境界線の虹鱒

学部3年生の頃(2017年)からやっているブログです。古い記事ほど情報が粗いのでご注意ください。

『アセクシュアル アロマンティック入門』書評等まとめ(随時更新)

書評

関連イベント

メディア出演

学会での関連企画

【動画公開】二次元性愛研究の入門講義がYouTubeで公開されました

私の研究に関する入門講義動画が、渡部宏樹さんのYouTubeチャンネルに公開されました。

二次元の創作物をめぐるセクシュアリティについて、メディア論とクィアスタディーズの観点から解説しています。

内容としては、「そもそも二次元とは何か」からスタートして、二次元のものへの性的欲望が対人性愛とは異なるものとして成立していることを説明し、その成立に人間以外の物質が関与していることを理論的に検討したうえで、そのような二次元への欲望が周縁化される社会的状況を批判的に問い直す……という感じになっています。私の研究のエッセンスを盛り込めたかなと思います。

学部生向けのメディア論講義スライドと、今年7月の早稲田社会学会での発表を混ぜた内容ですので、レベル的には学部の専門科目~院生・研究者向けぐらいだと思います。90分程度の動画ですので、大学等の教員の方は、ぜひ授業等でもご活用ください。

なお今回の動画は、渡部さん主催のファン研究グループの企画「ファン研究入門動画」シリーズのひとつです(研究会での発表を一般公開したものです)。他の方の講義はこちらをご覧ください。

【告知】『Fictosexual Perspective 2025』コミティア153でも販売します

先日の夏コミで販売した『Fictosexual Perspective 2025』、2025年9月7日のコミティア153でも委託販売いたします。

夏コミではわりと早くに売り切れたようですので、買い逃した方、ご関心のある方、この機会にぜひお越しください。

委託先のブース等については下記のページをご覧ください。

【告知】同人誌『Fictosexual Perspective 2025』を頒布します

私が企画・編集をした同人誌『Fictosexual Perspective 2025』を、夏コミと文フリ東京で頒布します。

寄稿者の皆様には、原稿募集の時点で「掲載された文章は、不特定多数の人に読まれたり、将来的に研究やメディア等で引用されたりする可能性があります」ということをご了承いただいており、また原則ペンネームでの寄稿となっておりますので、掲載内容は論文等でもご活用いただけます*1

詳細は以下のページをご覧ください。

*1:厳密な許諾が必要な場合は私にご連絡ください。

論考公開:「萌え絵」批判とトランスフォビアの結びつきについて

研究ノート「『萌え絵問題』から『対人性愛問題』へ:二次元性愛の抹消とトランスジェンダー差別の結びつきを踏まえて」が、国際基督教大学ジェンダー研究センターの査読誌『ジェンダー&セクシュアリティ』20号に掲載されました。全文ウェブ公開されています。

https://subsite.icu.ac.jp/cgs/images/b6f0befda66213b56c8f4334e8ec7cf1ce02bb8c.pdf

ひらたく言えば、TERFと同じく「対人性愛フェミニズム」にも批判が必要ではないか、というような議論をしています。研究ノートということで、前半部分は私の研究の一番まとまった整理にもなっています。

以下、書誌情報のあとに、論考内のハイライト部分を引用しています。要点の確認などにご活用ください。

書誌情報など

要旨

 近年では、架空のキャラクターへ惹かれるフィクトセクシュアルについても、フェミニズムクィアの立場から研究やアクティヴィズムが展開されている。とくに二次元キャラクターへ性的に惹かれるセクシュアリティ(二次元性愛)が、生身の人間に惹かれるセクシュアリティ(対人性愛)とは異なるものとして成立していることが論じられてきた。本稿では、二次元性愛の存在を抹消する構造的問題を理論的に精緻化するとともに、その構造がトランスジェンダー差別と結びついていることを明らかにする。
これまでの研究では、「対人性愛中心主義」がバトラーの言う「〈字義どおり化〉という幻想」の構成要素であると論じられてきた。しかし、二次元の女性キャラクターが人間の女性と同じ「女性」であるということを所与の前提とする発想については、「問題含みなジェンダー本質主義」として批判されてきたものの、その具体的な内実が示されてこなかった。
 これを踏まえて、本稿では「ヒューマノジェンダリズム」という「正当なジェンダーは生物種としての人間によって例化ないし実体化されるものだという考え方」の問題に注目する。これはシスジェンダリズムの問題提起を人間中心的な枠組みから拡張するものである。
 対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムは、二次元の性的創作物のキャラクターを「字義どおり」の人間と同一視させることによって、二次元の性的創作物が三次元の人間に対する性的欲望を再生産することを可能ならしめるとともに、二次元性愛の抹消を生じさせるものである。つまり女性の抑圧と二次元性愛の抹消は同じ構造に根ざしているのである。しかしこの問題は、従来のフェミニズムにおいてさえ見落とされてきたものであり、その見落としは、フェミニズムの名のもとに行われるトランスジェンダー差別とも結びついている。このことを、いわゆる「萌え絵」批判に関する分析を通して明らかにする。

キーワード:表象主義批判、ポストヒューマニズム的パフォーマティヴィティ、対人性愛中心主義、ヒューマノジェンダリズム、クィア理論

引用例:松浦優,2025,「『萌え絵問題』から『対人性愛問題』へ――二次元性愛の抹消とトランスジェンダー差別の結びつきを踏まえて」『ジェンダー&セクシュアリティ』(20): 1-24.

ハイライト(論考からの引用)

ヒューマノジェンダリズム概念の理論的説明

ヒューマノジェンダリズム(humanogenderism)とは、正当なジェンダーは生物種としての人間によって例化ないし実体化されるものだという考え方である。(10ページ)

ヒューマノジェンダリズムは、人間中心的な性別二元論であり、ジェンダーを生物種としての人間の身体へと縛り付けるものである。言い換えれば、これはジェンダーに関する表象主義であり、ある種の「生物学的」本質主義であり、そして「物質的なものの位階秩序」でもある。そしてこれはシスジェンダリズムや二項対立的セクシズムには還元できないものだが、それらが前提としているものなのである。(11ページ)

「二次元か三次元かは関係がない」という構成的排除

ここで重要なのは、二次元の創作物に対するフェミニズム的な批判もまた対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムを自明のものとして温存してしまっているという問題である。(13ページ)

 「二次元の女性キャラクター」を構築する実践は、なぜ「人間の女性」の構築へと横滑りするのか。なぜ人間の女性が二次元の女性キャラクターを自分と「同じ女性」だと認識する状況が生じているのか。なぜ人間の女性と二次元の女性キャラクターとを結びつける「意味的連関」(小宮, 2019)が成立可能となるのか。従来の議論はいずれも、このような問いをあらかじめ排除しており、二次元性愛を抹消する構造の問題を無視してしまっているのである。

 さらにこのことによって、従来のフェミニズム的な批判は、人間-女性と二次元の女性キャラクターが異なるジェンダーとなっていく可能性をあらかじめ締め出してしまっている。つまり皮肉なことに、従来のフェミニズム的表象批判は、二次元の女性キャラクターを人間の女性と結びつける意味連関を、むしろ強化・再生産してしまっているのである。そして結果的に、対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムという、批判すべき問題にむしろ加担してしまっているのである。(13-14ページ、強調原文)

トランスフォビアとの結びつき

二次元性愛とトランスジェンダーはいずれも「〈字義どおり化〉という幻想」のもとで周縁化されている。言い換えれば、いずれもジェンダーを「解剖学的」な「身体」によって基礎づけようとするイデオロギーによって、存在を否定されるものなのである(14ページ)

「萌え絵問題」から「対人性愛問題」へ

 二次元の性的創作物を愛好する営みは、あたかも(現実の)女性や子どもと対立するかのように論じられてきた(e.g. 李, 2023)。しかしそれは誤った対立図式であり、むしろ両者はともに、「〈字義どおり化〉という幻想」という同じ構造によって問題を背負わされているのである。すなわち、二次元の性的創作物のキャラクターを「字義どおり」の人間と同一視させることによって、二次元の性的創作物が三次元の人間に対する性的欲望を再生産することを可能ならしめるとともに、二次元性愛の抹消を生じさせるものこそが、対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムの力学なのである。

 二次元性愛の存在を抹消する規範と、二次元美少女を通して規範的な対人 (異)性愛や女性の性的モノ化を再生産することを可能ならしめる規範は、同じものである。つまり女性の抑圧と二次元性愛の抹消は同じ構造にもとづく問題である。だからこそ、二次元性愛の運動とフェミニズムの運動は連帯するべきなのである。

 にもかかわらず従来の議論では、対人性愛中心主義やヒューマノジェンダリズムという問題が等閑視されたまま、二次元の性的創作物ばかりに非難が向けられてきた。このような疑似対立を避けるために、いわゆる「萌え絵」をめぐるフェミニズム的な論点は、対人性愛を基準とする社会がもたらす問題だということを認識する必要がある。言い換えれば、いわゆる「萌え絵問題」とされているものは、実際には「対人性愛問題」なのである。(16-17ページ、強調原文)

結論

 本稿では、二次元性愛を周縁化する規範として対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムを提示したうえで、これらをバトラーの「〈字義どおり化〉という幻想」やバラッドの「表象主義」の一環として位置づけた。二次元の性的創作物のキャラクターを「字義どおり」の人間ないし人間の「表象」として構築することによって、二次元の性的創作物が三次元の人間に対する性的欲望を再生産するという現象を可能ならしめるとともに、二次元性愛の抹消を生じさせるものこそが、対人性愛中心主義とヒューマノジェンダリズムなのである。

 だからこそ、仮に二次元の女性キャラクターを用いた創作物が問題含みなジェンダー規範や女性の性的モノ化を再生産するとしても、その原因として二次元の 創作物を「問題」とみなすのは不適切である。そのような枠組みでの議論は、① ジェンダーセクシュアリティに関する構造的問題を無視してしまう、②二次元 性愛の存在を実質的に抹消してしまう、③二次元の性的創作物をめぐる文化が対 人性愛を相対化する見方を生み出したという、現に生じている攪乱を抹消してし まう、④二次元の女性キャラクターを人間の女性と結びつける意味連関をむしろ 強化してしまう、という点で問題含みなものである。

 現在の社会において「性的/恋愛的創作物ばかりが問いの対象にされる一方で、対人性愛が自明視され続けている、という非対称性」(松浦, 2021b, p. 76)が強固に存在する、ということを直視しなければならない。また、対人性愛を基準とする価値判断を二次元性愛に当てはめようとすることは、二次元性愛の実践に即さないのみならず、二次元性愛の存在を否定することにつながるものである。さらに二次元性愛の抹消はトランスジェンダー差別と同じく「〈字義どおり化〉という幻想」に根ざしており、両者の差別には共通する論理も用いられている。従来の素朴な「萌え絵」批判が「フェミニズム」の名のもとに行われる差別に陥っていたのではないか、という批判的な検討が必要である。(18-19ページ、強調原文)

 

『アセクシュアル アロマンティック入門』内容紹介

2025年2月17日に集英社新書から『アセクシュアル アロマンティック入門:性的惹かれや恋愛感情を持たない人たち』が刊行されます(※「アセクシュアル」と「アロマンティック」の間に半角スペースが入っています)。書店での予約も受付中です。

アセクシュアル アロマンティック入門の表紙画像

日本語の本としては、すでにアセクシュアル関連の翻訳書が複数あるほか、2024年には日本の当事者コミュニティに根ざした解説書として、『いちばんやさしいアロマンティックやアセクシュアルのこと』(明石書店)が刊行されました。『いちばんやさしい~』はタイトルのとおり、最初に読むのにオススメな素晴らしい本ですので、ぜひ『アセクシュアル アロマンティック入門』とあわせて手に取ってみてください。

さて、本書はそれらに続く新たなAro/Ace本ということで、今までの本とはすこし違うアプローチで書いてみました。本書のコンセプトはずばり、「Aro/Aceからのクィアスタディーズ入門」です。どんな感じの内容なのか、目次に即してざっと紹介してみます。

目次
はじめに
第1章 アセクシュアル/アロマンティックとは何か
第2章 Aro/Aceの歴史
第3章 Aro/Ace の実態調査
第4章 差別や悩み
第5章 強制的性愛とは何か
第6章 セクシュアリティの装置
第7章 結婚や親密性とセクシュアリティの結びつき
第8章 Aro/Aceの周縁化を捉えるために
第9章 Aro/Aceのレンズを通して見えてくるもの
あとがき

第1章 アセクシュアル/アロマンティックとは何か

この章では、「アセクシュアル」や「アロマンティック」、「性的惹かれ」「恋愛的惹かれ」といった、Aro/Aceに関する議論でよく登場する基本的な用語を解説しています。さまざまなアイデンティティのラベルを紹介しているのに加えて、そのような「新しい用語を作る意義」が何なのか、という点についても説明をしています。

第2章 Aro/Aceの歴史

この章ではAro/Aceの歴史を、性科学や精神医学の歴史、フェミニズムクィア運動のなかでの議論、そして現在のコミュニティに直接つながる流れ、という観点から解説しています。

現在では、Aro/Aceであること自体は病気ではないと認識されています。しかし歴史的には、性科学や精神医学では、性的な欲望や関心を持たないことは病気だとみなされてきました。まずはそのような歴史について、19世紀以降の議論を(ごく簡単にではありますが)紹介しました。

そのうえで、英語圏において自らを「アセクシュアル」と表明する人々が登場した歴史的事例について紹介しつつ、現在のようなアセクシュアル/アロマンティック・コミュニティが出来る流れを概説しました。

最後に日本におけるAro/Aceの歴史について、1990年代以降の流れを紹介しています。日本での歴史についてはまだまだ研究途上ですので、本書での記述はごくかぎられたものです。それでも、オンラインコミュニティ以前に「アセクシュアル」という言葉が用いられていたことや、日本独自の用語として「ノンセクシュアル」概念が出来上がる経緯について解説しているほか、現在はほとんど使われていない「WSD」という(これまた日本独自の)用語についても触れたりしています。決して網羅的ではありませんが、今後のAro/Ace史をめぐる議論の踏み台になればと思います。

第3章 Aro/Ace の実態調査

この章では、2023年に実施された全国調査「家族と性の多様性にかんする全国アンケート」や、AsLoopが定期的に実施している「アロマンティック/アセクシュアル・スペクトラム調査」などのデータをもとに、Aro/Aceの人々の実態について解説しています。既存の調査をまとめた章ですので、さらに詳しく知りたい方は、各調査の報告書をご覧ください。

第4章 差別や悩み

前章で挙げた調査などをもとに、Aro/Aceの人々が被る差別の状況や、当事者の悩みについて、統計的な分析と具体的な事例を紹介しています。また、日本での調査結果と英語圏での研究をあわせて、Aro/Aceに対する差別をどう捉えるべきかを整理しています。基本的には先行研究を整理したものなので、オリジナルな議論をしているわけではありませんが、重要な論点ですので、ぜひ読んでいただければと思います。

第5章 強制的性愛とは何か

4章まではAro/Ace概説という感じですが、5章以降はAro/Aceの状況やAro/Aceの立場からの問題提起をどう引き受けていくか、より広い文脈から考えていきます。

まず5章では「クィア」とは何か、クィアスタディーズでよく出てくる「○○ノーマティヴィティ(~規範性)」とは何なのか、という解説をします。その際に「異性愛規範」や「強制的異性愛」について説明したうえで、Aro/Aceの立場から提起された用語である「強制的性愛」を解説します。あわせて、婚姻制度批判から出てきた「恋愛伴侶規範」や、日本のオンライン・コミュニティから生まれた「対人性愛中心主義」などの用語も紹介しています。

第6章 セクシュアリティの装置

こうした規範性をどう理解すべきか。特に強制的性愛について考えるときに示唆に富むのが、ミシェル・フーコーが提起した「セクシュアリティの装置」という概念です。ということで本章では、『性の歴史Ⅰ――知への意志』を中心とする1970年代のフーコーセクシュアリティ論を紹介し、それが強制的性愛への抵抗にどう役立つかを解説しています。特にフーコーのSM理解がAro/Aceにも示唆的だという話は、今までの日本の解説書には出てこない議論かなと思います。

ちなみにこの章は、「セクシュアリティに関する議論でよくフーコーが出てくるけど、フーコーの文章って小難しいし、フーコー研究には立ち入りたくないから、使えそうなところだけざっくり解説してくれない?」という人向けの文章として書いたつもりです。もっと厳密なフーコー読解がしたい人には、そのための解説書も紹介していますので、うまく活用してください。

第7章 結婚や親密性とセクシュアリティの結びつき

セクシュアリティは結婚や親密関係と結びつけられることが多く、特に親密性との結びつきは現代においてむしろ強まっているところがあります。このことをどう考えるか、婚姻とセクシュアリティの関係についてのフーコー的な説明に加えて、婚姻制度と経済システムの関係についてのフェミニズム的な問題提起、さらにアンソニー・ギデンズの親密性論とそれに対する批判などを解説しています(親密性については、最後の9章でもうすこし具体的な話をしています)。

第8章 Aro/Aceの周縁化を捉えるために

この章ではAro/Aceに対する差別や周縁化をより精緻に理解するために、強制的性愛がいかにジェンダーや障害や人種などと交差しているかを解説しています。英語圏での研究蓄積に大きく依拠していますが、同時に日本社会での関連する研究にも目くばせしながら、今後の日本での調査や議論にどう活かすことができるか、日本の文脈に組み込むための議論をしています。

個人的には、「ジェンダーをめぐる差別の問題に関心があるんですね、でしたらAro/Aceについても知っておきましょう」「障害をめぐる差別に関心があるんですね、ではAro/Aceについても(以下略)」「人種をめぐる差別に関心があるんですね、では(以下略)」というノリで書いています。こうした差別を理解するうえでも「強制的性愛」概念が重要だということをお伝えできればと思っています。

第9章 Aro/Aceのレンズを通して見えてくるもの

Aro/Aceから提起された見方は、Aro/Ace以外の人々にも示唆をもたらすものです。そのことを、親密関係をめぐる議論、メディア論、そして「性的」とは何かをめぐる議論を事例に解説しています。

まず、「非モテ」の苦悩や独身差別、そして家族制度や結婚制度の問題などを考えるうえでも、Aro/Aceの立場からの問題提起はとても参考になります。7章で触れた親密性に関する話題を、現代日本の事例に即してもうすこし具体的に書いています。

また批評や表象分析について、ドラマや小説などの登場人物のうち、Aro/Ace自認を明言していないけれどAro/Ace的に読むことのできるような事例をどう捉えていくか、という議論も紹介しています(この議論は歴史上の人物について考えるときにも参考になるものです)。「批評に関心があるんですね、じゃあAro/Aceの議論も押さえておいてください!」ということです。

さらに日本のオタク論やBL研究をAro/Ace的に再評価したり、映画研究者トム・ガニングの「アトラクションの映画」論の(やや思い切った)再解釈をしたりと、私の趣味全開な話もしています。「オタク論とかマンガ研究とかに関心があるんですね、じゃあAro/Aceの議論が参考になりますよ!」という感じです。

そしてAro/Aceからの問題提起は、「『性的』とは何なのか」についても再考を促します。このことについて、BDSMや性的空想に関する議論をもとに問題提起をしています。

 このように、Aro/Aceの観点からの議論は、セクシュアリティや恋愛に関する「常識」に問いを投げかけるものでもあります。単に「セックスや恋愛をする気がない人や苦手な人もいるのだから、そうした人々に対して配慮してあげるべきだ」というだけの話ではなく、性愛や恋愛に関する考え方の枠組み自体が問われているのです。

これが本章の(そして本書全体)の核心にあたる主張です。本書全体を通して、セクシュアリティについて、セクシュアリティをめぐる差別や周縁化について、どう考えていくべきか、今後の方針を提示したつもりです。

おわりに

本書の概要は以上です。

Aro/Aceに関する現代的な研究は、特に英語圏では20年ほどの蓄積があります。また日本でも、ここ数年で研究がある程度出てきています。こうした蓄積を一般向けに解説するのが、本書の役割のひとつだと思っています。あくまで現時点での暫定的なまとめではありますが、今後の議論の踏み台として使っていただければ幸いです。ぜひご活用ください。

予備知識ゼロからでもカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』をそれなりに読めるようになるための読書案内

フェミニズム科学論やニューマテリアリズム(新しい物質主義)の最重要著作として知られる、カレン・バラッドの『宇宙の途上で出会う:量子物理学からみる物質と意味のもつれ』フーコーやバトラーの理論を、ニールス・ボーアの量子物理学を通して精緻化し発展させる、という感じの本ですが、フーコーもバトラーも量子物理学も難解なので手を出しづらいかもしれません。

ということで、バラッドを読むハードルを下げるための準備運動として、関連領域の入門書をいくつか挙げておきます。特にオススメな本は太字にしています。

目次

まずはバトラーを知ろう

『宇宙の途上で出会う』でも「パフォーマティヴ」ないし「パフォーマティヴィティ」は超重要概念として出てきます*1。また『宇宙の途上で出会う』はフェミニズム科学論でもありますので、フェミニズムについて知っておくことも重要です。その意味でも『バトラー入門』は超オススメです。

バトラーについてもう少し詳しく知りたい方は、予備知識ゼロから『ジェンダー・トラブル』をとりあえず読めるようになるための読書案内をご活用ください。なお『宇宙の途上で出会う』には精神分析がほぼ出てきませんので、バラッドが目当てであれば精神分析はスルーしてもいいです。

ちなみに、『ジェンダー・トラブル』と『問題=物質となる身体』序章を読むと、バラッド理解が格段に深まると思いますので、いけそうだったらチャレンジしてみてください*2(ただし文体に関して言えば、バトラーの方がバラッドより難解だと思います)。

フーコーも押さえておこう

新しめで手に入りやすい、かつ手堅い入門書として、岩波新書の本を一冊挙げておきます。新書だとコンパクト過ぎてむしろ分かりにくい(もしくは物足りない)という方もいるかもしれませんので、同じ著者の『フーコーの言説:<自分自身>であり続けないために』(筑摩選書)もオススメしておきます。

量子物理学をなんとなく知っておく

理論物理学者ロヴェッリによる、量子論のエッセンスをまとめた入門書です。「関係」を基礎とする存在論が語られており、かなりバラッドと近い議論だと思います(バラッドに言及している注釈もあります)。『宇宙の途上で出会う』の量子物理学要素については、この本がちょうどいい入門になるはずです。

なお『宇宙の途上で出会う』自体でも、第2章で文系向けに量子物理学を解説するパートが入っていますので、量子物理学の素人でもあまり気負わずに『宇宙の途上で出会う』を手に取ってよいと思います*3

ちなみに量子論にはさまざまな解釈があるようですが、バラッドはニールス・ボーアの立場を踏襲していますので、他の本を選ぶときにも、ボーア寄りの入門書のほうが参考になるかもしれません*4

ついでに近い発想にも触れておくといいかも

人間以外のモノに注目することを促した哲学者として、ラトゥールが挙げられます。ラトゥールなどの論者が「アクターネットワーク理論(ANT)」を提示していますが、これも諸事物の関係に注目するものですので、その点に限って言えばバラッドと近い議論をしています*5。ANTのノリに馴染んでおくと、バラッドの話にもついていきやすいかもしれません。

アクターネットワーク理論の解説としては、この教科書もオススメです。

もう一つ挙げれば、バラッドはダナ・ハラウェイからも大きな影響を受けています。ハラウェイに関してはちょうどいい入門書がないのですが、雑誌『メディウム』のハラウェイ特集が参考になるかもしれません。

バラッドの解説が含まれる日本語文献もあるよ

ニューマテリアリズムやポストヒューマニズムを踏まえた質的研究論なのですが、この本の第9章でバラッドについても解説されています。おそらく現時点ではこの章の解説が最も分かりやすくバラッドを説明している文章だと思います(特に図がめちゃくちゃ的確で分かりやすいです)。

こちらは文化地理学の解説書ですが、後半でニューマテリアリズムやANTが扱われています。

その他ネット上で読めるものとして、以下の論文も参考になります。

ところで、なんでバラッドを読むの?

バラッドを読んで何の役に立つの? と思う方もいるかもしれません。社会科学の方面での活用法については、上で挙げた『アンラーニング質的研究』と「新しい物質主義的社会学に向けて」が参考になります。

ちなみに私自身は、「二次元キャラクターという存在はどのように構成されるのか」「二次元のものに対する性的欲望(二次元性愛)は、どのようにして対人性愛とは異なるものとして構成されるのか」といったことに関心があります。二次元性愛の成立という現象に(バトラー的な意味での)クィアな攪乱を見て取っているのですが、ただバトラーは人間の身体や人間の実践についてしか議論していないので、そこをカバーするためにバラッドを参照している、という感じです。

そんな感じで、クィアスタディー*6やメディア論*7でもバラッドを活用できると思いますので、その辺りに興味がある方は以下の拙論をご覧いただければ幸いです。

追記:私の研究に関する入門講義動画が公開されました。以下の動画の中盤で、バラッドについて少しだけ解説しています。

注釈

*1:ちなみに「パフォーマティヴィティ」という用語はJ.L.オースティンの言語行為論に由来しますが、『宇宙の途上で出会う』にはオースティンは出てきませんので、バトラー的な用法だけ押さえておけば十分です。

*2:バラッドといえば量子物理学、というイメージが強いですが、個人的にはそれ以上に「バラッドってめちゃくちゃバトラーっぽいよね」と感じています。ニューマテリアリズムというと何かまったく新しい思想潮流であるかのように思われるかもしれませんが、決してそうではなく、それ以前からの流れに位置づけられるものですので、そうした系譜や連続性や蓄積をきちんと認識することが大事かなと思います。

*3:『宇宙の途上で出会う』第7章は量子物理学の専門的な話がけっこう出てきますが、それ以外の章はなんとかなると思います。

*4:ちなみにボーアの論文集も翻訳がありますが、バラッドよりもはるかに読みにくいので、バラッド入門にはおすすめしません。

*5:ただしANTは「まずアクターがあって、その関係を記述するのだ」という立場なのに対して、バラッドは「関係のなかからアクターや事物が形作られるのであって、関係よりも先にアクターや事物が存在するのではない」という立場であるという、重要な違いがあります。この違いは重要なポイントなので、注意しておきましょう。

*6:一例ですが、ディルドというモノがもたらすクィアな攪乱を論じたポール・B・プレシアドも、『あなたがたに話す私はモンスター』でバラッドから影響を受けていると明言しています。

*7:メディア論でも物質性に注目する議論ではバラッドがよく出てきます。一例としてトーマス・ラマールの『アニメ・エコロジー』などがあります。