境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

ゲイル・ルービン『性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』個人的要約メモ

 フェミニズム文化人類学者のゲイル・ルービンによる、ゲイ/レズビアン運動やクィア・スタディーズにおける重要文献(原典初出は1984年)。多様なセクシュアリティが階層化され、下層に位置付けられたセクシュアリティが法制度や社会規範によって攻撃されている、ということを理論的に述べた論文である。また、セクシュアリティ研究とフェミニズムの理論は区別しなければならないという指摘も重要である。ネット上にまとまった紹介がなかったので、引用を中心に内容をまとめておく。(ただし自分用のメモなので、基本的に年表的な部分については省略しています。関心のある方は元の論文にあたってください)。

1 性の戦争
 セクシュアリティと法制度をめぐる闘争について、アメリカの事例を概観する章。取り上げられるのは、同性愛と小児性愛である。

2 性の思考

 まず本章の冒頭部分を引用しておく。

セックスをめぐるラディカルな理論は、性における不正や性的抑圧を見いだし、記述し、説明し、告発しなければならない。そのような理論は主体を把握することができ、それを見えるようにしておくことができるような洗練された概念的道具立てを必要としているのだ。そうすることで、セクシュアリティを社会や歴史のなかのありのままの姿で豊かに記述することができるようになるのである。また、それには性に関する迫害がいかに野蛮なことであるかを伝えることができるような説得力のある批判的言語が必要となる。(p.102)

 このような理論が形成されるのを阻害する要因として、ルービンは六つのイデオロギーを挙げている。
・性に関する本質主義
・セックスに関する否定
・誤ったものさしという誤謬
・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け
・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論
・好ましい性的多様性の概念の欠如

 

・性に関する本質主義
 性に関する本質主義とは「性は社会生活に先んじて存在し、制度を形作る自然の力であるという考え」(p.102)である。これに対しては多くの論者が批判している。

・セックスに関する否定
 キリスト教伝統のほとんどが、セックスを罪深いものとみなしてきた。生殖器が精神よりも本質的に劣った箇所である、という前提があった。現代ではこのような考え方は、もはや宗教的理由づけを必要とせず、一人歩きし始めている。

・誤ったものさしという誤謬
 これは、価値観や好みに関する小さな差異が過剰に重視されている、という状況を表すものである。「つまり、性行為は過度な意味づけをされているということなのだ」(p.105)。このことは「セックスに対する否定の必然的結果である」とされる(p.105)。

・様々な性行為のヒエラルキーによる価値付け
 近代西洋社会には、「結婚していて、生殖を伴う異性愛者」を頂点とする性のヒエラルキーがある。その下に、「カップルではあるが結婚していない異性愛者」が続き、その他の異性愛者がさらに下へと位置付けられる。
 「ひとりだけのセックス」(=マスターベーション)は、「パートナーとの出会いがない人達の劣った代替行為であるという考えなど」のようなスティグマを付与されている。

安定し、長期間続いているレズビアンやゲイのカップルは尊敬に値されるようになっているが、バーに通うようなレズビアンや乱交好きのゲイはピラミッドの最底辺にある集団の少し上あたりをうろうろしている(p.105-106)

 最も軽蔑される性的なカーストは、今のところトランスセクシュアルトランスヴェスタイト、フェティシスト、サド・マゾキスト、売春婦やポルノのモデルなどのセックスワーカーであり、その中でもとりわけ低い位置にあるのが、性的な結びつきにより世代間の境界を侵犯するような人々とされている。(p.105-106)

 このようなヒエラルキーの上位に位置する人には様々な物質的・制度的・社会的恩恵が付与される。対して下位の人々には、病気扱い、犯罪、恩恵の喪失、制裁などが与えられる。このヒエラルキーを示したのが、以下の図である。

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・性的に危険とみなされるものをめぐるドミノ理論
 これまで述べてきたセクシュアリティヒエラルキーを踏まえて、どの階層の性までが許されて、どの階層を認めないものとするか、に関する境界線が引かれる。そのことを表したのが、次の図である。

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 では、なぜこのような境界線を必要とするのか? 境界線がなくなると、「邪悪な」セックスがなし崩し的に生じてしまうのではないか、という不安があるからである。そのようなイデオロギーを「性的な危険のドミノ理論」と呼ぶ。

・好ましい性的多様性の概念の欠如
 先ほどの図に示されたような、「善良な」セックスと「邪悪な」セックスに関する性的道徳観には、「真の倫理観よりはむしろ人種差別のイデオロギーと共通するところがある。それにより支配集団に美徳が当然のように与えられ、特権をもたない人々には悪徳が委ねられてしまう」(p.109)。
「唯一の理想的なセクシュアリティ」が存在するという固定観念を破るために、文化人類学的な視点や実証的研究が求められる。

3 性の変遷

 同性愛は性をめぐる種族化の過程の絶好の例である。同性愛の行動はつねに人類の間に存在してきた。しかし、社会や時代が異なれば、推奨されることもあれば、罰せられることもあったのである。(p.111)

 同性愛が疑似エスニック的で、集団化し、性的に構成されたコミュニティとして成立していったのは、ある程度は産業化によって育成された人々が移動を果たした結果である。労働者が都市での労働を目的として移動するにつれて、自発的コミュニティを形成する機会が増えていった。同性愛の傾向をもつ男性も女性も、産業社会になる以前の農村では攻撃にさらされており、孤立した状態であったが、大都市の小さな一郭に集まり始めたのだ。(p.112)

こうした地域には悪評が立ち、それにより利害関係の対立する人々は同性愛者の存在や居住地に対して警戒心をもった。(p.112)

 売春も同じような変遷をたどってきた。(p.113)

倒錯のカテゴリーは、そうした人々(=同性愛者の「成功」を見習おうとする、他のセクシュアリティ)が社会的空間や小規模なビジネス、政治的手段、性的に異端者であるという罰から救い出される方法を獲得しようと試みているほどには、増えていっていないのである。(p.113)

4 性の階層化
 法律や社会規範がセクシュアリティを階層化し、下層の性に対して迫害をもたらしている。あげられる法令は30年以上前のアメリカのもので、具体例は省略。

5 性の対立

 性に関するイデオロギーは性的な経験のなかで重要な役割を果たす。したがって、性的行動の定義づけや評価は激烈な抗争の対象となる。(p.120)

 性的行動に対する法的規制は、もうひとつの戦場である。(p.120)

 定義と法律に対する戦いに加えて、私が領土的および境界の戦いと呼ぶような、あまり明白にはなっていない形の政治的対立が存在する。様々な性的マイノリティがコミュニティを形成する諸過程やそれらのマイノリティを禁止しようとする諸勢力が性に関わる諸区分の性質や境界をめぐって闘うことになるのだ。(p.120)

 最も重要かつ首尾一貫した性的対立は、ジェフリー・ウィークスが「道徳的パニック」と呼んでいるものである。道徳的パニックはセックスの「政治的機制」であり、その中では様々な態度が政治的行動に変換され、そこから社会変革へと移行するのである。一八八〇年代の白人奴隷のヒステリー(興奮状態)、一九五〇年代の反同性愛キャンペーン、一九七〇年代後半のチャイルド・ポルノ・パニックは典型的な道徳的パニックである。(p.122-123)

性的諸活動は個人や社会の不安にとっては、シニフィアンとして機能することがよくあるのだが、実際にはその不安と性的諸活動は何の結びつきもないのである。道徳的パニックが起きているあいだは、そのような不安は不運な性的活動あるいは性的集団にあると考えられてしまうのだ。(p.123)

 道徳的パニックがあらゆる現実問題を軽減することはほとんどない。というのも、そうしたパニックは様々な妄想やシニフィアンに向けられているからである。それらは「悪徳」を犯罪として取り扱うことを正当かするために犠牲者を作り出すような既存の言説的構造に依拠している。(p.123)

行動が無害であることが認識されているときでさえ、それは明らかにより邪悪なものに「なっていく」(ドミノ理論の別の表現)のではないかと主張されることで禁止されることもあるだろう。(p.123)

現在展開中のふたつのことのなかに潜む道徳的パニックを見出すには、それほどの洞察はいらない。ひとつは、フェミニズムの一部の人による、サド・マゾキストに対する攻撃であり、もう一つは右翼が敵意に満ちたホモフォビアを引き起こすためにエイズをますます利用するようになっていることである。(p.123)

初期の反ポルノのスライド・ショーでは、S/Mのイメージの巧みに選別された例を使って、きわめて説得力を欠く分析を行ってたのだ。文脈からはずれれば、そのようなイメージはショッキングになることは多い。こうしたショックの価値は残酷なまでに聴衆を畏怖させ、反ポルノ的視点を受容するように仕向けるために利用されたのだ。(p.123-124)

 フェミニストのレトリックは、反動的な文脈で再び現れるような、悲観的な傾向を有している。例えば、一九八〇年から一九八一年にかけて、ヨハネ・パウロ二世は、人間のセクシュアリティに関してもっとも保守的で、聖パウロの解釈に自らが傾倒していることを再肯定するような見解を述べた。離婚、中絶、足入れ婚、ポルノグラフィ、売春、生殖管理、制御の効かなくなった快楽主義、そして快楽を非難する中で、法王が性的なものに異議を唱えるにあたってフェミニストのレトリックを用いたのである。レズビアンフェミニストの論争家、ジュリア・ペネロープの言うように、教皇様は、「快楽に満ちたやり方で誰かについて考えることによって、その人を尊厳に値する人間であるとするのではなく、むしろ性的対象としてしまうのだ」とご説明なさったのだ。(p.124)

 右翼はポルノグラフィに反対し、すでにフェミニストの反ポルノのレトリックの諸要素を採用してきたのである。(p.124)

 エイズは、病気になった本人にとっては個人的な悲劇でもあり、またゲイ・コミュニティにとっては降ってわいた災難でもある。同性愛を嫌悪する人は、大はしゃぎで犠牲者に対して悲劇を振り向けようと躍起になっている。(p.125)

新しい疫病に伴うパニックやそれにより作り出されたスケープゴートによる被害者についての歴史から学ぶことは、エイズに基づく反ゲイ的な政策を正当化するあらゆる試みに対してはきわめて懐疑的なまなざしをもって立ち止まり、考えることを私たちのだれもがすべきだということである。(p.126)

6 フェミニズムの諸限界

反ポルノのプロパガンダによって、性差別は商業的な性産業の内部にその源泉があり、そのあと社会の別の部分に広がっていくといわれることがよくある。これは社会学的に言えば無意味なことである。性産業はフェミニストの理想郷ではない。まさに、性産業は社会全体に存在する性差別を反映したものなのである。われわれは性産業に特有のジェンダーの不平等性が様々な形で表れているものを分析し、それに対して反対していく必要がある。しかし、これは商業的なセックスを一掃してしまうという試みとは異なるのである。(p.127)

 同様に、サド・マゾキストやトランスセクシュアルなど多様な性的マイノリティは、政治的に任意な他の社会的集団と同じように性差別的な態度や行動を示すことがある。しかし、彼らが反フェミニスト的であると主張することは完全な幻想である。(p.127)

性をめぐる法律の大半が合意の上での行動と強制的行動とを区別していない。レイプに関する法律のみがそうした区別を含んでいる。レイプに関する法律は、私の視点では正しいと思うのだが、異性愛の行動は自由に選択される、あるいは強制されるという前提に基づいている。異性愛行動が他の諸法令の管轄の下に置かれず、双方の合意のものである限りは、それを行う法的権利が与えられるのである。

 このようなことは他のほとんどの性的行動には該当しない。(p.129)

セックスとジェンダーは関連しているとはいえ同じものではなく、社会的実践に関してはふたつの異なった領域の基礎を形成している(p.133)

ジェンダーセクシュアリティの個々の社会的存在をより正確に反映するために、分析上はふたつのものを分けて考えることが必要である(p.133)

・出典

Rubin, Gayle., 1984, “Thinking Sex:Notes for a Radical Theory of the Politics of Sexuality,” Carole Vance, ed., Pleasure and Danger, London: Routledge.(=1997、河口和也訳、「性を考える」『現代思想』25-6: 94-144。)
原典(英語)はこちら
この論文の続編といえる論文 Blood under the Bridge: Reflections on "Thinking Sex"も併せてどうぞ

・おまけ

ルービンの図1に言及している記事で、興味深いものがあったので、ついでに紹介しておく。