境界線の虹鱒

研究ノート、告知、その他

拙論「アニメーション的な誤配としての多重見当識」の繁体中文訳が公開されました

「アニメーション的な誤配としての多重見当識」繁体中文訳

拙論「アニメーション的な誤配としての多重見当識:非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察」の繁体中文訳*1が公開されました。下記のウェブページからご覧いただけます(※2つURLを貼っていますが、どちらも内容は同じです*2)。

書誌情報
作為賦生式誤配的多重定向力:非對人性戀之對「二次元」性特質的相關理論考察
訳者:SH Liao.靈師(臺大宅研)
原文の出典:ジェンダー研究 (25) 139–157 2022年9月 

訳者序文「フィクトセクシュアル宣言」

また訳者のSH Liaoさんが、拙論の訳者序文を兼ねた「紙性戀宣言: 其置身處境、政治可能性及批判性抵抗」を執筆されています。

「紙性戀宣言」の英語版「Fictosexual Manifesto: Their Position, Political Possibility, and Critical Resistance」も公開されています。台湾での「紙性戀」言説や日本の「オタク」言説について批判的に言及したうえで、ハラウェイやプレシアドや『攻殻機動隊』等の引用を織り込みつつ、対人性愛中心主義批判の射程が論じられています。ぜひ拙論とあわせてご覧ください。

最後に

今回翻訳していただいた拙論ですが、他言語への翻訳も大歓迎ですので、翻訳してくださる方がいらっしゃればぜひご連絡ください(連絡先はこちら)。

関連記事

「紙性戀宣言」の終盤で↓の拙記事に言及していただいています。

注釈

*1:この翻訳は、台湾の同人誌即売会FF40でコピー本として無料頒布されたものです。

*2:ちなみにVocusは台湾の人々によく使われているプラットフォームで、Mediumは英語話者や香港の人々により使われているプラットフォームだそうです。

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から

はじめに

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義は密接に結びついているのではないか。トランスフォビアと萌えフォビアは同じ構造に根差しているのではないか。すでに何度か論文やTwitterでこの話をしてきたが、ここですこし具体的に説明しておこうと思う。

なお以下では基本的に二次元の女性キャラクターをめぐる議論とトランス女性をめぐる議論に焦点を絞る。これは世間での「論争」で女性キャラクターとトランス女性にフォーカスされることが多い、という状況を踏まえての制約であることに留意されたい。

また、本記事は「オタクのセクシュアリティ」を論じたものではない。「オタク」という言葉は、時代ごとに異なるニュアンスで使われており、すくなくとも現在では、あらゆる「オタク」に共通するセクシュアリティがあるとは考えられていない。さらに「オタク」概念は好き勝手なニュアンスで使われがちであるため、議論をいたずらに混乱させる概念である。それゆえ以下で言う「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は、「オタクのセクシュアリティ」とは異なる概念であるという点に留意されたい。

目次

背景:二次元キャラクターをめぐるセクシュアリティについて

トランスジェンダーに関しては研究蓄積があり、すでに多くの論者が重要な指摘をしている(本記事でもいくつかウェブ資料に言及する)。しかし二次元をめぐるセクシュアリティについては――多くの人が思っている以上に――研究蓄積が少なく、議論も共有されていない。そのためまずは二次元をめぐるセクシュアリティについて概要を説明しておきたい。

非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ

繰り返し指摘されてきたことだが、二次元キャラクターへの性的欲望は、人間に対する性的欲望に還元できないものである。

たとえば筆者は、「二次元の性的表現を愛好しつつ、生身の人間へ性的魅力を感じない」という人々にインタビュー調査を行なっているが、そうした人々のなかには、自分のセクシュアリティを「フィクトセクシュアル」や「キャラクター性愛者」と表明している人もいる*1。また「二次元キャラでないとダメ」という人でなくとも、二次元表現に対する性的な好みと人間に対する性的な好みが独立分離しているという人は少なくないだろう*2

さらに近年では、フィクトセクシュアルをめぐるウェブ上での議論をとおして、生身の人間に性的(あるいは恋愛的)に惹かれるセクシュアリティ指す造語として、「対人性愛」という概念が用いられている*3。これは性的マジョリティを名指す概念であり、対人性愛を自明のものとする社会通念(対人性愛中心主義)を問い直す造語実践である。これを踏まえて、対人性愛に還元できないような二次元キャラクターへの性的欲望を、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ*4と呼ぶことにしよう。

こうしたセクシュアリティにとっては、二次元キャラクターが文字どおりには人間ではない、ということが決定的に重要である*5。二次元(マンガやアニメなど)と三次元(実写や舞台など)の違いは、単なる表現技法の違いとしてのみ扱われがちだが、両者は存在論的な差異として捉える必要がある。端的に言えば、二次元キャラクターは人間ではなく独特な人工物なのであり、二次元キャラクターへの欲望は(人間への欲望ではなく)こうした人工物への欲望なのである。

人間や現実世界に関する知識を参照しながら作られたにもかかわらず、二次元キャラクターという人工物が生み出される。そして「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々が現に存在しているということから、人間をセクシュアライズする実践を再生産しない、別様な回路が存在していると言える。そしてそれは、「性的対象とされる」というこれまで(人間の)女性に付与されてきた性質を、(人間の)女性から引き剥がすものであり、(人間の)女性を性的対象化する文化を攪乱する契機でもある*6。そのことを看過しないためには、社会や規範の「反映」や「参照」を、「再生産」と区別することが重要である。

自己表象としての二次元キャラクター

さらにこうした二次元キャラクターは、単なる欲望の対象となるのみならず、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々自身を表象するものにもなる。どういうことか。

筆者のインタビュー調査のなかで、「二次元にしか性的魅力を感じないという自身のセクシュアリティについて、孤独や不安を感じたことはあるか」といった話題になったことがある。そのときに出たのが、以下のような話だった。

たしかに同じようなセクシュアリティの人は周囲にいなかったが、その代わり、自分の好きなキャラのエロ二次創作や、二次元のアダルトコンテンツを専門的に扱っている販売サイトの存在を知ることによって、自分だけではないのだと思うことができた、と。

こうした語りから分かるのは、二次元キャラクターの性的コンテンツは、単にキャラクターを描いているだけでなく、「そのキャラクター(ひいては「二次元」という存在一般)を愛好する人々(制作者と受容者)が他にもいるのだ」ということを示すものでもある、ということである。つまり二次元キャラクターの表現は、愛好者たちの自己表象としても機能しているのである。

このように、二次元キャラクターの性的表現は、単なるキャラクターを描いたものではなく、二次元文化へ性的にコミットする愛好者たちの存在を表象するものでもある。自己表象としての二次元キャラクターという側面は、VRChat等でのいわゆる「美少女アバター」が主に論じられてきたが*7、上記のような広がりを持つ意味だということを押さえておく必要がある。

対人性愛中心主義とジェンダー本質主義のもとでの抹消

以上のように、二次元キャラクターは人間とは異なる欲望の対象であり、かつ愛好者の自己表象でもある、という他に類を見ない独特な存在である。しかしこうしたあり方は、支配的な社会的規範のもとで不可視化される。その規範とは、「欲望の対象は人間であるはずだ」という対人性愛中心主義と、「女性性は女性のものであるはずだ」という問題含みなジェンダー本質主義である。

この二つの規範のもとで、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は「異常」な存在とみなされることがある。そうした見方には、たとえば「『自我を持ち、対等な立場でコミュニケーションが取れる』対象が相手ではない」という理由や、「二次元キャラクターとは『性的同意』が取れないではないか」という理由が持ち出されることがある。しかし、性的同意や対等なコミュニケーションが必要なのは、相手が「人間(ないし特定の仕方での倫理的配慮を要する存在者)」だからであり、それはあくまで対人性愛のルールでしかない*8。それを(人間や生物との関係にかぎらない)すべてのセクシュアリティに拡張するのは、論理の転倒である。にもかかわらず、このような対人性愛を基準としてた価値判断は根強い。

また、二次元の女性キャラクターを性的に描く表現は「(人間の)女性を性的対象とすることを助長・肯定するメッセージである」という主張も散見される。しかしこうした主張が成り立つためには、「欲望の対象は人間である」という前提と、「男/女というジェンダーの差異こそが基盤的なものであり、二次元か三次元かの差異は意味がない」という前提がなければならない。それゆえ上記のような主張にも、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」を抹消するような前提が所与のものとして持ち込まれているのである。

これに加えて、二次元(キャラクター)か三次元(人間)かという存在論的な差異が無意味なものとみなされることによって、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」はより巧妙な仕方で抹消されることもある。そこでは、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は単なる「普通」の「オタク」だとみなされ、ジェンダーセクシュアリティに関する支配的規範のもとで周縁化されているということ自体を不可視化されるのである。こうした場合、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」は名指しで排除されるとはかぎらない。しかしこれもまた実質的に存在を否定するものなのである。

トランスフォビックな「議論」との共通点

前置きが長くなったが、以上を踏まえたうえで、「萌え絵」をめぐる論争がトランスフォビックな論争と共通するものであるということを検討したい。

問題含みなジェンダー本質主義

何よりも重要なのが、両者がともに問題含みなジェンダー本質主義を持ち込んでしまっていることである。具体的に言えば、それは「人間の身体を基礎とするジェンダー本質主義」である。

トランスフォビアについて言えば、「Sex is Real」という主張が典型的である。そこでは、ジェンダーは「解剖学的性別」に基礎づけられたものであるのだから、トランス女性は「女性」の境界を越境・侵害する「男性」なのだ、と主張される。その際に用いられるのが、「身体女性」や「身体男性」といった言葉である。

しかし私たちは「純粋な身体」なるものを認識することはできず、身体を経験する際には「身体に関する歴史的・文化的な認識枠組み」が不可欠である。言い換えれば、私たちがジェンダーを生きるうえでは、「身体をまったく欠いた純粋な文化的認識枠組み」が成立しえないのと同様に、「文化的認識枠組みをまったく欠いた純粋な身体」も成立しえない。なにより、こうした「純粋な身体」をジェンダーの基礎とする見方は、トランスジェンダーの人々の生活実態をまったく無視している。

ここにあるのは、女性性は本質的に「身体女性」のものであり、女性性を表す記号は常に「身体女性」を指し示すものである、という想定である。そして先に述べたように、この前提は「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を抹消するものでもある*9

対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義は、単に似たような構図で議論されるというだけでなく、まさに同じ問題を別の側面から見たものなのである*10。すなわち対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義は、いずれも「男/女の差異を根源的な差異とみななす発想が、いかに他の差異による抑圧(ここでは性的マイノリティ)を見落としているか」という問題なのである。

当事者不在な問題設定

次に挙げられるのが、いずれも「議論」が当事者不在の問題設定となっている点である。もっと言えば、当事者の存在を抹消するような議論になっているということである。

「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を実質的に否定する前提

二次元の性的(とみなされる)表現が広告等で用いられる際に、それが女性を性的対象化していると批判されたり、あるいは直接的に女性を性的対象化しているのではないとしても、これまで性的対象化されてきた女性たちへの抑圧につながるのだと批判されたりしてきた。

しかしすでに説明したとおり、二次元の女性キャラクターを描いたものは、それ自体としては・・・・・・・・「(人間の)女性」(あるいは「身体女性」)を表象するものではないし、また「(人間の)女性」を性的対象化するものでもない。このことを前提としないかぎり、非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティは存在することができない。

二次元の女性キャラクターを描いたものは「(人間の)女性」の表象であり、「(人間の)女性」を性的対象化(あるいはセクシュアライズ)するものである、ということを所与の前提とする見方は、非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティの存在を抹消するものである*11

このような前提に立って「萌え絵」を批判している主張は、無自覚のうちに「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を抹消してしまっている。つまりそうした主張は、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々を実質的に議論から締め出す主張となっているのである。

トランスジェンダーの存在を実質的に否定する前提

こうした構図はトランスフォビックな議論でも見られる。たとえば「トランス女性は女性用トイレを使うべきではない」という主張や、「トランス女性が女性用トイレを使えるようになると、女性用トイレでの性暴力につながるのではないか」という主張は、以下のようにトランス女性の存在を実質的に否定するような前提を持ち込んでいる*12

「女性専用スペースにおける性暴力」の問題を、トランス女性による利用と関連づけて考えることが、なぜトランスフォビアを含んでしまうのか(……)。そこにはトランス女性やその身体を、「男性」と想定したり意味づけたりすることが含まれてしまっているのです。(強調引用者)

「女性専用スペース」とトランスフォビア — 小宮友根 – Trans Inclusive Feminism(初出はこちら

あるいは「トランス女性の実践は女性のステレオタイプを強化する性差別的なものだ」という非難も、同じ構図での議論として挙げられる(おそらくこちらの非難のほうが、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の抹消と明確に符合するものだろう)。

この非難は、伝統的に女性らしいとされる格好をするシスジェンダーにも当てはまるものだが、しかしトランス女性ばかりがこうした非難を向けられる一方でシス女性には同じ批判をあまり向けないという非対称性が見られがちである。さらにこの非難はトランス女性の実態を無視したものでもある。

伝統的な女性らしさを持つトランス女性は、女性がすべて伝統的な女性らしくあるべきだと主張したりほのめかしているわけではない。また、フェミニンさが女性としてのすべてであるとも思っていない。シス女性と同様に、トランス女性は、自分の表現のために装うのであり、他の女性を批評したり戯画化するために、装っているわけではない。(強調引用者)

エッセイ > ジュリア・セラーノ「トランス女性は女性じゃない」論の間違いをすっぱぬく | ウィメンズアクションネットワーク Women's Action Network(初出はこちら

このように、トランス女性の排除と「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の抹消は、同じ前提に根差したものであるのみならず、同じ構図で「議論」されているのである。

表現の自由」?

ところで、非対人性愛の当事者の立場からの主張なら「表現の自由」の観点からの擁護論があるではないか?と思われるかもしれない。

だが「表現の自由」の話は非対人性愛の立場を語るものではない。なぜなら「表現の自由」による擁護は、基本的には「たとえ社会的に望ましくないものであっても、それでも表現すること自体は自由だ」という主張にしかならないからである*13。つまり、表現の自由」による擁護論は、非対人性愛の社会的・倫理的承認を主張するロジックにはなっていないのである*14

問題の本質を看過する解決案

そしてもうひとつの共通点が、「妥当そうな解決策のみを安易に主張することによって、問題の本質から目を逸らす」ことが行なわれがちであるという点である。

「オールジェンダートイレを拡充すべき」

トランスジェンダーをめぐる議論においては、この例として「オールジェンダートイレがもっと拡充されればいいのだ」という主張が挙げられる。ジェンダーを問わずに使用できるトイレがもっと拡充されるべきだ、この主張自体はたしかに重要である*15

だがそうした主張は、単に「トランス女性は女性用トイレを使わず、オールジェンダートイレを使うべきだ」と直接主張することを避けるための方便となってはいないだろうか。差別的な想定を、表明することを避け、議論を避け、そして実質的に温存する、そんなレトリックになってはいないだろうか。そしてトランスジェンダーの人々の生活の実態を、存在を、無視し続けてはいないだろうか。

もちろん、オールジェンダートイレの拡充を主張することすべてが、必然的にこうした問題を含むというわけではない。それでも、こうした一見正しい主張を一足飛びに行うことが、暗に差別的な前提を温存する行為となっていないか、自問自答する必要はあるだろう。

あわせて、トランスジェンダーのトイレ使用に関する疑問への手短な答えを引用しておきたい。

Q19 トランスジェンダーは、だれでもトイレをつかえばよいのではないでしょうか

性別移行の初期であったり、男女別でわかれたトイレを使うことに抵抗感があったりする場合に、だれでもトイレを使う当事者はいます。しかし、移行先の性別です馴染んでおり男女別トイレを問題なく使える当事者もいます。トランスジェンダーであることを特に明かさず暮らしている当事者も多く、このような場合にわざわざ離れたトイレを使う様に指定することは、望まないカミングアウトの強要やアウティングにつながりかねません。トランスジェンダーはこのトイレをつかうべきというひとつの答えがあるわけではなく、職場や学校においては状況によって合理的に判断していくことが重要です。

FAQ|性別で区分されたスペース編 – はじめてのトランスジェンダー trans101.jp

ゾーニングをすべき」

こうした状況と同じ構図なのが、「表現の内容そのものが問題なのではなく、あくまでそれが公共の場に置かれていることが問題なのだ」「『萌え絵』を見たくない人が見ずに済むようゾーニングすべきだ」という主張である。「どのようにゾーニングを行うか」という具体的な論点はあるとはいえ、こうした方針での解決案それ自体は受け入れられやすいものだろう。

だがこうした主張をすることは、「欲望の対象は人間である」という思い込みや、「男/女というジェンダーの差異こそが基盤的なものであり、二次元か三次元かの差異は意味がない」という思い込みを、暗に温存する行為となってはいないだろうか。「二次元の女性キャラクターを性的に描くことは、『(人間の)女性』を性的対象化するものであり、それ自体として倫理的に問題がある」という前提を、不問に付してはいないだろうか。そして「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の存在を暗黙のうちに抹消する行為となっていないだろうか*16

問題なのは、ゾーニングの必要性を主張する際に前提とされる理由づけである

たしかに、現に対人性愛を自明で普遍的なものとみなす見方が社会で根強く存在するという状況がある以上、二次元の性的表現が人間の女性に対する欲望を再生産する可能性はある。だがそれは「対人性愛が自明とされる対人性愛中心主義」や「女性キャラクターと人間女性とを無前提に同じ『女性』とみなすジェンダー本質主義」の問題ではないか*17

また、現に人間の女性が性的対象化されてきた歴史があることから、生きた女性たちが二次元の性的表現を抑圧として経験する可能性もある。だがそれは、人間を性的対象とする文化の問題ではないか。

「表現の内容それ自体が問題ではない」と言いながら、依然として二次元表現のみを問いの対象とし、対人性愛中心主義やジェンダー本質主義といった社会的問題を問わないのはどういうことなのか。

「二次元表現の問題」という理由でゾーニングを正当化しようとする主張が、いかに対人性愛文化の問題を不問に付しているか、ということを直視しなければならない。これは「萌え絵問題」ではなく「対人性愛問題」なのである

連帯に向けて

ここまでの議論に対して、「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」の人々はトランスジェンダーほど差別を受けていないではないか、と思う方もいるかもしれない。もちろん筆者も、トランスジェンダーと非対人性愛とが同じ仕方で差別を受けてきたと言うつもりはない。当然のことだが両者の歴史は異なる。しかし非対人性愛にもまた、異なる形での抑圧や周縁化や不可視化がなされているということを無視してはならない*18

さらに言えば、いわゆるLGBTに当てはまらない性的マイノリティの人々の主張一般が、「べつにお前らは差別されてないじゃないか」という揶揄を浴びやすいということを忘れてはならない。しかもそのような揶揄は、LGBTの人々からも向けられることがある。

たとえば、アセクシュアルの人々がプライドパレードに出るといったときに、「セックスしないだけなら一人で家にいればいいだけじゃないか(わざわざプライドパレードに出る必要がどこにあるのか)」といった主張を著名なLGBTアクティヴィストが発信したという事例がある*19

これまでの性的マイノリティに関する議論は、ときに性愛を普遍的なものと考えがちであった。このように、性的マイノリティをめぐる議論のなかでも、暗に特定のセクシュアリティが前提とされうるという点に注意が必要である。

しかし従来の性的マイノリティ運動とそこで見落とされていた人々との間に衝突がありうるとはいえ、決して両者の間に本質的な対立があるわけではない。本稿で論じたように、トランスジェンダーと非対人性愛は同じ構造のもとで周縁化されている。また別稿で論じているが、非対人性愛の周縁化はアセクシュアルの周縁化とも重なる部分がある*20。さらに対人性愛中心主義は、人間を欲望の対象とする文化への批判であるため、人間の女性を性的対象化する状況への批判とも接続しうる。このように、対人性愛中心主義批判は、トランスジェンダーアセクシュアル、そしてフェミニズムとも連帯可能なものである。必要なのは、そうした連帯に向けた議論なのである*21

関連記事

2023年6月19日追記:繁体中文訳が公開されました。

注釈

*1:以下の論文で調査結果の一部を分析している。

*2:斎藤環戦闘美少女の精神分析』の「多重見当識」概念がこのことを表すものである。

*3:以下の拙論を参照

*4:ここには「生身の人間へ性的魅力を感じない」人だけでなく、先に触れた「二次元表現に対する性的な好みと人間に対する性的な好みが独立分離している」人も含まれる。

*5:たとえば伊藤剛キャラ/キャラクター論はこのことを指し示すものである。ただし筆者自身は、二次元という独特な存在物のあり方を捉えるうえで、マンガ表現論や美学での議論には限界があると考えている。今後は人類学における存在論的転回の理論を参照しつつ、二次元キャラクターを「人間ではなく、かつ人間ではなくもない」存在として捉えるのがよいのではないかと考えているが、この点については機会があればどこかで論じたい。

*6:この点については以下の拙論を参照。

*7:この点については下記の拙論で触れている。

*8:もちろん対人性愛のルールに近い仕方で二次元キャラクターを愛する人もいるが、それがすべてではない。

*9:身体を持たない人間は存在しえないため、対人性愛中心主義は「欲望の対象は人間(=身体を持った生身の人間)である」という通念だと言える。

*10:この共通点がこれまで見落とされてきた理由はいくつか考えられるが、そのうちのひとつとして、二次元キャラクターという存在者の構築は、パフォーマンスやパフォーマティビティの理論では説明できないということが挙げられる。筆者は二次元の存在者の構築による攪乱について、テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念に依拠しつつ、下記の論文で理論化している。

*11:なお、二次元の未成年キャラクターを性的に描く表現は「(人間の)未成年を性的対象とすることを助長・肯定するメッセージである」、という主張も同様の問題を含んでいる。

*12:なおトランスジェンダーのトイレ使用に関する疑問については、下記ウェブページの回答を見てほしい。

*13:もちろん、法的な規制が問題となる場面では、こうした主張は重要となる

*14:付言すれば、「表現の自由」での擁護論を主張する人々のなかには、暗に対人性愛中心主義的な主張をしている人がしばしば見られる。

たとえば、「普通の男性なら性的な欲望を当然持っているのだから、その矛先として人間の代わりに二次元を欲望すればいいじゃないか」といった主張が挙げられる。こうした「人間の代わりに二次元を欲望すればいい」という説明は、非対人性愛的な人々の実感からは乖離している(そもそも人間を欲望するという発想がないので)。

また、なかには「二次元の表現に文句言う女性」に向かって「嫉妬乙」といったことを言う人々もいる。こうした言説は、女性は(生身の)異性を求めるのが当然だという思い込みを前提としている。この思い込みもまた(異性愛主義的であると同時に)対人性愛中心主義的な想定である。こうした点については、下記の拙論で指摘している。

とはいえ、上記のような言説は「表現の自由」論そのものに内在する問題ではないため、「表現の自由」による擁護論それ自体が本質的に対人性愛中心主義的だというわけではない。

*15:たとえばある種のノンバイナリーの人々にも資するだろうし、またトイレの設計によっては子連れ親や障害のある人などにとっても包摂的となりうる

*16:すでに述べたように、対人性愛中心主義的な社会のなかで「非対人性愛的な二次元へのセクシュアリティ」が現に周縁化されているということを認識する必要がある。さらに、安易なゾーニングスティグマ化をもたらしかねない、という問題にも気を配らなければならない。

*17:言うまでもなく、「二次元表現をとおして生身の人間を性的に欲望している人」がいるとしても、それは対人性愛文化を不問に付してよい理由にはならない。

*18:関連して、近年では対物性愛研究のなかで、「普通は自然に性的実践と恋愛関係を他の人間とするものだという信念」が「人間性愛規範 humanonormativity」と概念化されている。二次元をめぐるセクシュアリティは対物性愛とも連帯可能だと考えられる。

*19:アセクシュアル差別については以下のウェブページなどが参考になる。

*20:対人性愛中心主義と強制的性愛(compulsory sexuality)の親和性については、近刊予定の拙論「雰囲気としての強制的(異)性愛――アセクシュアルを理解可能にするための現象学」(『フェミニスト現象学(仮)』収録)で論じている。

*21:ある意味で私の研究は、この連帯可能性を基礎づけるためのものである。私がこれまで二次元をめぐるセクシュアリティを研究するためにアセクシュアル研究を経由していた理由もそこにある。

ACCAMER「ノミック」(作詞・作曲・編曲:椎乃味醂)がノンバイナリーの抵抗ソングだった

公式MVと楽曲の概要

本題に入る前に、この曲に関する背景情報を確認しておく。

この曲はTVアニメ『悪役令嬢なのでラスボスを飼ってみました』エンディング主題歌である。私自身は未視聴なのだが、おそらくタイトルどおりの内容を含んでいると思われる。

そうであれば、ノミックというタイトルは同名のゲーム(ノミック - Wikipedia)に由来すると考えられる。詳しい説明は省略するが、ノミックというゲームは、ゲーム内でルール自体の改変をしていくというゲームである。つまり、「オーソドックスな悪役令嬢モノのルールそのものを改変して生き残りを図る」というアニメのストーリーを、ノミックというゲームになぞらえている楽曲だと思われる。

こうした文脈を承知の上で、本記事ではこの曲を違う形で解釈してみたい。それは、ノンバイナリーやジェンダークィアの人々の抵抗を歌い上げる曲としての解釈である。

ノンバイナリーの歌としての解釈

決められたバイナリに従います。
社交界の作法に溶け込みます。
それで、価値の器が満たされると、
信じてた。

社交界」や「舞踏会」というのは、多人数の人々が参加する社会的な場であり、さらに言えば、明に暗にさまざまなルールや「作法」が存在する場である。「決められたバイナリ」とは、そうした社会的なルールのことにほかならない。

この「バイナリ」を、性別二元論(Gender Binary)と解釈してみよう。するとこの歌詞は次のような意味になる。「社会には男か女しかいない、そして男は男らしく、女は女らしく、振る舞うべきだ」という社会的なルールになんとか従っていれば、満たされた生を送れるはずだと思っていた、けれど……。

舞踏会に溢れた息遣い、
その裏にありあまる思惑が、
重なり合って、気づいたんだ。
器の下は底抜けの状態だったんだ。

社会で生きている人々――大多数がシスジェンダーの男/女として生きている――と関わり、そうした人々の考えや認識、行動を知っていくなかで理解した。このままでは自分の生が満たされることはない、と。

「器」という歌詞で思い出されるのは、町田奈緒士による〈器〉概念である。町田はトランスジェンダーの人々への聞き取り調査を通じて、「自らの未分化な感覚をおさめるような受け皿」を表す概念として〈器〉を提示する(町田 2018: 28)。この〈器〉には、自分自身の経験や感覚を言い表すための言語的概念と、自身のあり方を受け止めてくれる他者が、含まれる。言語と他者の両方が、トランスジェンダーの人々を支えるうえで重要なものなのである*1

これを踏まえれば、ノンバイナリーの人にとっての「底抜けの〈器〉」とは何か、ということも想像できるだろう。

たとえば、「男/女」という二元論的な概念や、そうした二元論的な見方を前提として活動している周囲の他者が、自分の〈器〉として機能しないという状況。

あるいはもうすこし具体的に、「男/女」の「あるべき姿」に従っていない「私」のあり方について、友人だと思っていた人間が裏で「私」の陰口を言っているのを聞いてしまった……という場面もイメージできてしまうかもしれない。

器を満たす意味は潰え、
積み重ねたものなどとうに、
無に帰した。惨憺たる姿形と、
現状を抱える今日に、

してやったという優越を、
かけらも奴らに与えない様に、
流れた価値を仲間と取り返そう、
自ら器を作っていこう。

底抜けの〈器〉を否応なく突き付けられ、男性/女性のふりをして生きることにも希望を失った。

「お前は普通の人」ではないとバカにしてさげすんでくる連中にも、性別二元論的な社会のなかで「自分はまともだ」と思いながらのうのうと生きているマジョリティどもにも、絶対に与してやらない。

こちらだって決して一人ではない。仲間とともにつかみ取ってやろう、この命の生存を、そして自分が自分であるための〈器〉を――。

定石通りに動いてちゃ、
こんな人生つまんないな。

「普通の人」のふりをしていては生きていられない。それを「つまんないな」と言い表すところに、挑発的な力強さを感じる。「つまんないなぁ……」という気怠い呟きではなく、「つまんないよなァっ!?」という世界への呪詛だ。

それならさ、ギアなんか壊して、
自分が望んだ結末をはめ込んでやれ!

バイナリーな社会を構成する歯車なんかぶち壊してやる。そしてノンバイナリーな生が可能な世界にしてやれ。これは社会構造への挑戦だ。

ティーカップ裏に仕込んだ情報で、
主役を演じていけ。

ティーカップの裏側は、カップを置いた状態では見えない、不可視な領域だ*2

男女しか存在しないとされる世界では、ノンバイナリーは可視化されえない。だが「私はノンバイナリーだ」という見えない情報が、ノンバイナリーという〈器〉が、「私」を自らの人生の主役たらしめるのだ。

信じたものを守り抜くことができる、
この世界は、わたしだけの人生だ! 
わたしだけの人生だ!

ノンバイナリーという生、ノンバイナリーという〈器〉、言葉、そして仲間。そういったものを守れる世界であれば、それは「私」の人生だと言うに足るものだろう。

台本通りにかけられた言葉と、
道行く人々の思想と顔、
そのすべてが作り物で、
あるとするならば、

ここでは、ある種の構築主義的な見方が端的に描かれている。男女としての言動は、いわば社会で広く共有された「台本」のようなもの。それに即して動いている人々は、ある意味で社会的に作られたものである*3

すこし脱線するが、作詞作曲編曲の椎乃味醂は、哲学・人文学的な概念やフレーズを散りばめた曲を作るボカロPである*4。同氏の作風を考えれば、ここでも人文学的なツールを読み込んでよいだろう。

たとえば、社会における人々の相互行為を「舞台」のメタファーで分析した、アーヴィング・ゴフマンを思い浮かべてもよいかもしれない*5。ゴフマン的な発想は、この曲の冒頭での「社交界」や「舞踏会」のニュアンスとも合致する。

それすらも塗り替えてしまう様な、
誰よりも強いこの意思で、
すべて作り替え、
誰も想像し得なかった、
新たな未来へ!

そんな「台本」や社会規範すら塗り変えて。ノンバイナリーが当然のように存在するような、もっと言えば男女という二元論がそもそも意味をなさないような。現在の社会からは想像もできないような、そんな未来へ……!

「強い意志」というのもまた好戦的なフレーズである。

定石通りに動いてちゃ、
こんな人生つまんないな。
それならさ、ギアなんか壊して、
自分が望んだ結末をはめ込んでやれ!

ティーカップ裏に仕込んだ情報で、
主役を演じていけ。
信じたものを守り抜くことができる、
この世界は、わたしだけの人生だ!
わたしだけの人生だ!

先に述べた歌詞の繰り返しなので割愛。

決められたバイナリに抗います。
社交界の作法に阿りません。
それで、満たされる価値があることに、
気づいたんだ。
 
舞踏会に溢れた息遣い、
その裏にありあまる思惑を、
跳ね除け切って、残ったのは、
人生の真の面白さだ。

冒頭の歌詞を裏返して、性別二元論への抵抗の先にある未来を照らし出す。「面白さ」という表現も、先ほどの「つまんないな」に対応する挑発的な抵抗表明として読めるだろう。

おわりに

以上はかなり挑発的で好戦的な曲としての解釈となっており、この解釈にノれないノンバイナリーの人も当然いるだろう。

そのことに留意したうえで、ノンバイナリーの人や、あるいはもうすこし広く、性別二元論に違和感や苦悩を感じる人にとって、何かしら響く可能性のある曲ではないかと思う。

決して明るい曲調ではない、仄暗い戦意に満ちたこの楽曲に、個人的にも強く励まされたということを記しておきたい。

*1:ノンバイナリーはトランスジェンダーに含まれることもあるが、必ずしもすべてのノンバイナリーの人々がトランスジェンダーを自認しているわけではない点に留意は必要である。とはいえ、〈器〉概念はトランス男性/トランス女性だけでなくノンバイナリーの人々にとっても示唆をもたらすものだと考えられる。

*2:あるいは仲間とお茶をする最中の、カップの中身を飲み干すときにしか見えないもの、とも読める。つまり限られた仲間にしか明かさない(あるいは明かせない)ものとも解釈できる。

*3:「社会的に作られる」とはどういう意味か、という論点もあるが(イアン・ハッキング『何が社会的に構成されるのか』など)、この記事では割愛する。

*4:一例として一曲だけ挙げておく。

*5:ゴフマンを「構築主義」に含めるか否かは(構築主義をどう定義するかという点で)議論の余地があるが、この記事では割愛する。

最近ウェブ公開された論文

日本社会病理学会の学会誌『現代の社会病理』に去年掲載された論文が、J-STAGEでウェブ公開されました。「フィクトセクシュアル」に関するツイッターの投稿を分析した予備調査の論文です。

タイトル「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」――「性的指向」概念に適合しないセクシュアリティの語られ方に注目して」

要旨

 日常生活の自明性によってクレイムが予め締め出される事態について、ジュディス・バトラーの「予めの排除」概念とアセクシュアルの「抹消」に関する議論をもとに考察する。事例として、架空のキャラクターへの性的惹かれに関わる造語「フィクトセクシュアル」をめぐるウェブ上の投稿を分析する。

 当事者の一部からは、性的マジョリティを名指す概念として「対人性愛」という造語を用いることで、性的表現を愛好する立場から性愛規範や恋愛伴侶規範を批判するという投稿が見られた。他方、フィクトセクシュアル・カテゴリーの正当性を疑問視する投稿では、性的・恋愛的な対人関係に関わる生得的な「性的指向」ではないという理由が持ち出されていた。さらに、フィクトセクシュアルを「オタク」あるいは「恋愛」という枠組みに回収することによって、性に関する従来の解釈図式を維持する、という「マジョリティへの回収による抹消」が確認された。

予備知識ゼロから『ジェンダー・トラブル』をとりあえず読めるようになるための読書案内

ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』は、フェミニズムクィアスタディーズのみならず様々な領域に多大な影響を与えた重要な著作です。しかし内容も文章もかなり難解で、おそらく予備知識なしには読めないものだと思います。そのため本記事では、『ジェンダー・トラブル』を読むうえで必要となる予備知識をできるだけ手軽に学べるよう、いくつかの本を紹介していきます*1

目次

フェミニズムを知る

清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文春新書(2022年)(2022年12月9日追記)

フェミニズムの歴史から現代の状況まで、読みやすくコンパクトにまとめられています。予備知識ゼロから「フェミニズムについて知りたい」と思った人のための、最初に読むべき1冊と言ってよいでしょう*2

ベル・フックス(掘田碧訳)『フェミニズムはみんなのもの――情熱の政治学』エトセトラブックス(2020年)

そもそもフェミニズムとは何なのか? この問いに対して、本書は「フェミニズムとは、性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動のことだ」という明解な定義を掲げます。そのうえで、第2波フェミニズムの運動や理論がどのような社会状況から生まれてきて、階級闘争や人種差別や異性愛主義などとどのように関わり合いながら、どのように展開してきたのか、ということについて、フックス自身の経験も交えながら分かりやすく語られています。とりわけ「女性」という集団が決して一枚岩ではないという点は、バトラーの議論でも非常に重要となる視座です*3

加藤秀一『はじめてのジェンダー論』有斐閣(2017年)

ジェンダー・トラブル』のタイトルにも入っている「ジェンダー」という言葉、これはいったい何なのか? この問いから出発して、「〈「人間には男と女がいる」という現実を、私たちはどのようにしてつくりあげているのか〉」を丁寧に考えていく入門書です。教科書としても使えるようさまざまなトピックに目配せしつつ、同時に読み物としても通読できる設計になっています。またトピックごとの読書案内も充実しています。

クィアスタディーズを知る

石田仁『はじめて学ぶLGBT――基礎からトレンドまで』ナツメ社(2019年)

ジェンダー・トラブル』は性別二元論と異性愛主義の結びつきを徹底的に考える著作です。なので予習として、性的マイノリティを取り巻く社会の状況について学んでおくことが重要です。本書では性的マイノリティについて、基本的な用語からタイムリーな話題まで、イラストや図表を交えながら網羅的にまとめられています。日本社会の具体的な状況をもとに解説されていますので、バトラーの理論的な文章を読む前の準備としてオススメです。巻末にブックガイドがあるほか、脚注でも参考文献が提示されています。

森山至貴『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』ちくま新書(2017年)

『はじめて学ぶLGBT』では日本社会の状況(法制度や統計データなどを含む)の説明に重きが置かれているのに対して、より理論的な議論に焦点を当てているのが本書です。クィア理論の歴史的背景として、性的マイノリティへの差別とそれに対する抵抗運動の歴史をコンパクトにまとめたうえで、クィアスタディーズの視座や重要概念について入門的に解説されています。とりわけバトラーの重要概念である「パフォーマティヴィティ」についての説明が入っていますので、『ジェンダー・トラブル』の予習にも最適だと思います*4。本書も読書案内が充実しています。

構造主義ポスト構造主義哲学に触れる

フェミニズムクィアスタディーズの入門だけなら、このぐらいの紹介で十分かもしれません(あとはそれぞれの本の文献案内から、次に読むべき本をたどっていけますので)。しかし『ジェンダー・トラブル』は哲学書、それもかなり専門的なものです。そのため『ジェンダー・トラブル』を読むためには、背景となっている思想家の議論についての予備知識が必要になります。とりわけバトラーは構造主義(およびポスト構造主義)の哲学者の議論を批判的に検討していますので、そもそもバトラーが何を批判しているのか、そこで批判されている論者がそもそもどんな議論をしているのか、ということを知っておくと『ジェンダー・トラブル』が読みやすくなると思います。

千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書(2022年)(2022年7月14日追記)

後述するように、バトラーを読むうえでとくに重要になるのが、精神分析フーコーデリダです。本書はそれらの入門的解説を網羅したうえで、いわゆる「現代思想」(あるいは「フランス現代思想」)のコアとなる発想を明示的に説明している、優れた入門書です。そのため『ジェンダー・トラブル』の思想的背景を学ぶうえでも最初に読むべき一冊と言ってよいかと思います。

内田樹『寝ながら学べる構造主義』文春新書(2002年)

とっつきやすさでは他の追随を許さない、構造主義についての読みやすい入門書です。高校入試や大学入試の現代文でも何度も出題されていますので、「実は読んだことがある」という人も案外いるかもしれません。とりあえずこの1冊を読めば、構造主義の重要な哲学者の名前と概要をなんとなく知ることができると思います。

ただし『ジェンダー・トラブル』を読むためには、もうすこし踏み込んでおくべき論者がいます。それが精神分析(とりわけフロイトラカン)、フーコー、それとデリダです。

斎藤環『生き延びるためのラカン』ちくま文庫(2012年)

なぜ『ジェンダー・トラブル』を読むうえで精神分析の知識が必要なのか、理由は大きく2つです。1つは、(バトラーを含む)フェミニズムクィア理論にとって、精神分析は大きな批判対象であると同時に、重要な理論的源泉でもあるということ*5。そしてもう1つは、精神分析には特殊な用語がいろいろと出てくることです(特にラカン)。精神分析について体系的に理解しようとするとそれだけで一苦労ですので、まずはトップクラスに敷居の低いラカン入門書である本書を読んで、ひとまず特殊用語に慣れておきましょう*6

また私自身は未読ですが、フロイトについては立木康介監修『面白いほどよくわかるフロイトの精神分析――思想界の巨人が遺した20世紀最大の「難解な理論」がスラスラ頭に入る』日本文芸社(2006年)ラカンについては片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメ』誠信書房(2017年)も読みやすいと評判を聞きます。

なお精神分析の理論に対してはフェミニズムの観点から様々な批判がなされていますが、この点については次節「『ジェンダー・トラブル』以前のフェミニズム理論を確認する」で挙げた本などをご覧ください。

中山元『フーコー入門』ちくま新書(1996年)

ジェンダー・トラブル』で提示される理論には、フーコーの理論の批判的継承という側面があります。そのためフーコーについての予備知識があると『ジェンダー・トラブル』の軸がつかみやすくなると思いますので、本書でフーコーの主要著作を概観しておくのがオススメです。

このあたりからは、哲学系の文章を読み慣れていない方には少々難しい(かもしれない)本になってきます。ただ『ジェンダー・トラブル』はもっと難しいので、練習ということで読んでみてください。

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫(2015年)

脱構築」や「差延」といったデリダ的な概念は『ジェンダー・トラブル』でも当たり前のように出てきますので、ここで入手しやすくかつ手堅い解説書を挙げておきます。巻末にキーワード解説もありますので、とりわけ「現前の形而上学」「階層秩序的二項対立」「差延」「反復可能性」あたりを確認しておくとよいかと思います。

ちなみにデリダについては『寝ながら学べる構造主義』では言及されていませんので、ややハードルが高いかもしれません。本書が難しいようでしたら、いったん飛ばして以下に紹介している本を先に読むのがよいと思います。

ジェンダー・トラブル』以前のフェミニズム理論を確認する

もうひとつバトラーが批判的に検討するのが、ボーヴォワールやイリガライやクリステヴァといった、先行するフェミニズム理論です。こうした先行する論者についても予備知識を入れておきましょう。

竹村和子『思考のフロンティア フェミニズム』岩波書店(2000年)

ジェンダー・トラブル』の翻訳者による、フェミニズム理論の濃縮された解説書です。バトラーが批判対象とする論者だけでなく、バトラー自身の理論についても説明されていますので、バトラー入門書と言ってもよいと思います。とはいえ理論や思想について踏み込んだ説明をしていますので、「入門書」と言うには少々手強いかもしれません。『ジェンダー・トラブル』への肩慣らしとして読んでみてください。ちなみに本書はしばらく品切れになっていましたが、現在では電子版が発売されています。

大越愛子『フェミニズム入門』ちくま新書(1996年)

1990年代前半までのフェミニズム思想をコンパクトに整理した概説書です。『ジェンダー・トラブル』が翻訳される直前期のフェミニズム思想の様子を確認できるため、『ジェンダー・トラブル』の予習として有益な本だと思います。こうした概説書としては、江原由美子・金井淑子編『ワードマップ フェミニズム』新曜社(1997年)もオススメです。

ジュディス・バトラーについての解説書

ここまでの本を読んでおけば、ひとまず準備完了です。最後に、バトラーの思想に特化した解説書を2冊挙げておきます(いずれも非常に優れた本です)。『ジェンダー・トラブル』の前に読んでもいいですし、後から内容を整理するために読むのもアリです。

サラ・サリー(竹村和子訳)『ジュディス・バトラー (シリーズ現代思想ガイドブック)』青土社(2005年)

藤高和輝『ジュディス・バトラー――生と哲学を賭けた闘い』以文社(2018年)

このほか、雑誌『現代思想』でこれまでに3回ジュディス・バトラー特集号がありますので、そこから気になる論文を読んでみるのもオススメです。

現代思想2000年12月号 特集=ジュディス・バトラー
現代思想2006年10月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー
現代思想2019年3月臨時増刊号 総特集=ジュディス・バトラー

おわりに:『ジェンダー・トラブル』に触発される

ここまでいくつか本を挙げて、さらに「ひとまず準備完了」とまで豪語してしまいましたが、これだけの準備をしても『ジェンダー・トラブル』は一読しただけでは理解しきれないはずです。というのも、単に内容が難しいだけではなく、さまざまな論点が織り込まれているからです。

なので一読で完璧に理解しようとする必要はありません。よく分からないところがあったら、とりあえず飛ばして読んで構いません。そうやって読んでいくなかで、何かしら触発されるところがあれば、まずはそれで十分ではないかと思います*7

なお上で挙げた本の読む順番については、上から順に読んでいただくのが個人的なオススメですが、とくに強い指定はしませんので、読みやすそうだと思ったものから目を通してみてください。

忙しい人向けの最短コース(2022年12月9日追記)

それなりの数の本を提示してきましたので、忙しい方にとっては全部読むのは大変かもしれません。もしショートカットしたいという方がいれば、本当の本当に必要最小限として、

清水晶子『フェミニズムってなんですか?』文春新書
森山至貴『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』ちくま新書
千葉雅也『現代思想入門』講談社現代新書

の3冊を読んだうえで、

竹村和子『思考のフロンティア フェミニズム』岩波書店

を読む、というコースを挙げておきます。

それぞれの本で分からないところや気になったところ等があれば、必要に応じてほかの入門書にも目を通す、という仕方で読み進めていくとよいと思います。

注釈

*1:ひとまず大学1年生ぐらいを読者層として想定しています。新書もまだ読み通すのが難しい……という方は、高校現代文の参考書『現代文 キーワード読解[改訂版]』で、評論文の語彙に慣れるところから始めてみてください。

*2:ひとつだけ欲を言えば、優れた入門書ではあるもののブックガイドとしての機能がやや弱いため、より学びを深めたいと思った方はほかの解説書(加藤秀一『はじめてのジェンダー論』など)も手に取ってみるとよいかもしれません。

*3:ちなみにベル・フックス(野﨑佐和・毛塚翠訳)『ベル・フックスの「フェミニズム理論」―周辺から中心へ』あけび書房(2017年)は、『ジェンダー・トラブル』でも参照されています(リンク先の出版社公式ページの目次一覧で、訳者まえがきなどが公開されています)。

*4:ちなみに「パフォーマティヴィティ」概念については以下の文献も参考になります:森山至貴,2019,「複数の置換可能性――パフォーマティヴィティ概念をめぐって」『現代思想』47(3): 145-53.

*5:この点については以下の記事も参照:

*6:もちろんこの1冊だけではラカンの理論は理解できませんが、とりあえず用語に慣れておくと、後述する『ジェンダー・トラブル』以前のフェミニズム理論やバトラーに関する解説書も多少読みやすくなると思います。なおラカンについてしっかり理解したいという方は、たとえば向井雅明『ラカン入門』ちくま学芸文庫(2016年)松本卓也『人はみな妄想する――ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』青土社(2015年)など、より本格的な解説書を読むのがオススメです。

*7:個人的な話ですが、私が大学院に進学しようと思ったきっかけの1つが、学部2年生の時に『ジェンダー・トラブル』を読んだことでした。もちろん当時はほとんど内容を理解できませんでしたが、それでも、「すでに文化の領域のなかに存在しているけれども、文化的に理解不能とか、存在不能とされていた可能性を、記述しなおしていくこと」(『ジェンダー・トラブル』260頁)の重要さを説くバトラーの議論に、「これだ!!」という大きな希望を感じ取ったことを今でも覚えています。

【文献メモ】他者化されたポルノ消費者について、およびポルノ受容者への調査

Alan McKee, 2017, "The pornography consumer as Other." Clarissa Smith, Feona Attwood and Brian McNair eds., The Routledge Companion to Media, Sex and Sexuality.

Research Gateで全文公開されている。

要約メモ

従来のポルノ消費者に関する研究は、「人々がポルノから悪影響を受けるかどうか」という心理学的な量的研究が主だった。しかしそこでは、ポルノ消費者の実際の声が取りこぼされてきた。これついてMcKeeは、サイードを引用しつつ、ポルノ消費者が「他者化」されてきたと指摘する。

思春期以前に性的表現を視聴する人は少ないが、思春期以降の多くのティーンエイジャーは何かしら性的表現を視聴したことがある。にもかかわらず、こうした多くの人々の声を聞き取ることなしに、ポルノの悪影響が強調されることがある。そうした「他者化」の例としてGail Dinesの“Pornland”を批判する。

さらにMcKee自身の経験として、キリスト教徒として思春期を過ごしていたとき、同性愛的空想でオナニーすることへの罪悪感に数年間苛まれ続けた、という実体験を提示。その経験になぞらえつつ、ポルノ視聴者を他者化する言説は彼らに自己嫌悪を吹き込むものだ、と批判する。

こうした他者化言説のことが、「戦略としての自己嫌悪の吹き込み」(the inculcation of self-loathing as strategy)と呼ばれる。

そういう話をしたうえで、近年ではポルノ消費者への質的調査がすこしずつ行われてきているとして、女性ポルノ消費者への聞き取り調査研究や、(学術研究ではないが)男性ポルノ消費者へのインタビュー本が紹介される。

※以上のメモは過去にツイートしたものの再掲である。

関連文献の雑メモ

日本におけるポルノ受容者の研究例として、以下のようなものが挙げられる。

赤川学,1996,「AVの社会史」上野千鶴子編『色と欲 <現代の世相 1>』小学館,167-190.

「私達の社会においてAVというメディアの形態が、性的な興奮や性欲をかきたて、あるいは鎮めるためのメディアとして突出した地位を占めるにいたった、その社会史的な背景」や「人々がAVに求めている欲望の質」(169頁)を検討している。前半は言説資料をもとにした社会史的整理だが、後半で2人の男子大学生に簡単なインタビューをしている。質問は以下の4つ:
・はじめてAVを観たのはいつ頃ですか?
・何に着目してAVを観ていますか、観ていて何が気になりますか?
・「AVでの性行為は現実の性行為のマニュアルになる」という考え方がありますが、どう思いますか?
・AVによって、自分は性的にどういう存在かを確認することはありますか。

守如子,2010,『女はポルノを読む――女性の性欲とフェミニズム』青弓社.

「女性向けポルノコミック」の作品分析に加えて、読者アンケートを分析することによって、読者の属性、雑誌に求めるもの、好きな作品と嫌いな作品など、読者の欲望や作品の読み方を分析している。時代的・社会的制約のなか、読者の声を拾い上げる調査を実施した、重要な研究である。

服部恵典,2020,「ポルノグラフィ消費者によるジェンダー化されたジャンルの視聴と解釈――女性向けアダルトビデオを視聴するファンに着目して」『年報カルチュラル・スタディーズ』8: 35-57.

女性向けAVを視聴するファンへのインタビュー調査から、「ジェンダー化されたポルノ・ジャンルの越境、再構築、無化」というファンの実践を明らかにした論文。

対象者の属性のほか、「週にどれくらい視聴するか」「観る際はどのメディアを使うか」「男性向けAVと女性向けAVのどこが好きでどこが嫌いか」などをインタビューで調査している。

松浦優,2020, 「『現実性愛中心主義』とマンガ表現規制――いわゆる『二次元コンプレックス』の視点から」『マンガ論争』23 

タイトルどおり、いわゆる「二次元」の性的表現を愛好しつつ、現実の他者への性的惹かれを経験しない人々に対してインタビュー調査をした拙論。掲載媒体の読者を考えて「マンガ表現規制」をタイトルに押し出しているが、どちらかというとセクシュアリティ研究の文脈の議論となっている。

ちなみに上記拙論で取り上げられなかったインタビューについては、以下の近刊で取り上げています(『マンガ論争』の論考は、むしろ以下の論文を補完するものと考えていただければと思います)。

松浦優,2021,「二次元の性的表現による「現実性愛」の相対化の可能性――現実の他者へ性的に惹かれない「オタク」「腐女子」の語りを事例として」『新社会学研究』(5): 116 - 136.

こちらもオンラインや書店などで販売されています。

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【論考掲載】『マンガ論争』vol.23に寄稿しました

ミニコミ『マンガ論争』vol.23にて、「『現実性愛中心主義』とマンガ表現規制――いわゆる『二次元コンプレックス』の視点から」という論考を寄稿いたしました。

近年では、いわゆる「二次元のキャラクター」との結婚を表明する人々の語りが徐々に可視化されつつありますが、そうした人々とはまたすこし異なる領域に焦点を当てています。具体的には、以下のようなトピックについて議論しています*1

・いないことにされる「二次元性愛」
アセクシュアルとの意外な接点
・「現実性愛中心主義」としての性的表現規制
・規制反対派への問題提起

『マンガ論争』は平時ならコミティア等の即売会で頒布されるのですが、今回は新型コロナの影響により、Kindle版が先行配信されています(Kindle Unlimitedに登録している方は無料で読めるそうです)。ご関心のある方はぜひチェックしてみてください。

*1:以下の4点は、いずれも論考内の小見出しからピックアップしたものです