境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

ACCAMER「ノミック」(作詞・作曲・編曲:椎乃味醂)がノンバイナリーの抵抗ソングだった

公式MVと楽曲の概要

本題に入る前に、この曲に関する背景情報を確認しておく。

この曲はTVアニメ『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』エンディング主題歌である。私自身は未視聴なのだが、おそらくタイトルどおりの内容を含んでいると思われる。

そうであれば、ノミックというタイトルは同名のゲーム(ノミック - Wikipedia)に由来すると考えられる。詳しい説明は省略するが、ノミックというゲームは、ゲーム内でルール自体の改変をしていくというゲームである。つまり、「オーソドックスな悪役令嬢モノのルールそのものを改変して生き残りを図る」というアニメのストーリーを、ノミックというゲームになぞらえている楽曲だと思われる。

こうした文脈を承知の上で、本記事ではこの曲を違う形で解釈してみたい。それは、ノンバイナリーやジェンダークィアの人々の抵抗を歌い上げる曲としての解釈である。

ノンバイナリーの歌としての解釈

決められたバイナリに従います。
社交界の作法に溶け込みます。
それで、価値の器が満たされると、
信じてた。

社交界」や「舞踏会」というのは、多人数の人々が参加する社会的な場であり、さらに言えば、明に暗にさまざまなルールや「作法」が存在する場である。「決められたバイナリ」とは、そうした社会的なルールのことにほかならない。

この「バイナリ」を、性別二元論(Gender Binary)と解釈してみよう。するとこの歌詞は次のような意味になる。「社会には男か女しかいない、そして男は男らしく、女は女らしく、振る舞うべきだ」という社会的なルールになんとか従っていれば、満たされた生を送れるはずだと思っていた、けれど……。

舞踏会に溢れた息遣い、
その裏にありあまる思惑が、
重なり合って、気づいたんだ。
器の下は底抜けの状態だったんだ。

社会で生きている人々――大多数がシスジェンダーの男/女として生きている――と関わり、そうした人々の考えや認識、行動を知っていくなかで理解した。このままでは自分の生が満たされることはない、と。

「器」という歌詞で思い出されるのは、町田奈緒士による〈器〉概念である。町田はトランスジェンダーの人々への聞き取り調査を通じて、「自らの未分化な感覚をおさめるような受け皿」を表す概念として〈器〉を提示する(町田 2018: 28)。この〈器〉には、自分自身の経験や感覚を言い表すための言語的概念と、自身のあり方を受け止めてくれる他者が、含まれる。言語と他者の両方が、トランスジェンダーの人々を支えるうえで重要なものなのである*1

これを踏まえれば、ノンバイナリーの人にとっての「底抜けの〈器〉」とは何か、ということも想像できるだろう。

たとえば、「男/女」という二元論的な概念や、そうした二元論的な見方を前提として活動している周囲の他者が、自分の〈器〉として機能しないという状況。

あるいはもうすこし具体的に、「男/女」の「あるべき姿」に従っていない「私」のあり方について、友人だと思っていた人間が裏で「私」の陰口を言っているのを聞いてしまった……という場面もイメージできてしまうかもしれない。

器を満たす意味は潰え、
積み重ねたものなどとうに、
無に帰した。惨憺たる姿形と、
現状を抱える今日に、

してやったという優越を、
かけらも奴らに与えない様に、
流れた価値を仲間と取り返そう、
自ら器を作っていこう。

底抜けの〈器〉を否応なく突き付けられ、男性/女性のふりをして生きることにも希望を失った。

「お前は普通の人」ではないとバカにしてさげすんでくる連中にも、性別二元論的な社会のなかで「自分はまともだ」と思いながらのうのうと生きているマジョリティどもにも、絶対に与してやらない。

こちらだって決して一人ではない。仲間とともにつかみ取ってやろう、この命の生存を、そして自分が自分であるための〈器〉を――。

定石通りに動いてちゃ、
こんな人生つまんないな。

「普通の人」のふりをしていては生きていられない。それを「つまんないな」と言い表すところに、挑発的な力強さを感じる。「つまんないなぁ……」という気怠い呟きではなく、「つまんないよなァっ!?」という世界への呪詛だ。

それならさ、ギアなんか壊して、
自分が望んだ結末をはめ込んでやれ!

バイナリーな社会を構成する歯車なんかぶち壊してやる。そしてノンバイナリーな生が可能な世界にしてやれ。これは社会構造への挑戦だ。

ティーカップ裏に仕込んだ情報で、
主役を演じていけ。

ティーカップの裏側は、カップを置いた状態では見えない、不可視な領域だ*2

男女しか存在しないとされる世界では、ノンバイナリーは可視化されえない。だが「私はノンバイナリーだ」という見えない情報が、ノンバイナリーという〈器〉が、「私」を自らの人生の主役たらしめるのだ。

信じたものを守り抜くことができる、
この世界は、わたしだけの人生だ! 
わたしだけの人生だ!

ノンバイナリーという生、ノンバイナリーという〈器〉、言葉、そして仲間。そういったものを守れる世界であれば、それは「私」の人生だと言うに足るものだろう。

台本通りにかけられた言葉と、
道行く人々の思想と顔、
そのすべてが作り物で、
あるとするならば、

ここでは、ある種の構築主義的な見方が端的に描かれている。男女としての言動は、いわば社会で広く共有された「台本」のようなもの。それに即して動いている人々は、ある意味で社会的に作られたものである*3

すこし脱線するが、作詞作曲編曲の椎乃味醂は、哲学・人文学的な概念やフレーズを散りばめた曲を作るボカロPである*4。同氏の作風を考えれば、ここでも人文学的なツールを読み込んでよいだろう。

たとえば、社会における人々の相互行為を「舞台」のメタファーで分析した、アーヴィング・ゴフマンを思い浮かべてもよいかもしれない*5。ゴフマン的な発想は、この曲の冒頭での「社交界」や「舞踏会」のニュアンスとも合致する。

それすらも塗り替えてしまう様な、
誰よりも強いこの意思で、
すべて作り替え、
誰も想像し得なかった、
新たな未来へ!

そんな「台本」や社会規範すら塗り変えて。ノンバイナリーが当然のように存在するような、もっと言えば男女という二元論がそもそも意味をなさないような。現在の社会からは想像もできないような、そんな未来へ……!

「強い意志」というのもまた好戦的なフレーズである。

定石通りに動いてちゃ、
こんな人生つまんないな。
それならさ、ギアなんか壊して、
自分が望んだ結末をはめ込んでやれ!

ティーカップ裏に仕込んだ情報で、
主役を演じていけ。
信じたものを守り抜くことができる、
この世界は、わたしだけの人生だ!
わたしだけの人生だ!

先に述べた歌詞の繰り返しなので割愛。

決められたバイナリに抗います。
社交界の作法に阿りません。
それで、満たされる価値があることに、
気づいたんだ。
 
舞踏会に溢れた息遣い、
その裏にありあまる思惑を、
跳ね除け切って、残ったのは、
人生の真の面白さだ。

冒頭の歌詞を裏返して、性別二元論への抵抗の先にある未来を照らし出す。「面白さ」という表現も、先ほどの「つまんないな」に対応する挑発的な抵抗表明として読めるだろう。

おわりに

以上はかなり挑発的で好戦的な曲としての解釈となっており、この解釈にノれないノンバイナリーの人も当然いるだろう。

そのことに留意したうえで、ノンバイナリーの人や、あるいはもうすこし広く、性別二元論に違和感や苦悩を感じる人にとって、何かしら響く可能性のある曲ではないかと思う。

決して明るい曲調ではない、仄暗い戦意に満ちたこの楽曲に、個人的にも強く励まされたということを記しておきたい。

*1:ノンバイナリーはトランスジェンダーに含まれることもあるが、必ずしもすべてのノンバイナリーの人々がトランスジェンダーを自認しているわけではない点に留意は必要である。とはいえ、〈器〉概念はトランス男性/トランス女性だけでなくノンバイナリーの人々にとっても示唆をもたらすものだと考えられる。

*2:あるいは仲間とお茶をする最中の、カップの中身を飲み干すときにしか見えないもの、とも読める。つまり限られた仲間にしか明かさない(あるいは明かせない)ものとも解釈できる。

*3:「社会的に作られる」とはどういう意味か、という論点もあるが(イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』など)、この記事では割愛する。

*4:一例として一曲だけ挙げておく。

*5:ゴフマンを「構築主義」に含めるか否かは(構築主義をどう定義するかという点で)議論の余地があるが、この記事では割愛する。