境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

二次元美少女の性的表現を「女性(や子ども)の性的モノ化」と非難することの何が問題なのか

したがってここでの課題は、あらゆる新しい可能性を可能性として愛でることではなく、すでに文化の領域のなかに存在しているけれども、文化的に理解不能とか、存在不能とされていた可能性を、記述しなおしていくことである。(ジュディス・バトラージェンダー・トラブル』*1

はじめに

二次元の女性キャラクターを性的に描いた創作物(「萌え絵」と呼ばれることもある)は、しばしば女性(や子ども)を性的モノ化するものとして非難される*2。しかしこのような非難は、「二次元(キャラクター)」と「三次元(人間)」との存在論的差異をあらかじめ無意味なものと決めつけており、人間に対するセクシュアリティ(=対人性愛)とは異なる「二次元に対する非対人性愛」の存在を抹消してしまっている*3。さらにそこには、フェミニズムクィアスタディーズの観点からもいくつかの問題がある。本稿ではこのことを素描していく*4

目次

背景:「二次元キャラクター」の存在論と非対人性愛

二次元キャラクターの特徴については、これまで表現論の問題として論じられてきた(たとえばデフォルメのような非写実的な絵柄など)。しかし表現論の枠組みで議論していたせいで、二次元キャラクターは「単に特殊な表現様式を用いて描かれているだけで、人間の表象ではないか」という疑問に十分な応答をできていなかった。

しかし二次元キャラクターは、単に特殊な表現様式で描かれるだけではなく、まさに人間とは異なるカテゴリーの存在者である*5。具体的には、二次元キャラクターは、情報の束として存在し、絵や音声や映像など多様なメディウムによって物質化される、ある種の人工物である*6

このことは、二次元の存在者に対する性的欲望が、人間への欲望に還元できないということ*7と関わる。この点については、すでに論文やブログで繰り返し説明してきたため、過去のブログでの要約を載せておく。

繰り返し指摘されてきたことだが、二次元キャラクターへの性的欲望は、人間に対する性的欲望に還元できないものである。

たとえば筆者は、「二次元の性的表現を愛好しつつ、生身の人間へ性的魅力を感じない」という人々にインタビュー調査を行なっているが、そうした人々のなかには、自分のセクシュアリティを「フィクトセクシュアル」や「キャラクター性愛者」と表明している人もいる*8。また「二次元キャラでないとダメ」という人でなくとも、二次元表現に対する性的な好みと人間に対する性的な好みが独立分離しているという人は少なくないだろう*9

さらに近年では、フィクトセクシュアルをめぐるウェブ上での議論をとおして、生身の人間に性的(あるいは恋愛的)に惹かれるセクシュアリティ指す造語として、「対人性愛」という概念が用いられている*10。これは性的マジョリティを名指す概念であり、対人性愛を自明のものとする社会通念(対人性愛中心主義)を問い直す造語実践である。これを踏まえて、対人性愛に還元できないような二次元キャラクターへの性的欲望を、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ*11と呼ぶことにしよう。

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から - 境界線の虹鱒 より

二次元に対する非対人性愛を生きる人々が現に存在する、ということをあらためて強調しておきたい。

「性的モノ化」論の確認:ティモ・ユッテンに依拠して

もうひとつ本題に入る前の作業として、性的モノ化の意味について手短に確認しておきたい。

本稿は学術論文ではないため、性的モノ化論の体系的な検討は行わない。その代わりに本稿ではユッテンの論文「性的モノ化」(木下頌子訳)に依拠して議論を進める(その他の論文については必要に応じて注で触れるため、専門的な議論に関心がある場合は注も見てほしい)。筆者の考えでは、ユッテンの論文は「性的モノ化」論で何が問題とされているのかを精緻に明確化している点で優れた論文である(上記の『分析フェミニズム基本論文集』に翻訳が掲載されているので、ぜひ読んでほしい)。ユッテンの立場は、ヌスバウムによるモノ化の「道具扱い説」を批判し、マッキノンの発想にもとづく「意味の押しつけ説」を擁護するものである。

ヌスバウムの主張は、モノ化は「本質的にある種の道具扱い(instrumentalization)または利用(use)」だという「道具扱い説」である*12。この説では、モノ化は道徳的に中立的なものであり、無害で倫理的に許容可能な道具扱いもありうる。

これに対して「意味の押しつけ説」は、「性的にモノ化されるということは、自分が性的に利用されるべき人として定義されるような社会的意味を、自分の存在に対して押しつけられること」である*13。この定義のほうが、フェミニズムからの問題提起をうまく概念化しており、また性的モノ化の害と不正を切り出すために使える概念となっているように思われる。

「性的モノ化」論を二次元にそのまま適用することの問題点

以上を踏まえたうえで、では性的モノ化論を二次元表現にそのまま当てはめるとどのような問題が生じるのか。一言で言えば、非対人性愛の抹消である。とはいえ抹消の内実にはいくつかの種類があるため、ここでは4点に分けて論じていく。

1. 人間中心的な「モノ」観

1点目の問題は、性的モノ化論の前提にある「モノ」観が人間中心的であることである。この問題は、二次元をめぐる議論にかぎったものではなく、さらに言えば「性的」モノ化にかぎったものでもない。「モノ」であるとはどういうことか、ユッテンは以下のように述べる。

人が対象[モノ]であるということは、他人の目に映るその人の意味や価値が、他人の関心と価値づけによって決定されているということである。これはちょうど、私たちの身の周りにある多くの対象の意味や価値が、人々の関心や価値づけによって決まるのと同様だ。*14

ここでユッテンは、モノは完全に受動的であり、モノの意味や価値は人間によって一方的に規定されると説明している。

しかし、モノはそんなに人間の思いどおりになるものだろうか。たとえばモノの形状や材質などの物質性は、人間による意味づけや価値づけのあり方の可能性を制約しており、それゆえ現に人間に対して影響を与えている*15。このように、モノは一方的に意味や価値を押しつけられるだけの存在ではなく、ある意味では人間に「抵抗」する側面すらある。このような論点が、ユッテンの議論ではあらかじめ締め出されているのである*16

このことは、性的モノ化論が「二次元」の物質性を抹消してしまう、という問題につながる。冒頭で触れたように、二次元キャラクターは、人間とは存在論的に異なるカテゴリーに属しており、物質的にも人間と異なる仕方で構成されている。しかし二次元キャラクターの表現を人間のモノ化と同じ仕方で論じると、このような存在論的・物質的な要素のもたらす効果があらかじめ抹消されることになるのである。

さらにユッテンのモノ観は、人とモノの関係をかなり一面的に捉えている。「モノ化」を本質的に悪いものとして概念化している理論では、人間とモノとの水平的・対称的な関係がありうる可能性を暗に締め出してしまっているのである*17

このようなモノ観は、対物性愛*18に対する偏見と直結するものである。対物性愛は事物に対する一方的な「フェティシズム*19として、一種の「異常性欲」だという偏見を向けられることがある*20。これに対して当事者の語りでは、対物性愛者は特定の事物に対して深い愛情や多様な感情を抱くということが強調されている*21。また愛する事物との関係も多様であり、双方向的な親密関係を築いているという人もいる*22。このような人‐モノ関係を、性的モノ化論のモノ観は捉えることができなくなっているのである。

そしてこの問題は、二次元キャラクターとの親密関係についても同様に生じる。近年では二次元キャラクターとの「結婚」や恋愛や親密関係について、フィクトセクシュアルという言葉で言及されることが増えてきた。しかしこうした関係は、しばしば「自分にとって都合のよい『異性』*23を求めているだけだ」とみなされることがある。これはまさに上記の対物性愛者に対する偏見と同じものである*24。「モノ(非‐人間)」は「一方的に人間に支配されるもの」というモノ観が、こうした偏見の根底にあると言えるだろう。

以上のことから、「(性的)意味の押しつけ」を「(性的)モノ化」と呼ぶのは問題含みだと考えられる。ただしこれは性的モノ化論の内容そのものを否定しているのではなく、あくまで「モノ化」というラベルを用いることを批判しているだけである。性的モノ化論が問題とすることがらは、「性的モノ化」ではなく、端的に「性的意味の押しつけ」と呼ぶほうが、論点が分かりやすく、かつ倫理的にも望ましいだろう*25

2. 対人性愛への回収:「社会的に利用できる意味」の制限

2点目は、二次元に対する非対人性愛的な欲望や関係が、対人性愛として認識されてしまう、という問題である。ユッテンによれば、女性を性的モノ化する男性は、女性を「性的な魅力や、性的誘いへの応じやすさといった性的な属性に基づいて定義」*26するのだが、このような定義(意味)を押し付けることについて、ユッテンは以下のように述べている。

押しつけられる社会的意味は(……)それを押しつける者たちの態度や欲求を表象するものである。*27

性的モノ化論がこのような主張を含んでいるとすれば(多くの場合は明に暗に含んでいると思われる)、これを二次元表現にあてはめることの問題は明白だろう。

「二次元の女性キャラクターを性的に魅力的なものとして描く作品(を公開したり愛好したりすること)は、人間の女性に性的意味を押しつけるものだ」とする主張は、「二次元の女性キャラクターを性的に魅力的なものとして描く作品(を公開したり愛好したりすること)は、人間の女性への「態度や欲求を表象」している」という主張を含意することになり、それゆえ二次元キャラクターへの非対人性愛的な態度や欲求の存在を抹消することになる。

言い換えれば、二次元をめぐるセクシュアリティを対人性愛へと回収することによって、「二次元キャラクターへの欲望は単なる対人性愛なのだ」という発想に暗にコミットしてしまうのである*28

つまり性的モノ化論を二次元表現にそのまま当てはめる非難は、「二次元に対する非対人性愛など存在しない」というメッセージとなってしまうのである。ユッテンの言葉を借りれば、このような非難は対人性愛的な意味の押しつけであり、非対人性愛者が「自己提示するために社会的に利用できる意味」*29を制限する発話となると言える。

3. 攪乱可能性の抹消:性的意味づけの「反映」と「再生産」のズレ

3点目は、二次元と三次元とのズレがもたらす政治的意義の可能性を認識し損ねる、という問題である。この問題は、性差別や性的意味づけの「反映」と「再生産」が区別されずに論じられがちである、という状況と関わるものである。

二次元の性的表現は、現実での女性観が「反映」されているという理由で非難されることがある。たしかに二次元表現に(過去もしくは現在の)現実での性差別的な女性観が(多かれ少なかれ)反映されているのは事実だろう。しかし常識的に考えて、ある事物に現実での性差別的な女性観が反映されているということ自体は、非難の理由にはならない*30。あくまで問題なのは、それが性差別的な女性観(およびそのような女性観にもとづく「性的モノ化の実践」)を再生産する場合である*31

しかし二次元をめぐる非対人性愛が存在するということは、二次元の性的表現には「人間の女性を性的対象化する意味づけ」を再生産しない経路が現に存在する、ということを示している。すなわち、二次元の性的表現は、対人性愛の文化のなかから生じ、対人性愛のあり方を何らかの仕方で反映していながら、にもかかわらず対人性愛とは異なるセクシュアリティのあり方を生じさせているのである*32。言い換えれば、二次元の性的表現には「以前には存在しなかったカテゴリーの存在物を(……)構築することを通して、知覚の仕方や欲望のあり方を変容させる」*33という攪乱の契機が存在するのである。

この攪乱は、性的モノ化の再生産を批判する契機でもある。人間の女性が性的モノ化されるというのは、人間を性的に欲望するという対人性愛文化の問題ではないのか? もし二次元の性的表現が「人間の女性を性的対象化する意味づけ」を再生産するのだとすれば、それは対人性愛が規範的なセクシュアリティとされているからではないのか?  対人性愛中心主義的な認識が支配的な社会では、このような問題提起が想定されることはなかった。二次元をめぐる非対人性愛が切り開くのは、まさにこのような批判である*34。にもかかわらず、「反映」と「再生産」とを混同する議論は、このような政治的主張を存在しないことにしてしまうものなのである。

4. 対人性愛中心主義と問題含みなジェンダー本質主義の温存

最後の問題は、ジェンダーセクシュアリティに関する構造的な問題を見落としてしまうというものである。

性的モノ化の理論は、基本的に実写ポルノを念頭に置いたものである*35。主流的な実写ポルノであれば、人間の女性が欲望の対象として描かれており、そこからの性的モノ化論の問題提起そのものは妥当かつ有意義なものである。

しかしこれを二次元表現にそのまま適用した場合、「人間の女性」も「二次元の女性キャラクター」も同じ「女性」なのだ、という発想が無批判に持ち込まれることになる。言い換えれば、「男/女」の差異は「二次元/三次元」の差異よりも根底的なものである、という想定が持ち込まれるのである*36。このことは、セクシュアリティの問題よりもジェンダーの問題のほうがより根底的なものなのだ、という問題の序列化を含意してしまうものである。

このような認識は、性的マイノリティの存在をあらかじめ排除したり抹消したりするものとして、以前から批判されてきた*37。二次元をめぐる非対人性愛の抹消という本記事の問題提起も、この文脈に位置づけられる。

さらにこの認識は、ジェンダーセクシュアリティの関係を捉え損ねてしまうものでもある。すでに繰り返し指摘されているように、セクシュアリティの規範とジェンダーの規範はいずれか一方に還元できるものではなく、あくまで両者を区別したうえで、両者の相互関係を考える必要がある*38

ここで重要なのが、ジェンダーに関する生物学的本質主義と対人(異)性愛中心主義との共犯関係である。「解剖学的な性別」と「性交渉」がどちらもsexである、という図式が象徴的に示しているように、支配的な解釈図式のもとでは「性器の差異を重視する「幻想」が、異なる性器同士の接触を重視する「幻想」と一体化している」*39。この意味で、性愛が生身の人間の「身体」に本質的に結びついているという想定(言い換えればセクシュアリティは根本的には対人性愛の話なのだという想定*40)は、問題含みなジェンダー本質主義を支えるものなのである。

要するに、二次元と三次元の差異をあらかじめ無意味なものと決めつける議論は、このようなジェンダーセクシュアリティの関係を見落としているのである*41。このことは、非対人性愛の政治性を抹消するという、3点目に上げた問題とも結びついているものである。

ささやかな提言:「萌え絵問題」から「対人性愛問題」へ

以上のことから、性的モノ化批判を二次元表現にそのまま適用することは、二次元をめぐる非対人性愛の存在を抹消し、対人性愛中心主義(と問題含みなジェンダー本質主義)を温存することになる、と言える。これを踏まえたうえで、では二次元の性的表現についてどう扱い、どう論じていけばよいのか。

ここで重要なのが、本記事で述べた以下の指摘である。

人間の女性が性的モノ化されるというのは、人間を性的に欲望するという対人性愛文化の問題ではないのか? もし二次元の性的表現が「人間の女性を性的対象化する意味づけ」を再生産するのだとすれば、それは対人性愛が規範的なセクシュアリティとされているからではないのか?(本記事「3. 攪乱可能性の抹消:性的意味づけの「反映」と「再生産」のズレ」より)

つまり、対人性愛中心主義的な社会においては、二次元の女性キャラクターを性的に魅力的に描いた表現が、人間の女性に性的意味を押しつけることがありうるのである。そして非対人性愛者もまた同じ社会のなかで生きている以上、こうした問題にはマジョリティとともに解決へと努めるべきである。

性的意味の押しつけによる問題が生じないための方策を議論し実施することは依然として必要であり、具体的な方策としては、たとえばある種のゾーニングなどが考えられるだろう。つまり本稿の内容は、二次元表現をめぐる従来の議論の方向性を大きく変えるものではない。

しかしながら、二次元に対する非対人性愛が社会的に不可視化されているということ、そして問題は対人性愛中心主義的な社会にあるのだということを、忘れてはならない。本来ならば変わるべきは対人性愛文化であり、二次元表現に責任転嫁をするべきではないのである。あくまでも、対人性愛があまりにも自明のものとされている状況で、対人性愛中心主義があまりにも強固であるために、やむをえず二次元表現に(本来ならば対人性愛文化が担うべき負担を引き受けてもらって)譲歩してもらうのだ、ということが明示されなければならない。

そのために、二次元表現による女性への性的意味の押しつけに対する方策を議論・実施する際には、二次元の女性(や未成年)キャラクターを性的に魅力的に描く創作物は、それ自体として悪いものではない、ということを必ず明記・明言すべきである*42。言い換えれば、法規制をしないだけでなく、基底的な倫理的承認をすべきだということである。

それ自体として悪いものではないとしても、もし結果的に望ましくない状況をもたらすのであれば、何らかの仕方で主流文化(対人性愛文化)とともに折り合いをつけていく必要はあるだろう。逆に言えば、本稿が従来の議論に付け加える実践的な指摘は、せいぜいこの程度のものだということでもある。

ところで、この提言に対して次のような疑問をいだく人がいるかもしれない。

「この提言は、対人性愛中心主義を根底的な問題とみなし、性差別をそれに付随する問題として扱うものではないのか。かりに前項までの議論が妥当だとしても、せいぜい対人性愛中心主義の問題 "でも" あるとしか言えないのではないか」

この指摘は、脱文脈的な一般論としては正しいかもしれない。しかしながら、私たちの社会は現に対人性愛中心主義的な認識がきわめて強固に存在する社会である。そしてそこでは、対人性愛問題があるのだとわざわざ明言しないかぎり、対人性愛を前提として議論がおこなわれてしまう状況がある。つまり非対人性愛は、わざわざ存在を口にしないかぎり、いないことにされるのである。このような文脈を無視した一般論は、むしろ対人性愛中心主義に加担することにしかならない。

だからこそ、まずは「対人性愛問題」というフレームから議論を始めるべきである。これによって初めて、非対人性愛を生きる人々が非対人性愛者として政治的言説のなかに存在できるようになるだろう。*43

関連記事

本稿では、ジェンダーセクシュアリティの関係をきちんと考えるべきだと論じてきた。この点については過去の記事で、対人性愛中心主義がトランスフォビアと結びついていることを論じている*44。また二次元をめぐる非対人性愛がフェミニズムクィアのポリティクスと連帯可能であることにも言及している。本記事とあわせて読んでほしい。

2023年6月19日追記:繁体中文訳が公開されました。

注釈

*1:260ページ

*2:たとえば最近のものとして以下の文献が挙げられる。
李美淑,2023,「炎上する「萌えキャラ」/「美少女キャラ」を考える」李美淑・小島慶子/・治部れんげ・白河桃子・田中東子・浜田敦子・林香里・山本恵子,『いいね!ボタンを押す前に――ジェンダーから見るネット空間とメディア』亜紀書房,94-125.

*3:本稿の主張は、仮に性的モノ化批判が「三次元」の領域で妥当だとしても、その批判を二次元表現に当てはめるべきではない、というものである。そのため本稿では、「三次元」の領域で性的モノ化批判が妥当かどうかは検討しない。

*4:本稿の内容は、某論集に寄稿予定の原稿の素案である。論集寄稿版では先行研究の検討や論述の精緻化を加筆修正するが、基本的な主張は本稿と同じものになる予定である。

*5:これについては下記の拙論2本を参照:松浦 優 (Yuu Matsuura) - アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察 - 論文 - researchmap

*6:「二次元」を厳密に定義づけるためには「ある種の」の中身を明確化する必要があるが、それを論じるためには論文1本分の理論的考察が必要である。「二次元とは何か」についての理論的考察は稿を改めて論じたい。

*7:このことは、「二次元の女性キャラクターを性的にモノ化する表現」を愛好する女性がいる、ということを理解するうえでも重要である。先行研究で指摘されているように、男性向けポルノコミックを読む女性読者は「男性向けポルノコミックは男性が描く“疑似女性”であるから、自分とは切り離された別のものとして見ることができるので、ファンタジーとして受け止めやすい」という読みをしている場合がある(守如子『女はポルノを読む』 192ページ 強調引用者)。

*8:以下の論文で調査結果の一部を分析している。

*9:斎藤環戦闘美少女の精神分析』の「多重見当識」概念がこのことを表すものである。

*10:以下の拙論を参照

*11:ここには「生身の人間へ性的魅力を感じない」人だけでなく、先に触れた「二次元表現に対する性的な好みと人間に対する性的な好みが独立分離している」人も含まれる。

*12:ユッテン,121ページ

*13:ユッテン,121ページ

*14:ユッテン,139-140ページ

*15:たとえばこの論点には、メディア論における、メディウムの特性がもたらす影響や効果の議論も含まれるだろう。

*16:性的モノ化論はモノを「静的モノ化」している、と言ってもよいかもしれない

*17:この批判は、Mel Y. Chen, 2012, Animacies: Biopolitics, Racial Mattering, and Queer Affect, Duke University Press. のp.50を参照

*18:本稿での対物性愛に関する説明は、以下の拙論(で紹介した先行研究)に依拠している。松浦優,2023[近刊],「対人性愛中心主義批判の射程に関する検討――フェミニズム・クィアスタディーズにおける対物性愛研究を踏まえて 」『人間科学共生社会学』 (13)

*19:フェティシズムへの偏見という問題も無視してはならない。

*20:対物性愛への偏見は異性愛規範とも結びついている。たとえば女性の対物性愛者は、人間に対してなすがままである(かのように見える)物に対して積極的に性愛関係を宣言する点で、男性からのアプローチを受動的に待つという女性像と対立するものとされる。また対物性愛に対するスティグマ化の事例として、ドキュメンタリー番組のなかで、女性の対物性愛者は「公共の場で物とセックスする」人物として否定的に描かれたという出来事がある。(Terry, Jennifer. 2010. “Loving Objects.” Trans-Humanities Journal 2(1):33-75.

*21:広い意味での「物への愛着」であれば多くの人が経験するだろう。対物性愛者の愛はそうした愛着と連続的なものだとしばしば言われている。

*22:対物性愛コミュニティのウェブページとしては下記のサイトがある。とくに「OSとは」のページが参考になる(ただし日本語版は不完全なページもあるため、必要に応じて英語版も参照)。

*23:メディアで取り上げられる事例はほとんどが「異性」のキャラクターとの関係であるため、偏見のほうにもこのような表現が現れることになる。ただし当然ながら、非異性愛のフィクトセクシュアルもいる。

*24:余談だが、もし二次元キャラクターが人間の意のままに動くようなものならば、「キャラ崩壊」や「解釈違い」などは起こりえないのではないだろうか。

*25:あるいはモノ化の代わりに「半端モノ」(subperson)化と呼ぶのもよいかもしれない。半端モノ概念は、キャサリンジェンキンスがチャールズ・ミルズから借用したものである(Jenkins, Katharine, 2017, What Women are For" in Beyond Speech: Pornography and Analytic Feminist Philosophy, Mikkola ed.)。ジェンキンスの主張については難波優輝による日本語での紹介がある。

*26:ユッテン,139ページ

*27:ユッテン,134ページ

*28:このような「マジョリティへの回収による抹消」については、フィクトセクシュアルをめぐるウェブ投稿の分析をもとに下記の拙論で論じている。

*29:ユッテン,131ページ

*30:たとえば現実での性差別があるかどうかを調べたアンケート調査の結果は、現実での性差別を反映しているが、だからといってその調査が非難されるいわれはない。

*31:「反映」しているから悪い、と言われがちなことの背景として、二次元の性的表現が対人性愛の単なる「コピー」だとみなされていることが考えられる。これは「模倣」というものに関する理解の問題でもあるが、この点についての詳細は別稿で論じたい。

*32:下記の拙論の148ページを参照。松浦 優 (Yuu Matsuura) - アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察 - 論文 - researchmap

*33:下記の拙論の68ページ

*34:これは単なる可能性ではなく、実際にフィクトセクシュアルをめぐるウェブ投稿のなかで、いわゆる「レイプカルチャー」を「対人性愛文化」の問題として捉える視座が提起されている。

*35:ユッテンの議論もマッキノンの主張に根差したものである。

*36:この想定の問題については、以下の拙論で論じている。松浦 優 (Yuu Matsuura) - アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察 - 論文 - researchmap

*37:たとえばバトラー『ジェンダー・トラブル』47ページ

*38:たとえばセジウィック『クローゼットの認識論』序論やバトラー『問題=物質となる身体』第8章

*39:下記の拙論の125ページより。松浦 優 (Yuu Matsuura) - メランコリー的ジェンダーと強制的性愛――アセクシュアルの『抹消』に関する理論的考察 - 論文 - researchmapジェンダーの生物学的本質主義と対人(異)性愛中心主義の結びつきは、バトラー『ジェンダー・トラブル』の「〈字義どおり化〉という幻想」論から読み解けるが、この点については下記の拙論でも論じている。松浦 優 (Yuu Matsuura) - アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察 - 論文 - researchmap

*40:下記の拙論で、「性的指向」と「性的嗜好」の区別が対人性愛中心主義や強制的性愛、恋愛伴侶規範と結びついている可能性を指摘している。

*41:一言で言えばファロゴセントリズムを暗に温存しているということである。

*42:たとえば自治体などの公的機関が広告表現等のガイドラインを作成する際には、このことを明文化しておく必要がある、

*43:2023年3月8日追記:注3を追加、「性的モノ化論の確認」の節を一部修正。2023年3月15日追記:注44を追加。2023年5月25日追記:「ささやかな提言」の節を一部加筆。

*44:余談だが、注2で触れた論考(李美淑,2023,「炎上する「萌えキャラ」/「美少女キャラ」を考える」)における「女性を客体化するイメージ」の整理で参照されているキャスリーン・ストック(Kathleen Stock)は、トランスジェンダー差別的な主張で有名な人物である。ストックに関する詳しい情報は以下を参照。
https://www.facebook.com/nayuta.miki/posts/4189162281141725