境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

「読者」は恋をしていない:なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか

「恋愛」とは何か。

この問いには色々な答えがありうるし、上手く言えないという人もいるかもしれない。それでも多くの人にとって、「恋愛」という言葉が何を指し示しているのかは(たとえうまく言えないとしても)当たり前のように「わかる」ものなのだろう。だから「恋は理屈じゃない」とか「人を好きになるのに理由はいらない」とか言いながら、恋愛とは何かと問うより先に恋愛をしてしまう(あるいはできてしまう)のだろう。

しかし他方で、それなりに多くの人々が、「恋愛」とは何なのかというところで悩むことになる。どのような感情を抱けば「恋愛」をしていると言えるのか、どのような関係になれば「恋愛」をしていると言えるのか。そもそも「恋愛」は感情を指すのか、関係を指すのか、あるいはもっと別の何かが関わっているのか……。場合によっては、答えは人によって違ったものになるかもしれない。たとえば恋愛と性欲が同じだと感じている人もいる一方で、性的指向と恋愛的指向が異なる人もいる*1。そしてそもそも、恋愛を経験することがないという人だって存在する。

こういった諸々の疑問は、けれど多くの恋愛物語ではそれほど深く問われない。当たり前のように恋愛感情をいだいて、当たり前のように関係を築こうとする。けれど、ある人物のことが好きだからといって、その好意がなぜ「恋愛感情」と言えるのだろうか。そしてある人物に特別な好意をいだいたからといって、なぜ「恋愛関係」を築こうとするのだろうか。このようなことについて、多くの作品では説明されない。そんなことは語るまでもないだろう、と言わんばかりに。

これに対して『やがて君になる』は、「当たり前なもの」としての「恋愛」に問いを投げかける。恋愛物語でありながら「恋をする」ということの自明性を疑問に付す、稀有な作品なのである。

「恋愛の問い直し」というテーマ

やがて君になる』は、「人に恋する気持ち」が分からないという悩みを抱える少女(小糸侑)と、自分を肯定できないせいで相手からの好意を受け入れられない少女(七海燈子)の物語である。この作品は恋愛マンガであるが、にもかかわらず恋愛を自明のものとして扱ってはいない。「なぜ、どのようにして、この登場人物たちに恋愛が生じるのか」というプロセスを丁寧に描き出し、それによって「私たちの社会において、恋愛とはいかなるものなのか」という思索へと読者をいざなう作品なのである*2

実際に作中では、「恋愛は誰もが当たり前にするものだ」という固定観念を相対化する場面がいくつか描かれる。

燈子「好きにならなきゃいけないと思ってつらかったんだね」
燈子「みんな恋愛の話大好きだもんなぁ/自分がおかしいような気にもなるよね」
(原作1巻 35-36ページ)

とはいえ『やがて君になる』も恋愛マンガである以上、主要キャラクターたちが恋愛をすることは避けられない。その意味で、ともすれば「恋愛の分からなかった少女と、恋愛を受け入れられなかった少女が、成長することによって恋愛できるようになる」というストーリーに回収されかねない。言い換えれば、「恋愛ができるようになることを『望ましい』『成長』の結果として描くことで、恋愛しないことやできないことを望ましくない事態と位置づけてしまう」という帰結に陥りかねないのである。

多くの百合やBLは、同性同士の恋愛を描くという点で異性愛主義*3を相対化している。しかし、ともすれば「対象が同性か異性かという違いがあるだけで、それでも『普通の』人間なら誰もが恋愛できるはずだし、するのが望ましい」というような、素朴な性愛主義*4に回収される危険もある。こうした価値観は、恋愛しない人やできない人を「未熟な」「劣った人間」とみなすものであり、またアセクシュアル(無性愛)を不可視化するという問題にもつながる*5

もちろん、恋愛マンガが恋愛を描くこと自体は非難されるべきではない*6。しかし『やがて君になる』は「恋愛の問い直し」を一つの重要なテーマとしている。そうである以上、性愛主義をきちんと相対化できないかぎり、作品のテーマを完遂できないということになる。

恋愛マンガでありながら、性愛主義を批判しなければならない。

このきわどいバランスを保つうえで重要な役割を果たしているのが――意外かもしれないが――槙くんなのである。

アセクシュアル」かつ「読者」としての槙くん

槙くん(槙聖司)は、「他人の恋愛を見たり相談に乗ったりするのは好きだが、自分で恋愛をしたいという欲望はない」という少年である。つまり彼は「恋愛感情を経験しないことを肯定する」キャラクターとして描かれているのである。

槙「人の恋愛を見てると良いものだと思えるし/理解はできるつもりだけど/自分の中にその感情を持ったことはないね」
侑「…小説を読んでるか映画を見てるみたいな」
槙「うんわかる/自分の世界のことではないって感じ」
侑「槙くんはそれを寂しいと思ったことはない?」
槙「ないね/僕は楽しいよ こういう距離からみんなを眺めるの」
(原作3巻 135-136ページ)

彼は「百合マンガ読者」の表象であると同時に「アセクシュアル*7の表象としても描かれている*8。『やがて君になる』を読み解くうえで槙くんが重要であるということは、原作者・仲谷鳰自身の語りからも確認できる。

特に槙くんは、侑と似ているようで対照的な人物。『好き、特別』という気持ちを知りたくて焦っている侑と、恋愛感情なんてわからなくてもいいと思っている槙くん。その対比が見せられればと思っています(「誰かの特別になる」ってどういうこと? 一筋縄ではいかない少女同士の恋を描いた『やがて君になる』【著者・仲谷鳰さんインタビュー】 | ダ・ヴィンチニュース

槙くんを登場させることによって、『やがて君になる』には性愛主義へと回収されない余地を残している。しかし、それだけではない。槙くんの立ち位置は、恋愛物語のキャラクターというよりも、むしろ物語を楽しむ「読者」に近いものとして描かれている*9。つまり槙くんは「読者」かつ「アセクシュアル」な男子として描かれているのである。

実はこの2つの側面が組み合わされることによって、槙くんは特異な形で性愛主義に破れ目を開けている。この点について、以下で原作2巻第7話 54-56ページ(アニメ4話)に描かれる、槙くんのモノローグを考察していく。

「恋愛≠する」による性愛主義の破れ目

槙くんは「姉二人と妹に囲まれて育ったせいか(……)女の子の相談相手になることが多い」。しかし彼は、恋愛相談を「面倒だとは思わない」。むしろ彼は、他人の恋愛を「舞台の上の物語」とみなし、自分自身をその「観客」として位置づけている。一方で、彼は恋愛感情を自分に向けられることを望まない。つまり彼は恋愛をするのではなく、見ることを楽しんでいるのである。

役者が観客に恋するなんて/がっかりだ/そんなのはいらない/僕は客席にいてただ舞台の上の物語を見ていたい(原作2巻 55ページ)

ところで、槙くんのモノローグのなかには「女の子は恋の話が好きだから」という語りが挿入されている。これは一見すると女性に対するステレオタイプであるようにも見えるが、そうではない。この語りは、槙くんの周囲に「恋の話が好き」な女の子が多かったということを表している、と解釈するべきである。つまりある意味で槙くん自身が恋愛に「囲い込まれて」いた、ということである。それにもかかわらず、槙くん自身は恋愛をしていないし、する気もない

槙くんにとって、恋愛は「する」ものではなく「見る」ものである。そんな彼を描くことによって、やがて君になる』は「恋愛‐する」という結びつきに切れ目を入れるのである(「恋愛≠する」)。

実を言えば、この切れ目は日常的にありふれている。たとえば恋愛マンガを読んでいるまさにそのとき、多くの読者は実際に恋をしているわけではない。そこでやっていることはあくまでも読書であって、恋をしているのではないのだ*10。この当たり前すぎるがゆえに見過ごされがちな「切れ目」を、槙くんは露悪的なまでに前景化させてしまうのである。

このことは、性愛主義を相対化するうえで極めて大きな意味を持つ。たとえばドラマやマンガなどの恋愛フィクションは日々数えきれないほど生産されており、あたかも恋愛は誰もが「普通に」経験するものだというイメージをばらまいているかのように見える。しかし、恋愛は必ずしも「する」ものであるとはかぎらない。恋愛フィクションは、恋愛を「する」以外の動作へと結びつけてしまうものであり、その意味ではむしろ恋愛を価値相対化する可能性さえ含まれる*11。この可能性を「読者=アセクシュアル」な槙くんは暴き出すのである。

「読者」は恋をしていない。「舞台」には終わりがあり、「劇場」には外がある。世界は恋で満ちているかもしれないが、恋で満ちた世界は、同時に穴だらけでもある。

もしも槙くんが単に「人の恋愛を見るのが好き」なだけであれば、「本編で描かれないだけで、彼もきっと普通に恋愛するに違いない」という性愛主義的な解釈枠組みによって、いともたやすく読み流されてしまうだろう。あるいは、槙くんが単に「恋愛する気のない」だけであれば、依然として「恋愛‐する」という結びつきは維持されたままとなり、上記のような「恋愛」の破れ目は不可視なままとなるだろう。

しかし「『恋愛』を欲望すること」と「『恋愛すること』を欲望すること」は、同じではない。このように「欲望」のあり方を分節化し直すことによって、「『恋愛』を欲望するからといって、『恋愛すること』を欲望するわけではない」という、これまで見えにくくなっていた営みを記述しなおすことができる。そしてそれによって、「恋愛を欲望する人/しない人」という二項対立を成り立たせていた前提それ自体が突き崩されていく。「恋愛を欲望する人」という単一カテゴリーのもとに、実は多様なあり方が潜んでいたということを露わにしてしまうのである。

このように、『やがて君になる』は槙くんを描くことによって、性愛主義の破れ目を可視化させている。複数の破れ目が、いたるところに開いていることを暴き出しているのである。ゆえにやがて君になる』のテーマである「恋愛の問い直し」は、「『アセクシュアル』かつ『読者』としての槙くん」なしには完遂されないと言えるだろう。これが「なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」という問いへの回答である。

終わりに

誰もが恋愛を好んでいるというわけではない。

恋愛を好んでいるからといって、恋愛したいとはかぎらない。

ある人のことが好きだからといって、その好意が恋愛感情であるとはかぎらない。

特別な好意を抱いたからといって、その相手と独占的な交際をしたいとはかぎらない。

このリストはいくらでも書き連ねられるだろう。「恋愛」がどのような実践に結びつくかは、決して自明ではない。「恋愛‐する」という結びつきは、きわめて偶然的なものかもしれない。そもそも「恋愛」という言葉の指し示す内容は、私たちの間でどれだけ共有されているのだろうか……。

このような思索をも喚起するという意味で、『やがて君になる』はきわめて優れた「恋愛作品」だと言えるだろう。

もちろん『やがて君になる』は百合マンガであり、作品のメインとなるのは小糸侑と七海燈子の関係である。しかし彼女たちの「恋の物語」からこぼれ落ちるテーマを補完する存在として、槙くんのことも忘れないでおきたい。

(2019年5月5日追記)

続編とも言えるような記事を公開しました。

新規記事の公開に合わせて、本記事のタイトルを「槙くん論(1)――なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」から「「読者」は恋をしていない:なぜ『やがて君になる』に槙くんが必要なのか」へと変更しました。

(2021年9月17日追記)

この記事の内容をもとに執筆した論文が現代思想2021年9月号 特集=〈恋愛〉の現在』に掲載されています。タイトルは「アセクシュアル/アロマンティックな多重見当識=複数的指向――仲谷鳰やがて君になる』における「する」と「見る」の破れ目から」です。

*1:恋愛的指向については 恋愛的指向 - Wikipedia や 恋愛対象と性的指向が食い違うことの意味について - don't look back into the sun を参照。

*2:たとえば『やがて君になる』を「異性愛主義における『恋愛感情の自明性』を問い直し、しかもその問い直しをホモフォビアから分離させた作品」として評価する記事として『やがて君になる』あるいは異性愛主義/百合の可能性について - don't look back into the sunがある。

*3:異性愛が「普通」の「望ましい」ものであり、非‐異性愛を異常なものとみなす社会規範。

*4:近年のアセクシュアル研究では、ヘテロノーマティヴィティ(heteronormativity)をもじって「セクシュアルノーマティヴィティ」(sexualnormativity)という言葉が用いられることもある。

*5:本記事ではアセクシュアルについて深く立ち入らないが、関心のある方は無性愛(アセクシュアル)研究への招待――英語圏での研究動向(文献メモ) - 境界線の虹鱒などを参照。

*6:もしも恋愛モノというジャンル自体が性愛主義を再生産するものとして非難されうるとすれば、それは世の中のあらゆるところに恋愛モノが充満していて、どこにも逃げ場がないという場合だろう。今の社会で実際にどれほど恋愛モノが充満しているのか、という点は別途検討が必要である。しかし本記事では、恋愛を扱ったフィクションが性愛主義を再生産するとはかぎらず、むしろ性愛主義の破れ目にさえなりうる、という側面に注目する。

*7:なおこの記事では「アセクシュアル」を「セックス、性的実践、そして人間関係におけるセックスの役割などについて無関心であったり反感をいだく人」全般を指す、包括的な用語として用いる。アセクシュアルについては先の注釈に挙げた記事を参照。無性愛 - Wikipediaも内容が充実している。

*8:なお本来であれば「槙くんをアセクシュアルの表象として解釈してよいのか」という点についても踏み込んで議論する必要があるが、本記事では省略する。

*9:実際に作中でも、槙くんはモノローグのなかで自らを「観客」と位置づけている(原作2巻 55ページ)。

*10:もちろんキャラクターに感情移入したり同一化したりすることはあり、それを「追体験」と呼ぶこともできる。しかし「恋愛マンガのキャラクターに感情移入すること」や「他者の恋愛経験を追体験すること」は、「自分が恋愛を実践すること」とは異なる行為だろう。また、読書のさなかに直接キャラクターと恋愛をする人はそれほど多くはないと思われる。ただし虚構的キャラクターと恋愛をする人が一定数いるということも忘れてはならない。この点については【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声 - 境界線の虹鱒を参照。

*11:もちろん、こうした形での相対化が可能になるためには、いくつかの社会的条件が必要である。ここでは詳述しないが、たとえば一例としてアンソニー・ギデンズ(1992=1995)の指摘するような「性と生殖の分化」が挙げられるだろう(『親密性の変容』47ページ)。