境界線の虹鱒

セクシュアリティ徒然草

「ルギアで抜いた人」から考えるセクシュアリティ論【雑感】

 今まで文献紹介の記事しか書いていなかったので、息抜きも兼ねて軽めの記事を書いてみる。こういう記事は初めてなので、取りこぼしている論点は多々あるし、また不慣れな文章になっているかもしれないが、お許しいただきたい*1

 今回取り上げるのは、いわゆる「性的嗜好」に関するマイノリティが、自身の経験を語ったネット記事である。元記事の作者いなだみずき氏は、以下の記事でポケモンのルギアに性的興奮をいだいた経験を語っている。まずは一読していただきたい。

 この記事について私が感想をツイートしたところ、サイトの編集長から以下のような引用RTがあった。

 確かに「性的嗜好」に関するマイノリティについては、これまであまり掘り下げられてこなかった分野である。それゆえ上の記事をマイノリティの孤独に関するテクストとして読む意義はあるだろう*2

 しかし今回は、そのような「個人が経験する疎外感」とは別の観点から、「ルギアで抜いた」記事を考察してみたい。

なぜ「ルギアで抜く」と「違和感を覚える」のか?

 考察を始める前に、まず意識しておくべきことがある。それは、上記の「ルギアで抜いた」記事は一貫した「物語」として書かれている、ということである。……このように書いてみたが、特に難しい話ではない。要するに、いなだみずき氏の「語り」は次のような構成になっている、というだけのことだ。

1: 中学時代、水着グラビアよりもHな妄想をしたい

2: しかし身近にあった妄想のネタがラブラドールレトリバーの太ももしかなかった

3: その結果、「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」ものへの性的欲望が形成された

4: それによって、ルギアで抜くようになった

5: ルギアで抜く自分に対して違和感を抱くようになった

  元の記事にはもう少し続きがあるが、いったんここで話を進めよう。このように番号を振ってみれば一目瞭然だが、いなだみずき氏の語りは、一本の矢印で結ばれた、因果関係の整然とした「物語」になっているのだ。

 「……それがどうしたの?」と思う方もいるかもしれない。しかし落ち着いて、先入観を取り払って考えてみよう。上の「物語」から、「しかし」や「その結果」や「~が形成された」など因果関係を説明する言葉を取り払って、さらに「違和感をいだいた」などの価値判断をも取り払ってみてほしい。つまり「物語」ではなく、単なる文章の羅列に分解してみるのだ。すると、とりあえずこうなる。

・水着グラビアで抜いていた。

ラブラドールレトリバーの太ももにエロスを感じていた。

・「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」なものに性欲をいだいていた。

・ルギアで抜いていた。

 ここで考えていただきたい。もし「ルギアで抜いた」記事を読まずに、この四つの文章だけを見たとき、あなたはどのような「物語」を思い浮かべるだろうか? ……いきなり問われても困るかもしれない。つまりこういうことだ。

 小中学生ぐらいのときに、四枚の絵を見せられて「この絵はどんな『物語』ですか? 自由に解釈してください」と問いかけられた経験のある方も多いと思う。それと同じ発想で、上の文章を「自由に解釈して」みてほしいのだ。

  そうすると、たとえば次のような「物語」を思い浮かべることも不可能ではないはずだ。

1:水着グラビアで抜いていた。

2: しかしラブラドールレトリバーの太ももにエロスを感じ始めた。

3: そして「白い(白色性)/もふもふ、ふわふわ(受容性)/中は硬い、重そう(暴力性)」なものに性欲をいだくようになった。

4: そしてルギアで抜くようになった。

5: とうとう理想の性的対象を見つけた!と喜んだ。

 突然なにを言っているのか、と思われるかもしれない。ここで言いたいのは、次のようなことだ。時系列順に並んだ出来事が、特定の因果関係によって編成された「物語」として語られるのは、出来事が終わった後なのである。言い換えれば、今になって振り返れば・・・・・・・・・・、あのときの出来事は全部つながっていたんだなぁ」という形でしか「物語」は語られ得ないのだ。 件の記事に以下のような文章があるのは、その傍証と言えるだろう。

ふと冷静に自己を振りかえってみたときに思った・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・のが、
「なんで俺はルギアで抜いているのか?」という至極真っ当な疑問だった。

 つまり「ルギアで抜いた」記事は、現在の価値観のもとで「冷静に自己を振りかえってみた」結果として書かれたものなのである*3。そう、「物語」には、それが語られた時点での意識や価値観がしみ込んでいるのである。特にセクシュアリティに関する「語り」を読むときには、必ずこのことを意識しておく必要がある。

 では、「ルギアで抜いた人」の「語り」には、どんな価値観が通底しているだろうか。それは、「人間(多くの場合異性)が『正しい』性的対象であって、ルギアは『間違った』性的対象である」という固定観念である。この価値観は、単に記事を書いた個人の価値観ではなく、社会全体に共有された価値観であるだろう。

 ここに至って私たちは、以下のように問う必要がある。 なぜ(異性の)人間が『正しい』性的対象であって、ルギアは『間違った』性的対象だと見なされるのか?

そういえば、性欲って何なの?

 どうしてこんなことを問う必要があるのだ、と疑問に思う方もいるかもしれない。それを説明するために、まず「性欲」とは何か、ということを考えてみたい。

 さて、「性欲は本能なのか文化なのか?」という議論をしばしば目にする。性欲は生物学的なものなのか、文化的なものなのか? これに対する回答は、問いそのものが間違っている、である。どういうことか。

 簡単な話だ。生物学的要因と文化的要因が、お互いに関連し合っているのだ。そのことを中村美亜は端的に説明している*4

性衝動は主にホルモンの働きによって引き起こされるが、そのホルモンがどう作用するかは人それぞれであるし、またその作用の仕方を決定する体内のメカニズムは、心理・社会的なことと大きく関わっている。つまり、個人の心理的特性や過去の体験、家族や社会からの影響によって性的衝動を司る身体の働きは異なるのである。

(中村美亜(2008)「"アイデンティティの身体化"研究へ向けて――『感じない男』を出発点に」『身体とアイデンティティ・トラブル――ジェンダー/セックスの二元論を超えて』p.261-262)

 このことは、「食欲」と比較すると分かりやすくなる。すこし長くなるが、こちらも引用しておこう。

人間は食事を長時間とらないでいるとお腹がすく、しかしそのすき方は、個々人の体の大きさによって随分違う。また、楽しく食事をする体験のある人とそうでない人では、食べることに対するモチベーションが異なるし、自分があまり空腹を感じていない時でも、まわりで何かをおいしそうに食べている人を見ると、自分も食べたくなったりする。あるいは食事を一日三回とる人と、二回が習慣になっている人では、お腹のすくタイミングは変わって来る。このように個人の身体的特性、過去の体験、周囲からの影響、習慣などによっても、何かを食べたいという生理的機能の働き方は変化するのである。(中村 同上: p.262)

 ただし食欲と違って、性欲はなくても生きていけるし、現に性欲がないという人も存在する。また、「どのような感覚を『性欲』と呼ぶのか」も人によって異なる*5。さらに、性欲は食欲よりも多様である。たとえば食欲の場合では、「経口摂取よりも点滴で栄養を摂る方が好きだ」という人はほとんどいないだろう。しかし性欲については、それと同レベルの「倒錯」が、現に存在している。こうした点に留意しつつ、中村美亜の説明を読んでほしい。

 さて、以上を踏まえると、先ほど「ルギアで抜いた」記事を「物語」として捉えた意義が分かるだろう。この社会には性経験に関する「語り」が無数にある*6。そうした「語り」は、すべて自分の経験に様々な意味づけをしながら語られる「物語」なのだ。そして、この「意味づけ」の部分には、まさに文化的・社会的な側面が強く関わっている。

 さらに、先に述べたとおり「物語」の中には社会的な価値観や固定観念が含みこまれている場合が多々ある。セクシュアリティについての「語り」を単なる面白コンテンツとしてのみ読むのではなく、そこから社会的な規範を読み取るために、「物語」として意識的に読むことも意義があると思う。

ルギアから二次ロリエロ漫画を考える

 というわけで、いなだみずき氏が「ルギアで抜いた」ことによって疎外感や孤独感・苦痛などを感じたのは、決して本能ではない「ルギアで抜くなんて異常だ」という社会的な価値観が生み出した感覚である。だからこそ、「ラティアスは抜ける」という友人との出会いによって、そうした感覚を取り払うことができたのである。

 そしてこのような感覚を作り出すのが、対人セックスこそが理想の性行動である、という固定観念なのだ*7。この固定観念は、私たちの社会にある「セクシュアリティに関する暗黙のルール」と考えてよいだろう。

 これによって「ルギアで抜いた」人が疎外感をいだくことになったわけだが、実はこの固定観念は他にもさまざまな問題と関係している。

 たとえば、Aセクシュアルの苦悩についても、性愛の特権化という観点から考えることができるだろう。あたかも恋愛感情や性的感情をいだくことが当然視され、それによって恋愛感情あるいは性的感情をいだかないことに対する違和感をいだくことになるということだ*8

 あるいは、いわゆる「非モテ」と呼ばれる人々が苦悩することについても同様ではなかろうか。つまり、愛あるセックスが理想視されるからこそ、それを獲得できないことによる疎外感をいだくと考えられるのである。

 そしてもう一つ挙げたい例が、「二次元ロリエロ表現」をめぐる議論である。この議論は、対人セックスの特権化という問題構造が特に分かりやすく表れているように思う。ということで突然だが、二次元ロリエロ表現に対する批判について、ごく簡単に考えてみたい*9。 

 ペドフィリア(いわゆる「小児性愛者」)は、児童という「セックスをしてはいけない相手」を性的対象としているということから非難を浴びてきた。ここで「セックスをしてはいけない」理由は、児童の自己決定能力が未熟であるという点にある。児童への性暴力を防ぐという観点からすれば、「児童と性交してはならない」という規範はとりあえず意義があると考えられる*10。しかし、ここでいったん立ち止まって考えなければならない。

 「ある特定の対象とは、セックスをしてはいけない」という規範が成り立つためには、「性欲によって引き起こされる行為とは、対人セックスである」という認識が社会一般に共有されていなければならない。……このように書くと小難しく見えるかもしれない。しかしあえて単純化するならば、そもそも誰もセックスしない社会なら、「ペドフィリアが差別される」ということはあり得ないのではないか? という話である。

 冷静に考えてほしい。そもそも「セックスしたい」と思う人がいなければ、わざわざ「ある対象とはセックスしてはいけない」なんてルールを作る必要はあるだろうか? そんな状況なら、わざわざルールを作る必要すらないはずだ。

 この点を考えれば、しばしば散見されるペドフィリアへの非難についても、吟味が必要だということがわかる。どのような非難かというと、「ペドフィリアの欲望は必然的に性暴力となる」などという主張である。しかし、その主張が成り立つのは、「性欲の対象とすること」が「性交をすること」とイコールで結ばれるからではないか。言い換えれば、性交を「必然的」なものと見なしているからではないか*11*12

 このように書くと、「児童が性的対象とされることによって、児童自身が性暴力を受ける可能性に恐怖感をいだくのではないか」という反論があるかもしれない。しかし、そもそも「性的対象とすること」が「性交をすること」に結びついていなければ――言い換えれば「性的対象」とされても「性交の対象」とされないのであれば――多くの場合そのような恐怖は成り立たないはずだ。また、解決すべき問題は「性的対象とされることが、性暴力を受ける可能性につながる」という状況自体である。「性的対象とする」ことを許容しつつ「性暴力自体を批判する」のは可能であるし、むしろそれが性暴力に対する常識的な発想ではないだろうか*13

 あるいは、「性的対象とされることによって児童が傷つくのではないか」という反論もあるかもしれない。確かに、女性差別の論点として――とりわけセックスワーカーへの差別など――「性的対象とされることによって、社会的に低い位置に置かれることになる」という状況があるのは事実だ。しかし、ここでも解決すべき問題は「性的対象とされる=社会的に劣位に置かれる」という結びつき自体である。それゆえ、批判をペドフィリアのみに向けることは論点を逸らすばかりで、本当の問題解決を遠ざける。これも有害無益と言わざるを得ないだろう。

 ここまでペドフィリア批判に対するいくつかの反論をしてきたが、「児童の自己決定能力が未熟である」という点を考えるならば、児童との性行為を暴力とみなすことはとりあえず妥当だろう。現に小児性暴力が被害者を強く傷つけているという状況は、重く受け止めなければならない

 しかし、そのことを理由に、実在の被害者のいない二次元ロリエロ表現を批判するのは、本当に妥当だろうか? 少なくとも言えるのは、「『愛ある平等な対人セックス』はまったく無罪であり、ゆえに我々はロリエロ漫画を一方的に批判できる」という認識は不当であるということである*14

 だって、よろしいか。もし仮に二次ロリエロ表現が児童に対する性欲を再生産するとして、では性欲を性交欲として再生産しているのは何だ? それは対人セックスを特権化する社会全体・・・・・・・・・・・・・・・・ではないか。そうである以上、「児童に対する性欲を作り出す」という理由で二次元ロリエロ表現の責任を問うならば、同じ理由で、「性欲を性交欲へとスライドさせる」対人セックス文化も批判されなければならないはずだ。もし後者を批判しないのであれば、それは単なる対人セックスの特権化であり、対人セックス以外のセクシュアリティを攻撃することと同義ではないか。

 たとえどれだけ情愛に溢れた平等な性関係だったとしても、それが特権化されてはならない。言い換えれば、対人セックスにとってのみ都合のよいルールを作るのは、端的に言って差別である。つまり、「性行動は、本来ならば(異性間の)愛情ある性器接触であるべきだ」という形であっても、対人セックスを特権化してはならないのだ*15。以上の議論の要約として、過去ツイを再掲しておく。

結論――対人セックス調子に乗るな*16

 ところで、いなだみずき氏は決してルギアでしか抜けないというわけではない。元記事を読むかぎりでは、いわゆる「一般的な」オカズでオナニーをするようになったとのことらしい。

 しかし、そのことは今回の記事で考えてきた内容を覆すものでは全くない。ここまで読んでくださった方にはお分かりだと思うが、「ルギアで抜くこと」と「AVで抜くこと」と「誰かとセックスすること」の違いは、根本的には「ラーメン」と「うどん」と「そば」程度の違いでしかない。ただ世間にやたら「そば好き」が多く、そのせいで「ラーメン好き」が不当に追い詰められているというだけのことなのだ。あるいは、「そば好き」がやたら多数派であるせいで、特にこだわりはないのになんとなく「そば」を食べている、というパターンもあるだろう。私たちは、「そば」以外のものを食べる人たちを追いつめてはならない。そしてそれは、「そば」を不当に特権化しないということである*17

 近年、セクシュアリティの多様性について盛んに議論されている。性関係について言えば、たとえば同性愛や両性愛といった関係について、「愛があれば性別は関係ない」という理屈で「尊重」しようとする人々が散見される。しかし、上の議論を経てきた今、私たちは次のように問わなければならない。

「なぜ対人セックスが自明視されるのか」

「そもそもなぜ私たちの『性的欲望』は、対人セックスへと水路づけられているのか」

「『性欲』が『性交欲』と同一視されることによって、どのような人々が特権化されるのか、またどのような人が不利益を被るのか」

 そしてそれらを考えたとき、「対人セックスを特権化してはならない」という結論に至るだろう。これが「ルギアで抜いた」記事から考えられる結論である。

簡単な補足

●セックスの価値相対化を主張すると、しばしば「それじゃ子供が生まれないじゃないか」などと難癖をつけられる。これに対してはいくつかの反論があるが、とりあえずいつものツイートを貼っておく。

●対人セックスの特権化を批判するからといって、対人セックスの禁止を要求するわけではない。 ただ単に、対人セックスを基準とした社会制度やイデオロギーの解体を要求するだけである。要するに、「対人セックス調子に乗るな」ということだ。

●「対人セックスは重要なコミュニケーション手段だから特別なのだ」という反論もあるかもしれない。別に対人セックスでコミュニケーションしたければ、勝手にしていればいい。しかし「対人セックスがコミュニケーションの手段である」ということは、対人セックスの特権化を正当化する根拠にはならない。言いかえれば、対人セックスが調子に乗ってよいという根拠にはならないということだ。また、コミュニケーションツールとしてのセックスを過信してはならないし、セックス以外のコミュニケーションを舐めてもいけない。

●「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」ということは、決して性暴力を肯定することではない。そもそも「人を傷つけてはならない」という規範は、性に関する領域のみならず社会全体で適用されるべきルールだろう。「愛情ある平等な対人セックスを特権化しない」とは、性の領域に固有の――そして不当な――原則を作るなということであり、性に関する領域も原則として社会一般のルールと同じように考えるべきだということである。

●対人セックスを志向しないセクシュアリティなんてあり得るの? と思われる方は、この辺の記事をどうぞ(関連記事)

*1:という書き出しで始めたところ、いつの間にか一万字を超えてしまっていた。やはり慣れないことはするものじゃない。

*2:そして当然、それに対する異論・反論もあるだろう。また、記事の内容自体への批判的な考察もあるだろう

*3:もちろん、出来事が起こった当時と価値観が変わらないという場合はあり得るだろうが

*4:中村美亜の論文は、「性欲」について考える上で役に立つ。20ページ程度の短い論文なので、ぜひ図書館などで読んでみてほしい。ついでに同氏の『クィア・セクソロジー――性の思いこみを解きほぐす』セクシュアリティ論の入門書としてオススメである。

*5:こうした点については、こちらの過去記事: Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編) - 境界線の虹鱒が参考になるかもしれない

*6:ここで言う「語り」には、会話だけでなく文章表現も含まれる

*7:なぜ「対人セックス」という語を使ったかというと、実は「セックス」という語が多義語だからである。日本語では基本的に「性交」という意味で用いられるが、文脈によっては「性行為全般」を指すこともある。たとえば「マスターベーション性行為セックスだ」という使い方が挙げられる。他にも様々な用法があるが、それらと区別するために、他者との性的接触という意味で「対人セックス」を用いた。

*8:この文脈に「Aセクシュアル」を置かれることに不快感をいだく方もいるかもしれない。たとえば「Aセクシュアル性的指向だが、ルギアや(後述する)ペドフィリアなどは性的嗜好ではないか」という主張があるかもしれない。しかし、セクシュアリティの分類方法は一つではない。「性的指向性的嗜好」という分け方以外にも、たとえば「身体接触をともなうセクシュアリティ/ともなわないセクシュアリティ」という分類も可能だろう。なお「Aセクシュアルが『性的指向』なのか『性的指向の欠如』なのか」という議論もあるが、結論はまだ出ていない。

*9:今回の記事では到底すべての論点を議論することはできない。こうした議論は別稿で深めてみたい

*10:ただし、より根源的な、より原理的なところまで議論するならば、異論を立てることも不可能ではないだろう。しかし個人的には、まだそうした議論を始められる段階ではないと思う。

*11:なおここで言う「性交」とは、性器接触だけでなく、他者の身体に直で接しようとする性的行為全般を含むものとする。

*12:また、当然ながらすべてのペドフィリアが小児性暴力におよぶわけではない。むしろ多くのペドフィリアが、実際には「非触法ペドフィリア」である。こうした点について日本語で読める文献として、湯川やよい「承認の臨界を考える――あるペドファイル小児性愛者)男性の語りから」(『承認―社会哲学と社会政策の対話』収録)がある

*13:ここで言う「『性的対象とする』ことを許容」するとは、性的対象とすること自体を原理的な悪とは見なさない、ということである。決して「性的対象とする」ことをすべて無条件に肯定するわけではない。その点については別途議論が必要である。

*14:なお実写の「児童ポルノ」については、被写体が直接の被害者であり、まさしく「児童性虐待記録物」であるため、ロリエロ漫画と同じ議論はできない

*15:「であるべきだ」という形が問題なのである。それ以外の性を許さないという意味だから。

*16:「対人セックス調子に乗るな」って、なんとなく語呂が良いよね。

*17:これに対して、「対人セックスとルギアの違いは、そばとラーメンの違いよりも大きい」と感じる方がいるかもしれない。しかし文化人類学者ゲイル・ルービンが指摘したように、セクシュアリティの領域では、価値観や好みに関する小さな差異が過剰に重視されている。つまり「性行為は過度な意味付けをされているということなのだ」。この「過度な意味付け」が、セクシュアリティに関する差別と表裏一体となっている。この点については、以前の記事:ゲイル・ルービン『性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書』個人的要約メモ - 境界線の虹鱒で紹介した論文を参照していただきたい