境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

「観客」はそこにいる:『やがて君になる』における「舞台」というモチーフと「安全ではない」槙くんについて

※原作7巻(第39話)までのネタバレを含みます。

※舞台版「やがて君になる」のネタバレはありません。

※この記事は単体で完結していますが、前回の記事を先に読むとさらに理解が深まります。お時間があればこちらの記事もご覧ください。 

※2021年9月17日追記:この記事の内容をもとに執筆した論文が現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在』に掲載されています。タイトルは「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向――仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」です。

はじめに

やがて君になる』では「演劇」や「舞台」といったモチーフが重要な役割を担っている。ヒロインである七海燈子は、亡き姉を模範として「演じ」つづけていた。彼女がその過去を乗り越えるきっかけとなるのが「生徒会劇」である。しかしそれだけではない。この作品には、他人の恋愛を「舞台」とみなし、自らは恋愛に参加せずに「観客」として楽しむ、というキャラクターが登場する。それが、前回の記事でも論じた槙くん(槙聖司)である。

「『アセクシュアル』かつ『読者』としての槙くん」を描くことによって、『やがて君になる』は「恋愛の問い直し」というテーマをかろうじて完遂する。これが前回の記事の要約である。前回は「観客」を自認する槙くんを「読者」の表象として考察した。これに対して、今回は槙くんを「舞台」の「観客」として捉えなおすところから始めたい。

役者と共在する観客――生徒会劇に巻き込まれる槙くん

マンガや小説の「読者」と、上演された演劇の「観客」。いずれも芸術作品を受容する人という点では共通しているが、制作者との関係を考えると、両者には大きな違いを見出せる。

普段私たちがマンガや小説を読むとき、目の前に作者はいない。私たちは作者から離れた場所で、作品を受け取る。これに対して、演劇が上演されるときには、必ず役者の目の前に観客がいる。役者は舞台に立ち、観客は客席に座る。このように、役者と観客は「劇場」という同じ空間に居合わせているのである。エリカ・フィッシャー=リヒテにならって、このことを「肉体の共在」と呼んでおこう *1

多くの演劇作品において、「役者/観客」との間には「舞台上/客席」という明確な線引きがあるように思える。しかし、そうでない演劇も少なくない。ある種の演劇作品は、役者と観客という区別を疑問に付し、観客もまた舞台に参加しているのだということを暴き出す。たとえばユルゲン・ゴッシュが演出を手掛けた『マクベス』では、役者が舞台から退場するときに舞台裏ではなく観客席へと降りてゆき、そこから舞台上の役者を観ている、という演出が用いられた *2

このような、一見自明に思われた演劇の特徴へと直接的に疑問を投げかけるような演劇は、しばしば「ポストドラマ演劇」と呼ばれる。しかし実際のところ、役者と観客が切り離せないという特徴は、ポストドラマ演劇にかぎったものではない。どのような演劇であっても、それが上演されるさいには役者と観客が同じ空間に共在する。ポストドラマ演劇は、あくまでも演劇の特徴を自覚的に照らし出すものである。

オブジェやメディアという手段を使った他の芸術と違って、演劇では、芸術行為そのもの(演じること)と受容行為(見ること)の双方が、いま・ここという現実の行為として生起する。演劇とは、演じることと見ることが同時に起こる空間であり、その空気をともに吸いながら、俳優と観客に共同で過ごされ、共有で消費される生の時間なのである。*3

やがて君になる』に話を戻そう。槙くんの立ち位置に目を向けたとき、『やがて君になる』では「役者」と「観客」との共在が自覚的に描き出されていることに気づく。たとえば原作2巻第6話で、槙くんは「どうも自分が活躍しようと努力するより/活躍する人のサポートをする方が性に合ってるみたいで」と語ったのち、「だから劇も自分が出るのはちょっと…」と言っている。しかし原作4巻第18話で、槙くんにも生徒会劇での役が割り当てられる。

自分のことを「観客」と位置づけている槙くんもまた、否応なく舞台に参加させられる。これによっては、観客もまた舞台に対して一定の役割を担っているということが示される。この点で、『やがて君になる』には「ポストドラマ演劇」的な要素を見て取ることができるだろう。

舞台への責任を負う観客――槙くんの癖について

私たちが舞台を観るときのことを思い出してみよう。舞台上の役者の演技を観ているとき、観客は色々な反応をする。たとえばコメディに笑ったり、悲劇にすすり泣いたり、サスペンスに息をのんだり、あるいは退屈なシーンであくびをしたり、ときには苛立たしげに席を立って劇場を後にしたり……。そうした観客の反応は、当然舞台上からも見ることができる。観客の反応は役者にも影響を及ぼし、ときには物語の進行をも左右しうる。

せっかくなので、舞台「やがて君になる」公式アカウントによる、観劇マナーについての注意喚起を確認しておこう。

「キャストにも聞こえてしまう」というところが、ここでは重要である。このように、「演者がすることは何であれ観客に影響を及ぼし、観客がすることは何であれ演者と他の観客に影響を及ぼす」*4。こうした特徴は、役者と観客が共在するあらゆる上演作品に当てはまる。

しかしポストドラマ演劇的な作品では、舞台と客席との境界が揺さぶられ、ときに役者と観客の役割が入れ替わる。こうした演出によって、観客もまた舞台への参加者であるということがあぶり出される。観客自身にも、参加者としての自覚が促されるのである。

観客は自らがそこに存在しているという事実にいやおうなく向き合い、同時に演劇プロセスの創造者との仮想上の闘いを余儀なくされる。何をなすべきなのか、と。*5

役者の演技が劇を進めるのと同じように、観客の振る舞いもまた劇の進行を左右する。そのとき、観客は「何をなすべきなのか」。ここにおいて、観客は劇の進行に対してどのような責任を負うのか、という問いが浮かび上がる。

このような観点から、槙くんの「責任」について考えてみたい。というのも、槙くんは観客としての「責任」を果たしている人物として描かれているからである。この点について、原作者の仲谷鳰は次のように語っている。

当初は読者の自己投影先として用意したキャラではありませんでした。侑との対比のために登場させたキャラなんです。ですが、百合漫画に登場するキャラとしてあるべき姿を探った結果、今の形に落ち着きました。*6

槙くんは、百合という「舞台」を成立させるための「あるべき姿」として描かれている。先の言葉で言い換えれば、舞台を成り立たせるための「責任」を果たしている人物として描かれているということである。では、「あるべき姿を探った結果」は具体的にどのように描かれているのだろうか。

ここで注目すべきは、槙くんの癖である。

槙くんは他人の恋愛を見ることを好んでいる。そして好みのシチュエーションに遭遇したとき、彼は決まって自らの口元を隠す。彼は好みのシチュエーションを観ると思わずにやけてしまうのであり、このしぐさはそれを隠すために行われているのである*7

さて、口元を手で隠すという槙くんの癖をどう解釈すればいいだろうか。

まずは槙くんが「舞台」と捉えているのは他人の恋愛である、というところを確認しておこう。

一般論として、恋愛は、しばしば第三者によってかき乱される。恋愛関係にある人たちが周りの人から囃し立てられ、場合によってはそのせいで関係が悪化することもある。さらに異性間の関係と比べると、同性間の関係はとりわけ他者からの攻撃を受けやすい*8。それに加えて、ここでは「男=見る主体」と「女=見られる客体」という非対称な関係も考えなければならない。ありていに言えば、「異性愛男性」の欲望が、女性同士の関係にとってとりわけ脅威となってきたということである *9

以上のことを考えると、「他人の、女性同士の恋愛模様を、男性が見て、にやける」ということがどのような意味を持つか、ということが分かるだろう。性別を問わず、他人の恋愛を見てにやけるということは、一般的には相手を冷やかすものとして解釈される。さらに「男性が女性を見てにやける」という行為は、多くの場合「対象の女性に対して性的欲望を向けている」と解釈される。もちろん前回論じたように、槙くんの欲望は単なる「異性愛男性」の性的欲望ではない。それでも、こうした振る舞いは、他者から見れば「性的欲望」として解釈されかねないのである*10

このように、他人の恋愛を「観る」男性としての槙くんは、女性同士の恋愛関係にとって脅威となりうる。だからこそ彼は、自分の振る舞いが百合という「舞台」を妨げることのないよう、にやけた口元をさりげなく隠す。あたかも劇場内で携帯電話の電源を切るように、槙くんは自らの欲望の表出を抑制するのである。百合マンガの男性キャラの「あるべき姿」という意味で、このことを百合男子の倫理と呼んでもよいかもしれない。

可傷的な観客――「君を僕と一緒にしないでよ」というセリフの意味

原作2巻第7話のタイトルになっているように、槙くんは「役者じゃない」。しかし観客としての槙くんは、決して舞台から隔絶されているわけでもない。役者と観客は同じ場に居合わせており、観客もまた舞台上の物語を左右する。ある意味で、観客は役者に対して脅威となりうるのであり、だからこそ観客もまた舞台に対して責任を負うのである。

しかし「観客」としての槙くんは、舞台上の「役者」を脅かすだけの存在ではない。その逆に、槙くんが「役者」によって傷つけられることもありうる。このことを描き出したのが、原作7巻第39話である。

原作6巻の最後で七海燈子に想いを告げた小糸侑。けれど燈子からの返事は「ごめん」だった。その言葉を拒絶と受け取った侑は、一方で劇的な悲しみこそ抱かないものの、捉えどころのない苦しさやイライラにさいなまれる。この「失恋」経験を槙くんに語りながら、侑はその漠然とした感覚を「好き」が分からないのだという考えで片付けようとする。

侑「好きとか誰が特別だとかさ/やっぱわたしにはよくわかんないや/なんかもういっかって感じ」
槙「小糸さんはつらくないの?」
侑「んー/大丈夫」
侑「好きって気持ちを/わかりたいと思ってたこともあったけど/槙くんはそういうの無くても楽しそうじゃん」
(原作7巻第39話148ページ)

これに対して槙くんは、「それは逃げてるだけだよ」と答える。それに続く彼の言葉は、ある意味で槙くんらしくないものだった。

槙「本当はもう人を好きになる気持ちがわかってるくせに/好きなのに受け入れてもらえなかったってわかっちゃうと痛いから/ごまかしてるだけでしょ」(原作7巻第39話150ページ)

その後のストーリーの展開を考えるならば、このシーンは小糸侑の恋愛を後押しするものとして解釈できる。しかし槙くんは、単に「物語」の進行を手助けしているだけではない。ここには槙くん自身の怒りが表れているのである。どういうことか。

槙くんにとって、この時の侑から同類意識を語られるということは、どのような意味を持つだろうか。それは、『本当はもう人を好きになる気持ちがわかってるくせに/好きなのに受け入れてもらえなかったってわかっちゃうと痛いから/ごまかしてるだけ』の人間から同類扱いされた、ということにほかならない。つまり、『あなたも私と同じで、何か理由があって人を好きにならないだけでしょ』と言われたも同然ではないだろうか。

だからこそ槙くんは、これまでになく厳しい言葉で侑との間に線を引く*11

槙「君と僕を一緒にしないでよ」(原作7巻第39話151ページ)

 このシーンを描くことによって、『やがて君になる』はアセクシュアルの不可視化という問題へと切り込んでいく。

「人は当然、誰しも他者へと性愛的に惹かれるものだ」という考え方*12が浸透している社会において、アセクシュアルの人々はしばしば自分自身のセクシュアリティに関する「認識の権限」(epistemic authority)を否定される*13。「認識の権限の否定」と言うと小難しく見えるが、具体例で考えればそれほど複雑な話ではない。アセクシュアルの人々が、周囲から「まだ良い人と出会えていないだけ」とか「性欲を抑圧しているだけ」といった言葉を投げかけられて、それによって自分自身の感覚を否定される……「認識の権限の否定」とは、そういった状況のことである。

たしかに、同性愛者の排除と比べれば、アセクシュアルがはっきりと差別されることは少ないかもしれない。しかしアセクシュアルは、こうした一見何気ない日常のやり取りのなかで、じわりじわりと違和感を募らせていく。その積み重ねから生まれる息苦しさは、決して無視してよいものではない。

さらに付け加えれば、「人は当然、誰しも他者へと性愛的に惹かれるものだ」という考え方は、異性愛者だけに見られるものでもない。クィアスタディーズやフェミニズムのなかで異性愛主義(ヘテロノーマティヴィティ)は批判されてきたが、他方でセクシュアルノーマティヴィティ(性愛を自明視する価値観)は十分に議論されてこなかった*14。2000年代以降のアセクシュアルをめぐる議論には、そのような背景がある。

このことを踏まえて、「舞台」に話を戻そう。

観客と役者は同じ場に居合わせている。だからこそ、観客は役者を危険に晒しうる。ここまでは上で論じたとおりである。しかし、これに加えて逆の関係も生じうる。つまり観客もまた、役者によって傷つけられうるのである。

槙くんと侑の関係は、単純な「見る/見られる」という関係ではない。「観客」としての槙くんもまた、他の登場人物たちと同じように『やがて君になる』という物語に関わっている。そしてそれゆえに、槙くんは他の登場人物によって傷つけられうる。あえて強調するなら、槙くんは「可傷性を帯びた観客」と言えるだろう。

それゆえ槙くんは、「アセクシュアル」と「観客」の重ね合わせとしてーーつまり「恋愛」の「舞台」の上から傷つけられうる存在としてーー解釈できる。「観客」としての可傷性を「アセクシュアル」としての可傷性と重ね合わせることによって、『やがて君になる』は物語の自然な流れのなかで、アセクシュアルの不可視化(およびそれに対する怒り)を描き出しているのである。

結論――「恋愛の問い直し」のために

槙くんは、一方的に舞台を覗き見るだけの観測者でもなければ、侑たちの恋物語に奉仕するだけの単なる舞台装置でもない。 

槙くんは、侑たちの恋愛関係を危険に晒しうると同時に、彼自身も危険に晒されうるという、二重の意味で「安全ではない」存在と言えるだろう。

男性である槙くんが女性同士の恋愛関係を脅かしうると同時に、異性愛規範のもとで排除されるマイノリティもまた他のマイノリティ(たとえばアセクシュアル)を傷つけうる。このことから目をそらさず、誠実に向き合った作品として、『やがて君になる』を読むことができる。

そもそも、なぜ槙くんの「欲望」が、他者からは「異性愛男性」の性的欲望として解釈されてしまうのだろうか。その背景には、人は他人を(特に異性を)性的対象とするのが当たり前だ、という価値観があるのではないだろうか。つまりある面において、性愛を自明視する規範があるからこそ、槙くんの「欲望」が小糸侑たちにとっての脅威へと変換されるのである*15前回の記事の言葉を使えば、「『恋愛』を欲望すること」と「『恋愛すること』を欲望すること」を区別するような認識枠組みがないからこそ、槙くんの「欲望」が「異性愛男性」の欲望に取り違えらえれるのである。

このように考えると、単に「槙くんが欲望の表出を抑えればよい」と言うだけでは不十分だということが分かるだろう。もしも単に槙くんのみに譲歩を求めるならば、その批判は異性愛主義の相対化だけにとどまってしまい、性愛の自明性が問われないままとなってしまう。つまり、「『恋愛』を欲望すること」が「『恋愛すること』を欲望すること」へとすり替えられるような認識枠組みを無批判に温存することになりかねない、ということである。

単に異性愛主義を相対化するだけでは、槙くんの「欲望」は正しく認識されることができない。そしてなにより、それだけでは「恋愛の問い直し」というテーマを完遂することもできない。

だからこそ、『やがて君になる』が「恋愛の問い直し」というテーマを完遂するためには、女性同士の同性愛を脅かさないという倫理を描くことに加えて、「恋愛≠する」という欲望を不可視化するような認識枠組みにも批判的に切り込まなければならない。

そこに切り込んだのが、原作7巻第39話における槙くん自身の怒りなのである。

そして舞台へ

2019年5月3日~5月12日まで、舞台『やがて君になる』が上演されている。

「舞台」というモチーフを貫いてきた原作が、舞台になる。ある意味ではこれ以上ないほど適切なメディアミックスであるとも言えるし、他方ではとても難しい試みとも言えるかもしれない。

舞台という形式になることで、『やがて君になる』という作品がどのように生まれ変わるのか。どのような世界を見せてくれるのか。しかと見届けたい。

参考文献

Chasin, CJ DeLuzio. 2013. “Reconsidering Asexuality and Its Radical Potential.” Feminist Studies 39(2): 405-26. 
Chasin, CJ DeLuzio. 2014. “Making Sense in and of the Asexual Community: Navigating Relationships and Identities in a Context of Resistance.” Journal of Community & Applied Social Psychology 25(2):167–80.
Gupta, Kristina. 2016. ““And Now I’m Just Different, but There’s Nothing Actually Wrong With Me”: Asexual Marginalization and Resistance.” Journal of Homosexuality 64(8):991-1013.
Fischer-Lichte, Erika, 2010, Theaterwissenschaft. Eine Einführung in die Grundlagen des Fachs.(山下純照ほか訳,2013『演劇学へのいざない』国書刊行会.)
Lehmann, Hans-Thies, 1999, Postdramatisches Theater(谷川道子ほか訳,2002『ポストドラマ演劇』同学社.)
堀江有里,2014「女たちの関係性を表象すること――レズビアンへのまなざしをめぐるノート」『ユリイカ』46(15): 78-86.
Milks, Megan and Karli June Cerankowski. 2014. “Introduction: Why Asexuality? Why Now?” Pp. 1–14 in Asexualities: Feminist and Queer Perspectives. New York: Routledge.
竹村和子,2002『愛について』岩波書店

注釈

*1:『演劇学へのいざない』(山下純照ほか訳)p.38

*2:『演劇学へのいざない』p.43

*3:『ポストドラマ演劇』(谷川道子ほか訳)p.16 太字原文

*4:『演劇学へのいざない』p.40

*5:『ポストドラマ演劇』p.134

*6:【コラム】 今もっとも読んでほしい恋愛漫画「やがて君になる」の人気に迫る!仲谷鳰先生インタビュー : アキバBlog 強調は引用者

*7:生徒会室で小糸侑と七海燈子がキスしているところを目撃したシーン(原作2巻第6話p.30)や、堂島から表情のゆるみを指摘されたシーン(原作2巻第7話p.42)などが分かりやすい。

*8:このことは、『やがて君になる』2巻第7話や7巻幕間などでも描かれている。

*9:この点について、現実で女性同士の性愛関係がどのように扱われてきたか、ということを確認しておきたい。女性同士の性愛であるレズビアンは、一方で社会的に取るに足らないものとして抹消・不可視化されてきたが、他方で(男性にとっての)性的な対象として過剰に意味づけられてもきた。たとえば、「ゲイ・ポルノ」が主に同性愛男性のものであるのに対して、「レズビアン・ポルノ」は主に異性愛男性のためのジャンルである。このようなことから分かるように、ある側面においてレズビアンは男性の欲望の対象とみなされてきたのである(堀江有里,2014「女たちの関係性を表象すること――レズビアンへのまなざしをめぐるノート」p.80)。さらにこの延長線として、レズビアン異性愛男性との「本当のセックス」によって「正常な」異性愛者へと「矯正」されるべきである、と認識されることさえある。竹村和子の指摘するように、「現在でも同性愛嫌悪による暴力は、ゲイ男性に対しては殺傷事件となる場合が多いが、レズビアンに対してはレイプによって彼女達の「目を覚まさせる」というかたちをとる傾向がある」(竹村和子,2002『愛について』p.51)。
もちろん、歴史を確認すれば分かるように、女性のなかにホモフォビアがなかったわけではない。それでも、レズビアンはとりわけ「異性愛男性」によって脅かされてきた。このことをしっかりと直視しておきたい。

*10:作中でも堂島からそのように解釈されている(原作2巻第7話p.42)

*11:ただし、アセクシュアルと非アセクシュアルとの間に明確な境界線を引くことは、決して望ましいことではない。アセクシュアル/非アセクシュアルという二項対立的な見方を採用すると、「アセクシュアルはあくまでも例外的な人間にすぎず、大多数の『普通』の人は性愛を欲望するのが当然だ」というような形で、アセクシュアルが他者化されてしまう。つまり、性愛を自明視する規範(セクシュアルノーマティヴィティ)が温存されてしまうのである(Chasin 2013)。

「誰がアセクシュアルなのか」を客観的に決定する必要はない。むしろ重要なのは、誰もが性愛に囚われることなく生きられる社会を模索することである。つまり、アセクシュアルであるかどうかを問わず、誰もが性愛の「舞台」から自由に降りられる、ということが求められるのである。

なので繰り返しになるが、ここで槙くんが自身と侑との間に明確な線を引いているのは、望ましいことではない。しかしこの記事では、なぜ槙くんがこのような望ましくない発言をしたのか、ということを考えている。その回答として、ここでは「それだけ槙くん自身が怒っていたのだ」という解釈を採用する。
(なおこの注釈および文献リストのChasin(2013)は5月6日に加筆したものである)

*12:アセクシュアルに関する議論では、「人は誰しも他者へと性愛的に惹かれるものであり、性愛的な惹かれを経験しない人間は異常である」という規範のことを、「セクシュアルノーマティヴィティ」(sexualnormativity)と呼ぶことがある。この言葉は、異性愛を自明視する規範を指す「ヘテロノーマティヴィティ」に倣った造語である。

同性愛者の排除と比べると、アセクシュアルは明確な排除の対象にはなりにくいかもしれない。しかしアセクシュアルは、しばしば日常の何気ない場面で周縁化・不可視化される。

セクシュアルノーマティヴィティ(およびセクシュアルか非アセクシュアルである方が、アセクシュアルであるよりも望ましいという断定的な信念)は、それほど直接明瞭に表現されることはめったになく、むしろあまり際立たず、より狡猾に、ありふれた文脈で現れる――たとえば、アセクシュアルの人々は性的なことについての「機会を逃したmissing out」のだという仄めかしや、自らをアセクシュアルに「分類するpigeon holing」人々に対して早計だと警告するというように。(Chasin 2014: 169-170)

なおセクシュアルノーマティヴィティに類する言葉として、compulsory sexualityやsexualnormalcyなどが使われることもある。

*13:Gupta 2016: 999-1000

*14:たとえば、性愛を強く重要視するようなクィア・コミュニティのなかで、アセクシュアルの人が異性愛者にもクィアにもアイデンティファイしきれずに悩む、という事例が語られることもある(Milks and Cerankowski 2014)。

*15:先行研究でも指摘されているように、アセクシュアルをはっきりと異性愛オルタナティブと位置づけるような認識がない社会で、アセクシュアル異性愛を実践しないということから同性愛者とみなされ、しばしばホモフォビアの対象となる(Chasin 2014: 171)。しかしアセクシュアル異性愛オルタナティヴと見なされないということは、アセクシュアルが「普通の」異性愛者として認識される可能性もある、ということでもある。つまりアセクシュアル異性愛に対立しないとみなされたときに、しばしば異性愛者として認識され、異性愛主義に回収される可能性がある。槙くんについて考えるうえでは、後者の側面にも注目する必要がある。