境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

予備知識ゼロから『ジェンダー・トラブル』をとりあえず読めるようになるための読書案内

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』は、フェミニズムクィアスタディーズのみならず様々な領域に多大な影響を与えた重要な著作です。しかし内容も文章もかなり難解で、おそらく予備知識なしには読めないものだと思います。そのため本記事では、『ジェンダー・トラブル』を読むうえで必要となる予備知識をできるだけ手軽に学べるよう、いくつかの本を紹介していきます*1

目次

フェミニズムを知る

清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文春新書(2022年)(2022年12月9日追記)

フェミニズムの歴史から現代の状況まで、読みやすくコンパクトにまとめられています。予備知識ゼロから「フェミニズムについて知りたい」と思った人のための、最初に読むべき1冊と言ってよいでしょう*2

ベル・フックス(掘田碧訳)『フェミニズムはみんなのもの――情熱の政治学』エトセトラブックス(2020年)

そもそもフェミニズムとは何なのか? この問いに対して、本書は「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」という明解な定義を掲げます。そのうえで、第2波フェミニズムの運動や理論がどのような社会状況から生まれてきて、階級闘争や人種差別や異性愛主義などとどのように関わり合いながら、どのように展開してきたのか、ということについて、フックス自身の経験も交えながら分かりやすく語られています。とりわけ「女性」という集団が決して一枚岩ではないという点は、バトラーの議論でも非常に重要となる視座です*3

加藤秀一『はじめてのジェンダー論』有斐閣(2017年)

ジェンダー・トラブル』のタイトルにも入っている「ジェンダー」という言葉、これはいったい何なのか? この問いから出発して、「〈「人間には男と女がいる」という現実を、私たちはどのようにしてつくりあげているのか〉」を丁寧に考えていく入門書です。教科書としても使えるようさまざまなトピックに目配せしつつ、同時に読み物としても通読できる設計になっています。またトピックごとの読書案内も充実しています。

クィアスタディーズを知る

石田仁『はじめて学ぶLGBT――基礎からトレンドまで』ナツメ社(2019年)

ジェンダー・トラブル』は性別二元論と異性愛主義の結びつきを徹底的に考える著作です。なので予習として、性的マイノリティを取り巻く社会の状況について学んでおくことが重要です。本書では性的マイノリティについて、基本的な用語からタイムリーな話題まで、イラストや図表を交えながら網羅的にまとめられています。日本社会の具体的な状況をもとに解説されていますので、バトラーの理論的な文章を読む前の準備としてオススメです。巻末にブックガイドがあるほか、脚注でも参考文献が提示されています。

森山至貴『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』ちくま新書(2017年)

『はじめて学ぶLGBT』では日本社会の状況(法制度や統計データなどを含む)の説明に重きが置かれているのに対して、より理論的な議論に焦点を当てているのが本書です。クィア理論の歴史的背景として、性的マイノリティへの差別とそれに対する抵抗運動の歴史をコンパクトにまとめたうえで、クィアスタディーズの視座や重要概念について入門的に解説されています。とりわけバトラーの重要概念である「パフォーマティヴィティ」についての説明が入っていますので、『ジェンダー・トラブル』の予習にも最適だと思います*4。本書も読書案内が充実しています。

構造主義ポスト構造主義哲学に触れる

フェミニズムクィアスタディーズの入門だけなら、このぐらいの紹介で十分かもしれません(あとはそれぞれの本の文献案内から、次に読むべき本をたどっていけますので)。しかし『ジェンダー・トラブル』は哲学書、それもかなり専門的なものです。そのため『ジェンダー・トラブル』を読むためには、背景となっている思想家の議論についての予備知識が必要になります。とりわけバトラーは構造主義(およびポスト構造主義)の哲学者の議論を批判的に検討していますので、そもそもバトラーが何を批判しているのか、そこで批判されている論者がそもそもどんな議論をしているのか、ということを知っておくと『ジェンダー・トラブル』が読みやすくなると思います。

千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書(2022年)(2022年7月14日追記)

後述するように、バトラーを読むうえでとくに重要になるのが、精神分析フーコーデリダです。本書はそれらの入門的解説を網羅したうえで、いわゆる「現代思想」(あるいは「フランス現代思想」)のコアとなる発想を明示的に説明している、優れた入門書です。そのため『ジェンダー・トラブル』の思想的背景を学ぶうえでも最初に読むべき一冊と言ってよいかと思います。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書(2002年)

とっつきやすさでは他の追随を許さない、構造主義についての読みやすい入門書です。高校入試や大学入試の現代文でも何度も出題されていますので、「実は読んだことがある」という人も案外いるかもしれません。とりあえずこの1冊を読めば、構造主義の重要な哲学者の名前と概要をなんとなく知ることができると思います。

ただし『ジェンダー・トラブル』を読むためには、もうすこし踏み込んでおくべき論者がいます。それが精神分析(とりわけフロイトラカン)、フーコー、それとデリダです。

斎藤環『生き延びるためのラカン』ちくま文庫(2012年)

なぜ『ジェンダー・トラブル』を読むうえで精神分析の知識が必要なのか、理由は大きく2つです。1つは、(バトラーを含む)フェミニズムクィア理論にとって、精神分析は大きな批判対象であると同時に、重要な理論的源泉でもあるということ*5。そしてもう1つは、精神分析には特殊な用語がいろいろと出てくることです(特にラカン)。精神分析について体系的に理解しようとするとそれだけで一苦労ですので、まずはトップクラスに敷居の低いラカン入門書である本書を読んで、ひとまず特殊用語に慣れておきましょう*6

また私自身は未読ですが、フロイトについては立木康介監修『面白いほどよくわかるフロイトの精神分析――思想界の巨人が遺した20世紀最大の「難解な理論」がスラスラ頭に入る』日本文芸社(2006年)ラカンについては片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』誠信書房(2017年)も読みやすいと評判を聞きます。

なお精神分析の理論に対してはフェミニズムの観点から様々な批判がなされていますが、この点については次節「『ジェンダー・トラブル』以前のフェミニズム理論を確認する」で挙げた本などをご覧ください。

中山元『フーコー入門』ちくま新書(1996年)

ジェンダー・トラブル』で提示される理論には、フーコーの理論の批判的継承という側面があります。そのためフーコーについての予備知識があると『ジェンダー・トラブル』の軸がつかみやすくなると思いますので、本書でフーコーの主要著作を概観しておくのがオススメです。

このあたりからは、哲学系の文章を読み慣れていない方には少々難しい(かもしれない)本になってきます。ただ『ジェンダー・トラブル』はもっと難しいので、練習ということで読んでみてください。

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫(2015年)

脱構築」や「差延」といったデリダ的な概念は『ジェンダー・トラブル』でも当たり前のように出てきますので、ここで入手しやすくかつ手堅い解説書を挙げておきます。巻末にキーワード解説もありますので、とりわけ「現前の形而上学」「階層秩序的二項対立」「差延」「反復可能性」あたりを確認しておくとよいかと思います。

ちなみにデリダについては『寝ながら学べる構造主義』では言及されていませんので、ややハードルが高いかもしれません。本書が難しいようでしたら、いったん飛ばして以下に紹介している本を先に読むのがよいと思います。

ジェンダー・トラブル』以前のフェミニズム理論を確認する

もうひとつバトラーが批判的に検討するのが、ボーヴォワールやイリガライやクリステヴァといった、先行するフェミニズム理論です。こうした先行する論者についても予備知識を入れておきましょう。

竹村和子『思考のフロンティア フェミニズム』岩波書店(2000年)

ジェンダー・トラブル』の翻訳者による、フェミニズム理論の濃縮された解説書です。バトラーが批判対象とする論者だけでなく、バトラー自身の理論についても説明されていますので、バトラー入門書と言ってもよいと思います。とはいえ理論や思想について踏み込んだ説明をしていますので、「入門書」と言うには少々手強いかもしれません。『ジェンダー・トラブル』への肩慣らしとして読んでみてください。ちなみに本書はしばらく品切れになっていましたが、現在では電子版が発売されています。

大越愛子『フェミニズム入門』ちくま新書(1996年)

1990年代前半までのフェミニズム思想をコンパクトに整理した概説書です。『ジェンダー・トラブル』が翻訳される直前期のフェミニズム思想の様子を確認できるため、『ジェンダー・トラブル』の予習として有益な本だと思います。こうした概説書としては、江原由美子・金井淑子編『ワードマップ フェミニズム』新曜社(1997年)もオススメです。

ジュディス・バトラーについての解説書

ここまでの本を読んでおけば、ひとまず準備完了です。最後に、バトラーの思想に特化した解説書を2冊挙げておきます(いずれも非常に優れた本です)。『ジェンダー・トラブル』の前に読んでもいいですし、後から内容を整理するために読むのもアリです。

サラ・サリー(竹村和子訳)『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』青土社(2005年)

藤高和輝『ジュディス・バトラー――生と哲学を賭けた闘い』以文社(2018年)

このほか、雑誌『現代思想』でこれまでに3回ジュディス・バトラー特集号がありますので、そこから気になる論文を読んでみるのもオススメです。

現代思想2000年12月号 特集=ジュディス・バトラー
現代思想2006年10月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー
現代思想2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー

おわりに:『ジェンダー・トラブル』に触発される

ここまでいくつか本を挙げて、さらに「ひとまず準備完了」とまで豪語してしまいましたが、これだけの準備をしても『ジェンダー・トラブル』は一読しただけでは理解しきれないはずです。というのも、単に内容が難しいだけではなく、さまざまな論点が織り込まれているからです。

なので一読で完璧に理解しようとする必要はありません。よく分からないところがあったら、とりあえず飛ばして読んで構いません。そうやって読んでいくなかで、何かしら触発されるところがあれば、まずはそれで十分ではないかと思います*7

なお上で挙げた本の読む順番については、上から順に読んでいただくのが個人的なオススメですが、とくに強い指定はしませんので、読みやすそうだと思ったものから目を通してみてください。

忙しい人向けの最短コース(2022年12月9日追記)

それなりの数の本を提示してきましたので、忙しい方にとっては全部読むのは大変かもしれません。もしショートカットしたいという方がいれば、本当の本当に必要最小限として、

清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文春新書
森山至貴『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』ちくま新書
千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書

の3冊を読んだうえで、

竹村和子『思考のフロンティア フェミニズム』岩波書店

を読む、というコースを挙げておきます。

それぞれの本で分からないところや気になったところ等があれば、必要に応じてほかの入門書にも目を通す、という仕方で読み進めていくとよいと思います。

注釈

*1:ひとまず大学1年生ぐらいを読者層として想定しています。新書もまだ読み通すのが難しい……という方は、高校現代文の参考書『現代文 キーワード読解[改訂版]』で、評論文の語彙に慣れるところから始めてみてください。

*2:ひとつだけ欲を言えば、優れた入門書ではあるもののブックガイドとしての機能がやや弱いため、より学びを深めたいと思った方はほかの解説書(加藤秀一『はじめてのジェンダー論』など)も手に取ってみるとよいかもしれません。

*3:ちなみにベル・フックス(野﨑佐和・毛塚翠訳)『ベル・フックスの「フェミニズム理論」―周辺から中心へ』あけび書房(2017年)は、『ジェンダー・トラブル』でも参照されています(リンク先の出版社公式ページの目次一覧で、訳者まえがきなどが公開されています)。

*4:ちなみに「パフォーマティヴィティ」概念については以下の文献も参考になります:森山至貴,2019,「複数の置換可能性――パフォーマティヴィティ概念をめぐって」『現代思想』47(3): 145-53.

*5:この点については以下の記事も参照:

*6:もちろんこの1冊だけではラカンの理論は理解できませんが、とりあえず用語に慣れておくと、後述する『ジェンダー・トラブル』以前のフェミニズム理論やバトラーに関する解説書も多少読みやすくなると思います。なおラカンについてしっかり理解したいという方は、たとえば向井雅明『ラカン入門』ちくま学芸文庫(2016年)松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』青土社(2015年)など、より本格的な解説書を読むのがオススメです。

*7:個人的な話ですが、私が大学院に進学しようと思ったきっかけの1つが、学部2年生の時に『ジェンダー・トラブル』を読んだことでした。もちろん当時はほとんど内容を理解できませんでしたが、それでも、「すでに文化の領域のなかに存在しているけれども、文化的に理解不能とか、存在不能とされていた可能性を、記述しなおしていくこと」(『ジェンダー・トラブル』260頁)の重要さを説くバトラーの議論に、「これだ!!」という大きな希望を感じ取ったことを今でも覚えています。