境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」後編

前回の記事の続きです。

前編では、「そもそもなぜポルノが問題なのか」「ポルノは具体的にどのような害をもたらしうるのか」を議論した。後編では、そうした有害仮説について、実証面での議論を進めていく。なお論文中で言及される先行研究については、原文にてご確認ください。*1

3. 原因モデルを評価する

「ポルノグラフィが性差別や性暴力の「原因である(cause)」と主張するとき、「原因である」とはどのような意味だろうか? Eatonは以下のような定義を採用する。

(i) xがyより早く起こり、(ii) xが起きた場合にyが起こる蓋然性が、xが起きなかった場合にyが起きる蓋然性よりも高い場合にのみ、xがyの原因である。(p.696)

この定義を踏まえて、以下ではポルノ批判に対する反論として挙げられる実証研究について検討する。ポルノを擁護する立場から提起される研究は、1) ポルノ規制の緩さと性犯罪率やジェンダー平等の関係を国別比較したものか、2) ある国のポルノ規制法が変化する前後で性犯罪率やジェンダー平等がどう変わったかを比較したものである。こうした研究に対する疑問点は、

・国ごとに性犯罪の構成要件が違うので、単純には比較できない
・規制がむしろ欲望を煽るため、ポルノ規制が強まったからといってポルノ流通が減るとはかぎらない*2
・実際のレイプ件数ではなく統計データを用いているため、暗数がわからない
生態学的誤謬*3

といったことが挙げられる。それゆえポルノ批判への反論が証明されたと言うことはできない

それでも、以上の4つの疑問点が解消されたと仮定したうえで、ポルノ批判へ反論する論理を検討してみよう。上記の実証研究が正しいとしたうえで、反論側は次のように主張する。

ジェンダー不平等と性暴力犯罪は、ポルノ以外の要因によって生じる
・ポルノを100パーセント確実な害の原因とみなすのは不合理である
・ポルノユーザーへの影響は文脈依存的だ

これに対してEatonは次のような反論をする。

まず、上記の実証研究では性暴力という害しか考察しておらず、それ以外のさまざまな害に対する反論として不十分である*4

次に、反ポルノフェミニズムは、ポルノがレイプを必ず引き起こすとは主張していない。ポルノがレイプを引き起こす場合もあれば、レイプが流行していてもポルノは流通していないという場合もありうる。上記の研究はこの点を無視している。

また、ポルノの影響は他の要因によって打ち消されるかもしれないが、それはポルノが悪影響を及ぼすものであることを否定するものではない。このことを説明するためにEatonは喫煙と健康被害のアナロジーを用いる。たとえば喫煙は肺がんのリスクを高めるものだが、それ以外の要因で肺がんになることも多々ある。それでも喫煙が肺がんリスクであることに変わりはない。

賢明な反ポルノフェミニズム、ポルノが単独でレイプやジェンダー不平等の責任を負うとは主張しない。そうではなく、ポルノに曝されることはジェンダー不平等の顕著なリスク要因であるという仮説を採用するのである。このように、複数あるジェンダー不平等の原因のうち、1つの顕著な要因であるとする考え方は、現代の科学的な思考に沿っているだけでなく、不法行為法の慣習にも適合する。

4. 原因の探求

前節ではポルノ有害説に反論する研究を批判してきた。本節ではポルノが原因であると主張するためにどうすればよいかを考察する。ここでも喫煙と健康リスクの関係が参照される。たとえばタバコを一本吸っただけで必ず肺がんになるわけではないが、繰り返し喫煙を続けると肺がんになる確率が高まる。また肺がんのリスク要因は喫煙以外にもあるが、それでも現代の科学は喫煙が肺がんリスクの1つであることを証明できている。それゆえEatonは、フェミニストも疫学と同様の方針をとれないだろうかと考える。それを踏まえて、従来の反ポルノグラフィ的な研究はどのように評価できるだろうか。

ポルノグラフィ批判の妥当性を立証しようとして、これまでにもいくつかの研究がなされていた。そのうちの1つに、ポルノグラフィと性暴力との関係についての研究がある。そうした研究の例として、ポルノグラフィの流通量と性暴力の報告件数との間に相関関係があると結論づけた調査が挙げられる。こうした研究は示唆的ではあるものの、やはりポルノ批判へ反論する立場の研究と同様の批判が向けられる。まず制度上のポルノ規制と統計上のレイプ件数は、実際のポルノ流通量と実際のレイプ件数を表しているとはかぎらない。また、疫学研究のようにはポルノグラフィと性犯罪との関係を証明できていない。さらに言えば、性暴力以外の、より些細な害については調査されていない。こうした点で、ポルノと性暴力との相関関係を調査した研究は不十分であると言える。「有害仮説を仮説以上のものにするためには、より注意深い疫学的研究が必要だ」とEatonは述べている(p.706)

なお疫学的な実証を目指した研究も、不十分ながら実施されている。そうした研究は、(a) どれだけポルノグラフィを視聴したかによって、性的な文脈と性的でない文脈の両方において、性差別的な心理の次元が形成されたり強化されたりする可能性があることを示すもの、(b) ポルノグラフィ視聴とさまざまな性差別的行動とのつながりを記述するもの、という2つに分けられる。

ただしこうした研究にも問題は多い。まず、多くの研究が第1段階の影響について考察しているが、第2段階の影響には触れていない。次に、研究倫理の問題から被験者に悪影響を及ぼす可能性のある実験を行うことができず、悪影響があるかもしれないポルノグラフィを実際に見せることは難しい。また、多くの研究がかぎられた少数のグループ(主に男子大学生)に対する実験であるため、単純には一般化できない。そして、ほぼすべての研究が性的暴力に焦点を当てており、それ以外の害については研究しようとしていない。さらに、実験で確認できるのは一時的な影響だけで、ポルノグラフィの長期的な影響をとらえることはできない。最後に、こうした研究はポルノグラフィの種類を区別せずに議論している。賢明な反ポルノフェミニストは「不平等なポルノグラフィ」のみを批判するのだが、こうした研究ではポルノグラフィ全般をひとくくりにして調査してしまっているのである。

既存の研究にはこのような問題点がある。それ踏まえたうえで、次の問題を考えたい。もし仮に上記のような問題点が解消され、不平等なポルノと様々な害との間に正の相関が確認されたとすれば、そこからどうすれば因果関係を立証できるのだろうか。相関関係が因果関係であるかどうかを決定するとき、疫学者は一般に以下の基準を用いる。

1. 時間性(Temporality):疑わしい原因因子への晒されは、病気の発症に先行しなければならず、晒されと病気との間のインターバルを考慮しなければならない。

2. 強度(Strength):強い関連性は、弱い関連性よりも確かな因果関係の証拠を提供する。 関連性の強さは、相対リスクまたはオッズ比によって測定される。

3. 用量関係(Quantal-dose relationship):病原へ晒される程度、激しさ、持続時間またはその全体が増加することで、病気のリスクが漸進的に増加する。

4. 一貫性(Consistency):知見の再現は特に重要である。

5. 尤度(Plausibility):既存の知見の範囲内で、関連性はもっともらしくなければならない。

6. 別の説明の考察(Consideration of alternate explanations):観察された関連性が因果関係を示しているのかを判断するなかで、調査者がどれだけ代替的な説明を考慮したのかが重要である。

7. 中断データ(Cessation data):もしもある因子が病気の原因ならば、病気のリスクは、その因子への晒されが減少したり排除されたりすることで低下するはずである。

5 さらなる省察のための反論と問題

反ポルノフェミニズムには、以上のほかにもさらに検討すべき論点がある。一つめの懸念は、集団についての調査が個別事例について何を語れるのか、というものである。

たとえば人口10万人あたりの研究で、もし仮にポルノ消費者がそうでない人々と比べて性暴力加害者になる相対リスク(relative risk)が5倍だという結果が出たとしよう。そのことは、ジョンが性暴力加害者になるリスクについて何を説明できるのだろうか。ジョンは定期的に不平等なポルノを観ているが、フェミニストを自認しており、女性のための社会運動に勤しんでいるとする。このときジョンはフェミニズムにコミットすることで性暴力加害者になる可能性が低下しているため、母集団の傾向を表す研究の知見は、ジョンという個別の事例には適用できないことになるだろう。このような例から、以下のような疑問が考えられる。

ある集団zにyを引き起こすxの蓋然性は、zの個々のメンバーにyを引き起こすxの蓋然性と必ずしも同じではないのだから、この考え方はどのようにして個別事例を分析するのに役立つか?(p.711)

この疑問に対しても、イートンは疫学的な考え方に言及する。疫学では生物統計学によって、ある病気のリスク要因を特定する。いったんリスク要因が特定できれば、実際にどのリスク要因があるかによって、ある個人がその病気にかかる見込みを評価できる

もしも定期的にポルノにさらされることによって、ある個人が女性を傷つける――繰り返すが、幅広い害がありうることを考慮しなければならない――見込みが増すということが経験的に測定されたならば、そうした振る舞いを引き起こす他のリスク要因を知りさえすれば、集団についての研究と特定の個人のリスクとの関係を気にする必要はなくなるだろう。(p.711-712)

最初の懸念については以上のように回答できる。しかし懸念はそれだけではない。もし仮にポルノグラフィと害との間に強く明白な関連があるとしても、それは因果関係を意味するとはかぎらない。このことから、以下の三つの困難が生じてくる。

まず、因果関係の向きが逆かもしれない、という懸念である。特に第2段階の原因については、この可能性が強く考えられる。「ポルノグラフィは性差別的な態度や欲望を満たすかもしれないが、ポルノの生産と消費を説明するのは先行する態度や欲望であって、逆ではない」かもしれない(p.712)。

次に、ポルノとジェンダーに基づく害は疑似相関かもしれない。たとえばジョエル・ファインバーグが論じるように、ポルノは性暴力の原因というよりも、むしろ「男らしさの崇拝」(cult of macho)がポルノと性暴力の両方を独立に引き起こすとも考えられる。

3つめの懸念は、ポルノがある種の害をもたらすことを認めたとしても、そのときポルノが果たす役割は単に補助的なのではないか、というものである。

こうした懸念は賢明な反ポルノフェミニズムにとって重要な異論である。
イートンはこれまで疫学における議論を援用してきたが、ポルノの害を論じるうえで疫学的な因果関係を採用することには限界があるとする。というのも、病気ならば病因と症状との因果関係が明らかだが、ポルノと害については因果関係が一方向的とはかぎらないからである。そこでイートンは以下のような立場をとる。

喫煙と肺がんとの因果関係は一方向的であるのに対して、賢明な有害仮説は、ポルノグラフィとその害が正のフィードバックループという仕方でお互いを助長し合い、強化し合うと考える。(p.713)

f:id:mtwrmtwr:20180618010706j:plain

この考え方を表したものが、上の図である。「有害仮説は、複雑な因果メカニズムのなかでポルノグラフィが重要な要素であると考える」。このように、ポルノ有害仮説を考える際には、複雑な因果関係を想定する必要がある。

さらにポルノ有害仮説は、ポルノと性差別が疑似相関であるという可能性に開かれているべきである。

6 結論

1 賢明な反ポルノフェミニズムは、「不平等なポルノグラフィ」のみを批判する。

2 深刻さや性質の異なるさまざまな害が想定できるため、それを細かく分類して考察する必要がある。

3 二点目と関連して、ポルノグラフィによって引き起こされうる害は多様であるため、対処法も多様となる。それゆえ賢明な反ポルノフェミニズムは必ずしも国家的なポルノ規制に賛成するわけではない。

4 現時点では、ポルノ有害仮説は証明も反証もされていない。この論文では、疫学的な方法によって有害仮説を検証することを提案した。

5 ジェンダー不平等には複数の要因があり、あくまでもポルノグラフィはそのうちの1つである。

6 ポルノへの晒されは、想定される害の必要条件でも十分条件でもなく、状況に応じて害の可能性を高めるものである。

7 性差別におけるポルノグラフィの役割を、フィードバックループ・モデルのうえで考える必要がある。

関連記事

注釈

*1:誤訳や誤解などがありましたら、ぜひコメント等でご指摘ください(特に統計用語や疫学用語)。

*2:なおここで言う「ポルノ規制」は全面的な禁止だけに限らない。たとえば性器にモザイクをかけるという規制や、一定の年齢以下の人物を出演させないという規制なども含まれる。つまりイートンは、ある部分的なポルノ規制が、必ずしもポルノ全体の流通を減らすとは限らないと指摘しているのである

*3:集団レベルで当てはまることが、個人レベルでは当てはまらないこと

*4:前編で様々な害を細かく分類したことが、ここで重要になっている。

【文献紹介】A. W. イートン「賢明な反ポルノフェミニズム」前編

Eaton, A. W. 2007. “A Sensible Antiporn Feminism.” Ethics 117(4):674–715.

ポルノグラフィをめぐっては、日本でもネットなどでしばしば論争になる。しかしそうした “論争” は、対立する双方が論点を共有していないことも多く、往々にして不毛な議論になりがちである。実り多き議論のために、まずは「フェミニズム的なポルノ批判がどのような論理に立脚しているのか」を確認する必要があるだろう。今回取り上げる論文は、反ポルノフェミニズムの論理を基礎から徹底的に論じるものであり、賛同するにせよ批判するにせよ、議論の出発点になりうる研究である。早速本文の内容に入っていこう*1

イントロダクション

アメリカではポルノをめぐって今も論争が続いているが、近年では反ポルノフェミニズムは公的な存在感を弱めている。Laura Kipnisのようなセックスポジティブなフェミニストや、Annie Sprinkleのようなフェミニストを自認するポルノ作家が支持されている学会でも、反ポルノフェミニズムは縮小している。 今日の人文科学では、ポルノの作品に反発するよりも、作品を批判的に分析する傾向がある。

背景としてポルノ産業の発達やインターネットの影響などを指摘する論者もいるが、それ以上に、反ポルノフェミニストの主張が過度に単純化されてきたと思われる。この論文では、議論のなかで用いられる概念を明確化し、反ポルノフェミニズムの枠組みを精緻化することで、賢明な(sensible)反ポルノ論を構築することを目指す。

1. 有害仮説――そもそもなぜポルノが問題なのか

まずは「ポルノグラフィ」という言葉の意味を明確化するところから始める。つまり「反ポルノ」というときに何が批判対象とされているのか、ということを明確にするのである。

賢明なポルノ批判では、批判の範囲を「不平等なポルノグラフィ」(inegalitarian pornography)に限定する。「不平等なポルノグラフィ」とは、ジェンダー不平等によって特徴づけられた関係(行為、シナリオ、または姿勢)を全体としてエロス化するような、性的にあからさまな表現」のことである(Eaton 2008: 676)。ただし、「不平等なポルノグラフィ」は必ずしも暴力的なポルノグラフィとは限らない。たとえばある種のBDSMのように、外見上は暴力的だが必ずしも不平等とは言えない性行為がある。さらに暴力的ではないが不平等である場合もある。以下「ポルノグラフィ」という語で「不平等なポルノグラフィ」を指すものとする。

では、こうした「不平等なポルノグラフィ」は何故、どのようにして女性に害となるのだろうか。ポルノグラフィが女性に害を及ぼすとする主張を総称して「有害仮説」(harm hypothesis)と呼ぶ。この仮説は以下のような論理に則って主張される。

i) 私たちの社会はジェンダー不平等を特徴としている。

ii) これは重大な不正義である。

iii) 女性の従属は決して自然なものではなく、社会的要因の束によって維持・再生産されている。そうした要因には露骨なものもあれば些細なものもある。

iv) ある意味で、ジェンダー不平等は多くの人々にとって性的な魅力あるものとなっている。

v) こうした不平等な関係への性的欲望もまた自然なものではなく、さまざまな種類の表現を通じて形成される。

vi) ジェンダー不平等を性的な魅力あるものへと変換することは、ジェンダー不平等を許容しやすくするだけでなく、むしろそれを楽しめるものにしてしまう。さらにジェンダー不平等に結びついた喜びは、多くの人々に浸透してゆき、それによってジェンダー不平等を広げる。こうしたジェンダー不平等のエロス化は、男性にも女性にも作用する。そしてジェンダー不平等のエロス化は、性差別に有利な肉体的欲求や性的欲望を高める。

vii) ポルノグラフィは、a) 受動的な征服の対象から屈辱、堕落、性的虐待のシナリオに至るまで、様々な不平等な関係や状況から性的快感を得る女性を描写することや、あるいは b) 性的興奮を目的とした方法で従属の表象を提示することによって、ジェンダー不平等のメカニズムや規範などをエロス化する。

 ゆえにポルノグラフィは特に、視聴者にジェンダー不平等な見方を内面化させるものである。このように、フェミニズムはポルノグラフィが猥褻だから批判しているのではなく「ポルノグラフィは女性の利益を追求する能力を損なうか、または妨げるという意味で、女性を傷つける原因となる」から批判しているのである。

 ただし議論を進める前に、この仮説についていくつか補足すべきことがある。

1. 不平等なポルノグラフィが批判されるのは、単に女性が従属させられている様子を描いているからではない。あくまでも問題なのは、不平等なポルノグラフィが女性の服従や堕落を是認したり推奨したりすることである。たとえば、女性の性虐待被害を告発するドキュメンタリーなどは、女性の従属を描いているからといってフェミニズムの批判対象となるわけではない*2

では、どのような場合に「女性の服従や堕落を是認したり推奨したりする」ことになるのだろうか。Eatonによれば以下の3つの要素によって、ポルノグラフィがジェンダー不平等を是認する。(a) 従属、堕落、またはモノ化する行為が加害者とその行為の対象となる女性の両方にとって楽しいと強く示唆する表現であり、(b) そのような扱いが容認され、また相応しい扱いであると示唆するような表現である。さらに(c) 不平等なポルノグラフィは、女性が堕落してモノ化した描写をエロス化する。

2. 一口に「ポルノグラフィがジェンダー不平等をエロス化する」と言っても、そこでエロス化されるジェンダー不平等の程度はさまざまである。たとえば、暴力的でなくとも、支配的な男性によって女性が性的に刺激されるという描写はジェンダー不平等的であると言える。

3. ポルノグラフィだけがジェンダー不平等を促進し維持するわけではない。しかしポルノグラフィは、激しくエロチックな形式によって、特に強く不平等なメッセージを発する。

4. 有害仮説は社会構築主義の枠組みに現れる必要はない。ジェンダー不平等は自然なものなのか、そうした不平等に性的魅力を抱くことは自然なものなのか、という議論は究極的には解決しないかもしれない。しかし、ジェンダー不平等は正当ではなく、そのエロス化を通じて強化されたり仕込まれたり悪化されたりすることがありうる。必要なのはこの点を受け入れることであり、一切のジェンダー不平等がすべて社会的に構築されているという主張を受け入れる必要はない。

5. ジェンダーヒエラルキーをエロス化することは、すでに存在する不平等の条件を強化したり悪化させたり、差別的な振る舞いへの非難を弱めたりして、それによって聴衆をジェンダー不平等の心理を内面化させやすくするものである。ここからわかるように、ポルノグラフィの害は必ずしもレイプを増加させるという形をとるとは限らない。ポルノグラフィの有害/無害を考えるうえで、レイプ件数は決して唯一の指標ではないのだ。

以上を踏まえたうえで、今度はポルノグラフィによる害を丁寧に腑分けしていく作業に移ろう。

2. 害の分類――ポルノにはどのような問題がありうるか

Eatonはポルノグラフィによる害を詳細に分類する。まず、ポルノグラフィへの晒されを「第1段階の原因」(stage 1 cause)、ポルノグラフィ消費者への影響を「第1段階の影響」(stage 1 effect)、消費者に促す行動を「第2段階の原因」(stage 2 cause)、他の当事者への加害を「第2段階の影響」(stage 2 effect)として、大きく4つに区分する。以下で各段階を細かく見ていく(章末に議論を整理した図が掲載されているので、参考にしてほしい)。

第1段階の原因(stage 1 cause)では、ポルノグラフィを視聴する段階が扱われる。ポルノグラフィの視聴は、さらに「単一的な原因」(Singular causes)と「拡散的な原因」(Diffuse causes)に分けられる。前者は特定のポルノグラフィを単発的に視聴することであり、後者は継続的に様々なポルノグラフィを視聴することである。単一的な原因と拡散的な原因のそれぞれについて、(1) 視聴するポルノグラフィがどの程度不平等的か、(2) 視聴頻度や期間によって分類できる。さらにポルノグラフィ使用が限定された集団のなかにとどまっているか、社会に広く浸透しているか、という点に注目することも重要である。

第1段階の影響(stage 1 effect)は、ポルノグラフィ消費者への影響である。先に述べた「単一的な原因」は、他の影響から独立しており、また即座に定着するような影響を与える。これを「独立した影響」(Isolated effects)と呼ぶ。ポルノグラフィに対するほとんどの心理的反応は前者の独立した影響である。これに対して「拡散的な原因」は「累積的な影響」(Cumulative effects)を与える。独立した影響と累積的な影響のそれぞれについて、「生理的な影響」(physiological effects)と「態度的な影響」(attitudinal effects)がある。前者は不平等な表現に対する性的反応を調教するという影響であり、後者は女性の劣位に関する意識や信念への影響である。態度的な影響はさらに意識的/無意識的、積極的/消極的に分けられる。この第1段階の影響は、控えめな性差別的態度から、実際の暴力行為まで、重大さについて連続性がある。

第2段階の原因(stage 2 cause)は、第1段階の影響が社会に現れたものである。言い換えれば、ポルノグラフィの影響を受けた人々の行為である。第1段階の原因と同じく単一的/拡散的に分けられる。さらに言語的/非言語的、暴力的/非暴力的、ささい/ひどい、というように多様な行為が含まれる。また、害の現れ方も多様であり、家庭での行為から職場で行為、あるいはプライベートな性関係から法廷での争いにいたるまで、公/私でさまざまに区分できる。具体例としては、専門的な状況で女性の身体を公然と見ている習慣のようなものから、裁判で強姦者に寛容になるという無意識なもの、同意のセックスと強要されたセックスを区別できない、というものなどが挙げられる。

第2段階の影響(stage 2 effect)は、第2段階の原因によって(主に女性が)受ける被害のことである。これも独立的/累積的の2つに分類できる。さらに下位分類として、身体的な被害か心理的被害か(あるいは両方か)という分類が挙げられる。この被害についても、軽度な被害から重大な被害に至るまで様々である。

最後に、上記の4つすべてを横断する区分として、「個々人としての女性」への被害と「集団としての女性」への被害、という分類ができる。前者は特定の個人が受ける被害である。後者は、特定の個人が被害を受けたとは言えないが、総体としての女性の地位を引き下げるようなものである。

以上を整理したものが、次の図である*3

f:id:mtwrmtwr:20180607114405j:plain

このように、ポルノグラフィからは複合的で連続的な害を想定できるが、そのうちどれが妥当な有害仮説で、どれが非合理的な主張なのかを選り分けることが必要である。また、害の種類によって求められる対応・対策も変わってくる*4。上記の分類によって、そうした議論を洗練させることができるようになる。

長くなったので、ここで一区切りとする。後編では以下のような論点が検討される:

・「ポルノグラフィが性差別や性暴力の「原因である(cause)」と言われるとき、「原因である」とは具体的にどのような意味なのか?

・実証的な先行研究ではポルノの悪影響について賛否両論あるが、これらの先行研究をどのように評価するべきか?

・結局「有害仮説」は立証されたのか?

 

*1:以下、誤解や誤読などがありましたら是非コメント等でご指摘ください。

*2:この点について正しく理解できていない論者が、ポルノ批判側にもしばしば散見されるとEatonは指摘している。

*3:画質が悪いので、読みにくい方は元の論文データを確認してください

*4:ポルノが有害であると主張するからといって、必ずしもポルノの法的規制を要求するわけではない。どのような意味で「有害」なのかによって、法的規制という手段で対応すべきか否かも議論が分かれるのである。こうした点を検討するためにも、害の分類は欠かせない。

「(性的)モノ化」論のアップデート――心理学的研究を踏まえて【文献紹介】

E Orehek and CG Weaverling (2017) “On the Nature of Objectification: Implications of Considering People as Means to Goals,” Perspectives on Psychological Science, 12(5): 719-30

全文PDFは上記リンク先でダウンロードできる。

梗概和訳

人がある目標への手段として扱われるとき、モノ化される。 よく知られた例としては、女性が性的にモノ化され、身体的な外見、性、または個々の身体部位へ縮小されることが挙げられる。 このようなとき、人はモノと同じ方法で使用され、他者の目標に合わせて評価される。 この論文の目的は、モノ化のより良い理解を得ることである。私たちは(a)目標達成のための手段 - 目標(means-goal)関係の基本原理を概説し、(b)人がある目標の手段であるような場面に関する先行研究をレビューし、(c)人が目標の手段として奉仕する場面における手段 - 目標の心理に照らしてモノ化を説明し、(d)モノ化の帰結に関する私たちの解説の含意を説明する。具体的には、モノ化は不可避であり、その道徳性を含めたモノ化の帰結は、モノ化された人が奉仕する目標と、モノ化された人がその目標に奉仕したいかどうかとに依存すると主張する。

内容整理

「モノ化」(Objectification)は哲学的にはカントやマルクスサルトルなどの議論があるほか、20世紀後半以降はフェミニズムの観点から「性的モノ化(性的客体化)」(Sexual objectification)も議論されており、近年ではヌスバウムの議論も重要視されている。今回取り上げる論文は、こうした議論に心理学的な研究を踏まえながら応答していくものである。なお記事終盤に要約を箇条書きしているので、必要に応じて活用していただきたい。それでは、さっそく内容に入っていこう。

「モノ化」を定義する

道具性

「モノ化」論において最も重要な論者の一人としてマーサ・ヌスバウムが挙げられる。ヌスバウムは「モノ化」に複数の意味があることを指摘しつつ、そのなかで「モノ化」の特徴を真に定義づけるのは「道具性」(instrumentality)であるとする。道具性とは、ある対象をある目的のための手段や道具として使うことである。

道具性を介したモノ化には、自分の目標にとって有用かどうかという基準によって他者を知覚したり、定義したり、評価したりすることが含まれる。つまり、モノ化はある人が他人の目標達成のための手段と見なされたときに生じる。

「モノ化」がよく言及されるのは、「性的モノ化」というフェミニズムの文脈である。しかし「モノ化」自体は性的な場面だけに生じることではない。たとえば「企業が従業員を交換可能な機械として扱う」といった場面でも「モノ化」が起きていると言える。

他人を評価する

ところで、道具としての有用さによって他人を評価する、ということは仕事のみならず恋愛などでも、日常的に行われている(これについて論文中ではいくつかの文献が挙げられているので、興味があれば原文を参照してほしい)。このように、「ある人が目標を追求しているときに、目標を達成する上での道具性にしたがって他人を評価する」(p.722)。つまり私たちは日常的に、自分の目標を達成するうえでの有用度によって他人を評価しているのである。この事実が、「モノ化」の道徳性を考えるうえで重要になってくる。 

「モノ化」自体は不可欠

従来から指摘されてきたように、人が「モノ化」されることによって、多くのネガティブな影響が生じることがある。たとえば「性的モノ化」の議論では、「自尊心の低下、羞恥心、罪悪感、性的快感の低下、抑うつ、無価値感」などが挙げられている。

(「性的モノ化」にかぎらず)「モノ化」については、カント以降さまざまな哲学者によって議論されてきた。代表的な人物はカント、マルクスサルトル、そしてヌスバウムである。このなかでカント、マルクスヌスバウムらは「モノ化」全般を原則として不道徳的なものと考えていた。それに対してサルトルは、どちらかといえば「モノ化」を必要不可欠なものだと考えていた。

これについて心理学的な研究からは、後者の「『モノ化』は必要不可欠だ」という立場が支持される。心理学の諸理論によれば、「人とモノは同じやり方で、同じ原理にしたがって精神的に表象される」のである(p.723)*1

そこで著者らは「モノ化をもたらす心理的プロセスは道徳的でも不道徳的でもない」、「代わりに、道徳性の決定は、評価が行われるプロセスではなく、評価される目標の内容に依存する」と主張する。「モノ化そのものは、評価において不可欠な心理学的プロセスを記述するものであるため、不道徳たりえない」のである。

つまり「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。そして「モノ化」それ自体は良くも悪くもない。

しかし「モノ化」によってネガティブな影響が出る場合があるのも事実である。それでは、どのような「モノ化」はネガティブな影響につながるのだろうか。言い換えれば、どのような「モノ化」が道徳的に非難されるべきなのだろうか。

どのような「モノ化」が道徳的非難の対象とされるのか

従来はどちらかといえば、「モノ化」を原則として悪いものだと考える議論が主流だった。しかし現実には、むしろ自ら「モノ化」されることを望むことさえある*2。さらに言えば、「道具」としての役割を上手く果たせなかったことによって意気消沈する、ということも日常茶飯事である。

このように考えると、ヌスバウムらが考えていた「モノ化」の問題は、モノ化する側とモノ化される側の双方の願望が食い違うことで生じるものだと言うことができる。つまり、望まない目標への「道具」としてのみ評価され、他の側面から評価されることがなかったり、またその目標への「道具」以外の行為ができないものとみなされたりしたとき、私たちは見下されたような感覚や自己を否定されたような感覚を抱くのである。

具体例で考えてみよう。一般的に、医者は自らの医学的知識や技術によって評価されることを望んでいる。もしこの医者が仕事の場面で、医学的能力ではなく性的魅力によって評価されたり、性的誘惑に応じることを期待されたりすると、自己を否定されたように感じるだろう。他方で、この医者が自分の配偶者の性的目標のために役立ちたいと望んだときには、性的魅力によって評価されることでむしろ自己肯定感が高まるだろう。

「所有」の是非

このほか、「道具」として評価されるとき、しばしば代替可能なものとして認識されることがある。こうした点から、「モノ化」は「所有」と結びついている指摘されることがある。つまり、「道具」は売買や交換ができるということである。最も極端な例は奴隷であるが、それほど極端でなくとも、たとえばプロ・スポーツなどでチーム同士が選手を交換することなどもこれに該当する。

そもそも「私の目標」「あなたの目標」などと言うように、「目標」という概念自体が関与と所有(commitment and ownership)を暗に含んでいる。また「彼は私のもの」「私の子供」などと言うように、親密な関係性にも関与と所有が含まれていると言える。

このように考えると、「所有」されること全般が一様に悪いというわけではない。合意があるかどうかや互恵的かどうかによって、「所有」の善悪も分かれるのである。

それでは、「モノ化」によるネガティブな影響に対しては、どのような処方箋が求められるだろうか?

有害な「モノ化」に対して、どのような対策が必要か

ここまで見てきたことから分かるように、「モノ化」される当人がその目標に関して道具として奉仕することを望むか否か、ということが「モノ化」の善悪評価にとって重要になる。

具体例で考えてみよう*3。職場における女性の「モノ化」をなくすためには、彼女らを性的魅力によって評価するのではなく、職務能力によって評価することに焦点を移す必要がある。言い換えれば、職場の従業員を「道具性」(「モノ」としての有用さ)によって評価することを止めろと主張するのではなく、適切な次元での「道具性」によって評価すべきだということである。そして女性の「性的モノ化」について付け加えれば、女性が性的目標のための有用さという観点から評価されることをすべて排除する必要はなく、文脈と「モノ化」される当人の希望にもとづいて判断されるべきということになる。

結論

まとめよう。

★「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。
★「モノ化」は他者を評価するときに日常的に行なわれており、それ自体は良くも悪くもない。

★「モノ化」は以下の場合に有害であり、道徳的非難に値する:
・「モノ化」する側の人間が、自分が不道徳だと思っているような目標を達成するために、他人を道具として使う場合
・「モノ化」される側の人間が、道具として奉仕することを望まないような目標に関して、道具としての有用度にもとづいて評価される場合

関連記事

注釈

*1:その例として認知的不協和理論や意思決定の理論などが挙げられているので、興味がある方は原文を確認してほしい

*2:論文中では、パートナーをケアする例が挙げられているほか、集団内で「道具」として上手く役に立つことが自尊心やポジティブな感情につながるという研究が取り上げられている

*3:以下の具体例はp.726

無性愛(アセクシュアル)研究への招待――英語圏での研究動向(文献メモ)

Ela Przybylo (2016) "Introducing Asexuality, Unthinking Sex." in Introducing the New Sexuality Studies 3rd Edition (pp.181-191) 

f:id:mtwrmtwr:20201103145234j:plain

当該箇所の全文pdfはこちらのリンク先でダウンロードできる。  https://www.researchgate.net/publication/312664690_Introducing_Asexuality_Unthinking_Sex

今回のブログはあくまでも上の文章のまとめメモである。ブログ内で取り上げていない箇所にも重要な解説があり、また文献リストも充実している。ぜひ原文を活用していただきたい。なおブログ筆者は英語素人なので、例によって誤訳誤解などがあればご指摘ください。

Aセクシュアルとは

Aセクシュアルとは「セックス、性的実践、そして人間関係におけるセックスの役割などについて無関心であったり反感をいだく人」全般を指す、包括的な用語 (umbrella term) である。それゆえAセクシュアルという概念は、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、パンセクシュアル、そしてストレートなどのような性的指向を横断するものである。言い換えれば、「セクシュアル/Aセクシュアル」という単純な二元論では整理できないということである*1

Aセク自認者がセックスに対して取る態度

Aセク研究者Mark Carrigan (2011)によれば、Aセク自認者がセックスに対して取る態度は大きく3つに整理できる。1つめは「セックス肯定 (sex-positivity)」という態度であり、性行動を必ずしも欲してはいないかもしれないが、それでもセックスを肯定的で有効なものと見なす態度である。2つめ「セックス中立(sex-neutrality)」という態度で、セックスに無関心な態度である。3つめは「セックス嫌悪(sex-averse or anti-sex disposition)」という態度であり、理屈抜きにセックスを嫌なもの、不快なものと感じる態度である。

心理学的研究

心理学系のAセクシュアル研究からは、性器など身体的な興奮を経験しているからといって、主観的にも*2興奮を経験しているとは限らないという考えが出ている。

心理系の研究においてAセクシュアルは、性的に惹かれる感覚が低いこと、性行動を実践しないこと、あるいは単純にAセクシュアルを自認していること、といった観点で定義されてきた。近年の心理学的な研究では、Aセクシュアルをグラデーションと捉え、12問の質問によってAセクシュアルである度合を測る "Asexuality identification Scale"が考案されている。

Aセクシュアルの人口について、世界人口の1%ぐらいだという研究もある。ただしこうした研究はあくまで西洋諸国のデータに限られるということを留意しておく必要がある。

 Aセクシュアルを「定義する」ことへの困難

ここまで述べてきたのように、Aセクシュアルにも色々な人がいる。しかしAセクシュアルに関する言説は、往々にしてAセクシュアルを単純化しがちである。よくある言説は、「Aセクシュアルは「選択」ではなく「生まれつき」のセクシュアリティであり、生涯変わらない」とか「Aセクシュアルは性的関心を一切欠いている」などと規定するものである。このように定義することは、Aセクシュアルが多様であるという理解を妨げかねない。

先に挙げたように、心理学的な研究の中には、Aセクシュアルについて一定の基準で「科学的」に定義するものがある。しかし何らかの基準を設けてAセクシュアルを「科学的」に定義することは、Aセクシュアルにアイデンティファイするかどうかを決める権利を当事者から奪い取ることにつながる。言い換えれば、当事者が自らのセクシュアリティに対して持つ権限を切り下げることになるのだ。

「真のAセクシュアル」が「科学的」言説によって定義されたとき、そこから零れ落ちる人々が周縁化されてしまう、という問題がある。さらにこうした定義は別の問題にもつながってくる。

Aセクシュアルというアイデンティティの基準として、自身のセクシュアリティが生涯不変であることを当事者らに強要するのは不当である。なぜならセクシュアリティそのものが、私たちの生に関する状況や文脈が変化するにつれて、生涯を通じて変化しうるからだ。同様に、Aセクシュアルは決して選択ではなく「生まれつきの」ものであると仮定してしまうと、私たちのセクシュアリティが社会的に位置づけられた文脈において理解されるということを見落としてしまう。(p.184)

セクシュアリティに関する理解は、私たちの社会にある認識枠組みによって大きく左右される。たとえば、単に「同性愛行為をしている」人がいるというだけでは「同性愛者」という概念は成立しない。「誰とセックスをするのか」がアイデンティティに関わる問題として認識されるようになったとき、初めて「同性愛者」という概念が可能になるだろう。

同じことがAセクシュアルについても言える。単に「性欲がない」「セックスをしない」というだけでは「Aセクシュアル」という概念は成立しない。「性欲がない」「セックスをしない」等がアイデンティティに関わる問題として認識されるようになったとき、初めて「Aセクシュアル」という概念が可能になる。

なので「同性愛者」という概念が存在しなかった時代があるように、「Aセクシュアル」という概念が存在しなかった時代も当然ある。しかし、だからといって当時の「性欲がない」「セックスをしない」人々が “現代で言うAセクシュアル的な人々が経験するような困難” を経験していなかったとは限らない。もしAセクシュアルを「生涯Aセクシュアルを自認し続けた人」として定義してしまうと、そうした歴史上の「Aセクシュアル」差別や「Aセクシュアル」的経験が無視されてしまう*3

「強制的性愛 (compulsory sexuality)」とは

強制的性愛("sexual imperative” or "compulsory sexuality")とは、簡単に言うと「人間はみな性的であるべきであり、また性を欲望するべきである。そして性的でなかったり性を欲望しなかったりすることは本質的に間違っており、治療が必要である」という社会規範のことである。具体的には、「(1) 人間関係においてセックスを特権化し、(2) セクシュアリティを自己形成や自己認識において中心化し、(3) セックスを健全であることへと付属させ、(4) セックスをカップル関係、愛、親密性などと結合させる」ことを通じて、セックスとセクシュアリティを特権化することである。

また、「セクシュアリティは私たちの人生と人間関係において普遍的な要素である、という信念を中心として編成される社会」を表す言葉として「性社会 (sexusociety)」という語も作られている。

 「強制的性愛」と人種、障害、ジェンダー

たとえば、障害者は性欲のない存在であってほしいという暗黙の願望が、社会には存在している。障害者は強制的に「脱性化」されていると言えるだろう。こうした期待は、「どのような人間の生が、生きやすいとみなされたり再生産に値すると考えられたりするのか」ということに関する認識と密接に結びついている。それゆえ極端な場合には、国家による強制的な断種政策にもつながる。
他方で人種化された集団は、過度に性的な存在としてイメージされる。それゆえ彼らがAセクシュアルを自認しても信じてもらえない、という事態が生じることがある。

このように、セクシュアリティは正常であることや規範的な身体にとって当然必要であると見なされている。それゆえAセクシュアルは歴史的に治療対象と見なされてきた。たとえば19世紀後半以降、性欲が低いということが「性的麻酔 (sexual anesthesia)」(Krafft-Ebing 1886/1922)、「阻害された性欲 (inhibited sexual desire)」 (Lief 1977)、「不感症 (hypoactive sexual desire disorder)」(DSM-III-R 1987) などとされてきた。さらに近年でも「冷感症 (female sexual interests arousal disorder)」や「 男性不感症(male hypoactive sexual desire disorder)」 (DSM-V203)といった扱いが為されている。このように、性欲が低いということは「不健康」であると見なされ、性科学や医学の対象となってきたのである*4

ジェンダーについて言えば、多くの女性が性的不感症と診断されるという現象がある。2002年のとある調査では、アメリカの女性のうち1/3が不感症かもしれないという結果が出たそうである。これに対しては「女性は、社会でよく奨励されるセックスが気に入らないために、性的欲求のレベルが低くなるのではないか」「ヘテロノーマティブな文脈の中では、男性のオルガスム、快楽、満足感、性交を中心としてセックスが編成されているのではないか」といった指摘がなされている。こうした論点は、女性は性的に受動的であるべきだという社会規範とも関連していると考えられる。

また、現代のAセクシュアルのコミュニティには男女二元論に収まらない人々*5が多いという調査も出てきている。トランスジェンダーAセクシュアル自認との関連についてはさらなる研究が待たれる。

Aセクシュアル差別

ゲイル・ルービンなどのフェミニストは性に関する様々な偏見を打破しようと試みてきた*6。しかしルービンの代表的論文 "Thinking Sex" (1984) においてAセクシュアルやそれに類するセクシュアリティは見落とされていた。こうした傾向はルービンに限らず、その後のセクシュアリティ研究にも見られた。

また、心理学者Cara Maclnnis と Gordon Hodson (2012) がカナダの大学生を対象に行った調査から、「反Aセクシュアルな偏見 ("antiasexual bias" or "antiasexual prejudice")」が存在することが分かった。これはAセクシュアルを「不完全な人」「人間性を欠いた、嫌な人」と捉えるような偏見である。強制的性愛のもとで、Aセクシュアルは周縁化され、差別されている。性が重視される社会においてAセクシュアルが周縁化されている、ということを認識することが必要である(Cerankowski and Milks 2014:13)。

ヘテロノーマティブでも、クィアでも、困難

まずヘテロノーマティブな集団において、異性に対して性的関心をいだくことが「普通」であるとされており、そこから外れる場合に不利益を被る。たとえば猥談や好みの異性の話などは、集団の結束を強める会話として位置づけられている。こうした文化に馴染めず居場所がなかったという語りが、Aセクシュアル男性への調査から出てきている (Przybylo 2014)。

他方クィアカウンターカルチャーは、性に関する強制的な規範に挑戦するが、しばしばセックスをクィアな関係において不可欠なものとみなすことがある。そうした場合Aセクシュアルの人々は、クィアな集団内に居場所がないと感じることになる(Cerankowski and Milks 2014)。

セックスとセクシュアリティが人間関係の結束において普遍的で本質的だとする固定観念によって、Aセクシュアルクィアな文脈からもヘテロノーマティブな文脈からも排除されることになる。

交際関係における困難

また、Aセクシュアルの人々は、特にAセクシュアルでない相手と交際しているときに、望まないセックスを強制されやすい。その結果、恋愛関係を希望しつつも、そうした望まないセックスのために関係を諦めることもある*7

Aセクシュアルの抹消と不可視化

最後に、「強制的性愛」 の規範がある社会では、Aセクシュアルは理解不能な存在と見なされる。そのときAセクシュアルは、「性的に未熟な人」「潔癖でお堅い人」「抑圧された人」「性的に解放されていない」「性的なことから目をそらしている」などと見なされ、不健康で治療の対象であると位置づけられるのだ。あるいは、Aセクシュアルの人は、Aセクシュアルでない人々から「本当に性に関心がないのか?」と疑問を向けられることがある。「お前はAセクシュアルなどと名乗っているが、本当は性に関心があるのではないか? 嘘をついているのではないか?」というように、Aセクシュアルであることを否定するような言葉を向けられることもある。

このような否定的な尋問や、Aセクシュアルへの偏見などによって、Aセクシュアルへとアイデンティファイすることが困難になる。つまりAセクシュアルという存在が抹消され、不可視化されるのである。

結論

セクシュアリティ研究をする人も含めて、私たちは「強制的性愛」のもとでAセクシュアルが差別され、不可視化されていることを認識しなければならない。こうしたAセクシュアルの不可視化を認識することによって、この社会においてセクシュアリティがどのように位置づけられているかを明らかにすることができるだろう。

関連記事

*1:一口に「Aセクシュアル」と言っても、「グレーAセクシュアル」や「デミセクシュアル」などのように、単純な定義ではとらえきれないアイデンティティを持つ人々もいる。また、性的指向に関するアイデンティティのほかに、恋愛的指向に関するアイデンティティも無視してはならない。なお「グレーAセクシュアル」「デミセクシュアル」や「恋愛的指向」などについてはググれば出てくるので、各自調べてほしい

*2:ここで言う「主観的に」とは、精神や感情のレベルで、ということ

*3:そもそも、もし「生涯Aセクシュアルであり続けること」がAセクシュアルを名乗る条件だとするなら、「Aセクシュアルであることが、死ぬまで証明できない」ということになってしまう。こうした論点については、こちらの記事 恋愛しなくちゃいけないの? アセクシュアルの私が感じる生きづらさ が読みやすくてオススメ

*4:病名の訳語が不正確かもしれませんが、ご容赦ください

*5:トランスジェンダージェンダークィアジェンダー中立、アンドロギュノスなどのアイデンティティが挙げられている

*6:たとえば乱交、自慰、S/Mなどの性実践や、レズビアンやゲイなどの性的アイデンティティ

*7:前述のように、性的指向と恋愛的指向は区別して考える必要がある

【翻訳】英語圏の二次コン(toonophilia)概説――二次コンをめぐる言説、および当事者の声

2012年8月31日 マーク・グリフィス(Mark Griffiths)

 以前のブログで、ファーリー・ファンダム(Furry Fandom:動物に扮することで性的快感を得たり、あるいは動物の格好をした人とセックスすることで性的快感を得る人のこと)と対物性愛(objectum sexuality:無生物または構造に対して、感情的なあるいは恋愛的な深い愛着をはぐくむ人のこと)について調査してきた。今回はトゥーノフィリア*1について、様々なネット上の言説を蒐集した。

 トゥーノフィリアとは、性的あるいは感情的に漫画のキャラクター(日本のアニメキャラクターを含む)へ惹きつけられるという性的倒錯のことである。ネット上ではいくつかの若干異なる定義が見られるが、その中には、漫画のキャラクターにしか性的関心がないという人だけがトゥーノフィリアだ、と主張するものがある。また、fictophilia(虚構嗜好:本のなかの架空の人物へ、恋愛的あるいは性的に惹かれる人)やgameophilia(ゲーム嗜好:たとえば『トゥームレイダー』のララ・クロフトといった、架空のビデオゲームのキャラクターに対して、恋愛的あるいは性的に惹かれる人)などと同じような嗜好であるとする主張も見られる。あるウェブサイト*2では、トゥーノフィリアを一種のライフスタイルと捉え、そして「人間とマンガキャラクターとの間に物理的接触がないがゆえに」トゥーノフィリアの性行動は(当然のことだが)マスターベーションによって構成されると主張していた。


 私はトゥーノフィリアについて学術的に言及されているのを、一度だけ見かけたことがある。2009年に”Forensic and Medico-legal Aspects of Sexual Crimes and Unusual Sexual Practices” (『性犯罪と非定型的性実践の法医学』)の題で出版された、Anil Aggrawal 氏の博士論文内で、性嗜好の包括的なリストに挙げられていた。しかしそこでの言及は、1行の定義だけだった。またこの本では、トゥーノフィリアが「schediaphilia」という別の名前で知られていることにも言及していた。このほかに私はブレンダ・ラブ氏の(基本的にとても信頼性が高く包括的な)"Encyclopedia of Unusual Sex Practices"*3を確認したが、トゥーノフィリアについての言及はまったくなかった。
 最も有名なトゥーノフィリアの1人は、漫画家のロバート・クラム(Robert Crumb)である。彼は幼い頃、女装していたときにバッグス・バニーに性的に惹かれた、と公言している。具体的には、彼はこう言った:

「5歳か6歳ぐらいの頃だっただろうか。私はバッグス・バニーへ性的に惹かれました。そして私は、このバッグス・バニーを漫画の表紙から切り取って、自分と一緒に持ち歩いていました。ポケットに入れて持ち歩いて、定期的にそれを取り出して眺めていて、そして……そして、長らく持ち歩いていてくしゃくしゃになったので、アイロンをかけて伸ばしてもらうよう母に頼んだのです。そして母はそのとおりにして……私はひどくがっかりしました。母がアイロンをかけたことで、その表紙は茶色になり、ぼろぼろに崩れてしまったので」

 芸術投稿サイトDeviant Artのウェブサイトで行われた定期的な投票では、58人のユーザー*4のうち60%が「あなたはトゥーノフィリアですか?」という設問に対して「はい、そのとおり」と答え(n=35)、14%が 「いや、そうでもない」と答え(n=14)、そして16%が「多少は」と回答した。もちろん、そのアンケートが科学的でないことは承知しているし、回答者の数も非常に少ない。だがそのアンケートは、私が見つけることができる唯一の数値データだった。また2008年のハフィントン・ポストの記事*5は、漫画のキャラクターと公的な関係を持ちたいというトゥーノフィリアもいると報じた。その記事では、Toonophile Planetのウェブサイトが(そのキャラクターがまだ他のトゥーノフィリアと結婚していないと仮定して)婚姻証明書を提供していたと報告した。さらに、人間と漫画のキャラクターの関係や結婚を合法的にするよう本気で求める請願が、Go Petitionのウェブサイトにある。請願によると:

「トゥーノフィリアは広がりつつある考え方だ。漫画/ビデオゲームのキャラクターへの心からの愛のみならず、私たちは彼らの存在感を感じており、さらに私たちのキャラクターへの愛はあなたや私の存在と同じぐらいリアルである。トゥーノフィリアたちはインターネット上でヴァーチャルな恋人たちのと結婚を表明しており、ヴァーチャルな結婚証明の件数は増加している。トゥーノフィリア向けのウェブサイトの例として以下のものがある。www.sonic-passion.com、www.toonophilia.net*6。これらの結婚証明書は残念ながら単なる仮想にすぎない。私たちは、私たちの名前と愛する人の名前が書かれた「法的な」結婚証明書を要求する。私は実在の人間との関係に興味を持ったことは一度もなく、仮想のキャラクターにしか興味がない。この請願は十分な署名が集まり次第、BBCに送られる。私たち署名者は、イギリスにおいて人間と仮想のマンガ/ビデオゲームのキャラクターとの結婚を認めるよう要求する」

 またハフィントン・ポストの記事では、他のウェブサイト(ToonsPortalなど)は様々なキャラクター(たとえば『原始家族フリントストーン』など)の猥褻でポルノグラフィックな画像や動画を特集していると記述した。2012年3月に、Willow Monroeはトゥーノフィリアに関するオンラインエッセーを書いた。書いてある内容についての裏付けは何もなかったが、彼女は次のように主張していた:

「トゥーノフィリアにとっての性的魅力は、ジェシカ・ラビットやベティ・ブープのような露骨なエロチックなキャラクターである必要はなく、愛情や欲望の対象は――バッグス・バニーからミズ・パックマンにいたるまで――あらゆるアニメやスケッチであり得る。トゥーノフィリアは、彼らの憧れるキャラクターの画像を持ち歩いたり、ぬいぐるみやフィギュアを収集したりすると知られている。トゥーノフィリアに友好的なサイトの中には、自分の好きなキャラクターがまだ求婚されていなければ、サイトのメンバーがそのキャラクターと結婚することを許可するというところもある。ウェブ上には、このフェティシストの空想に応える豊富なサイトがある。さまざまなキャラクターについて、想像しうるあらゆる種類の性的行為を演じているのを見ることができる。インターネット上のポルノマンガのうち、ずば抜けて最もポピュラーな形式は、日本のアニメ市場によって提供されている。アニメ調で描かれたポルノマンガは俗にHentaiと呼ばれている。その単語の語源からは、このスタイルの起源となったアーティストたちが自分の作品を、「倒錯(perversion)」と訳されるような言葉で示されるものとして考えていた、ということを読み取ることができる」

 私は休暇の時間でトゥーノフィリアについてのフォーラムを漁り回り、漫画のキャラクターと恋愛をしたり長年にわたる性的関係を持っていると主張する何十人もの人々に出会った。例えば、これはいくつかの(真正の)告白であり、また氷山の一角である:

・「私はトゥーノフィリア*7だと思います。私の好きなアニメキャラクターの番組を観るといつも、私の心は狂ったように高鳴るから。それに加えて、そのキャラクターについて性的な夢想もします。私はそのアニメのキャラクターにすっかり首ったけです」


・「私はトゥーノフィリアに近い人間です。私は4年前から自分がトゥーノフィリアであると自覚しましたが、その萌芽は、私がトゥーノフィリアという概念を理解すらしていなかった幼少期にまでさかのぼります。私はいつも漫画のキャラクターに魅力を感じていて、その感覚は大人になるにつれて明確になっていきました。だけどほとんどの人は「マジで?」という反応で、本当のことだと信じさえしない人もいます。なのでほとんどの人に対して、私は自分のセクシュアリティを説明できません。ですが本当にそうなのです。私は本当に、実在する人に性的魅力を感じることができません。正直言って、私は実際の人とセックスすると考えると吐き気がします、趣味じゃないんです。だけど『美女と野獣』の野獣のような、ある一定のキャラクターに対しては、その気になります」


・「私が15歳になってからずっと、私はエミー・ローズ(『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』のキャラクター)への恋に落ちています。今日にいたるまで私は彼女と恋をしており、私の人生を彼女と共有しています。皆さんの大部分は、「なんという敗者だ、架空の人格を愛しているなんて。本物のガールフレンドを作れよ」と思うでしょう。だけど、エミーは私を幸せにしてくれますから、そういうことにしておいてください」


・「私はトゥーノフィリアのようなものです。あるいは、私はマンガではない架空のキャラクターに惹かれているので、虚構性愛(fictosexual)と言うべきでしょうか。私は、私が実在の人間に惹かれていないことに気づきましたが、架空の人物についての性的な空想や恋愛関係の空想をしていました。私は架空のキャラクターと付き合ったり、セックスをしているところを想像します。キャラクターによって、より性的であったり、恋愛関係的であったりします。ある日はこのキャラクター、別の日には別のキャラクターで空想するのです。それはポリガミーのようですが、彼らには嫉妬もなく、また病気になったり妊娠してしまう危険性もありません」

・「幼少時から漫画のキャラクターに強い魅力を感じるという以外に、どうやってこの嗜好に気づいたかなんて思いつきません。もちろん、ポニー*8や野獣*9、漫画のドラゴン、ポケモンデジモンのようなものは、私にとっても肉体的なものです。彼らはもとの姿のままで、文字通り私にとって肉体的に魅力的です。そうしたキャラクターが私にとって魅力的である理由の一つには、こういうものがあるように思います。そのキャラクターが現実世界のルールに制約される必要のないキャラクターであるがゆえに、より「独創的な」あるいは「非現実的な」フェチにも有益である、という理由です」

 ビデオゲームに関する私の調査からは、たとえばララ・クロフト*10のようなビデオゲームのキャラクターについて考えると、若いプレイヤーのなかに確かにトゥーノフィリアがいることを見て取れる。以前の記事では、私はララ・クロフトが大人気である理由を考察した。1つは――これはかなり明白かもしれないが――彼女が巨乳のデジタルアイコンだということである。しかし『トゥームレイダー』プレイヤーのほとんどは、欲情している青少年ではない。私はプレイヤーのグループに対して、なぜ『トゥームレイダー』がそんなに良いゲームだったのかと質問した。一つの最も重要な要素は、トレジャーハンティングゲームとしてのクオリティであるようだ。彼女の身体的な属性は、10代の若者を除いてほとんどのプレイヤーにとって重要ではないようだ。もしかすると『トゥームレイダー』プレイヤーの中には、トゥーノフィリアの傾向が発達し始めている10代のビデオゲームプレイヤーもいるかもしれない。


参考文献
Aggrawal A. (2009). Forensic and Medico-legal Aspects of Sexual Crimes and Unusual Sexual Practices. Boca Raton: CRC Press.
Griffiths, M.D. (1998). Shrink Rap: The Croft Report. Arcade, 1 (November), p. 49.
Love, B. (2001). Encyclopedia of Unusual Sex Practices. London: Greenwich Editions.
McCombs, E. (2008). Toonophilia: Is it porn? Huffington Post, October 1st. Located at: http://www.asylum.com/2008/10/01/toonophilia-is-it-porn/
Monroe, W. (2012). Fetish of the Week: Schediaphilia (Toonophilia). ZZ Insider, March 12. Located at: http://www.zzinsider.com/blogs/view/fetish_of_the_week_schediaphilia_toonophilia

翻訳について

この文章は、2012年8月31日にマーク・グリフィスノッティンガムトレント大学教授。アディクションについて研究している心理学者)が自身のウェブサイトに掲載した記事Something to get animated about: A brief overview of toonophiliaの全訳である。なお原文著者のツイッターアカウントはこちら:Mark Griffiths (@DrMarkGriffiths) | Twitter

ちなみに翻訳した記事は、前回紹介した性的空想とAセクシュアルに関する論文("Sexual fantasy and masturbation among asexual individuals: An In-Depth Exploration")に、参考文献として挙げられていたサイトでもある。こちらの論文は2016年に発表されたもので、Aセクシュアルと虚構性愛(fictophilia)の関係や、虚構キャラクターを性的対象とする人々について研究する必要性なども議論されている。関心のある方は前回の記事をご覧ください。このように、二次コンやトゥーノフィリアについては、オタク論の文脈だけでなく、セクシュアリティの側面からも議論される必要があるだろう。

なお翻訳の正確さについては責任を負いませんので、必要に応じて原文を参照ください。

関連記事

*1:toonophilia:日本語で言うところの「二次元コンプレックス」とほぼ同じ。英語圏ではSchediaphiliaとも呼ばれている

*2:SCHEDIAPHILIA in the Serial Killer Calendarというサイト。ちょっとサイトのデザインがおどろおどろしいので、一応閲覧注意

*3:非定型的な性実践についての百科事典。原著初版は1992年刊行。日本では『トンデモ超変態系』という題で1996年に抄訳が出版されている。しかしなんでこんな邦題にしたのか……

*4:”deviants”と呼ばれている

*5:http://www.asylum.com/2008/10/01/toonophilia-is-it-porn/ただしリンク切れ

*6:両サイトともすでに閉鎖されている模様

*7:原文ではschediaphiliaとなっているが、意味は同じ。以下schediaphiliaも「トゥーノフィリア」と訳出する

*8:おそらく『マイリトルポニー』のキャラクター

*9:おそらく『美女と野獣』のキャラクター

*10:Lara Croft:『トゥームレイダー』の登場人物

Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編)

 お待たせしました。以前の論文紹介の続きです。(元論文へのリンクは前回の記事にあります)

【内容報告】

 前回の記事でも述べたとおり、Aセクシュアルの性的空想とマスターベーションに関する量的調査である。まずは調査結果の概要をまとめておく(今回の論文の知見について、記事終盤に箇条書きで要約しておりますので、忙しい方はご活用ください)

 Aセクシュアルの女性は、セクシュアルの女性やAセクシュアルの男性よりも、最低でも毎月マスターベーションをしているという人の割合が有意に少なかった。またAセクシュアルの女性は、性的悦びや楽しみのためにマスターベーションをしていると答えた人の割合が、セクシュアルの人よりも低かった。

 Aセクシュアルの男性は、性的悦びや楽しみのためにマスターベーションをしていると答えた人の割合が、セクシュアルの男性よりも少なかった。

 Aセクシュアルの男女は、一度も性的空想を抱いたことはないと答えた人の割合がセクシュアルの男女よりも有意に高かった。

 性的空想を抱いたことのある人のうち、Aセクシュアルの男女が「私の空想には他人を伴わない」という応答を支持した割合は、セクシュアルの人々と比べて明確に高かった。

 Aセクシュアルの女性は、性的空想を抱いたことがないと答えた割合が、Aセクシュアルの男性よりも明確に高かった。またAセクシュアルの女性は、虚構的キャラクターを伴う性的空想を報告する傾向が有意に高かった。

  注目すべきは、今回の研究においてAセクシュアルのうち相当な割合が、性的空想をすると回答しており(Aセクシュアル女性の65%と、Aセクシュアル男性の80%)、また多くのAセクシュアルが、セクシュアル・アトラクション(性的に惹かれる感覚)がないと報告しているにもかかわらず、性的空想とマスターベーションをしていた(Aセクシュアル女性の51%と、Aセクシュアル男性の75%)という点である。さらにAセクシュアルの回答者の性的空想は、セクシュアルの回答者の性的空想と多くの重複があった。そこにはBDSM、フェティシュ、同意のない性的空想といったテーマが含まれていた。

  Aセクシュアルの回答者は、グループセックスやパブリックセックスや不倫といったトピックを空想する傾向が低かった。しかしBDSM、脚フェチや肥満フェチや妊婦フェチや丸呑みフェチなどのようなフェティシュに関するトピックについては、Aセクシュアルの回答者もセクシュアルの回答者も同様の傾向を示した。

マスターベーションについて

 Aセクシュアルの男女は、セクシュアルの男女よりも、マスターベーションの理由として性的快感を挙げる人が有意に少なかった。また、Aセクシュアルの女性は「楽しみのために」マスターベーションをすると回答した割合が少なかった。むしろAセクシュアルの女性たちは、マスターベーションの理由として「しなければならないように感じる("I feel that I have to [engage in masturbation]")」と回答する傾向が高く、「緊張を和らげる」と回答する割合が低い傾向にあった。Aセクシュアルの男性は、マスターベーションの理由として「その他」(たとえば、眠るため、退屈をまぎらわすため、など)と回答する割合が有意に高かった。

 こうした結果から、Aセクシュアルにとってマスターベーションの第一の動機は非性的なものである、という先行研究の仮説が補強される。ここではBogaertの提唱する「無向的マスターベーション(non-directed masturbation)」という概念に言及している。これは「性的欲望やマスターベーションへの衝動はあるが、その欲望は特定の人やものなどを対象としていない」という現象を表す言葉である。

 以上のように、マスターベーションの理由としてAセクシュアルが挙げた回答は多様である。このことは、Aセクシュアルにも多様性があるということの証拠と言えるだろう。

●性的空想について

 今回の調査では、Aセクシュアル女性のうち35%、Aセクシュアル男性のうち20%が性的空想をいだいたことがないと回答した。セクシュアルのうちでこのように回答した人はごく少数だった。先行研究のとおり、性的空想は誰もが抱くものではない、と言える。

 興味深いことに、性的空想をいだいたことがないというAセクシュアルの人は、性的空想をいだいたことのあるAセクシュアルと比べて、AIS(Asexuality Identification Scale:アンケートを用いて、回答者がAセクシュアルであるかどうかを判定する尺度)でよりAセクシュアル度が高いと判定された。このことは、Aセクシュアリティは連続的な存在であることを示唆している。性的空想やマスターベーションをめぐって、Aセクシュアル内にも多様性があるということを考慮する必要があるだろう。

・他の人間を対象としない性的空想

 今回の調査では、Aセクシュアル女性の14%とAセクシュアル男性の12%が「他者を伴わない性的空想をする」と回答した。セクシュアルの女性でこの回答をした割合は1%で、セクシュアルの男性では一人もいなかった。この結果から、Aセクシュアルの一部は「非他者的性欲(analloeroticism)」であると言える。非他者的性欲とは、もともとオートガイネフィリアの研究から出てきた概念で、「男女いずれの相手であれ、他人を性欲の対象にしないようなセクシュリティ」を指す言葉である。最近ではAセクシュアル自認の人々が、同義語として「リビドイスト(libidoist)」という語句を使うこともあるらしい。今後の研究では、Aセクシュアルの下位類型として非他者的性欲などが存在する、という可能性を視野に入れた調査が求められる

・虚構的キャラクターを対象とする性的空想

 Aセクシュアル女性では、実在する他人について空想すると答えた割合より、虚構の人間キャラクターについて空想すると答えた割合の方が有意に高かった。実際、一部のAセクシュアル自認の人々は「虚構性愛(fictosexualあるいはfictoromantic)」を自認している*1。ただし今回の調査では、人間ではない生物や風景画像やフェティッシュに関する空想をする割合については、Aセクシュアルとセクシュアルの間に有意な差は見られなかった。

 今回の調査ではマンガやアニメのキャラクターを性的対象とするセクシュアリティ(俗にSchediaphiliaあるいはtoonophiliaと呼ばれる)については焦点を当ててこなかったが、今後の研究では、実在する人間、人間以外のもの、そしてアニメなどの虚構的キャラクターを性的対象とする人々について、それぞれの違いを解明することが重要な課題となるだろう

・恋愛の空想

 Aセクシュアル女性はセクシュアル女性よりも、情緒や恋愛感情、非性的であったり、抱擁のような親密性であったりというような空想をしていると語る傾向が高かった。恋愛の空想と性的空想は厳密には区別する必要があるため、この結果から性的空想について直接的に結論を出すことはできない。それでも、「性的」空想についての質問に対してこのような恋愛の空想を語ったということは興味深い。もしかするとAセクシュアルの女性はこのような空想を性的なものとして経験しているのかもしれないからである。また、このことからAセクシュアルにとっては、「性的指向」概念よりも「恋愛的指向」概念の方が有用である場合があると言えるかもしれない*2

 今後の研究では、Aセクシュアルにおいて、恋愛的指向の違いが性的空想の経験に影響を与えるかどうか、またこの違いがセクシュアル・アトラクション(性的な惹きつけられ)やロマンティック・アトラクション(恋愛的な惹きつけられ)の発達の特徴を理解するうえでどう関係してくるか、といったことに注目する必要がある。

・自分自身の登場しない性的空想

 そしてAセクシュアルの回答者とセクシュアルの回答者との間で最も大きな違いは、自分自身を伴う性的空想についてである。先行研究では「自己非関与的セクシュアリティ(autochorissexualityあるいはidentity-less sexuality)」という概念が提唱されていた。これは「当人の自己意識と性的対象とを切り離すこと」と定義されている。

自己非関与的セクシュアリティの人は、彼らが見たり空想したりするような性的行動から彼ら自身を分離しており、それによって、彼らの自己意識とマスターベーションと性的空想とを切り離すことを可能にしている。

  Aセクシュアルの一部は自己非関与的セクシュアリティの特徴を持っていると考えられる。このことについては、いくつかの解釈ができる。一つは、Aセクシュアルの人々は露骨な性的刺激を、自身の性的興奮やその先にあるオーガズムへの乗り物として使っているという解釈がある。一方で別の解釈として、Aセクシュアルの人々は他人や他の物に関する性的空想するにもかかわらず、主体的な・・・・セクシュアル・アトラクションを経験していない、というとらえ方もできる*3。後者の解釈からは、次のような発想にもつながる。主体的なセクシュアル・アトラクションが、性的指向についての別の次元を表現するものであるかもしれない、という可能性である。つまり、「主体的指向/非主体的指向」を両極とする、「異性愛/同性愛」とは異なる軸があるかもしれないという仮説が考えられるのである。

・性的空想の内容についての補足 

 最後に性的空想の種類について。Aセクシュアル女性はグループ・セックスやパブリック・セックスのような、他者とのセックス(interpersonal sex)に焦点を当てた空想をする傾向が低い。逆にBDSMや羞恥プレイのような、性器への焦点化が弱い空想をする傾向があった。またAセクシュアル女性は、ただ自分自身のみを伴うような空想(たとえば、マスターベーションや性玩具を使うなど)や、直接的な他者との相互作用のない空想(たとえばのぞき見など)をする傾向があった。また、交際中のAセクシュアル女性は、交際中のセクシュアル女性と比べて、婚外セックスを空想する傾向が低かった。

 ●非定型的な性的関心について

 非定型的な性的関心(Paraphilic interest)とは、物、人、あるいは行為などについての、一般的ではない性的関心のことを指す。これに対して性嗜好障害(paraphilic disorder)とは、非定型的な性嗜好によって当人が苦痛を感じている場合のみを指す。これはDSM-5*4の定義であり、現在では、単に社会で一般的ではないという理由だけでは「障害」とは呼ばないことになっている。

  この区別を踏まえたうえで、Aセクシュアルのうちの大多数は、2つの理由から、非定型的な性嗜好(paraphilia)を持っていない傾向にあると考えられる。まず、非定型的な性嗜好を持つAセクシュアルの人であっても他者への性的関心をある程度は保っている。そしてAセクシュアルの多数派は女性であり、非定型的な性嗜好は女性には少ないということがある。しかしそれにもかかわらず、Aセクシュアルの人々は普通ではない性嗜好を経験したことがあるかもしれないという意見もある。というのも今回の調査からは、Aセクシュアルマスターベーションや性的空想の動機として潜在的に非定型的な性的関心があるかもしれないと考えられるからである。一部のAセクシュアルは(非他者的性欲や自己非関与的セクシュアリティを含めた)非定型的な性的関心を持っているかもしれない。ただし、この点については今後の調査が必要である。付け加えれば、いわゆる「非定型的」と呼ばれる性嗜好が、実は従来考えられていたよりも一般的なものであるという可能性もある。つまりAセクシュアルについても、彼らが「非定型的な」性的関心を持っていること自体が実は「定型的」であるという可能性もある。この点も含めた調査が、今後求められる。

●調査の限界

 今回の調査では、Aセクシュアル男性のサンプル数が少なく、彼らについては充分な調査ができなかった。またAVENのウェブサイトから調査対象者を集めたため、代表性にも疑問が残る。また今回は、どれぐらいの頻度でどのタイプの性的空想をするのか、ということについて調査しなかった。

【まとめ】

 紹介と言いつつ、論文終盤を長々と訳してしまった感があるため、ここで手短にまとめておこう。

・一口に「Aセクシュアル」といっても、その内部には多様性がある。
マスターベーションの動機も多様であるが、Aセクシュアルの人々のマスターベーションは非性的な動機による傾向が強い
・「セクシュアル/Aセクシュアル」というように単純に二分できるわけではなく、Aセクシュアルである度合によってグラデーションがある可能性がある
Aセクシュアルのなかには他人を性的対象としない「非他者的性欲(analloeroticism)」の人もいるようである。
Aセクシュアルのなかには「虚構性愛(fictosexualあるいはfictoromantic)」を自認する人もいるようである。
Aセクシュアルの人々が恋愛的な空想をどのようなものとして経験しているか、調査が必要である。
Aセクシュアルのなかには「自己非関与的セクシュアリティ(autochorissexualityあるいはidentity-less sexuality)」である人もいるようである。
・「主体的指向/非主体的指向」という、これまで見落とされてきた指向があるかもしれない。
・まだ分からないことも多いので、今後も研究が必要である。

※なお記事作成者は英語素人なので、誤訳や誤解等がありましたらご指摘ください。

【関連記事】

*1:具体的な当事者の声として、論文中ではWhat counts as fictosexual? - Asexual Musings and Rantings - Asexual Visibility and Education Networkが挙げられている

*2:このことは以前からも指摘されている。恋愛的指向 - Wikipedia

*3:なお、ここでの「主体的な」とは、「私を」とか「私が」という意識のことを指す。

*4:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: アメリカ精神医学会が出版する、精神障害の診断と統計マニュアル

性暴力ゲームは批判されるべきか?――レイプレイ事件に関する海外の論文

原題 “RapeLay and the return of the sex wars in Japan”(レイプレイと日本におけるセックス戦争の再来)PW Galbraith

梗概和訳
この論説では、プレイヤーに架空の女性をレイプすることを許すようなアダルトコンピューターゲームである『レイプレイ』(2006)への反応について考える。『レイプレイ』は世界的に流布したときに論争を引き起こし、日本で再び議論となった。そこではしばしば、1970年代後半から1980年代にかけての北米における、フェミニストによるポルノグラフィ批判の立場を明確に焼き直していた。2000年代における日本での「セックス戦争」の再来によって、私たちは、その闘争が未解決のまま放置した次の問いに直面する:空想それ自体は問題なのか? 言い換えれば、人々を架空の性行動の生産と受容に熱中させるが、描かれるような性行動には熱中させない、というアダルトコンピューターゲームは問題なのか? 性暴力を空想することは問題ないのか? あるいは一部の評論家が主張するように、そのような空想は女性への性暴力を常態化するだろうか? 日本では、性的空想、遊び、そして害への批評的で文化的なアプローチが考慮されている。

キーワード:日本、アダルトコンピュータゲーム、 性暴力、メディア効果、セックス戦争、性的政治、非西洋的視点、メディアリテラシーフェミニズム、レイプファンタジー

※上記リンクから全文がダウンロードできます。

【内容整理】

 アメリカの文化人類学者PW Galbraithによる、マンガやゲームにおける性暴力表現を巡る論考である。いつものように原文の目次に沿って紹介を進めていく。

・「レイプレイ問題」とは?

 簡単に言うと、2006年に日本のマイナーレーベルから発売されていた凌辱ゲームが、海賊版として違法な英語バージョンを作成され、それが2009年にイギリスやアメリカで注目され、批判された、という事件である。2010年頃に日本で「非実在青少年」騒動が起こったのは、この事件の影響もある。

 「レイプレイ問題」およびその影響から派生した日本での論争では、1970年代から1980年代にアメリカで生じたポルノグラフィ論争(通称 "Sex Wars"「セックス戦争」)と非常に似た議論が展開された。そのため今回の論文では随所で、レイプレイ問題を1980年頃のアメリカでの論争になぞらえて考察している。

中里見博によるレイプレイ批判

  徳島大学法学部の教授でポルノ・買春問題研究会のメンバーである中里見博は、「レイプレイ問題の経緯と法改正の課題」というエッセイで、『レイプレイ』に対して大きく3つの批判をしている。

・『レイプレイ』の内容は女性への差別を構成する
・『レイプレイ』は児童ポルノである
・このようなアダルトコンピューターゲームは女性と子どもを危険にさらすような性暴力文化を作り出す

 基本的に1980年代のポルノ論争で提出されていた批判と同じような内容である。しかし、架空のポルノグラフィはその他の形態のポルノグラフィよりも有害である、と主張している点は、『レイプレイ』問題ならではの記述だろう。中里見によれば、バーチャルだからこそより過激で、より暴力的な表現が作られ、それゆえにより社会にとって有害だという。

・「セックス戦争」を振り返るーーゲイル・ルービンの反論

 ここで話はいったん1980年代にさかのぼる。当時フェミニズムの立場からポルノグラフィを批判したダイアナ・ラッセルを相手取りながら、フェミニストである人類学者ゲイル・ルービンはポルノグラフィを擁護する論陣を張った。ルービンによれば、反ポルノ的フェミニズムの立論には以下のような問題があるという。

・明らかに悪いものへの批判から出発して、そこからあまり人々の怒りを買わないものにまで批判を向ける
・ポルノグラフィの制作時に行われた性暴力と、表現された内容の問題を混同する傾向がある
・有害性の根拠がないにもかかわらず、嫌悪と憤慨によって人々を動員させる
・断言によって(根拠がないにもかかわらず)あたかも信頼できる主張であるかのごとく見せかける
・男性を単純に抑圧と虐待と抑圧者・虐待者と見なすスタンスに、道徳的な権威を付与してしまう

 ルービンの主張については、前回の記事で(やや粗雑ながら)まとめているので、そちらも参照していただきたい。 

 やや話は逸れるが、ポルノグラフィが社会的に性暴力を増やすわけではない、という統計的調査として、ガルブレイスはいくつか論文を挙げている。関心のある方は原文の文献リストから確認していただきたい(Schodt 1996; Diamond and Uchiyama 1999; Ishikawa, Sasagawa, and  Essau 2012).

・では、日本でレイプファンタジーはどのように受容・議論されているか

 以下では性表現を受容する当事者や、その研究者たちの言説を整理している。マンガ・ゲーム評論家や研究者たちの著作および彼らへのインタビューなどが、主な題材となっている。

 レイプレイ問題が日本国内へと波及し、2010年頃には性暴力表現を規制する機運が高まっていた。これに対して、日本では多くのフェミニスト表現の自由や思想・良心の自由にもとづいて抵抗した。その例としてガルブレイスは、まずマンガ研究者である藤本由香里を挙げている。

  藤本はハーレクイン小説に描かれるレイプシーンに注目するよう促している。そこで描かれるレイプは「レイプしたい/されたい、という欲望を反映するものでもなければ、そのような欲望に影響を与えるものでもなく、むしろこの種の小説に特有の空想」である。BDSMが性暴力ではないのと同じように、レイプファンタジーはファンタジーなのである。

もしあなたがマンガファンに「実在の子どもかマンガか、どちらが欲しいか」と尋ねたなら、彼らはこう答えるだろう。「マンガをください」と。表現物の文脈を離れた道徳的な憤慨のなかでは、このことを誤解しがちである。

 つまり、「マンガキャラクターは現実的な身体を表象・参照するのではなく、むしろマンガ的な身体を表象・参照するのである」。

 また藤本は、一部の男性向けアダルトマンガやゲームの内容が「いやな」ものであると認識したうえで、その表現の規制に反対する。藤本によれば、性差別的な表現物は性差別の結果ではなくその兆候である。つまり性差別の可視化である。それゆえもし表現物が規制されてしまうと、単に性差別が不可視化されるだけで、むしろ性差別について議論する機会が奪われてしまうのである。またこのような規制は、成人男性が女性や子どもの性を統制・管理するというより大きな規制の一部になってしまう、とも指摘している。

 マンガ研究者・堀あきこも、ある研究会のなかで、フェミニストと保守政治家とが結びつくことに対して批判的に議論している。法的規制は、老若男女がマンガやゲームなどバーチャルセックスの安全な場へアクセスする機会を奪うのである。また堀は、男性向け表現ではなく、女性向けマンガ表現を擁護することに焦点を当てている。研究会には男性向けアダルトマンガを(おそらく無批判に?)称揚してしていた評論家が参加していたらしく、堀は彼に対して「あなたは自分がどのようにアダルトマンガを経験しているか、正直になって考えるべきである」「もしそのようなマンガが男性性をまったく規範化しないというのなら、どうしてなのか説明してほしい」と反論し、その後両者の間で活発な議論があったようである。このように、堀は「規制を増やすのではなく、自己批評、開かれた対話、他者への熟慮」をすべきだと考えている。

 そして『レイプレイ』から若干離れるが、3人目の論者としてフェミニズム研究者であるSetsu Shigematsuを取り上げている。Shigematsuは1970年代日本のフェミニズム運動史に関する初の英文研究書 Scream from the Shadows: The Women's Liberation Movement in Japan の作者であり、一貫して反ポルノ運動を批判する立場を取ってきた人物である。Shigematsuは1999年に発表した論文で、性表現が直接的に人々の価値観を左右するという考えを否定する。女性向けの性表現については、藤本と同様の主張を展開していると言える。現実にはさまざまな形で女性への性暴力が起こっているが、ポルノグラフィに描かれた内容を規制しても女性への暴力は解決しないのである。

「視聴者を性的に刺激する表現を置くことは、そこに描かれた行動を擁護することと同じ・・ではない」

 Shigematsuの議論のユニークな点は、女性向けだけでなく男性向けのアダルトマンガについても考察しているところである。Shigematsuはロリコンマンガを読む当事者の言説を参照し、次のように主張する。

ロリコンマンガを「女児ポルノ」と混同したり「実際の少女の性欲化や少女への性的いやがらせの結果・・とみなして、潰したり非難したりする」(Shigematsu 1999: 138) べきではない。

  Shigematsuは、表現物が直接に社会へと反映されるという考え方を否定し、むしろ現実から離れたマンガやゲームは「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」(Shigematsu 1999: 128)を切り拓くと論じている。そうしたメディアは、性について別の仕方で考える機会を提供するのである。

人々がどのようにロリコンマンガ(やその他のメディア)を消費し、私物化し、変形するかということや、彼らがその後どのように行動するかということを、あらかじめ管理したり決定することはできない。ポルノグラフィ制作・・における少女の使用や潜在的虐待や性的いやがらせは深刻な問題であるが、それを「ポルノの内容」の問題に置き換えたり切り詰めたりしてはならない。(Shigematsu 1999: 138 強調原文)

・レイプレイ再考

 ここでガルブレイスは当事者男性に視線を移し、アダルトゲームのシナリオライター鏡裕之の著書(『非実在青少年論』)およびインタビューから考察を行う。鏡はフェミニズムをきちんと研究しているわけではないが、その著書には上述のフェニストらと共通する認識が書いてある。

  まず鏡は、アダルトゲームの制作者とプレイヤーがゲームと現実を区別していると語る。その根拠の一つとして、『レイプレイ』制作者が行なっていた倫理的配慮が挙げられている。

 倫理上の配慮も、ゲーム内で行われています。『レイプレイ』のエンディングでは、主人公はヒロインに殺されるという処罰を受けています。凌辱要素の強い美少女ゲームでは、凌辱を犯した者はエンディングで処罰されることになっているのです。
 パッケージやマニュアルにも、複数の箇所に注意書きが記されています。たとえば、パッケージの表と裏にはこうあります。

「※本作品には、暴力、残虐、犯罪行為等、過激な表現が含まれているのでご注意ください。また、痴漢やレイプを実際に行うと犯罪になるので絶対に真似しないでください」

 また次のような注意書きもパッケージに記されています。

「お店の方へ:この商品は18歳以上の方を対象にしたゲームです。一般の商品とは別の売り場または別の棚に陳列して興味のない方や子供の目に触れないようにできるだけ配慮して下さいますようお願い申し上げます」

 さらにマニュアルには、最初の項に「警告!」としてこのように記されています。

「このソフトの内容はあくまで創作物でありゲームです。このゲームの内容と同じことを現実に行うと法律によって処罰されます。ゲームの内容は芝居でありフィクションですので、影響を受けたり、絶対にマネをしないでください」

 配慮の上に配慮を、注意の上に注意を重ねているのがよくわかります。ケースには「JAPAN SALE ONLY」の表記もされていました。その『レイプレイ』に、アメリカの人権団体が噛みついたのです。(『非実在青少年論』p.218-p.220)

  また日本のマンガやゲームのキャラクターは、写真的リアリズムを志向する北米のゲームとは異なり、現実の身体を参照せず、それ自体として独立な欲望の対象であるとも指摘している。

 そして鏡の議論を通じて、ガルブレイスは「萌え絵リテラシー」や「萌えの倫理」といった用語に注目する。これは要するに、フィクションをフィクションとして受容し、現実と区別する能力のことである。萌えで描かれる女性像(あるいは男性像)が現実とは異なるということを正しく認識する、ということである。この倫理や能力が社会に行き渡っていれば、レイプファンタジーがレイプカルチャーを強化することはなく、性差別を再生産することもないだろう。これはShigematsuの言う「性について一般的に考えられるものとは異なる、オルタナティブな場や異なる次元」の具体例と言えよう。 

【雑感】

・内容について

 社会科学一般に言えることだが、特にセクシュアリティに関する議論では、当事者の実像を捉えないことには話が始まらない。今回の論文は、批評家兼マンガ読者という立場の人々の語りに着目したものとして参考になる。またアメリカのポルノ論争やBDSM論争を日本の性表現論争へと節合する試みとしても注目に値する。本論文のような観点も踏まえたうえで、発展的に議論を重ねていくことが重要だろう。

 また、鏡裕之の『非実在青少年論』は以前読んだことがあったので、ついでに触れておこう。こちらはゲーム作者兼消費者というまさに当事者の声で、言説分析の材料としては面白い。ただ内容自体を評価するなら、話題を広げ過ぎていて個々のテーマへの踏み込みが足りないというのが正直なところだった(これは想定している読者層の問題かもしれないが)。さらに、「男性性」や「女性性」というものを単一的・本質主義的に捉えている節があり、控えめに言ってもフェニズムや男性学からの掘り下げがかなり浅いという印象が否めなかった。とはいえ、『レイプレイ』騒動直後の状況を反映した言説資料としては興味深い。このジェンダー的知見を欠いた著述にも、藤本や堀やShigematsuらフェミニストと同様の志向が(時に「萌え絵リテラシー」など、より具体的な議論として)表れているというガルブレイスの指摘は意義のあるものだろう*1

・個人的な感想

 せっかくなので、現時点での自分の考えを暫定的に、ごくごく大雑把に書いてみる。

 表現がそれ自体として「悪」となる、という発想は基本的に間違いだろう*2。たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』は出版直後にヨーロッパ中で恋愛自殺を引き起こし、社会問題化したと言われている。しかし現代では、ウェルテルに「殺される」人はほとんどいない。表現された内容は全く変わっていないが、表現を受容する社会が変化したことによって、ウェルテルの影響力は大きく変化していると言えるだろう。これに対して、「将来的にどう社会が変化するかは知らないが、現にいま人が死んでいる以上、差し当たりいまは表現それ自体を批判するべきだ」と当時の人なら考えるかもしれない*3。しかし、その考え方に従って『若きウェルテルの悩み』や文学が社会的に抹殺されてしまえば、将来の社会への損失は計り知れなかっただろう*4

 同じ構図がマンガ等の性表現についても当てはまる。もし仮にマンガに描かれた女性像が現実の女性の営みを規定するという場合でも、問題なのは表現それ自体ではなく、その表現を受容する社会こそが問題なのである。これに対して、表現物それ自体を問題視してしまうと、別の問題が生じてしまうだろう。ただしここで言う「別の問題」とは、単に表現の自由が失われるという話ではない。 

 注目すべきは、身体接触や性愛関係を前提としない、オルタナティブな性の倫理がすでに現れている・・・・・・・・という点である。描かれたキャラクターが(現実の男/女の代替ではなく)それ自体として独立した性的対象である、ということが多くの当事者たちによって語られている*5。そうだとすると、もし「描かれた性表現が現実の女性の存在を劣位に留め置くものとして機能するのだ」と主張するのであれば、単に表現物やそれを直接的に享受する当事者のみを非難するのではなく、むしろそれらを取りまく社会環境や社会規範をこそ問題化すべきではないだろうか。本文中の言葉を使えば、「萌えの倫理」の浸透を妨げる社会環境をこそ、問題化すべきだということである*6

 ウェルテルの例からも分かるように、表現がもたらす悪影響を評価するためには、その表現物がどのような文脈に置かれているかを考慮しなければならない*7。たとえば話題に上っていた『レイプレイ』は、極めて限られた客層をターゲットにしており、また作品内容も決してレイプを肯定するものではない。『レイプレイ』それ自体が特段に日本のジェンダー観を悪化させたとは考えがたい。それにもかかわらず『レイプレイ』を批判するということは、結局のところ身体接触や性愛関係にとって都合の悪いセクシュアリティを排撃することにしかならないと思われる。身体接触という「正しいセクシュアリティ」を特権化し、そこから外れた営みを排除するという点で、単純にレイプファンタジーを批判するということは(たとえ法的規制を主張しないとしても)「萌えの倫理」への攻撃として機能し得るかもしれないのだ。この点で、単に表現それ自体を批判することは、ある種の保守的思考と共鳴しているようにも見える。これはまさに、80年代にアメリカの一部のフェミニストがBDSMを攻撃したことと同型な議論と言えるだろう。

 もし性暴力表現が現実社会に悪影響をもたらしうるとすれば、そこで問題とされるべきは「私たちの社会が、性器接触や性愛関係を前提としている」ということではないだろうか。「身体接触の相手や性愛関係の相手を獲得しない/できない人間が、不当に異端視・蔑視される」ことではないだろうか。もっと言えば「特定の『正しいセクシュアリティ』を規範化し、そこから逸脱する人間を排除している」ということではないだろうか。それらを批判せず一足飛びに表現物を批判することは、むしろ「オルタナティブな性の倫理」を踏みつぶし、「男‐女」という関係性を特権的なものとして温存し続けるだけに終わるのではないだろうか*8

 すでに多くの論者が指摘しているように、性差別と「正しいセクシュアリティ」の規範には密接なつながりがある*9。本論の文脈を考えれば、ここでは「正しいセクシュアリティ」を「性愛の倫理」と言い換えてもよいだろう。「性愛の倫理」はある一面で「SMの倫理」と対立し、また別の一面で「萌えの倫理」とも対立する。あるいは、Aセクシュアルの不可視化も「性愛の倫理」の下で生じている、と考えてよいかもしれない。そして「性愛の倫理」は正確には「異性愛の倫理」であり、「性愛の倫理」内で同性愛が他者化されているということも忘れてはならない。

 これに対して、「同性愛も萌えもSMも近年では社会に受け入れられているじゃないか」と考える人もいるかもしれない。確かに一面ではそうとも言えるだろう。しかしそれは「性愛の倫理」を脅かさない限りでの受容でしかなく、そこからはみ出す者については相変わらず排除の対象となっているのではないだろうか。

 論の展開上、ここでは同性愛や萌えやAセクシュアルやSMを同列に並べているが、もちろん個別には問題のあり方がそれぞれ異なる。とはいえ、いずれも「正しいセクシュアリティ」規範という同一の問題系に属している、と捉える視点にも一定以上の意義があるのではないだろうか。

 性差別への抗議は当然必要だが、その際に「正しいセクシュアリティ」を補強してしまうのは悪手と思われる。それよりも「オルタナティブな性の倫理」をさらに洗練させ、性差別的な「正しいセクシュアリティ」規範の解体を志向するべきではないだろうか*10

 ・関連記事

*1:正直、以前『非実在青少年論』を単体で読んだときは、あまり高く評価はできなかった。特にフェミニズムについて、法的な表現規制の観点からしか考察しておらず、法規制への反論にはなっても、規制を要求しない批判への反論・応答にはなっていなかった。つまりフェミニズムが何を問題としたのか、根本的な部分をとらえていないのである。あとソース不明で信憑性に欠ける記述が散見されたので、情報源にした資料をきちんと明記してほしい。とはいえ、ゲーム制作業界の裏話などについてはなかなか面白い話も載っており、言説資料としては価値のある本だと思う

*2:ヘイトスピーチはどうなのか、という疑問があるかもしれない。あくまで雑感なのでキチンとした論証はしないが、さしあたり「死ね」というシンプルな例から考えてみよう。この表現が暴力になる条件としては、たとえば「人間にとって『死』が暴力である」という背景がある。もし仮にこの背景を完璧に取り除くことができれば、「死ね」は暴力ではなくなるかもしれない。しかしここからが重要で、1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題が生じる。「死ね」の例は、1)について言えば技術的にも価値観的にも極めて困難であり、2)について言えば極度の困難を乗り越えてまでそのような社会を目指すべきと主張することは難しいだろう。それゆえヘイトスピーチとしての「死ね」については、表現物それ自体の問題として扱うことに一定の妥当性があると考えられる。

なおこの議論は法的規制の是非に関するものではなく、規制を要求しない一般的な批判について考察するものである。ヘイトスピーチではない「死ね」については、後述する文脈的問題の注を参照

*3:あくまで思考実験としての仮定である

*4:たとえばウェルテルを読むことで救われた人、そしてウェルテルの影響を受けた文学作品によって救われた人の存在を忘れてはならない

*5:溝口彰子『BL進化論』永山薫『エロマンガ・スタディーズなどにも、そのような語りが見られる

*6:先ほど注で挙げた1) そのような社会を目指すことは可能か、2) そのような社会を目指すべき理由を提示できるか、という問題を考えてみる。個人的には、1)他のあらゆる価値変動と同じく困難はあるが、基本的に価値観の変化だけでよいので不可能ではない、2)もともとの性表現批判の目的が性差別解消であり、それに役立つという理由がある、と考えている。長くなるため論証はしないが、後述する「正しいセクシュアリティ」の議論も参照してほしい

*7:再びヘイトスピーチを考える。見知った仲の相手に、誇張表現であることが容易に理解できる文脈を共有したうえで発される「死ね」は、ヘイトとは言えないだろう。この意味でも、表現物それ自体だけでなく、文脈も判断する必要がある

*8:こういう話に関心のある方は、セジウィック『クローゼットの認識論』の序論やプラマー『セクシュアル・ストーリーの時代』の8章や9章あたりを読むと、良い示唆を得られると思う

*9:ここで言う「正しいセクシュアリティ」とは、愛によって恒常的に安定した家庭、生殖、および性器接触を特権化する規範である。詳しくは竹村和子『愛について』などを読んでいただきたい

*10:「性愛」や「親密性」を善きものとして称揚している論者が結構な数いるが、上述のように、むしろそのような一見美しく見えるものにこそ警戒をした方がいいだろう