ジェンダーやセクシュアリティについての哲学的な議論では、フロイトやラカンなどの精神分析理論が繰り返し批判されてきた。なかでも有名な批判の1つが、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』だろう*1。
しかし、それにもかかわらず、精神分析理論はいまだクィア理論のなかで言及されている。もちろんフロイトやラカンの主張が素朴に肯定されるわけではない。けれど彼らの主張に批判を加えつつも、その語彙や枠組みに大きく依拠ながら、議論が展開されるのだ。
「精神分析などという、複雑怪奇な概念を乱用する非科学的なシロモノが、いまだマトモに取り扱われているのは何故なのか?」こう思われる方も少なくないだろう。実際、私も学部生の頃には似たような疑問をいだいていた。
とはいえ、昨年度に精神分析系のクィア理論について論文を書いたなかで、先の疑問についても自分なりに考える機会があった。その結果としての暫定的な回答を、以下に3点挙げてみる。
1. 「精神分析=近代社会のセクシュアリティ観」との「ズレ」を測るための参照点
フロイトの精神分析理論は、セクシュアリティに関する人々の認識枠組みに多大な影響を与えた。そのため、彼の枠組みを「近代社会のセクシュアリティ観を象徴するもの」と位置づけて議論することができるだろう。たとえば、フロイトの枠組みのなかで存在を否定されているセクシュアリティがあれば、それがどのようにして理論のなかから「排除」されているか、という検討ができる。つまり、周縁化されたセクシュアリティがどのような認識のもとで「排除」されているのか、ということを考えるうえで、精神分析は1つの参照点となるだろう。
2. 「哲学史の一部としての精神分析」という参照点
これは1点目の回答と似ているが、哲学の伝統のなかでセクシュアリティを考察するための参照点として、精神分析が用いられることがある。
たとえばバトラーは『権力の心的な生』などで、ヘーゲルの思想とフロイトの理論との類似点に注目しながら、自身の理論を展開している。またラカンの理論には、レヴィ=ストロースの構造主義やハイデガーの哲学などが積極的に取り入れられており、そのような哲学的伝統とセクシュアリティとを関連づけて議論するうえで、参照点として利用できるだろう。
3. 社会的な偏見が個々人の精神に影響する仕方を言語化するための語彙のセット
また、精神分析理論から提起された語彙や概念が、セクシュアリティについて考えるうえで役に立つこともある。たとえば「内面化」や「取り入れ」といった心理的な語彙を使うことで、社会構造がどのように個々人の自我の構築に影響するか、ということを言語化できるようになる*2。
あるいは、先ほど何気なく使った「排除」という概念も、実は精神分析理論のなかでは独特な意味で用いられている。そうした独特な用法によって、新たに重要な議論が開かれることもある。
要するに、精神分析理論は思考の素材として活用できるものであり、またフロイトやラカンの理論を参照している論者が必ずしもフロイトやラカンの主張にコミットしているとはかぎらない。……というのが、さしあたりの回答である。
精神分析には独特な概念の体系があるため、私のような素人には近寄りがたいところがある。けれど精神分析理論の背景には膨大な臨床事例の蓄積があり、そこから得られた知見には、おそらく現在でも意義のあるものが含まれているだろう。そうした蓄積をより積極的に活かしつつ、精神分析の理論を批判的に改訂していく、という立場もありうる。そのため上記の回答は、あくまでも精神分析にあまり詳しくない人間の認識として受け取っていただきたい。