が性に関わる諸区分の性質や境界をめぐって闘うことになるのだ。(p.120)

 最も重要かつ首尾一貫した性的対立は、ジェフリー・ウィークスが「道徳的パニック」と呼んでいるものである。道徳的パニックはセックスの「政治的機制」であり、その中では様々な態度が政治的行動に変換され、そこから社会変革へと移行するのである。一八八〇年代の白人奴隷のヒステリー(興奮状態)、一九五〇年代の反同性愛キャンペーン、一九七〇年代後半のチャイルド・ポルノ・パニックは典型的な道徳的パニックである。(p.122-123)

性的諸活動は個人や社会の不安にとっては、シニフィアンとして機能することがよくあるのだが、実際にはその不安と性的諸活動は何の結びつきもないのである。道徳的パニックが起きているあいだは、そのような不安は不運な性的活動あるいは性的集団にあると考えられてしまうのだ。(p.123)

 道徳的パニックがあらゆる現実問題を軽減することはほとんどない。というのも、そうしたパニックは様々な妄想やシニフィアンに向けられているからである。それらは「悪徳」を犯罪として取り扱うことを正当かするために犠牲者を作り出すような既存の言説的構造に依拠している。(p.123)

行動が無害であることが認識されているときでさえ、それは明らかにより邪悪なものに「なっていく」(ドミノ理論の別の表現)のではないかと主張されることで禁止されることもあるだろう。(p.123)

現在展開中のふたつのことのなかに潜む道徳的パニックを見出すには、それほどの洞察はいらない。ひとつは、フェミニズムの一部の人による、サド・マゾキストに対する攻撃であり、もう一つは右翼が敵意に満ちたホモフォビアを引き起こすためにエイズをますます利用するようになっていることである。(p.123)

初期の反ポルノのスライド・ショーでは、S/Mのイメージの巧みに選別された例を使って、きわめて説得力を欠く分析を行ってたのだ。文脈からはずれれば、そのようなイメージはショッキングになることは多い。こうしたショックの価値は残酷なまでに聴衆を畏怖させ、反ポルノ的視点を受容するように仕向けるために利用されたのだ。(p.123-124)

 フェミニストのレトリックは、反動的な文脈で再び現れるような、悲観的な傾向を有している。例えば、一九八〇年から一九八一年にかけて、ヨハネ・パウロ二世は、人間のセクシュアリティに関してもっとも保守的で、聖パウロの解釈に自らが傾倒していることを再肯定するような見解を述べた。離婚、中絶、足入れ婚、ポルノグラフィ、売春、生殖管理、制御の効かなくなった快楽主義、そして快楽を非難する中で、法王が性的なものに異議を唱えるにあたってフェミニストのレトリックを用いたのである。レズビアンフェミニストの論争家、ジュリア・ペネロープの言うように、教皇様は、「快楽に満ちたやり方で誰かについて考えることによって、その人を尊厳に値する人間であるとするのではなく、むしろ性的対象としてしまうのだ」とご説明なさったのだ。(p.124)

 右翼はポルノグラフィに反対し、すでにフェミニストの反ポルノのレトリックの諸要素を採用してきたのである。(p.124)

 エイズは、病気になった本人にとっては個人的な悲劇でもあり、またゲイ・コミュニティにとっては降ってわいた災難でもある。同性愛を嫌悪する人は、大はしゃぎで犠牲者に対して悲劇を振り向けようと躍起になっている。(p.125)

新しい疫病に伴うパニックやそれにより作り出されたスケープゴートによる被害者についての歴史から学ぶことは、エイズに基づく反ゲイ的な政策を正当化するあらゆる試みに対してはきわめて懐疑的なまなざしをもって立ち止まり、考えることを私たちのだれもがすべきだということである。(p.126)

6 フェミニズムの諸限界

反ポルノのプロパガンダによって、性差別は商業的な性産業の内部にその源泉があり、そのあと社会の別の部分に広がっていくといわれることがよくある。これは社会学的に言えば無意味なことである。性産業はフェミニストの理想郷ではない。まさに、性産業は社会全体に存在する性差別を反映したものなのである。われわれは性産業に特有のジェンダーの不平等性が様々な形で表れているものを分析し、それに対して反対していく必要がある。しかし、これは商業的なセックスを一掃してしまうという試みとは異なるのである。(p.127)

 同様に、サド・マゾキストやトランスセクシュアルなど多様な性的マイノリティは、政治的に任意な他の社会的集団と同じように性差別的な態度や行動を示すことがある。しかし、彼らが反フェミニスト的であると主張することは完全な幻想である。(p.127)

性をめぐる法律の大半が合意の上での行動と強制的行動とを区別していない。レイプに関する法律のみがそうした区別を含んでいる。レイプに関する法律は、私の視点では正しいと思うのだが、異性愛の行動は自由に選択される、あるいは強制されるという前提に基づいている。異性愛行動が他の諸法令の管轄の下に置かれず、双方の合意のものである限りは、それを行う法的権利が与えられるのである。

 このようなことは他のほとんどの性的行動には該当しない。(p.129)

セックスとジェンダーは関連しているとはいえ同じものではなく、社会的実践に関してはふたつの異なった領域の基礎を形成している(p.133)

ジェンダーセクシュアリティの個々の社会的存在をより正確に反映するために、分析上はふたつのものを分けて考えることが必要である(p.133)

・出典

Rubin, Gayle., 1984, “Thinking Sex:Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality,” Carole Vance, ed., Pleasure and Danger, London: Routledge.(=1997、河口和也訳、「性を考える」『現代思想』25-6: 94-144。)
原典(英語)はこちら
この論文の続編といえる論文 Blood under the Bridge: Reflections on "Thinking Sex"も併せてどうぞ

・おまけ

ルービンの図1に言及している記事で、興味深いものがあったので、ついでに紹介しておく。

オナニーしたってAセクです!――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(前編)

原題:"Sexual fantasy and masturbation among asexual individuals: An In-Depth Exploration"(「Aセクシャルの性的空想とマスターベーション:徹底的な調査」)

 梗概(和訳)
 Aセクシャルの人は一般的に、セクシャル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)を欠いている人、と定義される。私たちはオンラインアンケートを用いてマスターベーションの動機について調査し、Aセクシャルの人(Aセクシャル自認尺度を用いて同定した)とセクシャルの人の性的空想を調査、比較した。合計で351人のAセクシャル(女性292人、男性59人)と388人のセクシャル(女性221人、男性167人)が調査に参加した。Aセクシャルの女性は、セクシャルの女性、セクシャルの男性、Aセクシャルの男性と比べてマスターベーションする傾向が有意に低かった。Aセクシャルの女性はマスターベーションによる性的快感や愉しみを報告する傾向が他の属性の人と比べて低く、Aセクシャルの男性はマスターベーションによる性的快感や愉しみを報告する傾向がセクシャルの男性よりも低かった。Aセクシャルの男女両方で、性的空想をしたことのないという報告がセクシャルの男女と比べて有意に多かった。性的空想をしたことのある人のうち、Aセクシャルの男女では「私の空想は他人を伴わない(my fantasies do not involve other people)」という回答を支持する人がセクシャルの男女と比べて有意に多く、またセクシャルの回答者と比べて一貫して、アンケート上で性的空想をより性的に興奮する程度の低いものとして得点付けした。自由記述形式を用いたところでは、Aセクシャルの回答者は自分自身を伴わないような内容の性的空想をいだく傾向がより高く、また乱交や青姦や浮気などのようなトピックに関する空想をする傾向がより低かった。興味深いことに、Aセクシャルの回答者とセクシャルの回答者の性的空想には多くの重複があった。特に、Aセクシャルとセクシャルの回答者の両方(男女両方)が同じぐらいフェティッシュとBDSMのようなトピックについての空想をする可能性があった。
 キーワード:Aセクシャリティ性的指向マスターベーション、性的空想

全文はこちら↓
https://www.researchgate.net/publication/310785313_Sexual_Fantasy_and_Masturbation_Among_Asexual_Individuals_An_In-Depth_Exploration

【内容整理1 先行研究レビュー】

 Aセクシャルの自慰に関する研究である。この論文で行われた調査自体も興味深いのだが、イントロダクションにまとめられた先行研究レビューにも、色々と面白い情報が書いてある。論文本体の研究結果は次回紹介するとして、今回は先行研究のレビューから見ていこう。

●Aセクシャルの人はどれぐらい存在するのか?
 先行研究として、イギリス在住者に対する大規模な推定調査が挙げられている。それによると、成年人口のうち0.5%(Aicken,Mercer,&Cassel, 2013;Bogaert, 2013)から1%(Bogaert, 2004; Poston & Baumle, 2010)がAセクシャルだそうである。
 より小規模な研究もいくつかある。現在男女どちらにも惹かれていないというニュージーランドの高校生を対象とした調査では、2%がAセクシャルであるという(Lucassenet al.,2011)。また過去一年以内にセクシャル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)を経験していないフィンランド女性のうち、多く見積もって3.3%がAセクシャルであるという調査もある(Hoglund,Jern,Sandnabba,&Santtila,2014)。

●Aセクシャルは「性的指向」なのか?
 Aセクシャルが独立した性的指向であるかどうかは、研究者の間でも見解が分かれている。単なる性的指向の欠如であると考える研究者もいる一方、生物学的根拠のある独立した性的指向であると主張する研究者もいる。この論文の筆者らは後者の立場をとっている。この立場について詳しく知りたい方はBrottoらの論文(Brotto&Yule,2016)を参照せよ、とのこと。

●Aセクシャルの人はオナニーをするのか?
 梗概の和訳にも書いたように、Aセクシャルは「セクシャル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)を欠いている人」と定義される。ところが近年では、Aセクシャルの人々はマスターベーションをしている、という研究が出ている。
 Brottoら(2010)の研究からは、80%のAセクシャル男性と73%のAセクシャル女性がマスターベーションをしているという結果が出た。この割合は、イギリスでセクシャルの人を対象に行われた調査(Gerressu,Mercer,Graham,Willings,&Johnson,2008)と同じぐらいの値だそうである。
 これに対して別の研究からは、Aセクシャルの人々はセクシャルの人々よりもマスターべーションする割合が低いという結果が出されており(Bogaert, 2013;Yule, Brotto,&Gorzalka,2014b)、論文の筆者らもこの立場を支持する。
 とはいえ先行研究によれば、Aセクシャルの人々のうち無視できない数がマスターベーションをしている。一見するとAセクシャルの定義と矛盾するかのようにも感じられるが、これはどのように解釈するべきなのだろうか。

●そもそも人は何のためにオナニーをするのか?
 ここで一旦Aセクシャルから離れて、マスターベーション全般について考えてみたい。かの有名なキンゼイレポートによれば、ほぼすべての男性と60%の女性が、人生のうち最低でも一度はマスターベーションをしたことがあるという(Kinsey,Pomeroy,&Martin,1948;Kinsey,Pomeroy,Martin,&Gebhard,1953)。キンゼイの研究はかなり古い調査だが、より最近の調査からも同様な結果が確認されたようである(Laumann, Gagnon, Michael, & Michaels, 1994)。
 さて、人はどうしてマスターべーションをするのだろうか? マスターベーションの動機は何なのだろうか?
 多くの人が最初に思いつくのは、性的快感を得ることや、叶わない性交への渇望を解消すること等だろう。もちろんこのような動機もあるが、他にも自分の身体の探求(body exploration)や、寝つきを良くするため、あるいは退屈や孤独を紛らわす、といった動機も一般的なものである(Carvalheira&Leal,2013;Clifford,1978)つまりマスターベーションには、性的な動機と非性的な動機があるというわけである。

●Aセクシャルの人にとって、オナニーの動機は何か?
 この問題については、まだはっきりした答えはない。Brottoら(2010)の調査では、Aセクシャルのマスターベーションは非性的な動機によるものだ、という仮説が提示されている。これに対してBogaert(2012b)は、アイデンティティ欠如型マスターベーション(an identity-less masturbation pattern)という考えを導入した。これは性的パートナーや性的空想を介することなしに行われるもので、このようなマスターベーションのなかで、当人は自己意識と性的対象との分離を経験するという。

●性的空想とは何か?
 LeitenbergとHenningら(1995)によれば、性的空想は、「エロティックもしくは性的な刺激を経験させるような思考、精神的イメージ、あるいは想像上のシナリオである」と定義される。LeitenbergとHenningによる先行研究のまとめによれば、77%から100%の男女が性的活動をしていないときに性的空想を持ったことがあり、また86%の男性と69%の女性がマスターベーション中に性的空想をするという。
 性的空想は個人の性的指向とセクシャル・アトラクションを明らかにする上で、性的振る舞いや性自認よりも重要なものだと言われている。というのも、振る舞いは社会的規範によって抑圧されることがあり、また性的パートナーから自身の指向と異なる性行為を強制されることもあるからだ。

●性的空想は無意識の願望か?
 性的空想は、空想する本人の欲望を反映していると言われることがある。しかし「レイプ・ファンタジー」のような、本人が現実生活で経験したくないようなテーマを空想することはままあり(Bivona,Critelli,&Clark, 2012;Clifford,1978; Critelli & Bivona, 2008)、57%の女性がそのような空想をしたことがある、という調査もある。これについては、男性の性的空想は欲望の反映である割合が高く、女性の場合は相対的に低い、といった男女差があるかもしれない。

●Aセクシャルの性的空想にはどんな傾向があるのか?
 先行研究によると、Aセクシャルの人はセクシャルの人と比べて、性的空想をいだいたことがないという割合が有意に高かった。Yuleら(2014)によれば、セクシャルのうち性的空想をしないという人は1%から8%だったが、Aセクシャルでは40%だったという。さらに興味深いことに、「自分の性的空想は他人についてのものではない」("these fantasies were not about other people")という人の割合である。セクシャルの人のうちこのように答えた人は1.5%だったのに対し、Aセクシャルでは11%だったのだ。
 つまりAセクシャルの人の方が、人を主役とする性的空想をあまりしない傾向があるかもしれない。ただしAセクシャルの空想の内容について、まだはっきりしたことは言えない。

●というわけで
 以上が、今回紹介した論文にまとめられていた先行研究である。これをふまえてYule、Brotto、Gorzalkaらは、Aセクシャルの性的空想の内容をこまかく調査する。その調査・分析の結果については次回の記事で紹介する。 

※なおブログ筆者は英語素人です。訳や解釈の誤り等については一切責任を負いませんのでご了承ください。文献情報については、元論文の掲載URLを参照ください。

後編はこちら

 関連記事

『苦痛か性的快感かの表情判断における性差』(梗概和訳と雑感)

(原題 "Sex Differences in the Assessment of Pain Versus Sexual Pleasure Facial Expressions")

梗概(和訳)
 まったく異なる情動でありながら、苦痛を感じている人の表情は、強い性的快感を感じている人の表情と驚くほど似ている。私たちは、男女それぞれの顔写真が苦痛を感じている表情なのか性的快感を感じている表情なのかを区別することに、性差が存在するかどうかを調査した。インターネットから取得した、苦痛と性的快感のいずれかを感じている人の写真を、スライドショー形式で91人の回答者に示し、その写真に写る人が苦痛と性的快感のどちらを感じているのか識別させた。全体として、被験者は性的快感と比べて苦痛の表情をより正確に識別することができた。被験者はまた、女性が苦痛を表現している写真を識別するということになると最も高い正答率を示したが、女性が性的快感を表現しているのを識別するのは最も正答率が低く、この現象は女性回答者に顕著だった。そのうえ、回答者は女性の写真よりも男性の写真について、回答するときに長く時間をかけた。これらの調査結果は、こうした表情の認識における性差がどれほど適応的であるか、という面において議論されている。

pdfはこちら↓
http://psycnet.apa.org/journals/ebs/2/4/289.pdf

【簡単な整理と雑感】
  要するに、回答者たちに顔写真を見せて「これは性的快感を感じている表情ですか? それとも苦痛を感じている表情ですか?」を答えさせる実験をしたわけである。以下2つのグラフがその正答率である。

  全体的な結果を見るなら、一つ目のグラフがわかりやすい。七割以上の人が性的快感の表情を正しく識別できている。そして特徴的なのが、女性が苦痛を感じている表情は特に正答率が高くなっているという点である。

f:id:mtwrmtwr:20170121182759j:plain    回答者の性別を考慮して、より細かく整理したものが二つ目のグラフである。男性の表情を識別する課題については、男女どちらの回答者も大差ない正答率になっている。逆に女性の表情を識別する問題については、回答者の性別によって差が出ている。女性回答者は女性の苦痛を正しく識別しやすいが、女性の性的快感の正答率は低い、という結果である。

f:id:mtwrmtwr:20170121183538j:plain

 これらの結果について、「ネガティブな感情の方がポジティブな感情よりも検知しやすい」といった過去の研究との整合性や、進化論的な適応として解釈できるかどうか、といった考察が行われている。詳細は原文を参照いただきたい。ちなみに、実際の調査で用いられた顔写真は次のようなものである。

f:id:mtwrmtwr:20170121202009j:plain

 ……なかなか反応に困る画像たちである。表情以外の情報(わずかに映り込んだ身体や背景、あるいは顔の向きなど)の影響もある気がするので、本当に表情だけで識別したと言えるのか、個人的には疑問が残る。もっとも、表情だけで苦痛と快感を識別する機会なんて日常生活ではまずないだろうから、べつにいいのかもしれないが。

※なおブログ筆者はまったくの心理学素人かつ英語素人です。誤訳や解釈間違い等については一切責任を負いませんのでご了承ください(もし誤訳を発見した方は、コメント欄等に報告いただけると助かります)。また、この論文は2008年初出のものなので、その後の研究などをご存知の方がいらっしゃいましたら、コメント等いただけると私が喜びます。