境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

性暴力ゲームは批判されるべきか?――レイプレイ事件に関する海外の論文

原題 “RapeLay and the return of the sex wars in Japan”(レイプレイと日本におけるセックス戦争の再来)PW Galbraith

梗概和訳
この論説では、プレイヤーに架空の女性をレイプすることを許すようなアダルトコンピューターゲームである『レイプレイ』(2006)への反応について考える。『レイプレイ』は世界的に流布したときに論争を引き起こし、日本で再び議論となった。そこではしばしば、1970年代後半から1980年代にかけての北米における、フェミニストによるポルノグラフィ批判の立場を明確に焼き直していた。2000年代における日本での「セックス戦争」の再来によって、私たちは、その闘争が未解決のまま放置した次の問いに直面する:空想それ自体は問題なのか? 言い換えれば、人々を架空の性行動の生産と受容に熱中させるが、描かれるような性行動には熱中させない、というアダルトコンピューターゲームは問題なのか? 性暴力を空想することは問題ないのか? あるいは一部の評論家が主張するように、そのような空想は女性への性暴力を常態化するだろうか? 日本では、性的空想、遊び、そして害への批評的で文化的なアプローチが考慮されている。

キーワード:日本、アダルトコンピュータゲーム、 性暴力、メディア効果、セックス戦争、性的政治、非西洋的視点、メディアリテラシーフェミニズム、レイプファンタジー

※上記リンクから全文がダウンロードできます。

【内容整理】

 アメリカの文化人類学者PW Galbraithによる、マンガやゲームにおける性暴力表現を巡る論考である。いつものように原文の目次に沿って紹介を進めていく。

・「レイプレイ問題」とは?

 簡単に言うと、2006年に日本のマイナーレーベルから発売されていた凌辱ゲームが、海賊版として違法な英語バージョンを作成され、それが2009年にイギリスやアメリカで注目され、批判された、という事件である。2010年頃に日本で「非実在青少年」騒動が起こったのは、この事件の影響もある。

 「レイプレイ問題」およびその影響から派生した日本での論争では、1970年代から1980年代にアメリカで生じたポルノグラフィ論争(通称 "Sex Wars"「セックス戦争」)と非常に似た議論が展開された。そのため今回の論文では随所で、レイプレイ問題を1980年頃のアメリカでの論争になぞらえて考察している。

中里見博によるレイプレイ批判

  徳島大学法学部の教授でポルノ・買春問題研究会のメンバーである中里見博は、「レイプレイ問題の経緯と法改正の課題」というエッセイで、『レイプレイ』に対して大きく3つの批判をしている。

・『レイプレイ』の内容は女性への差別を構成する
・『レイプレイ』は児童ポルノである
・このようなアダルトコンピューターゲームは女性と子どもを危険にさらすような性暴力文化を作り出す

 基本的に1980年代のポルノ論争で提出されていた批判と同じような内容である。しかし、架空のポルノグラフィはその他の形態のポルノグラフィよりも有害である、と主張している点は、『レイプレイ』問題ならではの記述だろう。中里見によれば、バーチャルだからこそより過激で、より暴力的な表現が作られ、それゆえにより社会にとって有害だという。

・「セックス戦争」を振り返るーーゲイル・ルービンの反論

 ここで話はいったん1980年代にさかのぼる。当時フェミニズムの立場からポルノグラフィを批判したダイアナ・ラッセルを相手取りながら、フェミニストである人類学者ゲイル・ルービンはポルノグラフィを擁護する論陣を張った。ルービンによれば、反ポルノ的フェミニズムの立論には以下のような問題があるという。

・明らかに悪いものへの批判から出発して、そこからあまり人々の怒りを買わないものにまで批判を向ける
・ポルノグラフィの制作時に行われた性暴力と、表現された内容の問題を混同する傾向がある
・有害性の根拠がないにもかかわらず、嫌悪と憤慨によって人々を動員させる
・断言によって(根拠がないにもかかわらず)あたかも信頼できる主張であるかのごとく見せかける
・男性を単純に抑圧と虐待と抑圧者・虐待者と見なすスタンスに、道徳的な権威を付与してしまう

 ルービンの主張については、前回の記事で(やや粗雑ながら)まとめているので、そちらも参照していただきたい。 

 やや話は逸れるが、ポルノグラフィが社会的に性暴力を増やすわけではない、という統計的調査として、ガルブレイスはいくつか論文を挙げている。関心のある方は原文の文献リストから確認していただきたい(Schodt 1996; Diamond and Uchiyama 1999; Ishikawa, Sasagawa, and  Essau 2012).

・では、日本でレイプファンタジーはどのように受容・議論されているか

 以下では性表現を受容する当事者や、その研究者たちの言説を整理している。マンガ・ゲーム評論家や研究者たちの著作および彼らへのインタビューなどが、主な題材となっている。

 レイプレイ問題が日本国内へと波及し、2010年頃には性暴力表現を規制する機運が高まっていた。これに対して、日本では多くのフェミニスト表現の自由や思想・良心の自由にもとづいて抵抗した。その例としてガルブレイスは、まずマンガ研究者である藤本由香里を挙げている。

  藤本はハーレクイン小説に描かれるレイプシーンに注目するよう促している。そこで描かれるレイプは「レイプしたい/されたい、という欲望を反映するものでもなければ、そのような欲望に影響を与えるものでもなく、むしろこの種の小説に特有の空想」である。BDSMが性暴力ではないのと同じように、レイプファンタジーはファンタジーなのである。

もしあなたがマンガファンに「実在の子どもかマンガか、どちらが欲しいか」と尋ねたなら、彼らはこう答えるだろう。「マンガをください」と。表現物の文脈を離れた道徳的な憤慨のなかでは、このことを誤解しがちである。

 つまり、「マンガキャラクターは現実的な身体を表象・参照するのではなく、むしろマンガ的な身体を表象・参照するのである」。

 また藤本は、一部の男性向けアダルトマンガやゲームの内容が「いやな」ものであると認識したうえで、その表現の規制に反対する。藤本によれば、性差別的な表現物は性差別の結果ではなくその兆候である。つまり性差別の可視化である。それゆえもし表現物が規制されてしまうと、単に性差別が不可視化されるだけで、むしろ性差別について議論する機会が奪われてしまうのである。またこのような規制は、成人男性が女性や子どもの性を統制・管理するというより大きな規制の一部になってしまう、とも指摘している。

 マンガ研究者・堀あきこも、ある研究会のなかで、フェミニストと保守政治家とが結びつくことに対して批判的に議論している。法的規制は、老若男女がマンガやゲームなどバーチャルセックスの安全な場へアクセスする機会を奪うのである。また堀は、男性向け表現ではなく、女性向けマンガ表現を擁護することに焦点を当てている。研究会には男性向けアダルトマンガを(おそらく無批判に?)称揚してしていた評論家が参加していたらしく、堀は彼に対して「あなたは自分がどのようにアダルトマンガを経験しているか、正直になって考えるべきである」「もしそのようなマンガが男性性をまったく規範化しないというのなら、どうしてなのか説明してほしい」と反論し、その後両者の間で活発な議論があったようである。このように、堀は「規制を増やすのではなく、自己批評、開かれた対話、他者への熟慮」をすべきだと考えている。

 そして『レイプレイ』から若干離れるが、3人目の論者としてフェミニズム研究者であるSetsu Shigematsuを取り上げている。Shigematsuは1970年代日本のフェミニズム運動史に関する初の英文研究書 Scream from the Shadows: The Women's Liberation Movement in Japan の作者であり、一貫して反ポルノ運動を批判する立場を取ってきた人物である。Shigematsuは1999年に発表した論文で、性表現が直接的に人々の価値観を左右するという考えを否定する。女性向けの性表現については、藤本と同様の主張を展開していると言える。現実にはさまざまな形で女性への性暴力が起こっているが、ポルノグラフィに描かれた内容を規制しても女性への暴力は解決しないのである。

「視聴者を性的に刺激する表現を置くことは、そこに描かれた行動を擁護することと同じ・・ではない」

 Shigematsuの議論のユニークな点は、女性向けだけでなく男性向けのアダルトマンガについても考察しているところである。Shigematsuはロリコンマンガを読む当事者の言説を参照し、次のように主張する。

ロリコンマンガを「女児ポルノ」と混同したり「実際の少女の性欲化や少女への性的いやがらせの結果・・とみなして、潰したり非難したりする」(Shigematsu 1999: 138) べきではない。

  Shigematsuは、表現物が直接に社会へと反映されるという考え方を否定し、むしろ現実から離れたマンガやゲームは「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」(Shigematsu 1999: 128)を切り拓くと論じている。そうしたメディアは、性について別の仕方で考える機会を提供するのである。

人々がどのようにロリコンマンガ(やその他のメディア)を消費し、私物化し、変形するかということや、彼らがその後どのように行動するかということを、あらかじめ管理したり決定することはできない。ポルノグラフィ制作・・における少女の使用や潜在的虐待や性的いやがらせは深刻な問題であるが、それを「ポルノの内容」の問題に置き換えたり切り詰めたりしてはならない。(Shigematsu 1999: 138 強調原文)

・レイプレイ再考

 ここでガルブレイスは当事者男性に視線を移し、アダルトゲームのシナリオライター鏡裕之の著書(『非実在青少年論』)およびインタビューから考察を行う。鏡はフェミニズムをきちんと研究しているわけではないが、その著書には上述のフェニストらと共通する認識が書いてある。

  まず鏡は、アダルトゲームの制作者とプレイヤーがゲームと現実を区別していると語る。その根拠の一つとして、『レイプレイ』制作者が行なっていた倫理的配慮が挙げられている。

 倫理上の配慮も、ゲーム内で行われています。『レイプレイ』のエンディングでは、主人公はヒロインに殺されるという処罰を受けています。凌辱要素の強い美少女ゲームでは、凌辱を犯した者はエンディングで処罰されることになっているのです。
 パッケージやマニュアルにも、複数の箇所に注意書きが記されています。たとえば、パッケージの表と裏にはこうあります。

「※本作品には、暴力、残虐、犯罪行為等、過激な表現が含まれているのでご注意ください。また、痴漢やレイプを実際に行うと犯罪になるので絶対に真似しないでください」

 また次のような注意書きもパッケージに記されています。

「お店の方へ:この商品は18歳以上の方を対象にしたゲームです。一般の商品とは別の売り場または別の棚に陳列して興味のない方や子供の目に触れないようにできるだけ配慮して下さいますようお願い申し上げます」

 さらにマニュアルには、最初の項に「警告!」としてこのように記されています。

「このソフトの内容はあくまで創作物でありゲームです。このゲームの内容と同じことを現実に行うと法律によって処罰されます。ゲームの内容は芝居でありフィクションですので、影響を受けたり、絶対にマネをしないでください」

 配慮の上に配慮を、注意の上に注意を重ねているのがよくわかります。ケースには「JAPAN SALE ONLY」の表記もされていました。その『レイプレイ』に、アメリカの人権団体が噛みついたのです。(『非実在青少年論』p.218-p.220)

  また日本のマンガやゲームのキャラクターは、写真的リアリズムを志向する北米のゲームとは異なり、現実の身体を参照せず、それ自体として独立な欲望の対象であるとも指摘している。

 そして鏡の議論を通じて、ガルブレイスは「萌え絵リテラシー」や「萌えの倫理」といった用語に注目する。これは要するに、フィクションをフィクションとして受容し、現実と区別する能力のことである。萌えで描かれる女性像(あるいは男性像)が現実とは異なるということを正しく認識する、ということである。この倫理や能力が社会に行き渡っていれば、レイプファンタジーがレイプカルチャーを強化することはなく、性差別を再生産することもないだろう。これはShigematsuの言う「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」の具体例と言えよう。 

【雑感】

・内容について

 社会科学一般に言えることだが、特にセクシュアリティに関する議論では、当事者の実像を捉えないことには話が始まらない。今回の論文は、批評家兼マンガ読者という立場の人々の語りに着目したものとして参考になる。またアメリカのポルノ論争やBDSM論争を日本の性表現論争へと節合する試みとしても注目に値する。本論文のような観点も踏まえたうえで、発展的に議論を重ねていくことが重要だろう。

 また、鏡裕之の『非実在青少年論』は以前読んだことがあったので、ついでに触れておこう。こちらはゲーム作者兼消費者というまさに当事者の声で、言説分析の材料としては面白い。ただ内容自体を評価するなら、話題を広げ過ぎていて個々のテーマへの踏み込みが足りないというのが正直なところだった(これは想定している読者層の問題かもしれないが)。さらに、「男性性」や「女性性」というものを単一的・本質主義的に捉えている節があり、控えめに言ってもフェニズムや男性学からの掘り下げがかなり浅いという印象が否めなかった。とはいえ、『レイプレイ』騒動直後の状況を反映した言説資料としては興味深い。このジェンダー的知見を欠いた著述にも、藤本や堀やShigematsuらフェミニストと同様の志向が(時に「萌え絵リテラシー」など、より具体的な議論として)表れているというガルブレイスの指摘は意義のあるものだろう*1

・個人的な感想

 せっかくなので、現時点での自分の考えを暫定的に、ごくごく大雑把に書いてみる。

 表現がそれ自体として「悪」となる、という発想は基本的に間違いだろう*2。たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』は出版直後にヨーロッパ中で恋愛自殺を引き起こし、社会問題化したと言われている。しかし現代では、ウェルテルに「殺される」人はほとんどいない。表現された内容は全く変わっていないが、表現を受容する社会が変化したことによって、ウェルテルの影響力は大きく変化していると言えるだろう。これに対して、「将来的にどう社会が変化するかは知らないが、現にいま人が死んでいる以上、差し当たりいまは表現それ自体を批判するべきだ」と当時の人なら考えるかもしれない*3。しかし、その考え方に従って『若きウェルテルの悩み』や文学が社会的に抹殺されてしまえば、将来の社会への損失は計り知れなかっただろう*4

 同じ構図がマンガ等の性表現についても当てはまる。もし仮にマンガに描かれた女性像が現実の女性の営みを規定するという場合でも、問題なのは表現それ自体ではなく、その表現を受容する社会こそが問題なのである。これに対して、表現物それ自体を問題視してしまうと、別の問題が生じてしまうだろう。ただしここで言う「別の問題」とは、単に表現の自由が失われるという話ではない。 

 注目すべきは、身体接触や性愛関係を前提としない、オルタナティブな性の倫理がすでに現れている・・・・・・・・という点である。描かれたキャラクターが(現実の男/女の代替ではなく)それ自体として独立した性的対象である、ということが多くの当事者たちによって語られている*5。そうだとすると、もし「描かれた性表現が現実の女性の存在を劣位に留め置くものとして機能するのだ」と主張するのであれば、単に表現物やそれを直接的に享受する当事者のみを非難するのではなく、むしろそれらを取りまく社会環境や社会規範をこそ問題化すべきではないだろうか。本文中の言葉を使えば、「萌えの倫理」の浸透を妨げる社会環境をこそ、問題化すべきだということである*6

 ウェルテルの例からも分かるように、表現がもたらす悪影響を評価するためには、その表現物がどのような文脈に置かれているかを考慮しなければならない*7。たとえば話題に上っていた『レイプレイ』は、極めて限られた客層をターゲットにしており、また作品内容も決してレイプを肯定するものではない。『レイプレイ』それ自体が特段に日本のジェンダー観を悪化させたとは考えがたい。それにもかかわらず『レイプレイ』を批判するということは、結局のところ身体接触や性愛関係にとって都合の悪いセクシュアリティを排撃することにしかならないと思われる。身体接触という「正しいセクシュアリティ」を特権化し、そこから外れた営みを排除するという点で、単純にレイプファンタジーを批判するということは(たとえ法的規制を主張しないとしても)「萌えの倫理」への攻撃として機能し得るかもしれないのだ。この点で、単に表現それ自体を批判することは、ある種の保守的思考と共鳴しているようにも見える。これはまさに、80年代にアメリカの一部のフェミニストがBDSMを攻撃したことと同型な議論と言えるだろう。

 もし性暴力表現が現実社会に悪影響をもたらしうるとすれば、そこで問題とされるべきは「私たちの社会が、性器接触や性愛関係を前提としている」ということではないだろうか。「身体接触の相手や性愛関係の相手を獲得しない/できない人間が、不当に異端視・蔑視される」ことではないだろうか。もっと言えば「特定の『正しいセクシュアリティ』を規範化し、そこから逸脱する人間を排除している」ということではないだろうか。それらを批判せず一足飛びに表現物を批判することは、むしろ「オルタナティブな性の倫理」を踏みつぶし、「男‐女」という関係性を特権的なものとして温存し続けるだけに終わるのではないだろうか*8

 すでに多くの論者が指摘しているように、性差別と「正しいセクシュアリティ」の規範には密接なつながりがある*9。本論の文脈を考えれば、ここでは「正しいセクシュアリティ」を「性愛の倫理」と言い換えてもよいだろう。「性愛の倫理」はある一面で「SMの倫理」と対立し、また別の一面で「萌えの倫理」とも対立する。あるいは、Aセクシュアルの不可視化も「性愛の倫理」の下で生じている、と考えてよいかもしれない。そして「性愛の倫理」は正確には「異性愛の倫理」であり、「性愛の倫理」内で同性愛が他者化されているということも忘れてはならない。

 これに対して、「同性愛も萌えもSMも近年では社会に受け入れられているじゃないか」と考える人もいるかもしれない。確かに一面ではそうとも言えるだろう。しかしそれは「性愛の倫理」を脅かさない限りでの受容でしかなく、そこからはみ出す者については相変わらず排除の対象となっているのではないだろうか。

 論の展開上、ここでは同性愛や萌えやAセクシュアルやSMを同列に並べているが、もちろん個別には問題のあり方がそれぞれ異なる。とはいえ、いずれも「正しいセクシュアリティ」規範という同一の問題系に属している、と捉える視点にも一定以上の意義があるのではないだろうか。

 性差別への抗議は当然必要だが、その際に「正しいセクシュアリティ」を補強してしまうのは悪手と思われる。それよりも「オルタナティブな性の倫理」をさらに洗練させ、性差別的な「正しいセクシュアリティ」規範の解体を志向するべきではないだろうか*10

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*1:正直、以前『非実在青少年論』を単体で読んだときは、あまり高く評価はできなかった。特にフェミニズムについて、法的な表現規制の観点からしか考察しておらず、法規制への反論にはなっても、規制を要求しない批判への反論・応答にはなっていなかった。つまりフェミニズムが何を問題としたのか、根本的な部分をとらえていないのである。あとソース不明で信憑性に欠ける記述が散見されたので、情報源にした資料をきちんと明記してほしい。とはいえ、ゲーム制作業界の裏話などについてはなかなか面白い話も載っており、言説資料としては価値のある本だと思う

*2:ヘイトスピーチはどうなのか、という疑問があるかもしれない。あくまで雑感なのでキチンとした論証はしないが、さしあたり「死ね」というシンプルな例から考えてみよう。この表現が暴力になる条件としては、たとえば「人間にとって『死』が暴力である」という背景がある。もし仮にこの背景を完璧に取り除くことができれば、「死ね」は暴力ではなくなるかもしれない。しかしここからが重要で、1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題が生じる。「死ね」の例は、1)について言えば技術的にも価値観的にも極めて困難であり、2)について言えば極度の困難を乗り越えてまでそのような社会を目指すべきと主張することは難しいだろう。それゆえヘイトスピーチとしての「死ね」については、表現物それ自体の問題として扱うことに一定の妥当性があると考えられる。

なおこの議論は法的規制の是非に関するものではなく、規制を要求しない一般的な批判について考察するものである。ヘイトスピーチではない「死ね」については、後述する文脈的問題の注を参照

*3:あくまで思考実験としての仮定である

*4:たとえばウェルテルを読むことで救われた人、そしてウェルテルの影響を受けた文学作品によって救われた人の存在を忘れてはならない

*5:溝口彰子『BL進化論』永山薫『エロマンガ・スタディーズなどにも、そのような語りが見られる

*6:先ほど注で挙げた1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題を考えてみる。個人的には、1)他のあらゆる価値変動と同じく困難はあるが、基本的に価値観の変化だけでよいので不可能ではない、2)もともとの性表現批判の目的が性差別解消であり、それに役立つという理由がある、と考えている。長くなるため論証はしないが、後述する「正しいセクシュアリティ」の議論も参照してほしい

*7:再びヘイトスピーチを考える。見知った仲の相手に、誇張表現であることが容易に理解できる文脈を共有したうえで発される「死ね」は、ヘイトとは言えないだろう。この意味でも、表現物それ自体だけでなく、文脈も判断する必要がある

*8:こういう話に関心のある方は、セジウィック『クローゼットの認識論』の序論やプラマー『セクシュアル・ストーリーの時代』の8章や9章あたりを読むと、良い示唆を得られると思う

*9:ここで言う「正しいセクシュアリティ」とは、愛によって恒常的に安定した家庭、生殖、および性器接触を特権化する規範である。詳しくは竹村和子『愛について』などを読んでいただきたい

*10:「性愛」や「親密性」を善きものとして称揚している論者が結構な数いるが、上述のように、むしろそのような一見美しく見えるものにこそ警戒をした方がいいだろう