境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から

はじめに

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義は密接に結びついているのではないか。トランスフォビアと萌えフォビアは同じ構造に根差しているのではないか。すでに何度か論文やTwitterでこの話をしてきたが、ここですこし具体的に説明しておこうと思う。

なお以下では基本的に二次元の女性キャラクターをめぐる議論とトランス女性をめぐる議論に焦点を絞る。これは世間での「論争」で女性キャラクターとトランス女性にフォーカスされることが多い、という状況を踏まえての制約であることに留意されたい。

また、本記事は「オタクのセクシュアリティ」を論じたものではない。「オタク」という言葉は、時代ごとに異なるニュアンスで使われており、すくなくとも現在では、あらゆる「オタク」に共通するセクシュアリティがあるとは考えられていない。さらに「オタク」概念は好き勝手なニュアンスで使われがちであるため、議論をいたずらに混乱させる概念である。それゆえ以下で言う「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は、「オタクのセクシュアリティ」とは異なる概念であるという点に留意されたい。

目次

背景:二次元キャラクターをめぐるセクシュアリティについて

トランスジェンダーに関しては研究蓄積があり、すでに多くの論者が重要な指摘をしている(本記事でもいくつかウェブ資料に言及する)。しかし二次元をめぐるセクシュアリティについては――多くの人が思っている以上に――研究蓄積が少なく、議論も共有されていない。そのためまずは二次元をめぐるセクシュアリティについて概要を説明しておきたい。

非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ

繰り返し指摘されてきたことだが、二次元キャラクターへの性的欲望は、人間に対する性的欲望に還元できないものである。

たとえば筆者は、「二次元の性的表現を愛好しつつ、生身の人間へ性的魅力を感じない」という人々にインタビュー調査を行なっているが、そうした人々のなかには、自分のセクシュアリティを「フィクトセクシュアル」や「キャラクター性愛者」と表明している人もいる*1。また「二次元キャラでないとダメ」という人でなくとも、二次元表現に対する性的な好みと人間に対する性的な好みが独立分離しているという人は少なくないだろう*2

さらに近年では、フィクトセクシュアルをめぐるウェブ上での議論をとおして、生身の人間に性的(あるいは恋愛的)に惹かれるセクシュアリティ指す造語として、「対人性愛」という概念が用いられている*3。これは性的マジョリティを名指す概念であり、対人性愛を自明のものとする社会通念(対人性愛中心主義)を問い直す造語実践である。これを踏まえて、対人性愛に還元できないような二次元キャラクターへの性的欲望を、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ*4と呼ぶことにしよう。

こうしたセクシュアリティにとっては、二次元キャラクターが文字どおりには人間ではない、ということが決定的に重要である*5。二次元(マンガやアニメなど)と三次元(実写や舞台など)の違いは、単なる表現技法の違いとしてのみ扱われがちだが、両者は存在論的な差異として捉える必要がある。端的に言えば、二次元キャラクターは人間ではなく独特な人工物なのであり、二次元キャラクターへの欲望は(人間への欲望ではなく)こうした人工物への欲望なのである。

人間や現実世界に関する知識を参照しながら作られたにもかかわらず、二次元キャラクターという人工物が生み出される。そして「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々が現に存在しているということから、人間をセクシュアライズする実践を再生産しない、別様な回路が存在していると言える。そしてそれは、「性的対象とされる」というこれまで(人間の)女性に付与されてきた性質を、(人間の)女性から引き剥がすものであり、(人間の)女性を性的対象化する文化を攪乱する契機でもある*6。そのことを看過しないためには、社会や規範の「反映」や「参照」を、「再生産」と区別することが重要である。

自己表象としての二次元キャラクター

さらにこうした二次元キャラクターは、単なる欲望の対象となるのみならず、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々自身を表象するものにもなる。どういうことか。

筆者のインタビュー調査のなかで、「二次元にしか性的魅力を感じないという自身のセクシュアリティについて、孤独や不安を感じたことはあるか」といった話題になったことがある。そのときに出たのが、以下のような話だった。

たしかに同じようなセクシュアリティの人は周囲にいなかったが、その代わり、自分の好きなキャラのエロ二次創作や、二次元のアダルトコンテンツを専門的に扱っている販売サイトの存在を知ることによって、自分だけではないのだと思うことができた、と。

こうした語りから分かるのは、二次元キャラクターの性的コンテンツは、単にキャラクターを描いているだけでなく、「そのキャラクター(ひいては「二次元」という存在一般)を愛好する人々(制作者と受容者)が他にもいるのだ」ということを示すものでもある、ということである。つまり二次元キャラクターの表現は、愛好者たちの自己表象としても機能しているのである。

このように、二次元キャラクターの性的表現は、単なるキャラクターを描いたものではなく、二次元文化へ性的にコミットする愛好者たちの存在を表象するものでもある。自己表象としての二次元キャラクターという側面は、VRChat等でのいわゆる「美少女アバター」が主に論じられてきたが*7、上記のような広がりを持つ意味だということを押さえておく必要がある。

対人性愛中心主義とジェンダー本質主義のもとでの抹消

以上のように、二次元キャラクターは人間とは異なる欲望の対象であり、かつ愛好者の自己表象でもある、という他に類を見ない独特な存在である。しかしこうしたあり方は、支配的な社会的規範のもとで不可視化される。その規範とは、「欲望の対象は人間であるはずだ」という対人性愛中心主義と、「女性性は女性のものであるはずだ」という問題含みなジェンダー本質主義である。

この二つの規範のもとで、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は「異常」な存在とみなされることがある。そうした見方には、たとえば「『自我を持ち、対等な立場でコミュニケーションが取れる』対象が相手ではない」という理由や、「二次元キャラクターとは『性的同意』が取れないではないか」という理由が持ち出されることがある。しかし、性的同意や対等なコミュニケーションが必要なのは、相手が「人間(ないし特定の仕方での倫理的配慮を要する存在者)」だからであり、それはあくまで対人性愛のルールでしかない*8。それを(人間や生物との関係にかぎらない)すべてのセクシュアリティに拡張するのは、論理の転倒である。にもかかわらず、このような対人性愛を基準としてた価値判断は根強い。

また、二次元の女性キャラクターを性的に描く表現は「(人間の)女性を性的対象とすることを助長・肯定するメッセージである」という主張も散見される。しかしこうした主張が成り立つためには、「欲望の対象は人間である」という前提と、「男/女というジェンダーの差異こそが基盤的なものであり、二次元か三次元かの差異は意味がない」という前提がなければならない。それゆえ上記のような主張にも、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」を抹消するような前提が所与のものとして持ち込まれているのである。

これに加えて、二次元(キャラクター)か三次元(人間)かという存在論的な差異が無意味なものとみなされることによって、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」はより巧妙な仕方で抹消されることもある。そこでは、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は単なる「普通」の「オタク」だとみなされ、ジェンダーセクシュアリティに関する支配的規範のもとで周縁化されているということ自体を不可視化されるのである。こうした場合、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は名指しで排除されるとはかぎらない。しかしこれもまた実質的に存在を否定するものなのである。

トランスフォビックな「議論」との共通点

前置きが長くなったが、以上を踏まえたうえで、「萌え絵」をめぐる論争がトランスフォビックな論争と共通するものであるということを検討したい。

問題含みなジェンダー本質主義

何よりも重要なのが、両者がともに問題含みなジェンダー本質主義を持ち込んでしまっていることである。具体的に言えば、それは「人間の身体を基礎とするジェンダー本質主義」である。

トランスフォビアについて言えば、「Sex is Real」という主張が典型的である。そこでは、ジェンダーは「解剖学的性別」に基礎づけられたものであるのだから、トランス女性は「女性」の境界を越境・侵害する「男性」なのだ、と主張される。その際に用いられるのが、「身体女性」や「身体男性」といった言葉である。

しかし私たちは「純粋な身体」なるものを認識することはできず、身体を経験する際には「身体に関する歴史的・文化的な認識枠組み」が不可欠である。言い換えれば、私たちがジェンダーを生きるうえでは、「身体をまったく欠いた純粋な文化的認識枠組み」が成立しえないのと同様に、「文化的認識枠組みをまったく欠いた純粋な身体」も成立しえない。なにより、こうした「純粋な身体」をジェンダーの基礎とする見方は、トランスジェンダーの人々の生活実態をまったく無視している。

ここにあるのは、女性性は本質的に「身体女性」のものであり、女性性を表す記号は常に「身体女性」を指し示すものである、という想定である。そして先に述べたように、この前提は「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を抹消するものでもある*9

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義は、単に似たような構図で議論されるというだけでなく、まさに同じ問題を別の側面から見たものなのである*10。すなわち対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義は、いずれも「男/女の差異を根源的な差異とみななす発想が、いかに他の差異による抑圧(ここでは性的マイノリティ)を見落としているか」という問題なのである。

当事者不在な問題設定

次に挙げられるのが、いずれも「議論」が当事者不在の問題設定となっている点である。もっと言えば、当事者の存在を抹消するような議論になっているということである。

「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を実質的に否定する前提

二次元の性的(とみなされる)表現が広告等で用いられる際に、それが女性を性的対象化していると批判されたり、あるいは直接的に女性を性的対象化しているのではないとしても、これまで性的対象化されてきた女性たちへの抑圧につながるのだと批判されたりしてきた。

しかしすでに説明したとおり、二次元の女性キャラクターを描いたものは、それ自体としては・・・・・・・・「(人間の)女性」(あるいは「身体女性」)を表象するものではないし、また「(人間の)女性」を性的対象化するものでもない。このことを前提としないかぎり、非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティは存在することができない。

二次元の女性キャラクターを描いたものは「(人間の)女性」の表象であり、「(人間の)女性」を性的対象化(あるいはセクシュアライズ)するものである、ということを所与の前提とする見方は、非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティの存在を抹消するものである*11

このような前提に立って「萌え絵」を批判している主張は、無自覚のうちに「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を抹消してしまっている。つまりそうした主張は、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々を実質的に議論から締め出す主張となっているのである。

トランスジェンダーの存在を実質的に否定する前提

こうした構図はトランスフォビックな議論でも見られる。たとえば「トランス女性は女性用トイレを使うべきではない」という主張や、「トランス女性が女性用トイレを使えるようになると、女性用トイレでの性暴力につながるのではないか」という主張は、以下のようにトランス女性の存在を実質的に否定するような前提を持ち込んでいる*12

「女性専用スペースにおける性暴力」の問題を、トランス女性による利用と関連づけて考えることが、なぜトランスフォビアを含んでしまうのか(……)。そこにはトランス女性やその身体を、「男性」と想定したり意味づけたりすることが含まれてしまっているのです。(強調引用者)

「女性専用スペース」とトランスフォビア — 小宮友根 – Trans Inclusive Feminism(初出はこちら

あるいは「トランス女性の実践は女性のステレオタイプを強化する性差別的なものだ」という非難も、同じ構図での議論として挙げられる(おそらくこちらの非難のほうが、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の抹消と明確に符合するものだろう)。

この非難は、伝統的に女性らしいとされる格好をするシスジェンダーにも当てはまるものだが、しかしトランス女性ばかりがこうした非難を向けられる一方でシス女性には同じ批判をあまり向けないという非対称性が見られがちである。さらにこの非難はトランス女性の実態を無視したものでもある。

伝統的な女性らしさを持つトランス女性は、女性がすべて伝統的な女性らしくあるべきだと主張したりほのめかしているわけではない。また、フェミニンさが女性としてのすべてであるとも思っていない。シス女性と同様に、トランス女性は、自分の表現のために装うのであり、他の女性を批評したり戯画化するために、装っているわけではない。(強調引用者)

エッセイ > ジュリア・セラーノ「トランス女性は女性じゃない」論の間違いをすっぱぬく | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network(初出はこちら

このように、トランス女性の排除と「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の抹消は、同じ前提に根差したものであるのみならず、同じ構図で「議論」されているのである。

表現の自由」?

ところで、非対人性愛の当事者の立場からの主張なら「表現の自由」の観点からの擁護論があるではないか?と思われるかもしれない。

だが「表現の自由」の話は非対人性愛の立場を語るものではない。なぜなら「表現の自由」による擁護は、基本的には「たとえ社会的に望ましくないものであっても、それでも表現すること自体は自由だ」という主張にしかならないからである*13。つまり、表現の自由」による擁護論は、非対人性愛の社会的・倫理的承認を主張するロジックにはなっていないのである*14

問題の本質を看過する解決案

そしてもうひとつの共通点が、「妥当そうな解決策のみを安易に主張することによって、問題の本質から目を逸らす」ことが行なわれがちであるという点である。

「オールジェンダートイレを拡充すべき」

トランスジェンダーをめぐる議論においては、この例として「オールジェンダートイレがもっと拡充されればいいのだ」という主張が挙げられる。ジェンダーを問わずに使用できるトイレがもっと拡充されるべきだ、この主張自体はたしかに重要である*15

だがそうした主張は、単に「トランス女性は女性用トイレを使わず、オールジェンダートイレを使うべきだ」と直接主張することを避けるための方便となってはいないだろうか。差別的な想定を、表明することを避け、議論を避け、そして実質的に温存する、そんなレトリックになってはいないだろうか。そしてトランスジェンダーの人々の生活の実態を、存在を、無視し続けてはいないだろうか。

もちろん、オールジェンダートイレの拡充を主張することすべてが、必然的にこうした問題を含むというわけではない。それでも、こうした一見正しい主張を一足飛びに行うことが、暗に差別的な前提を温存する行為となっていないか、自問自答する必要はあるだろう。

あわせて、トランスジェンダーのトイレ使用に関する疑問への手短な答えを引用しておきたい。

Q19 トランスジェンダーは、だれでもトイレをつかえばよいのではないでしょうか

性別移行の初期であったり、男女別でわかれたトイレを使うことに抵抗感があったりする場合に、だれでもトイレを使う当事者はいます。しかし、移行先の性別です馴染んでおり男女別トイレを問題なく使える当事者もいます。トランスジェンダーであることを特に明かさず暮らしている当事者も多く、このような場合にわざわざ離れたトイレを使う様に指定することは、望まないカミングアウトの強要やアウティングにつながりかねません。トランスジェンダーはこのトイレをつかうべきというひとつの答えがあるわけではなく、職場や学校においては状況によって合理的に判断していくことが重要です。

FAQ|性別で区分されたスペース編 – はじめてのトランスジェンダー trans101.jp

ゾーニングをすべき」

こうした状況と同じ構図なのが、「表現の内容そのものが問題なのではなく、あくまでそれが公共の場に置かれていることが問題なのだ」「『萌え絵』を見たくない人が見ずに済むようゾーニングすべきだ」という主張である。「どのようにゾーニングを行うか」という具体的な論点はあるとはいえ、こうした方針での解決案それ自体は受け入れられやすいものだろう。

だがこうした主張をすることは、「欲望の対象は人間である」という思い込みや、「男/女というジェンダーの差異こそが基盤的なものであり、二次元か三次元かの差異は意味がない」という思い込みを、暗に温存する行為となってはいないだろうか。「二次元の女性キャラクターを性的に描くことは、『(人間の)女性』を性的対象化するものであり、それ自体として倫理的に問題がある」という前提を、不問に付してはいないだろうか。そして「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を暗黙のうちに抹消する行為となっていないだろうか*16

問題なのは、ゾーニングの必要性を主張する際に前提とされる理由づけである

たしかに、現に対人性愛を自明で普遍的なものとみなす見方が社会で根強く存在するという状況がある以上、二次元の性的表現が人間の女性に対する欲望を再生産する可能性はある。だがそれは「対人性愛が自明とされる対人性愛中心主義」や「女性キャラクターと人間女性とを無前提に同じ『女性』とみなすジェンダー本質主義」の問題ではないか*17

また、現に人間の女性が性的対象化されてきた歴史があることから、生きた女性たちが二次元の性的表現を抑圧として経験する可能性もある。だがそれは、人間を性的対象とする文化の問題ではないか。

「表現の内容それ自体が問題ではない」と言いながら、依然として二次元表現のみを問いの対象とし、対人性愛中心主義やジェンダー本質主義といった社会的問題を問わないのはどういうことなのか。

「二次元表現の問題」という理由でゾーニングを正当化しようとする主張が、いかに対人性愛文化の問題を不問に付しているか、ということを直視しなければならない。これは「萌え絵問題」ではなく「対人性愛問題」なのである

連帯に向けて

ここまでの議論に対して、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々はトランスジェンダーほど差別を受けていないではないか、と思う方もいるかもしれない。もちろん筆者も、トランスジェンダーと非対人性愛とが同じ仕方で差別を受けてきたと言うつもりはない。当然のことだが両者の歴史は異なる。しかし非対人性愛にもまた、異なる形での抑圧や周縁化や不可視化がなされているということを無視してはならない*18

さらに言えば、いわゆるLGBTに当てはまらない性的マイノリティの人々の主張一般が、「べつにお前らは差別されてないじゃないか」という揶揄を浴びやすいということを忘れてはならない。しかもそのような揶揄は、LGBTの人々からも向けられることがある。

たとえば、アセクシュアルの人々がプライドパレードに出るといったときに、「セックスしないだけなら一人で家にいればいいだけじゃないか(わざわざプライドパレードに出る必要がどこにあるのか)」といった主張を著名なLGBTアクティヴィストが発信したという事例がある*19

これまでの性的マイノリティに関する議論は、ときに性愛を普遍的なものと考えがちであった。このように、性的マイノリティをめぐる議論のなかでも、暗に特定のセクシュアリティが前提とされうるという点に注意が必要である。

しかし従来の性的マイノリティ運動とそこで見落とされていた人々との間に衝突がありうるとはいえ、決して両者の間に本質的な対立があるわけではない。本稿で論じたように、トランスジェンダーと非対人性愛は同じ構造のもとで周縁化されている。また別稿で論じているが、非対人性愛の周縁化はアセクシュアルの周縁化とも重なる部分がある*20。さらに対人性愛中心主義は、人間を欲望の対象とする文化への批判であるため、人間の女性を性的対象化する状況への批判とも接続しうる。このように、対人性愛中心主義批判は、トランスジェンダーアセクシュアル、そしてフェミニズムとも連帯可能なものである。必要なのは、そうした連帯に向けた議論なのである*21

関連記事

2023年6月19日追記:繁体中文訳が公開されました。

注釈

*1:以下の論文で調査結果の一部を分析している。

*2:斎藤環戦闘美少女の精神分析』の「多重見当識」概念がこのことを表すものである。

*3:以下の拙論を参照

*4:ここには「生身の人間へ性的魅力を感じない」人だけでなく、先に触れた「二次元表現に対する性的な好みと人間に対する性的な好みが独立分離している」人も含まれる。

*5:たとえば伊藤剛キャラ/キャラクター論はこのことを指し示すものである。ただし筆者自身は、二次元という独特な存在物のあり方を捉えるうえで、マンガ表現論や美学での議論には限界があると考えている。今後は人類学における存在論的転回の理論を参照しつつ、二次元キャラクターを「人間ではなく、かつ人間ではなくもない」存在として捉えるのがよいのではないかと考えているが、この点については機会があればどこかで論じたい。

*6:この点については以下の拙論を参照。

*7:この点については下記の拙論で触れている。

*8:もちろん対人性愛のルールに近い仕方で二次元キャラクターを愛する人もいるが、それがすべてではない。

*9:身体を持たない人間は存在しえないため、対人性愛中心主義は「欲望の対象は人間(=身体を持った生身の人間)である」という通念だと言える。

*10:この共通点がこれまで見落とされてきた理由はいくつか考えられるが、そのうちのひとつとして、二次元キャラクターという存在者の構築は、パフォーマンスやパフォーマティビティの理論では説明できないということが挙げられる。筆者は二次元の存在者の構築による攪乱について、テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念に依拠しつつ、下記の論文で理論化している。

*11:なお、二次元の未成年キャラクターを性的に描く表現は「(人間の)未成年を性的対象とすることを助長・肯定するメッセージである」、という主張も同様の問題を含んでいる。

*12:なおトランスジェンダーのトイレ使用に関する疑問については、下記ウェブページの回答を見てほしい。

*13:もちろん、法的な規制が問題となる場面では、こうした主張は重要となる

*14:付言すれば、「表現の自由」での擁護論を主張する人々のなかには、暗に対人性愛中心主義的な主張をしている人がしばしば見られる。

たとえば、「普通の男性なら性的な欲望を当然持っているのだから、その矛先として人間の代わりに二次元を欲望すればいいじゃないか」といった主張が挙げられる。こうした「人間の代わりに二次元を欲望すればいい」という説明は、非対人性愛的な人々の実感からは乖離している(そもそも人間を欲望するという発想がないので)。

また、なかには「二次元の表現に文句言う女性」に向かって「嫉妬乙」といったことを言う人々もいる。こうした言説は、女性は(生身の)異性を求めるのが当然だという思い込みを前提としている。この思い込みもまた(異性愛主義的であると同時に)対人性愛中心主義的な想定である。こうした点については、下記の拙論で指摘している。

とはいえ、上記のような言説は「表現の自由」論そのものに内在する問題ではないため、「表現の自由」による擁護論それ自体が本質的に対人性愛中心主義的だというわけではない。

*15:たとえばある種のノンバイナリーの人々にも資するだろうし、またトイレの設計によっては子連れ親や障害のある人などにとっても包摂的となりうる

*16:すでに述べたように、対人性愛中心主義的な社会のなかで「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」が現に周縁化されているということを認識する必要がある。さらに、安易なゾーニングスティグマ化をもたらしかねない、という問題にも気を配らなければならない。

*17:言うまでもなく、「二次元表現をとおして生身の人間を性的に欲望している人」がいるとしても、それは対人性愛文化を不問に付してよい理由にはならない。

*18:関連して、近年では対物性愛研究のなかで、「普通は自然に性的実践と恋愛関係を他の人間とするものだという信念」が「人間性愛規範 humanonormativity」と概念化されている。二次元をめぐるセクシュアリティは対物性愛とも連帯可能だと考えられる。

*19:アセクシュアル差別については以下のウェブページなどが参考になる。

*20:対人性愛中心主義と強制的性愛(compulsory sexuality)の親和性については、近刊予定の拙論「雰囲気としての強制的(異)性愛――アセクシュアルを理解可能にするための現象学」(『フェミニスト現象学(仮)』収録)で論じている。

*21:ある意味で私の研究は、この連帯可能性を基礎づけるためのものである。私がこれまで二次元をめぐるセクシュアリティを研究するためにアセクシュアル研究を経由していた理由もそこにある。