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梗概和訳
人がある目標への手段として扱われるとき、モノ化される。 よく知られた例としては、女性が性的にモノ化され、身体的な外見、性、または個々の身体部位へ縮小されることが挙げられる。 このようなとき、人はモノと同じ方法で使用され、他者の目標に合わせて評価される。 この論文の目的は、モノ化のより良い理解を得ることである。私たちは(a)目標達成のための手段 - 目標(means-goal)関係の基本原理を概説し、(b)人がある目標の手段であるような場面に関する先行研究をレビューし、(c)人が目標の手段として奉仕する場面における手段 - 目標の心理に照らしてモノ化を説明し、(d)モノ化の帰結に関する私たちの解説の含意を説明する。具体的には、モノ化は不可避であり、その道徳性を含めたモノ化の帰結は、モノ化された人が奉仕する目標と、モノ化された人がその目標に奉仕したいかどうかとに依存すると主張する。
内容整理
「モノ化」(Objectification)は哲学的にはカントやマルクスやサルトルなどの議論があるほか、20世紀後半以降はフェミニズムの観点から「性的モノ化(性的客体化)」(Sexual objectification)も議論されており、近年ではヌスバウムの議論も重要視されている。今回取り上げる論文は、こうした議論に心理学的な研究を踏まえながら応答していくものである。なお記事終盤に要約を箇条書きしているので、必要に応じて活用していただきたい。それでは、さっそく内容に入っていこう。
「モノ化」を定義する
道具性
「モノ化」論において最も重要な論者の一人としてマーサ・ヌスバウムが挙げられる。ヌスバウムは「モノ化」に複数の意味があることを指摘しつつ、そのなかで「モノ化」の特徴を真に定義づけるのは「道具性」(instrumentality)であるとする。道具性とは、ある対象をある目的のための手段や道具として使うことである。
道具性を介したモノ化には、自分の目標にとって有用かどうかという基準によって他者を知覚したり、定義したり、評価したりすることが含まれる。つまり、モノ化はある人が他人の目標達成のための手段と見なされたときに生じる。
「モノ化」がよく言及されるのは、「性的モノ化」というフェミニズムの文脈である。しかし「モノ化」自体は性的な場面だけに生じることではない。たとえば「企業が従業員を交換可能な機械として扱う」といった場面でも「モノ化」が起きていると言える。
他人を評価する
ところで、道具としての有用さによって他人を評価する、ということは仕事のみならず恋愛などでも、日常的に行われている(これについて論文中ではいくつかの文献が挙げられているので、興味があれば原文を参照してほしい)。このように、「ある人が目標を追求しているときに、目標を達成する上での道具性にしたがって他人を評価する」(p.722)。つまり私たちは日常的に、自分の目標を達成するうえでの有用度によって他人を評価しているのである。この事実が、「モノ化」の道徳性を考えるうえで重要になってくる。
「モノ化」自体は不可欠
従来から指摘されてきたように、人が「モノ化」されることによって、多くのネガティブな影響が生じることがある。たとえば「性的モノ化」の議論では、「自尊心の低下、羞恥心、罪悪感、性的快感の低下、抑うつ、無価値感」などが挙げられている。
(「性的モノ化」にかぎらず)「モノ化」については、カント以降さまざまな哲学者によって議論されてきた。代表的な人物はカント、マルクス、サルトル、そしてヌスバウムである。このなかでカント、マルクス、ヌスバウムらは「モノ化」全般を原則として不道徳的なものと考えていた。それに対してサルトルは、どちらかといえば「モノ化」を必要不可欠なものだと考えていた。
これについて心理学的な研究からは、後者の「『モノ化』は必要不可欠だ」という立場が支持される。心理学の諸理論によれば、「人とモノは同じやり方で、同じ原理にしたがって精神的に表象される」のである(p.723)*1。
そこで著者らは「モノ化をもたらす心理的プロセスは道徳的でも不道徳的でもない」、「代わりに、道徳性の決定は、評価が行われるプロセスではなく、評価される目標の内容に依存する」と主張する。「モノ化そのものは、評価において不可欠な心理学的プロセスを記述するものであるため、不道徳たりえない」のである。
つまり「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。そして「モノ化」それ自体は良くも悪くもない。
しかし「モノ化」によってネガティブな影響が出る場合があるのも事実である。それでは、どのような「モノ化」はネガティブな影響につながるのだろうか。言い換えれば、どのような「モノ化」が道徳的に非難されるべきなのだろうか。
どのような「モノ化」が道徳的非難の対象とされるのか
従来はどちらかといえば、「モノ化」を原則として悪いものだと考える議論が主流だった。しかし現実には、むしろ自ら「モノ化」されることを望むことさえある*2。さらに言えば、「道具」としての役割を上手く果たせなかったことによって意気消沈する、ということも日常茶飯事である。
このように考えると、ヌスバウムらが考えていた「モノ化」の問題は、モノ化する側とモノ化される側の双方の願望が食い違うことで生じるものだと言うことができる。つまり、望まない目標への「道具」としてのみ評価され、他の側面から評価されることがなかったり、またその目標への「道具」以外の行為ができないものとみなされたりしたとき、私たちは見下されたような感覚や自己を否定されたような感覚を抱くのである。
具体例で考えてみよう。一般的に、医者は自らの医学的知識や技術によって評価されることを望んでいる。もしこの医者が仕事の場面で、医学的能力ではなく性的魅力によって評価されたり、性的誘惑に応じることを期待されたりすると、自己を否定されたように感じるだろう。他方で、この医者が自分の配偶者の性的目標のために役立ちたいと望んだときには、性的魅力によって評価されることでむしろ自己肯定感が高まるだろう。
「所有」の是非
このほか、「道具」として評価されるとき、しばしば代替可能なものとして認識されることがある。こうした点から、「モノ化」は「所有」と結びついている指摘されることがある。つまり、「道具」は売買や交換ができるということである。最も極端な例は奴隷であるが、それほど極端でなくとも、たとえばプロ・スポーツなどでチーム同士が選手を交換することなどもこれに該当する。
そもそも「私の目標」「あなたの目標」などと言うように、「目標」という概念自体が関与と所有(commitment and ownership)を暗に含んでいる。また「彼は私のもの」「私の子供」などと言うように、親密な関係性にも関与と所有が含まれていると言える。
このように考えると、「所有」されること全般が一様に悪いというわけではない。合意があるかどうかや互恵的かどうかによって、「所有」の善悪も分かれるのである。
それでは、「モノ化」によるネガティブな影響に対しては、どのような処方箋が求められるだろうか?
有害な「モノ化」に対して、どのような対策が必要か
ここまで見てきたことから分かるように、「モノ化」される当人がその目標に関して道具として奉仕することを望むか否か、ということが「モノ化」の善悪評価にとって重要になる。
具体例で考えてみよう*3。職場における女性の「モノ化」をなくすためには、彼女らを性的魅力によって評価するのではなく、職務能力によって評価することに焦点を移す必要がある。言い換えれば、職場の従業員を「道具性」(「モノ」としての有用さ)によって評価することを止めろと主張するのではなく、適切な次元での「道具性」によって評価すべきだということである。そして女性の「性的モノ化」について付け加えれば、女性が性的目標のための有用さという観点から評価されることをすべて排除する必要はなく、文脈と「モノ化」される当人の希望にもとづいて判断されるべきということになる。
結論
まとめよう。
★「モノ化」とは、本来モノではないもの(人間など)を、何らかの目的のための道具として使用するプロセスのことである。
★「モノ化」は他者を評価するときに日常的に行なわれており、それ自体は良くも悪くもない。
★「モノ化」は以下の場合に有害であり、道徳的非難に値する:
・「モノ化」する側の人間が、自分が不道徳だと思っているような目標を達成するために、他人を道具として使う場合
・「モノ化」される側の人間が、道具として奉仕することを望まないような目標に関して、道具としての有用度にもとづいて評価される場合